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第738話

Author: 夏目八月
彼女は反論しなかった。明らかに陛下は彼女の意見を本当に聞きたいわけではなく、これは実質的な勅命なのだから。

大将の実職を与えておきながら、北冥親王家と確執のある人物を抜擢して、彼女と影森玄武の間を揺さぶる。

おそらく、陛下はこうすることで安心感を得られるのだろう。

さくらが退出すると、吉田内侍は心配そうに彼女の後ろ姿を見つめた。王妃と親王様が幾度となく重ねられる信頼の試練を乗り越えられるのか、彼には分からなかった。

陛下は本来、北條守を直接任命することもできた。上原大将を通す必要などなかったはずだ。

また、上原大将による異動であっても、式部を通す必要はなく、一言通達するだけで済むはずだった。

しかし陛下は物事を自分の掌握下に置こうと努めている。そのせいで当事者たち、北條守も含めて、誰もが心穏やかではいられない。

宮を出たさくらは禁衛府の役所へ向かった。今日が着任日ということで、山田鉄男と御城番総領の村松碧が部下たちを引き連れて待っていた。

幸い、誰も彼女の青あざになった目を特に気にする様子はなかった。気づいていても、失礼にならないよう直視を避けていたのかもしれない。

衛士統領の親房虎鉄はまだ到着していなかった。さくらは親房虎鉄のことを知っていた。西平大名の親房甲虎の従弟で、西平大名家の分家の中では最も優れた人物とされている。

親房甲虎は分家との関係が良くなく、特に親房虎鉄とは仲が悪かった。これは主に、親房虎鉄が本当の実力者であるのに対し、親房甲虎は西平大名の伯爵位を継承しても特に功績もなく、一族の面倒も見切れていないことが原因だった。

それどころか親房虎鉄は着実に出世を重ね、禁軍統領にまで上り詰めた。

前朝の制度であれば、衛士は玄甲軍の支部ではなく、彼の権限はより大きかったはずだ。

これまでは統合されていなかったため、衛士は玄甲軍に属してはいても、親房虎鉄はそれほど気にしていなかっただろう。しかし今回の統合で、しかも大将が女性となれば、さすがに内心では納得していないに違いない。

玄甲軍のこれらの人物について、さくらは既に調査を済ませていた。玄武からも話は聞いていた。

だから今日、親房虎鉄が来ていなくても気にはならなかった。部下に個性があるのは構わない。ただ、彼女の引いた一線を越えなければいい。

御城番の村松碧は、さくらに対して疑念を示
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