そうして十三歳まで右往左往し、まともな師匠に就くことができなかった。拝師の度に何かが起こり、自分が病に倒れるか、師匠に不幸が降りかかるかだった。最後には父も諦めた。このまま続けるしかない、学べるだけ学べばいいと。紫乃は話を聞き終え、複雑な思いに駆られた。この男は厄災の化身なのか?こんなに不運で、しかも師匠に祟りがあるとでも言うのか。自分は大丈夫だろうか?彼の経験からすると、問題は常に拝師の前に起きている。今回は順調に弟子入りを済ませたのだから、きっと運も向いてきて、すべて上手くいくはずだ。文之進は山田、村松、親房に正式に挨拶を済ませた。その誠実で慎み深い態度に、三人の師兄も特に厳しい態度は取らなかった。ただ、さくらが一つ尋ねた。「玄鉄衛の身でありながら、このように直接弟子入りを願い出て、玄鉄衛での出世に影響はないのですか?」文之進は慎重に答えた。「今は出世できなくとも構いません。十分な実力があれば、いずれ日の目を見る時が来ます。しかし武術を極めなければ、たとえ陛下のご信任を得ても、その任に堪えることはできません。その時になって失脚するのは、より醜いことです。若輩者ですから、じっくりと時を待つ覚悟です」さくらは軽く頷いた。彼の考えに同意していた。この粘り強さは本当に貴重だ。これほどの不運に見舞われながらも邪道に逸れなかった。玄武が彼を信じ続けた理由も、分かる気がした。彼らが去った後、棒太郎は贈り物を見つめていたが、以前のように手に取って確かめることはしなかった。年始に師門に戻った時、稼いだ銀子を全て師匠に渡したのに叱られた。たくさんの装飾品や紅白粉を買ったからだ。師匠は金遣いが荒いと言って、一席お説教をくれた。しかし翌日、姉弟子たちは皆、抗議の意を込めて紅白粉を塗って現れた。石鎖さんと篭さんは見識のある人物で、師匠に「今時の娘はみな化粧をするもの。たまには着飾らせてあげても。お正月なのですから」と進言した。師匠は口では厳しいことを言いながらも、心は優しく、「質素から贅沢は易く、贅沢から質素は難し」と一言残しただけで、もう彼女たちのことは咎めなかった。しかし下山して都に戻る前夜、師匠は彼と一時間ほど語り合った。「我らは貧しい。だがそれも長年のこと。貧しくとも気骨はいる。贈り物は頂戴したら感謝し、強請るのは無礼という
翌日の夜、玄武とさくらは佐藤邸を訪れた。門の外からして、勤龍衛が手を抜いていないことが分かった。扁額は掛け直され、門前は清掃され、銅の飾り鋲は一つ一つ磨き上げられて輝いていた。日中は庶民たちが訪れ、心づくしの品を届けていった。野菜や果物、鶏や魚など、みな素朴な心遣いだった。民の情は最も純粋なもので、他にできることがないなら、せめて自分たちにできることをしようという思いだった。北條守は門の前に立っていた。昼間は来る勇気がなく、夜になってようやく見張りに立つことができた。謝罪に行く決心がつくまでの心の準備だった。しかし、ずっと心の準備をしていても扉を開ける勇気が出ない。玄武とさくらが来るのを見ると、思わず後ずさり、身を隠した。この無意識の反応は、今や民衆から激しい非難を受けているからだった。街を歩けば腐った野菜を投げつけられることもある。関ヶ原での功績が、今や民衆の怒りという形で自分に返ってきているのだと分かっていた。しかし今は非難を受けても平然と受け入れることができた。もう母に説明する必要も、母の怒りに向き合う必要もない。受けるべき報いを受ければ、すべては過ぎ去るのだから。玄武とさくらは手を取り合って馬車を降りた。その繋がれた手に目を留めると、言い表せない感情が胸の内に湧き上がった。さくらは暗い雲紋に大輪の菊が刺繍された広袖の絹衣を纏い、外が黒で内側が赤い外套は夜風になびいていた。最近の彼女は官服姿で威厳に満ちていたが、今夜は女装に戻り、一層その美しさが際立っていた。わずかに赤みを帯びた目元は、まるで桃色の紅を引いたかのよう。一目見れば千年もの恋に落ちるほどの美しさだった。一瞬見ただけで素早く目を逸らした。門灯の明かりが暗く、自分が門前で見張りをしていることに気付かれないことを願った。玄武の方は見る勇気すらなかった。二人がどれほど相応しい間柄か、どれほど釣り合っているかを、見たくはなかった。彼は見なかったふりをし、玄武とさくらも当然、彼を見なかったことにした。勤龍衛が門を開け、二人は中に入っていった。佐藤大将には事前に来訪を告げていたため、夕食を済ませた後はずっと正庁で待っていた。ついに足音が聞こえ、顔を上げると、提灯の明かりに照らされた二人が手を繋いで入ってくるのが見えた。その光景を目にした途端、佐藤大将の
玄武より先に彼はさくらを抱き起こし、幼い頃のように頭を撫でた。少しでも不満があれば彼に訴えに来ていた、あの小さな可愛らしい娘。些細な不満も我慢できず、誰かに叱られたり何か言われたりすれば、それを覚えておいて外祖父が都に戻る時を待って告げ口するのだった。告げ口した後は彼の懐に潜り込み、表向きは不満げで従順な様子を見せながら、その眉目には得意げな笑みが溢れていたものだ。さくらの涙は数珠の糸が切れたように、大粒の雫となって頬を伝った。外祖父の荒れた指が涙を拭い、感情を抑えた声には、それでも震えが混じっていた。「今度は誰がうちのさくらちゃんを苛めたんだ?でも、もうじいが仕返しをしてやる必要はないな。お前自身で返せるようになったのだから」慈しみと誇らしさの入り混じった声に、さくらの胸はより一層締め付けられた。自分でも慌てて涙を拭った。ここに来たのは泣くためではない。外祖父に弱さを見せるためでもない。涙に濡れた目を通して見ると、外祖父は相変わらず彼女を慈しむ眼差しだったが、その老いはより一層はっきりと見て取れた。この数年、自分が経験したこと以上のものを、外祖父は経験してきたはずだ。上原家の出来事による心痛に加え、三番目の叔父の片腕、七番目の叔父の死、そして自身の矢傷による重傷。一つ一つの試練を乗り越えてなお、背筋を伸ばして立つその姿に、人々は敬服するだろうが、彼女にはただ心が痛むばかりだった。ようやく玄武が祖孙を落ち着かせ、腰を落ち着けて話ができるようになった。さくらは叔父や叔母の安否を尋ねる勇気が出なかった。その質問は外祖父に七番目の叔父のことを思い出させてしまう。言葉を選びながら、慎重に話を進めた。佐藤大将もそれを察し、自ら切り出した。「お前の三番目の叔母が数日中に都に着く。どうしても戻って来たいと言ってな。お前に会いたいそうだ」それ以上は何も言わなかった。心の奥深くに埋め込んだ苦痛を掘り起こすのを恐れてのことだった。さくらは心配そうな表情を浮かべた。「遠い道のりですのに、こんな寒い時期に。おじいさま、どうして止めなかったのですか?」佐藤大将は優しく慈愛に満ちた声で言った。「お前のことを想っているんだよ。以前は帰りたくても帰れなかったが、もう今となっては何もかも構わないと言ってな。お前と潤くんに会いに来させてやろうと思うのだ」
佐藤大将は玄武の意図を理解した。平安京には復讐があったのだから、因果応報といえる。もし村の殺戮の後に復讐せず、今のように使者を派遣していれば、大和国が完全な非を認めることになった。しかし彼らは既に自分たちのやり方で復讐を果たしている。佐藤大将は静かに言った。「確かに。村の殺戮だけなら、彼らの復讐で十分だった。だが忘れてはならない。降伏兵の殺害もある」降伏兵の殺害というのは表向きの言い方で、実際は一国の皇太子を徹底的に辱め、悲惨な死に追いやったのだ。平安京の皇帝も、民の仇を討つためではなかった。兄の仇を討つためだ。だから村の殺戮は帳消しにできたとしても、他国の皇太子を謀殺したことはどうなるのか?玄武は言った。「今のところ、降伏兵殺害の件は表立って議論されていません。スーランジーが以前譲歩したのも、平安京の皇太子様の面目と平安京の体面を守るためでした。今回はレイギョク長公主が使者として来られる。まだ希望はあります」さくらも続けた。「それに、以前邪馬台の戦場で、スーランジーは平安京に逃げ帰った密偵は全て処刑したと言いましたが、清湖師姉の調査によると、二人が逃亡していたそうです。師姉はずっとその二人を探していて、既に見つけ出し、今は護送中とのことです」二人が交互に話すのを聞きながら、佐藤大将は胸が痛みつつも嬉しかった。邪馬台から戻って以来、彼らは自分のために奔走し続けてきたのだろう。だからこそ、自分が都に戻って審問を受ける時も、万全の準備ができており、刑部にすら行かずに済んだのだ。どのような結果になろうとも、この佐藤邸に戻り、数日を過ごせるだけでも、この人生に悔いはない。手すりに両手を置き、二人を見つめながら、重々しい声で語った。「よく聞きなさい。この件は心を尽くせば十分だ。それ以上は望まなくていい。じいは老いた。私への処遇がどうなろうと耐えられる。だがお前たち二人の前途を台無しにするようなことは、絶対にあってはならない。さくら、残酷な言い方になるが、両国の対立において、上原家の惨事といえども、一国の皇太子を計画的に虐殺した罪には及ばない。向こうが平安京の皇太子の件を持ち出せば、我々は必ず負ける。その上、我々には民を殺戮した先の非もある」玄武は言った。「外祖父様、私たちは何度も分析を重ねてきました。仰る通りです。鹿背田城の件は私たちに
佐藤大将は孫娘のか細い肩を見つめながら、胸が締め付けられる思いであった。これほどの苦難を味わってきた彼女に、今度は自分の祖父である己のために奔走させ、一族の悲劇を取引の材料として使わせるなど、どうして忍びようか。玄武が静かに口を開いた。「外祖父様、さくらの申す通りでございます。これら一連の出来事は切り離して考えることなどできません。また、これはただ外祖父様のためだけではなく、両国の戦争回避のための努力でもあるのです」個別に扱えば、確かに平安京は認めるだろう。謝罪と賠償さえ行うかもしれない。だが、それは交渉における重要な切り札を失うことに等しかった。佐藤大将にもその理屈は分かっていた。しかし、さくらにとってはあまりにも残酷な話であった。言葉を続ける気力が失せた。祖父と孫が向かい合って座っているというのに、家族の話はできず、国事は心が痛み、もはや語るべき言葉が見つからなかった。せっかくの再会なのに、このまま別れるのも惜しかった。玄武は最も安全な話題を見つけ出した。「さくら、梅月山での出来事を外祖父様にお話ししてはいかがでしょう?きっとご興味をお持ちになるはずです」と、柔らかな微笑みを浮かべながら言った。佐藤大将の目が急に輝きを帯びた。「そうだ、お前は梅月山で菅原様を師と仰いだそうだな。じいも二度ほどお会いしたことがある。残念ながら深い話をする機会はなかったが、どのような方なのだ?厳格な方なのか?お前の武芸がこれほど優れているということは、修行の道のりで相当の苦労があったに違いない。菅原様の厳しい指導のおかげだろう」さくらは微笑んだ。その瞬間、柔らかな笑みが眉目にこぼれる。「師匠は全然厳しくないんですよ。むしろ私たちの大師兄のような存在で、時には私たち弟子よりもいたずら好きなくらいでした。だから師叔様は師匠の振る舞いが気に入らなくて。私たちを叱るのも、実は師匠への当てつけだったんですよ」佐藤大将は目を丸くした。「いたずら好き、だと?いや、それはおかしいぞ。じいも会ったことがあるが、あの方は冷たく厳めしく、近寄りがたい印象だったはずだ。いたずら好きなどという言葉とは程遠かったが......」さくらの笑顔は一層深まった。「みんな騙されているんです。あの冷たく厳めしい態度というのは、実は人見知りなだけなんですよ。見知らぬ人と付き合
実を言えば、玄武はさくらの語る師匠の姿に少し違和感を覚えていた。彼の記憶の中の師匠は分別があり、過度に厳しくもなければ、過度に甘くもない。ただ、弟子たちのためになることは必ず考えていて、どこか弟子びいきなところがある人物だった。さくらの言う師叔――つまり彼の師匠は、気分屋で些細なことで罰を与え、皆が恐れる存在として描かれていた。佐藤大将は二人を見比べた。「面白い?つまらない?どちらなんだ?」さくらは不満げに続けた。「師弟は師叔様の直弟子ですから。師叔様に可愛がられて当然、面白く感じるのでしょう。でも師叔様が優しくするのは彼だけで、私たちには重い罰ばかり。大師兄のような落ち着いた人でさえ、師叔様の目には軽薄に映るんですから」佐藤大将は驚きの声を上げた。「まさか、お前たちは同門だったのか?」「はい。でも彼は私の後輩です。入門は私の方が早かったんです」さくらは訂正した。佐藤大将は冗談めかして尋ねた。「では、この後輩殿は先輩をどう扱っているのかな?」さくらの頬が薔薇色に染まった。「とても、よくしてくれます」佐藤大将は玄武を見つめた。時として男は多くを語る必要がない。その眼差しだけで、相手への想いの深さは分かるものだ。以前、関ヶ原にいた頃、佐藤大将は密かに心配していた。どう言っても再婚の身である以上、北冥親王はさくらのことを蔑ろにするのではないか、と。実のところ、北冥親王がさくらを娶った真意が掴めずにいた。そこに何か策略が隠されているのではないかと。その後の文通でも、二人の仲については殆ど触れられず、専ら鹿背田城の事ばかり。ますます理解に苦しんだ。親王の身分と、あれほどの武功があれば、望む令嬢は幾らでもいたはず。確かに、天皇は彼の軍功を警戒し、名家との縁組みを喜ばないかもしれない。それでも、選択肢は余りにも多かったはずだ。愛情かもしれないとも考えた。だが、それは単なる推測に留めておいた。もしそう信じ切ってしまえば、警戒心を失い、結果としてさくらを危険に晒すことになりかねない。しかし今、彼には分かった。男が心に秘める女性への想い。それは上原洋平が妻の鳳子を見つめる眼差しや、我が息子たちが妻を見る表情と、まったく同じものだった。彼は引き続きさくらの話に耳を傾けた。実のところ、梅月山での出来事の多くは既に知っていた。菅原陽
さくらは磁器の匙を指で摘み、そっと椀の縁を叩いて清らかな音を立てた。「時には、泣いたり騒いだりしない方が、むしろ辛いものよ」「後になって分かったわ」紫乃は立ち上がってさくらを抱きしめた。「だから私はずっとあなたの側にいるつもり。青石の泉であんなに傲慢だったさくらが戻ってくるまでね」さくらは軽く紫乃を押しのけ、熱い涙を二滴こぼしては慌てて拭った。笑いながら尋ねる。「どうしても青石の泉の時のさくらじゃないといけないの?梅花の樹の下であなたを打ち負かしたさくらじゃダメ?赤炎宗の前で勝ったさくらじゃダメ?山頂で勝ったさくらじゃ......」「もう黙りなさい!」紫乃は歯噛みした。「どうやら私の五味調和の汁粉じゃ足りないみたいね。どんぶり一杯分飲ませて、その毒舌を麻痺させてやろうかしら」紫乃は両こぶしでさくらの肩を軽く叩いた。「もう、腹立つわ」さくらは紫乃の袖で涙を拭うと、突然強く抱きしめた。その肩は長い間震え続けていた。紫乃は黙ったまま涙を流した。まるで少女時代、試合の後で泣いていた自分をさくらが笑った後で、優しく抱きしめてくれた時のように。しばらくして、さくらは紫乃から離れ、声を詰まらせながら「ありがとう」と言った。紫乃は小さな手帕を差し出した。「私の着物で涙と鼻水を拭くのは止めなさい。これを使いなさい」見るからに粗末な手帕がさくらの手に落ちる。彼女は泣き笑いしながらそれを見つめた。「これ、昔私があなたにあげたもの?まさか、まだ持ち歩いてるの?」紫乃は席に戻り、鼻声で答えた。「違うわ。あなたがくれたのはとっくに捨てたわよ。これはあなたの屋敷にあった在庫よ。お珠から貰ったの」さくらは涙を拭った。両目は腫れ上がり、まるで焼き栗のように赤くなっていた。「どうしてそんなのを?もっと綺麗な手帕がたくさんあるのに」紫乃は鼻を鳴らした。「こんな手帕だけが、あなたが私より劣っている証拠なのよ」さくらはついに堪えきれず、噴き出して笑った。門外の壁際で、その笑い声を聞いていた棒太郎は、壁に寄りかかったまま地面に腰を下ろした。膝を抱え込み、その上に顔を埋めて転がすように涙を拭った。最近の協議では誰も上原家の惨劇には触れていなかったが、使者団が来れば必ずや蒸し返されることは明らかだった。今夜の佐藤邸への訪問は、その端緒に過ぎなかった。
翌日の夕暮れ、三番目の叔母である日南子が都に到着した。他のどこにも寄らず、まっすぐに親王家を訪れた。さくらは日南子の帰京は知っていたものの、こんなに早いとは思わなかった。祖父の話では、少なくとも数日後になるはずだった。そのため、紫乃が飛び跳ねるように知らせに来た時、さくらは半ば脱いでいた官服を慌てて着直すと、一目散に外へ駆け出した。夕暮れ前の空は美しく、夕陽が沈もうとしていた。地平線には薄紅色と橙色の層が三、四重に重なり、その柔らかな光が日南子を優しく包み込んでいた。彼女は使用人たちに荷物の運び入れを指示していた。「叔母様!」という声を聞くや否や、振り向いた彼女は、はっきりと見る間もなく駆け寄ってきた人影に抱きしめられた。腕の中の子を感じてはじめて、現実だと実感できた。涙がすぐにこみ上げてきたが、すぐに抑え込んだ。鼻の奥がつんとするばかりで、笑いながら言った。「まあ、叔母さんが戻ってきたと思ったら、突き飛ばすつもりかい?」さくらは長いこと抱きしめていたかと思うと、やっと離れて、きらきらと輝くような笑顔を見せた。「叔母様にお会いできて、嬉しくて」日南子はさくらの顔を両手で包み込んだ。目に浮かぶ涙を抑えきれず、唇を震わせながらも笑って言った。「まあ、この子ったら。よく見せておくれ。どれだけ背が伸びたのかしら?あら、もう私より半頭も高くなってるじゃないの」頭の上で手を動かして背の高さを比べながら、涙まじりに笑った。さくらは屈託なく笑った。「伸びないはずないじゃありません。もう、この歳なんですから」日南子は慈しむように甘やかしてさくらの頬をつねった。確かに大きくなった。でも、その成長の道のりは、あまりにも辛いものだった。さくらは愛らしく舌を出し、こっそりと振り向いて深く息を吸い、胸の痛みを押し込めた。使用人たちの荷物運びを見るふりをして尋ねた。「これ、みんな何なんですか?」「何年もの間、私たちがあなたの誕生日に贈ろうと準備していた品々よ。今回、全部持って来たの」「こんなにたくさん?」「たくさんじゃないわ。一人一つずつ、何年分かが溜まっただけ」日南子は一瞬言葉を切り、涙に濡れた目で続けた。「七番目の叔父さんからの物もあるわ。気に入るかしら?」さくらは「うん」と短く返事をし、しばらくしてようやく言葉を紡ぎ出した。「親王様が
哉年は刑部での任務に就いた。当初は父王のことを詮索されるのではないかと戦々恐々としていたが、数日経っても玄武に会うことすらなく、誰一人として尋ねてくる者もいなかった。次第に、その緊張も薄れていった。むしろ、刑部大輔の今中具藤が時折声をかけてくれた。今中は温和な性格で、何かと指南を買って出てくれる。哉年も深く感謝し、分からないことがあれば、職制を超えて今中に助言を求めるようになっていた。これまでまともな仕事など経験したことのない哉年は、司獄としての職務を全うしようと必死だった。学ぶべきことは山積み、配下の獄卒たちの統率も必要で、毎日が慌ただしく過ぎていった。玄武は今中に指示を出していた。今は彼を追及せず、まずは職務に専念させよ。分からないことがあれば助け、成功体験を積ませ、自ら進むべき道を選択させるのだと。冬至を過ぎると、天方家には仲人が続々と訪れるようになった。裕子は息子の十一郎の嫁探しに心を砕いていた。子孫繁栄はさておき、せめて身の回りの世話をしてくれる良き伴侶が必要だと考えていた。息子が死の淵から生還して以来、裕子は子孫のことをさほど重視しなくなっていた。この先、穏やかな人生を送れさえすれば、それで十分だと。親房夕美の一件もあり、今度は嫁選びに際して、何より人柄を重視することにしていた。以前話の出ていた六品官の娘は、才徳兼備だったものの、親房夕美と村松光世の一件が露見してから、話は立ち消えになってしまった。今では縁談が増えてきたが、裕子にはそれぞれの娘の人柄を即座に見極めることはできず、じっくりと調べようと思っていた矢先、斎藤家から縁談が持ち込まれた。斎藤礼子、斎藤家四男の末娘で、裳着の儀を済ませてまだ半年、十六にも満たない。裕子は人柄を知る以前に、年齢があまりにも若すぎると感じた。これまで候補に挙がっていた娘たちは、みな十八を過ぎていた。確かに十八を過ぎても未婚の娘は少なかったが、家の喪中で婚期を遅らせている者や、一度婚約が破談になった者もいた。もちろん、破談に至った事情も詳しく調べる必要があった。再婚の女性も候補に入れていた。裕子は決して再婚を忌避してはおらず、相性が合えばそれで良かったのだが、残念ながら適当な人は見つからなかった。斎藤家には「身分が釣り合いませんし、礼子様はお若すぎます。うちの息子
「飛騨」という一言に、玄武とさくらは宴もそこそこに親王家へと急いだ。議事堂に広げられた地図には、濃州の一角に飛騨の地が示されていた。かつては離王の封地であり、その離王は文利天皇の弟。今では世襲で、影森天海が鎮国将軍の称号を受け継いでいた。もっとも、鎮国将軍は名ばかりの称号で、軍権は持っていない。天海は皇家の領地を賜り、朝廷からの俸禄で暮らしているが、この代になってその恩恵は半分以下に削られていた。以前の調査では、確かに飛騨は裕福な土地ではあったものの、燕良州や牟婁郡からは遠く離れており、軍を移すには手間がかかりすぎると判断していた。加えて、影森天海という男は、大それた野心など微塵もない男だった。賭博に溺れ、遊里に入り浸る有様で、先祖代々の家業をほぼ食い潰してしまっている。諜報によると、正妻一人に対し三十二人の側室、さらに五、六十人もの美人たちを抱え込んでいるという。気に入った女を見つければ、金で買い、騙し、それでもダメなら力づくで奪い取る。そのため、地元の役所とも険悪な仲だった。一年で百件を超える騒乱や婦女誘拐の訴えが持ち込まれるという始末。しかし飛騨は彼の封地。追い出すこともできず、とはいえ鎮国将軍の称号がある以上、強く出ることもできない。役所は頭を抱えていた。飛騨の府知事は三年任期で交代するが、皇族の面子を慮って告発状を上げることは控えめだった。皇室への配慮を優先する陛下の裁定で、自身の仕途に傷がつくことを恐れ、できる限り黙認する方針を取っていた。そうして彼の非道な振る舞いは、飛騨の地で野放しにされていた。「彼には顕著な特徴がございます。貧しくても横暴なことです」有田先生が指摘した。玄武は物思わしげに言った。「極限まで貧しく、かつ横暴な者は、必ず金策を考えるはず。しかし、この数年で飛騨での友好関係はほぼ皆無。実権も持たず、金を借りることすらままならない。彼の私有する庄園や山林を徹底的に調べよ」有田先生は調査記録の帳面を繰りながら答えた。「庄園は一つか二つを残すのみ。良い場所の山林は皆、人に貸し出されております。残っているのは、地形が複雑で、貸し手もなく、作物も果樹も育たぬような場所ばかり」「密偵を送り込め」玄武は額に指を当てながら言った。「私から陛下に話を通し、哉年に何か任務を与えよう。どの程度の情報を明かすか、様
「哉年、跪きなさい!」榮乃皇太妃は突然声を張り上げた。「不埒者め。王妃に許しを請いなさい。王妃はあなたの従妹であり、また義理の姉でもありますよ。王妃が許してくだされば、あなたの母上の御霊にも申し上げられるというものですわ」哉年が膝を折ろうとした瞬間、さくらは冷たい眼差しを向けた。「私に跪こうなどと、よくもそんな真似を」その凍てつくような声に、哉年の曲がりかけた膝は瞬時に強張った。さくらは立ち上がった。「他にご用がなければ、これで失礼いたします」大股で出口へ向かうさくらの背中に、皇太妃の切迫した声が追いかけた。「王妃、どうか、これからどんなことが起ころうとも、私の孫たちをお守りください」さくらは足を止め、鋭く振り返った。「皇太妃様は実に慈悲深いお方。ただ残念なことに、その慈悲は叔母様には届きませんでした。今となっては、誰かの慈悲や庇護など、もう彼らには必要ないでしょう」「王妃!」皇太妃は涙ながらに叫んだ。「同じ親戚ではありませんか。哉年たちは王妃の従兄妹なのです。見捨てないでくださいませ」「身を慎んで暮らしていれば、誰かの世話になど必要ありません」さくらの声は冷たく響いた。「皇族の血を引く者が、まさか物乞いにまで落ちぶれるとでも?皇太妃様のご心配は余計かと。もし、ただの取り越し苦労ではなく、何かご存知のことがあるのでしたら、それはこの私ではなく、あなたの孫たちに申し上げるべきことではありませんこと?」言い終えるや否や、さくらは大股で部屋を出た。「従妹上、お待ちください!」哉年が慌てて追いかけ、さくらの前に立ちはだかった。「私はあなたの実の母の子ではありません。従妹などと呼ばないで」さくらは特に彼への憎しみを隠そうともしなかった。燕良親王の三人の息子の中で、最も憎むべきは彼ではなかったかもしれない。だが、女中の子でありながら、育ての母である前王妃に一片の孝行も尽くさず、生前は冷たくあしらい、死後になって後悔の涙を流すなど、あまりにも卑しい。「ただ、心からお詫びを申し上げたかっただけです。他意はございません」哉年はさくらの鋭い眼差しを避けながら、おずおずと言った。「私に謝られても何の意味もない。育ててくださった方に申し上げることでしょう」さくらの目は氷のように冷たかった。「どきなさい。邪魔です」「私にも何も出来なかっ
そのとき、榮乃皇太妃からの使いが参り、さくらを個人的に招かれているとの伝言があった。さくらは太后の許可を得てから、その招きに応じることにした。榮乃皇太妃は文利天皇の妃であった方で、本来なら息子の封地で安寧な暮らしを送るはずだったのに、今は宮廷の片隅の殿で孤独に暮らしていた。高松内侍に導かれて寧寿殿に足を踏み入れた時、さくらは身を切るような寂寥感に包まれた。祝いの雰囲気など微塵もない。まるで他の殿舎とは数棟の距離だけでなく、天と地ほどの隔たりがあるかのようだった。冬の訪れと共に榮乃皇太妃の容態は重くなり、燕良親王の息子である影森哉年が都に残って祖母の看病をしていた。今日も参内し、祖母の傍らで付き添っていた。さくらの姿を認めると、彼は立ち上がって礼を述べた。「王妃様、よくお出でくださいました」さくらは冷ややかな目線を送った。「哉年様もいらしたのですね」「はい、祖母の看病に」哉年はさくらの前では頭が上がらず、まともに目を合わせることすらできなかった。さくらは彼には目もくれず、榮乃皇太妃に御機嫌伺いの挨拶をした。寝台に横たわる皇太妃は、錦織りの柔らかな枕を二つ背に当て、蝋のように黄ばんだ青ざめた顔色で、目は窪み、髪も結わず、白髪交じりの髪は肩に散らばっていた。寝たきりの生活で、髪は乱れたままだった。皇太妃はさくらを見つめ、一つ咳をしてから言った。「王妃、どうぞお座りなさい。堅苦しいことは無用です」その声は遅く、力なく響いた。宮女が寝台の傍らに椅子を運んでくると、高松内侍が「王妃様、どうぞこちらへ。皇太妃様はお声が弱くていらっしゃいますので、お近くでないと」と勧めた。ありがとうございます」さくらは皇太妃に礼を言って腰を下ろすと、「お具合はいかがですか」と尋ねた。「もう良くなることはないでしょう」皇太妃は乾いた唇に薄く紅を引いていたが、それは顔色を良くするどころか、かえって蝋のように青白い顔を際立たせていた。「ゆっくりお養いになれば、きっと」さくらは優しく声をかけた。殿内は炭火で温められ、さくらにはむしろ暑いほどだった。それでいて煙一つ立たない。さすがに上質な白炭を使っているのだろう。清和天皇は、彼女が燕良親王の生母だからといって粗末に扱うことはなかった。「王妃をお呼びしたのは、影森茨子の代わりに上原家の方
恵子皇太妃は参内するや否や、淑徳貴太妃と斎藤貴太妃を誘い、庭園へと急いだ。今日の紅玉の頭飾りが肌の色を一層引き立てることを、誰もが、特に二人に見てもらいたかった。玄武はさくらと共に、太后の御殿で御機嫌伺いをしていた。太后との歓談の最中、次々と内外の貴婦人たちが集まってきた。折しも、十一郎の母、村松裕子も太后への御機嫌伺いに訪れた。太后は思いがけなくも、これだけの貴婦人たちの前で、十一郎の縁談について尋ねられた。裕子は胸に苦い思いを抱えながらも、太后の前では一言も漏らすまいと、笑顔を作って答えた。「はい、縁とは急いで参るものではございませんので」「お気の毒なことです」太后は溜息をつかれた。「いわれのない災難に巻き込まれて。天方家はこれ以上ないほど温厚な家柄というのに、よからぬ輩に掻き回されて、すっかり……」裕子はその時悟った。太后が突然この話題を持ち出されたのは、十一郎と天方家の名誉を守ろうとされてのことだと。感動で目に熱いものが溢れ、声を詰まらせながら答えた。「やはり、十一郎の福運が浅かったのでしょうか……」「とんでもない」太后は即座に打ち消された。「彼は我が大和国の勇将。陛下の御恩を深く受けているお方です。どうして福運が浅いなどということがありましょう。定められた縁は、必ず巡り会うときが来るものです」裕子は慌てて深々と御礼を述べた。「太后さまのお心遣い、誠に恐れ入ります」その場にいた貴婦人たちの視線が、一瞬にして変化した。先ほどまでは嘲笑を隠しきれない目付きで裕子を見ていた。あれほどの醜聞が起きた以上、誰も無実を主張できないと思っていたのだ。だが、太后さまのお言葉が全てを変えた。しかも、どのような言葉で呼ばれたことか。「大和国の勇将」である。太后さまは決して朝廷の事など口にされない方。それなのに、十一郎のためにこのような言葉を。座に連なる者たちは皆、只者ではない。その言外の意味を聞き漏らす者などいようはずもない。これからは誰一人として天方家を軽んじることなどできまい。まして、噂話など口にする者などあるまい。太后は必要以上の言葉は付け加えず、さりげなく各家の様子を尋ねられた。斎藤夫人の姿が見えないことに目を留められると、折よく吉備蘭子の使いが参上し、「体調を崩されており、太后さまにご病気がうつることを懸念され、改め
皇后は礼子に大皇子と姫君を連れて遊びに行くよう促すと、礼子の母である景子を呼び入れた。「天方十一郎のことですが……」と聞いた景子は、眉を寄せた。「皇后様、あの方は礼子より余りにも年上かと。それよりも広陵侯爵家の向井三郎様は、若くして優秀で、すでに挙人の資格もお持ちです。確かに爵位は継げませんが、あの方の才能に我が斎藤家の後ろ盾があれば、きっと……」向井三郎は端正な容姿の持ち主で、今年わずか十九歳。去年すでに挙人に合格し、文章生に及第すれば、前途洋々というところだった。景子の言葉に、傍らにいた吉備蘭子が笑みを浮かべた。「奥様、斎藤家の若様方で、出世なさる方は多いとお考えですか?」「もちろんですとも」景子は誇らしげに答えた。「我が斎藤家には役立たずなど一人もおりません。三男家の方が一番の問題児でしたが、六郎でさえ姫君を娶ることができましたわ」「叔父上は役立たずではありませんわ」皇后は微笑みながら言った。「あの方は頭を打ってからそうなられただけ。それまでは聡明で機転の利く方でした。確かに、我が斎藤家には役立たずなどおりません。これほど大きな家で、優秀な若様方も多く、すでに官位に就いている方も、これから官途に就く方も大勢いらっしゃる」皇后は自分の指先を見つめながら、さも何気なく付け加えた。「となれば、外戚の後ろ盾だけで向井三郎にどれほどの官位が望めますかしら?まさか、娘婿にあなたの息子と争わせるおつもりでは?」景子の表情が一気に引き締まった。吉備蘭子はすかさず言葉を継いだ。「そういうことでございます。奥様、官職は限られております。ならば、礼子様の夫君は斎藤家の若様方と競合しない道を選ぶべきではありませんか?確かに天方十一郎様は礼子様より年上ですが、すでに従三位の総兵官の位にあり、母君も誥命夫人の身分を賜っております。礼子様がお嫁ぎになれば、十一郎様が誥命を願い出ることもできましょう。そうすれば、礼子様はまだお若いうちから誥命夫人としての栄誉を手にされる。これほどの栄達が目の前にあるのに、遠くを求める必要がございましょうか?」景子は二人の分析に耳を傾け、しばらく思案に沈んだ。確かに魅力的な話ではあったが、まだ完全には心が動かなかった。ただ、広陵侯爵家の向井三郎が、先ほどほど魅力的には思えなくなっていた。「でも皇后様」景子は眉間に皺を
冬至の日、宮廷での宴に先立ち、内外の貴婦人たちが参内し、御機嫌伺いに訪れていた。太后さまは普段から静かな時間を好まれていたが、この日ばかりは各家の貴婦人たちとの対面を許され、言葉を交わされていた。皇后は最初しばらくの間、太后に付き添っていたが、その後、春長殿に戻り、実家からの来客を待っていた。しかし、待てど暮らせど母の斎藤夫人の姿は見えず、代わりに叔母や従姉妹たちが大勢参内してきた。訊ねてみると、母は体調を崩しており、風邪を引いているため、太后さまにお会いすれば病気をうつしかねないということで、参内を控えたのだという。斎藤皇后はもちろんそれを信じなかった。前回、伊織屋の件で母と話した際、自分が断ったことで、母の表情に失望と戸惑いが浮かんでいたのを覚えていた。きっと、拗ねているのだろう。皇后は落胆していたものの、それを表には出さず、ただ密かに吉備蘭子に母への言付けと心づけを託した。煩わしい儀式が終わると、皇后は末の従妹である斎藤礼子を殿中に残して話を交わした。この斎藤礼子といえば、女学で赤野間将軍の孫娘・赤野間羽菜や広陵侯爵の末娘・向井玉穂と共に騒ぎを起こし、相良玉葉に意地悪をした張本人である。一度こっぴどく叱られてからは少しは大人しくなったものの、時折、相良玉葉を挑発して怒らせようとし、女学の教師として相応しくないという評判を立てようと企んでいた。そうすれば、女学校の名声も半ば失墜することになるだろう。斎藤礼子は唇を尖らせ、「お姉さま、国太夫人があまりにも厳しくて、深水先生にも叱られてしまいました。しばらくは大人しくしていようと思います。このまま諦めて、太后さまのお耳に入るようなことは避けたほうが……」皇后は体を少し傾けながら、冷ややかな目線を礼子に向けた。「まさか、私が女学校と敵対したいだけだと思っているの?陛下もお考えがあってのこと。そもそも女学校が創設された時から、上原さくらが目立ちすぎることを懸念されていたのよ。ただ、女学校は太后さまのご意向だったから、表立って反対はできなかった。だから、女学校の評判を少し落とすしかない。そうすれば、たとえ太后さまが追及なさっても、塾長としての上原さくらの責任を問うことができる。それに、私も彼女は相応しくないと思うわ。軍の出身者が、雅君女学の塾長を務めるなんて、笑止千万じゃない
高松内侍は涙を流しながら跪き、「公主様」と一声上げると、地面に伏して嗚咽を漏らした。しかし茨子は目を上げることもなく、まるで痴呆に陥ったかのように、何も見えず、何も聞こえていないようだった。しばらく泣き続けた後、高松内侍は重箱から菓子の盆を取り出した。新田が検査しようとしたが、粉蝶が制した。「親王様のお言葉です。菓子は検査不要とのこと」地面に跪いたまま、真っ赤な目で震える声を絞り出す。「公主様、一口だけでも召し上がってください。榮乃皇太妃様が特にお選びになった、公主様の大好きな甘菓子でございます。他にもお菓子がたくさんございます。ゆっくりとお召し上がりください」「榮乃皇太妃」という言葉に、茨子の目がようやく動いた。その顔は痩せ細り、垢で黒ずんでいた。目の周りまで灰色に汚れているが、その眼窩だけが赤く染まっているのが見て取れた。「そこに……置いて」歯を失った口からは不明瞭な言葉が漏れたが、皆には聞き取れた。「お召物もございます。お着替えのお手伝いを」高松内侍は着物を抱えながら近寄り、茨子の不潔な体も厭わず、その痩せた体を引き起こした。自分の体に寄り掛からせるようにして、ゆっくりと奥へ進んでいく。「このまま放っておいて大丈夫なのか?」新田は粉蝶と高松ばあやを見やった。「お任せしましょう」粉蝶はそう言いながら、さりげなく一つの菓子を袖に忍ばせた。新田は困惑の表情を浮かべたが、親王様と王妃の意向とあれば、黙るしかなかった。半刻ほどして、高松内侍は茨子を背負って現れた。新しい着物に着替えてはいたが、極度の痩せ衰えにより、まるで竹竿に掛けたかのようにだぶだぶとしていた。菓子の側に下ろされた茨子は、再び体を丸めた。布団や着物などの品々も中に運び込まれた。「もう良いでしょう。新田様のお立場もございますから」粉蝶が促した。高松内侍は涙を浮かべながら、最後に一度茨子を見つめ、名残惜しそうに立ち去った。茨子は彼らの後ろ姿を見つめ続けた。重い扉が閉じられ、その姿が完全に見えなくなった時、ようやく喉から嗚咽が漏れ始めた。粉蝶は菓子を薬王堂の青雀のもとへ持ち込み、劇毒の反応を確認してから、王様と王妃に報告に戻った。「食べたかしら?」さくらが尋ねた。「お暇する時にはまだでしたが、高松内侍様は毒の件をお伝えしたはずです
有田先生の徹底的な調査により、数名の容疑者が浮かび上がり、密かな監視の目が向けられることとなった。だが、疑惑は表面的なものに過ぎず、確たる証拠は得られていなかった。無相が燕良州に戻って以降、淡嶋親王以外との接触は皆無で、沢村家への訪問もなかった。例の黒幕は、まるで深淵の底に潜む影のように、その正体を巧みに隠していた。最新の諜報によれば、私兵は牟婁郡に潜伏していたものの、突如として移動を開始。あまりの急な移動に、多くの物資を置き去りにしたという。しかし、その移動先はいまだ不明のままだった。一方、燕良州では以前まで統制を欠いていた勢力が、無相の帰還後、急速にまとまりを見せ始めた。地方官僚たちが燕良親王邸に頻繁に出入りし、宴席を共にする様子が目撃されている。これらの名簿は玄武の手を経て、清和天皇の御手に渡った。しかし、依然として首謀者不在の状態を示すのみで、淡嶋親王と無相を首謀者と断定するには至らなかった。天皇は玄武との協議の末、燕良親王を早急に燕良州へ戻す必要があるとの結論に至った。少なくとも、燕良親王の存在があの者の急速な勢力拡大を抑制できるはずだった。あの者が燕良親王から権力と資源を完全に奪うには、親王不在の今こそが好機だ。親王が戻れば、これまで築き上げた人脈や資源はすべて親王の手中に戻る。それを奪うには相当の手間と時間を要するだろう。天皇は燕良親王に勅を下した。傷の養生も十分であろうから、燕良州への帰還を命じる、という内容だった。燕良親王も今や矢も楯もたまらぬ様子だった。療養中もずっと燕良州の情勢を案じ、沢村家との関係修復に思いを巡らせていた。勅が下るや否や、榮乃皇太妃への暇乞いすら省き、家族を連れて都を後にした。肉体の不自由さと、あの方面での不能を抱えながらも、一時の落胆を経て、かえって闘志を燃やしていた。野心は昔からあったが、以前は体面を保ち、名分を重んじて天下を狙っていた。今では帰国早々にでも兵を挙げたい衝動に駆られていた。もちろん、時期尚早だと理解してもいた。今挙兵すれば、千々に引き裂かれる運命が待っているだけだ。だからこそ、まずは地盤の再構築に専念せねばならなかった。榮乃皇太妃付きの高松内侍は、恵子皇太妃に仕える高松ばあやを訪ね、母娘の情を繋ぐべく、影森茨子への品物を託すよう懇願した