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第1362話

作者: 夏目八月
湛輝親王は拳を握りしめ、急いで後を追った。

医師の診断によれば、粟原は両脚を骨折し、歯を三本失い、顔の骨も数カ所折れていた。それでも彼は湛輝親王に向かって微笑もうとする。痛みに顔を歪めながらも、笑おうとするのだ。

大丈夫だと言いたげに。

湛輝親王は胸が締め付けられる思いで顔を逸らした。一生仕えてくれた男がこのような目に遭い、自分は怒りと無力感に苛まれるばかりだった。

彼の令符は、寧州にいた時にもう一つ鋳造させていた。いつの日か風馬に盗まれ、自分の部下に命令されることを警戒してのことだった。もし気づくのが早ければ、もう一つの令符を持った者に阻止させることもできる。

まさか今、それが役に立つとは思わなかった。

河川工事の騒乱は間もなく鎮圧された。監督不行き届きの責により金川昌明は捕らえられ、天牢に収監される。河道工事は安告侯爵が直々に監督することとなった。

河道司の他の役人たちも、職務怠慢を理由に全員更迭された。

しかし清和天皇もさくらも承知していた――表向きは金川が河川工事を取り仕切っているように見えたが、実際には既に真の指導者が潜んでいる。金川が死のうとも、大勢には何の影響もないのだ。

だからこそ風馬は少しも慌てていない。彼は秋本蒙雨からの吉報を待っているのだった。

燕良州では、燕良親王が落ち着きを失っていた。

十一郎による包囲が半月を超えたというのに、一向に動きがない。攻撃の兆しすら見せないのが、彼をひどく不安にさせていた。

包囲とは、外部からの情報を遮断することを意味する。

各地に展開させた盗賊たちの蜂起がどうなったか、穂村規正に援軍が到着して十一郎と合流したか、都の情勢はいかがか――何一つ分からない状況だった。

燕良州が包囲されたとはいえ、完全に情報が途絶えるわけではない。山道を行き、密林を抜ければ燕良州に辿り着くことは可能だ。

ただし、かなりの時間を要する。

つまり、たとえ情報が届いたとしても、それは十日も前の状況かもしれないのだ。

「徴兵の進み具合はどうか?」彼は無相を呼び寄せて尋ねた。朝廷が苛酷な雑税を新たに課し、暴政を敷くという噂を流してからというもの、燕良州の民を煽動して兵を募っているのだ。

無相が報告した。「親王様、わずか三百人しか集まりませんでした。天方十一郎が包囲してからは、連日城外で『暴政の噂は嘘だ』と叫ん
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