Share

第539話

Author: 夏目八月
羅刹国の辺境の城は、戦後ずっと重兵が配備されていた。特に今は大和国との交渉において、人質と薩摩城との交換を持ちかけているため、人質を収容する牢獄には特別な重兵が配置されていた。

影森玄武たちは辺境の城に潜入して数日が経ち、ようやく七瀬四郎が収容されている場所を突き止めた。辺境を守る衛所であり、鉄壁の要塞だった。

高い城壁の内側にある牢獄の構造も、今では細部まで把握できていた。

彼らは親房甲虎が定めた五日の期限を知らなかった。明日が、その五日目の最後の日となる。

玄武は明日、ビクターが親房甲虎と再び交渉を行うことを知っていた。五日の期限こそ知らなかったものの、親房甲虎が自分の命令に従わず、今回の交渉を引き延ばさないだろうと察していた。

玄武は決断を下した。明日、ビクターが浪牙山での交渉に向かう際に、救出作戦を実行する。

ビクターの周りには多くの武芸者がいたが、浪牙山での交渉に向かう際には、必ずやその大半を随行させるはずだ。邪馬台の戦場で長く戦い、北冥軍に敗れた彼は、北冥軍に対して本能的な恐れと憎しみを抱いているのだから。

浪牙山での交渉で、もし親房甲虎が即座に拒否すれば、ビクターは長居せず、明晩には戻ってくるだろう。

ここは親房甲虎が交渉の場で時間を稼げるかどうかにかかっている。もし曖昧な態度を示して引き延ばすことができれば、ビクターを引き留めて交渉を続けさせることができる。そうすれば、ビクターは少なくとも明後日まで戻って来ないはずだ。

そうなれば、救出のための時間は十分となる。

有田先生は救出作戦を立案した。一人が外で支援を待機し、三人で突入して救出を行う。外での待機役は尾張拓磨が務め、時刻は今夜の酉の刻、衛兵の交代時間に定められた。

三人とも武芸に長けているとはいえ、鉄壁の城壁を突破し、地下牢まで潜入して救出を行うのは、相当な困難が予想された。

しかし、これまでに玄武と師匠が夜陰に紛れて数回の偵察を行っており、地下牢には到達できなかったものの、地形をほぼ把握し、警備の状況も掴んでいた。勝算は十分にあった。

一方、辺境の城近くのベル川沿いの木造の小屋では、十人の男たちが集まっていた。彼らは髭面で、周辺の漁民と同じような服装をしており、粗野な黒い肌をしていた。

彼らは低い机を囲んで床に座り、机の上には一枚の図面が広げられていた。

この図面
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 桜華、戦場に舞う   第540話

    六月十八日の夕暮れ、十人の男たちは粗末な椀を掲げていた。椀の中身は冷たい水だった。この数年、彼らは茶も酒も一滴も口にしていなかった。茶葉はこの辺境では贅沢品で、彼らには手が出なかった。濁り酒は安価ではあったが、一滴たりとも口にする勇気はなかった。一時の酒の勢いで、言ってはならないことを口走れば、それこそ命はないも同然だったからだ。彼らが唯一酒を買ったのは、上原元帥と六人の若き将軍たちの戦死を知った時だった。地面に酒を注ぎ、元帥の御霊を弔った。その夜、布団の中で一晩中涙を流し続けた。しかし悲しみに浸れる時間は一晩だけ。翌日には涙を拭い、再び命懸けの任務に身を投じねばならなかった。邪馬台はまだ奪還されていなかったのだから。その後、邪馬台は奪還され、ビクターは軍を率いてこの地に退き、守備についた。もはや邪馬台への情報伝達は不可能となり、国境の往来も極めて困難になった。以前は糧食や商品を運ぶ隊列に紛れて薩摩へ情報を送っていたが、今はその必要もなく、外に出ることすらままならない。そのため邪馬台奪還後は、どうやって脱出するかばかりを考え、東奔西走していた末に、清張が捕らえられてしまった。清張は捕縛後、おそらく厳しい拷問を受けただろうが、最後まで仲間のことは明かさなかった。さもなければ、羅刹国の兵士たちはとうに彼らを見つけ出していたはずだ。清張の鉄のような意志と不屈の精神を思えば、彼らにも恐れることなどなかった。藁草履を脱ぎ捨て、十人が揃って身を屈め、新しく作った布靴を履いた。ぼろ布同然の衣服を脱ぎ、夜忍びの装束に着替えた。この十着の装束は、黒布を買って自分たちで縫い上げたものだった。かつては刀剣を手に戦場で敵を討った武人たちだ。針仕事など知るはずもなかったが、この数年は既製の衣さえ買えず、布を買って自分で仕立てるしかなかった。近所の老婆に教えを請い、次第に皆が覚えていった。武器すら持っていなかった彼らは、捕虜収容所から出てきた時、何一つ持ち合わせがなく、衣服さえ鞭打たれて布切れ同然だった。数年の歳月をかけ、今では自前の使い慣れた刀剑も手に入れた。情報収集の合間には、天方と清張の指導の下、深山で武芸の鍛錬を重ねた。彼らは砂漠に生える頑強な雑草のように、忠義の信念だけを糧に今日まで生き抜いてきた。六月十八日の月は空に懸かり

  • 桜華、戦場に舞う   第541話

    影森玄武は彼らを目にした瞬間、心臓が喉元まで飛び上がりそうになった。どこからこれほどの人数が現れたのか。しかも、その中には明らかに武芸の心得が浅い者もいる。鉄鉤と縄を使わなければ城壁も登れないほどだ。一体何者なのか。深夜に衛所に忍び込む目的は何なのか。もし彼らが物音を立てでもしたら、今夜の救出計画は水の泡となってしまう。玄武たちは暗がりに身を潜めていたが、城壁に沿って素早く近づいてくる彼らに声をかけることもできない。仕方あるまい。衛兵の交代も終わりに近づいている。一刻も早く潜入を開始せねばならない。天方十一郎たちも前方に潜む三人の気配を察知した。しかし、闇に紛れて黒装束に身を包んだ彼らの姿は、顔こそ隠していないものの、はっきりとは見分けられなかった。敵か味方か判断がつかないまま、その三人は燕のように身軽く、彼らの目指す方向へと瞬く間に消えていった。天方たちは一瞬呆然とした。まさか、自分たちと同じ救出の目的なのだろうか。だが、それはありえないはずだ。本営との連絡は途絶えているとはいえ、元帥が交代して親房甲虎となったことは知っている。親房甲虎といえば、天方にとっては義理の兄だ。武将の出でありながら、長らく戦場から遠ざかり、机上の空論を得意とする男。実力が皆無というわけではないが。ただ、彼は傲慢で自負心が強く、得失を天秤にかけるタイプの男だ。判断を迫られれば、必ず面倒な手段は避けて通る。交渉か救出か、となれば間違いなく前者を選ぶ。両方を試みるような真似はしないだろう。一息ついた天方は、手で潜入の合図を送った。衛所は広大で、十二棟の建物が立ち並ぶ。地牢は第十一棟と第十二棟の間にある独立した小屋の地下に設けられていた。その場所が厳重な警備下にあることは間違いない。各所で警備の交代が行われている中、彼らは東へ西へと身を隠しながら、何とか第十一棟まで辿り着いた。第十一棟の壁に身を寄せながら、そっと地牢入口の警備の様子を窺おうとした矢先、先ほどの三人も同じように壁際に潜んでいるのが見えた。そのうちの一人が首を伸ばして様子を窺っている。地牢に近いため、周囲には明かりが灯されていた。ただ、彼らの潜む場所は、折よく傍らの大木の影が落ちかかり、ほどよい暗がりとなっていた。とはいえ、先ほどよりは明るく、互いの姿も幾分か見分けられるよ

  • 桜華、戦場に舞う   第542話

    三つの黒い影が素早く飛び出していった。実のところ、好機など存在しなかった。小屋の周囲は灯りで照らされ、白昼のような明るさではないにせよ、物や人の動きは十分に見分けられた。とりわけ、百を超える目が見張る中、どれほど素早く、どれほど軽やかに動こうとも、最後には小屋の前に立って扉を破らねばならない。そして一旦地牢に入れば、まさに甕の中の鼈だ。玄武と皆無幹心は事前の偵察でその状況を把握していた。そのため、計画では皆無幹心と有田先生が見張りの注意を引き付け、玄武が地牢に潜入して囚人を救出。救出後は速やかに尾張拓磨に引き渡し、その後で玄武が戻って皆無幹心と有田先生の撤退を援護する手筈となっていた。今や天方十一郎たちが加わったことで、見張りを引き付ける戦力は更に増えた。影森玄武の姿が小屋の扉に向かって一直線に飛んだ。鉄製の扉は容易には破れないはずだが、玄武は黄金の太刀を手にしていた。二十八斤の重さを持ちながら、刃は鋼鉄さえも断ち切る鋭さを誇る名刀だ。真気を刀身に込めて数回斬りつけると、鉄扉の片側が裂け、蹴り開かれた。振り返ると、師匠が長刀を手に入口を守り、有田先生は既に多数の守備兵と戦いを交えていた。師匠のことは心配していない。ただ、有田先生の方が気がかりだった。武芸は特別優れているわけではないが、軽身功に長けている。敵を翻弄して疲れさせ、隙を突いて反撃するのが持ち味だが、それでも危険は否めない。最後にもう一度目をやると、天方十一郎たちも戦いに加わっていた。玄武はほっと胸を撫で下ろした。人数が増えれば、それだけ心強い。鉄扉を守り切ってくれれば、地牢からの救出も可能なはずだ。この衛所の地牢は、実質的には地下密室と地下道の複合施設だった。戦略的に建造されたこの場所は、両国の戦争が拡大し、羅刹国が劣勢に追い込まれた際の、主将の退避路や隠れ家として機能するよう設計されていた。しかし、玄武はこの地下道と密室の規模を見誤っていた。下層に降りると、地下道は複雑に入り組み、密室は優に百を超えていた。しかも一本道で続いている。衛所の規模を遥かに超えており、明らかに別の場所にまで掘り進められているようだった。それでも玄武は、血の匂いを手掛かりに、第三地下道の密室の一つで目的の人物を探し当てた。血の匂いに加え、この扉が他と異なっていたことも決

  • 桜華、戦場に舞う   第543話

    その日の昼下がり、浪牙山での会談で、親房甲虎の態度は異常なほど強硬だった。会談の前、天方許夫と斉藤鹿之佑は、ビクターの前で影森玄武の名を出すなと強く諫めていた。しかし親房は、彼らが北冥親王の元部下だったことから、単に玄武を庇おうとしているだけだと考え、表向きは同意しながらも、胸の内では別の思惑を巡らせていた。これまでの会談では、七瀬四郎と引き換えに金や米、絹織物などを提示してきたが、ビクターはいずれも拒否し続け、交渉は膠着状態が続いていた。今回、親房の忍耐は限界に達していた。七瀬四郎のためにすでに多くの譲歩を重ねてきた。銀五千両から一万両へ、米三千石、絹織物二千反と破格の条件を提示しても合意に至らないのは、相手の強欲以外の何物でもない。薩摩城の譲渡など論外だった。北冥親王の手で奪還した城を手放せば、世間の指弾は免れまい。この日の会談でも、米の量を五千石まで増やしたが、ビクターの返答は変わらなかった。「誠意が見えんな」親房は怒りに任せて机を叩きつけた。「これほどの譲歩をしているというのに、法外な要求ばかり。全く道理が通じん。そうまでいうなら、もはや話し合う余地もない」通訳を介してその言葉を聞いたビクターは、冷笑を浮かべた。「本当に交渉を打ち切るおつもりか?貴様らの密偵を見捨てるというのか?」「誠意がないのはそちらだ」親房は言い放った。「話し合う意思がないのなら、もう構わん。好きにするがいい。これは北冥親王の意向だ」天方許夫と斉藤鹿之佑は青ざめた。親王様の名を出すなと約束したはずではなかったか。「北冥親王?」その名は通訳を必要としなかった。ビクターの全身が緊張に震えた。「北冥親王が来ているのか?どこにいる?なぜ直接交渉に来ない?」ビクターの通訳がその言葉を伝えると、親房が口を開きかけたところで、斉藤鹿之佑が横から口を挟んだ。「実はこういうことでして。我らが北冥親王様より命を受けておりますが、ご本人は新婚間もないため、今は都を離れることができないのです」斉藤鹿之佑は羅刹国の言葉で話したため、通訳は必要なかった。その言葉の意味が分からない親房は、不審そうに鹿之佑を見つめた。「北冥親王は来ているな?」ビクターは疑わしげな目で斉藤鹿之佑を見据えた。斉藤鹿之佑は微笑みを浮かべながら答えた。「もし親王様がここにいらっしゃれば、

  • 桜華、戦場に舞う   第544話

    親房甲虎は二人の異様な様子に疑念を抱いた。交渉の采配は自分にある。もう話し合いは不要と宣言したのに、なぜ二人はビクターを必死に引き止めようとするのか。邪馬台奪還後に統帥を任された親房は、部下の将校たちからまだ十分な信頼を得られていない。この交渉でも采配を奪われれば、威厳に関わる。そんな事態は決して許せなかった。「お前たち二人、戻れ!」甲虎は厳しい声で命じた。そして通訳に言い付けた。「ビクターに伝えろ。誠意がないなら交渉は終わりだ。続けるというなら、私の提示した条件で話をしろ」通訳が伝え終わると、ビクターは親房甲虎の方を振り返った。その表情には苛立ちが見え、余裕があるようには見えなかった。しかし油断はできない。「城に戻る!」と命じた。斉藤鹿之佑と天方許夫は後を追い、必死でビクターを引き止めようとした。斉藤鹿之佑は深々と頭を下げながら懇願した。「ビクター元帥、親房元帥は七瀬四郎のことをご存じない。何の感情的な繋がりもないから、薩摩城と引き換えにする気がないのです。しかし我々にとって七瀬四郎は、共に戦った大切な戦友。どうか今しばらくお待ちください。親房元帥を説得してみます」「説得できるなら、とうの昔にしているはずだ」ビクターは冷ややかな目で睨みつけた。「それに、お前たちの影北冥親王も言っているではないか。薩摩城との交換に応じないのなら、話し合うことなどない」「いいえ、違います。わが親王様はすでに薩摩に向かっております。数日中には到着するはず。親王様は七瀬四郎を重んじておられます。親王様が来れば、必ず事態は好転するはずです」「北冥親王が来る、だと?」ビクターは斉藤鹿之佑の表情を逃すまいと見据えた。斉藤鹿之佑は日に焼けた顔に誠意を込めて頷いた。「はい、数日のうちには」一方、天方許夫は親房甲虎の元に戻り、謝罪の言葉を述べた。「元帥、どうかお静かに。確かに交渉打ち切りを決めましたが、あまりに性急な決定は後々批判を招きかねません。もう少し慎重に進めるべきではないでしょうか」親房甲虎は二人の様子に疑念を抱き、天方許夫を脇に呼んだ。「本当のことを話せ。北冥親王は今どこにいる?」天方許夫は真実を語れなかった。親王様の救出作戦は斉藤鹿之佑と自分にしか知らされておらず、親房元帥には伏せられていたのだ。恨みを買うわけにもいかず、天方許夫は慎重

  • 桜華、戦場に舞う   第545話

    斉藤鹿之佑と天方許夫は心中穏やかではなかった。これほど誠意のない交渉で、どうしてビクターを引き止められようか。今は只々、ビクターが戻る前に親王様が七瀬四郎を救出できることを祈るばかりだ。さもなければ、その結末は想像するだけでも戦慄する。一方、影森玄武は既に清張を救出し、外に飛び出したものの、そこでは激しい戦闘が繰り広げられていた。天方十一郎たちの数人が既に負傷していた。師匠がいるおかげで、今のところ劣勢には陥っていないが、敵の数が刻一刻と増えている。一刻も早く撤退せねばならない。玄武が飛び出すや否や、十数人の敵が襲いかかってきた。彼は身を翻し、稲妻のように飛び上がると、背負っていた人物を尾張拓磨に受け渡した。尾張拓磨はすぐさまその人を背負い、夜陰に紛れて素早く立ち去った。玄武は軽身功を駆使して戻った。一人を救い出しても、また何人かが捕らわれては、この救出作戦は失敗に終わる。金錯刀を手に、有田先生の傍まで飛び込んだ玄武は、一刀横に薙ぎ払い、雷のような勢いで有田先生を包囲する兵士たちを押し返した。皆無幹心は主力の武芸者たちと対峙していた。確かにビクターは多くの武芸者を連れて行ったが、それでも十数名の猛者が残されていた。人質が救出されたことを知った皆無幹心は、もはや鉄門を守る必要もないと判断し、全力で戦い始めた。師弟の連携は無敵と言えるほどだったが、敵の数が余りに多すぎた。師弟なら容易に脱出できるが、他の者たちにとっては難しい。そのため、一人ずつ包囲を突破させ、順次撤退させていくしかなかった。もはや時間的な余裕はない。ビクターの帰還も、近隣の駐屯軍の到着も懸念された。そのため玄武は容赦なく攻撃を繰り出した。黄金の太刀に真気を込め、旋風のような剣術で一刀で数人を薙ぎ払った。真気の消耗は激しかったが、敵を素早く押し返し、仲間たちの脱出の機会を作るためには、それも止むを得なかった。皆無幹心は玄武の決意を見て取り、自身も全力を出し切った。師弟の息の合った連携で、彼らを一歩一歩城壁の平台まで後退させていく。城壁は高く、天方十一郎はなんとか飛び越えられたものの、他の者たちは鉄鉤と縄を使って登らねばならず、その間に乱れ飛ぶ刃に斬られる危険が高かった。師弟は視線を交わし、皆無幹心が一人で敵を引き付ける間、玄武が一人ずつ外へ運び出すことに

  • 桜華、戦場に舞う   第546話

    広大な陵墓園林には、戦死した多くの兵士たちが眠っていた。入口には巨大な慰霊碑が建っている。奥へ進むと、管理人の住居が数軒あった。管理人たちは既に制圧され、その一室に縛り上げられ、口を塞がれて助けを呼ぶこともできない状態で閉じ込められていた。彼らは救出作戦の前に、ここに食料と水を用意していた。それは主に、七瀬四郎が拷問を受けているであろうことを考えてのことだった。羅刹国軍は大敗の怒りを彼にぶつけているはずで、重傷を負っているなら、すぐには山越えはできない。ただ、これほど大人数になるとは予想していなかったため、用意した量は十分ではなかった。到着すると、尾張拓磨は既に清張の手当てを始めていた。玄武は天方十一郎を下ろすと、休む間もなく薬と包帯を師匠と有田先生に渡した。「まずは手当てを」天方十一郎は背中の傷に加え、無理な逃走で体力を消耗し、陵墓園林に着いた時には既に意識を失っていた。影森玄武は薬丸を砕いて水で流し込み、背中の衣服を裂いて傷を確認した。肩甲骨から腰まで走る傷は、ほとんど骨が見えるほどの深さだった。事前に止血の秘孔を押さえていなければ、失血死は免れなかっただろう。だが、長時間の止血術も体に負担がかかる。その後遺症が深刻にならないことを祈るばかりだ。傷の手当てを終え、目の前の男たちを見渡した玄武は、天方十一郎以外の顔が誰一人として判別できなかった。残酷な拷問で意識を失ったままの清張でさえ、じっと見つめても誰なのか分からない。天方十一郎が体を支えながら、手を上げた。「天方十一郎、参上!」一瞬の静寂の後、全員が続いた。「斎藤芳辰、参上!」「禾津利継、参上!」「禾津衣良、参上!」「五島三郎、参上!」「五島五郎、参上!」「小早田秀水、参上!」「日比野綱吉、参上!」「村松陸夫、参上!」玄武は顔を背け、長く堪えていた涙が頬を伝った。しばらくして感情を抑え込み、「上原家軍を代表して、諸君の帰還を歓迎する」十一人が生きていた。十一人が生還した。この瞬間の感動を、誰が理解できようか。十人の漢たちは顔を覆い、指の隙間から涙が滲み出た。声を立てて泣くことも憚られる。上原家軍――彼らは決して忘れなかった。元帥が倒れても、自分たちが上原家軍であることを。今、やっと胸を張って上原家軍と名乗れ

  • 桜華、戦場に舞う   第547話

    皆が同情の眼差しを向けながらも、同時に自分の妻もまた他家に嫁いでいるかもしれないという現実に思い至った。ここにいる中で、村松陸夫だけが婚約も結婚もしていなかった。十一郎の母方の甥で、初めて戦場に赴いた一兵卒に過ぎなかったのだ。五島三郎と五島五郎は茨城県の出身で、陸夫や小早田秀水と同じく一介の兵士だった。斎藤芳辰は斎藤家の六郎の兄だが、実は斎藤夫人の雅子が拾い育てた養子だった。学問の道に向かず武芸を好んだため、戦場で己を鍛えることを選び、数年の間に百人隊長にまで上り詰めていた捕虜となる前だった。出陣前、斎藤芳辰には婚約者がいた。だが、戦死の報が伝わった今となっては、おそらく他家に嫁いでいるだろう。斎藤家の当主は仁徳の人で、若い女性に一生涯の未婚未亡人を強いるようなことはしない。そんな形で彼女の人生を台無しにはできなかったのだ。斎藤芳辰も婚約者の幸せを願っていた。ただ、天方十一郎のことを思うと胸が痛んだ。この数年、天方はよく妻のことを語っていた。二人の思い出を繰り返し話していたのだ。清張も語っていた。臆病で打たれ弱い妻のことを。自分の戦死を知ったら、きっと長い間泣き続けるだろうと。清張は、妻が安告侯爵家に留まって待ち続けることなく、実家に戻ることを願っていた。彼らが戻れない可能性が高かったからだ。この数年は本当に危険と隣り合わせだった。いつ捕らえられてもおかしくない。一度捕まれば、生還の望みはない。彼らは忠義を選び、信義を裏切った。妻たちに申し訳が立たなかった。禾津利継と禾津衣良は治部卿の息子たちだった。禾津利継は嫡子、禾津衣良は庶子で、上には学問の道を選んだ三人の兄がいた。武の道を選んで戦場に赴いたのは、この二人だけだった。二人が「戦死」した当時、父はまだ治部次官だった。息子二人の軍功と父自身の勤勉さが相まって、父は治部卿の位まで上り詰めた。影森玄武と上原さくらの婚儀も、この禾津治部卿が取り仕切ったのだった。しばらくして、天方十一郎は顔を上げた。苦しげな笑みを浮かべ、目に溜まった涙を必死に堪えながら言った。「これでよかったのかもしれない。彼女が再婚したことで、この数年の孤独から解放された。あの人は賑やかなのが好きだった。空っぽの家で独り暮らすなんて、辛すぎたはず。結局、私が彼女を裏切ったようなものだ。良い縁が見つかっ

Latest chapter

  • 桜華、戦場に舞う   第1189話

    紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色

  • 桜華、戦場に舞う   第1188話

    十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、

  • 桜華、戦場に舞う   第1187話

    式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り

  • 桜華、戦場に舞う   第1186話

    式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部

  • 桜華、戦場に舞う   第1185話

    さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作

  • 桜華、戦場に舞う   第1184話

    庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積

  • 桜華、戦場に舞う   第1183話

    礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」

  • 桜華、戦場に舞う   第1182話

    景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先

  • 桜華、戦場に舞う   第1181話

    三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status