Share

第982話

Author: 夏目八月
議事堂での討議は深まり、一同は平安京が条件を緩和し、早期の和平を目指すだろうとの見方で一致した。領土境界線については、譲歩するか、あるいは棚上げにされる公算が大きいとの結論に至った。

「燕良親王の策謀は悉く空振りに終わりましたな」有田先生は冷静に分析を始めた。「今や窮地に追い込まれ、京での人脈も影森茨子に握られていた。影森茨子が失脚した今となっては、まさに為す術もない状況かと」

その言葉通り、燕良親王邸では深刻な行き詰まりを見せていた。

無相は幾度となく手を打ってきた。淡嶋親王を通じた策略、そして隠し持っていたもう一つの切り札。だが今や、それらは根こそぎ潰えた。十数名の精鋭も失われ、打撃は大きい。

迎賓館の様子を窺っていた彼らは、丹治先生が呼ばれたという一報で、計画の失敗を悟った。

更に、長公主が昏睡状態に陥った時ですら、魂喰蟲の母虫が体内の幼虫を制御できなかったことから、事態が思惑通りには運ばないことを察していた。

無相は失意の中にありながらも、レイギョク長公主への敬意を抱かずにはいられなかった。魂喰蟲の支配に抗うことは並大抵のことではない。武芸に長け、不撓不屈の精神を持つ男子でさえ、成し得なかったことだ。

無相の知る限り、これまでに魂喰蟲に抗えた者は唯一人。その者の身分は並々ならぬもので、常人離れした意志の強さを持ち合わせていた。それ故にこそ可能だったのだ。

こうも手強い相手に巡り会えば、無相としても敗北を素直に認めざるを得なかった。

「レイギョク長公主がいる限り、平安京は大和国との開戦には踏み切りませぬ」無相は燕良親王に冷静に進言した。「定遠皇帝は即位後、戦意を煽り、民心を操ろうとしましたが、その策は自身に返り矢となるでしょう。そもそも帝位への執着もない方です。先の皇太子への思いが何より強く、国家も天下も二の次。我らと同盟を結んだのもその表れ。だが、野心なき同盟は砂上の楼閣。崩れる時は我らをも巻き込みかねません。もはや定遠皇帝に期待を寄せるべきではありませぬ」

燕良親王は目を細め、じっと考え込んだ。「ならば、長公主は定遠皇帝を許さぬだろうな。皇子たちの中では、四皇子のケイシンが最有力か」

「御慧眼にございます。四皇子様の外戚の勢力を考えれば、即位の可能性は最も高い。定遠皇帝の即位も、長公主とスーランジーの後押しがあってこそ。しかし帝位に就
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 桜華、戦場に舞う   第1241話

    久しぶりの再会に、思い思いの近況を語り合う賑やかな声が部屋に満ちていた。そして、突然の衝撃的な報告が飛び出した。あかりと饅頭が婚約したという。「えぇっ!?」その知らせに、さくらと紫乃は思わず立ち上がり、二人を食い入るように見つめた。さくらは顎に指を当てて、にやりと笑う。「言われてみれば、二人とも丸々した顔立ちで、夫婦の相がにじみ出てるわね」「そう言えば」紫乃が目を細める。「目も耳も口も鼻も、数えてみたら同じ数……まさか兄妹じゃ?」「もう!冗談言わないでよ!」頬を染めたあかりが抗議の声を上げる。「でも、いつから……?」紫乃が首を傾げる。頭の中では既に、結納金を出すべきか、嫁入り道具を揃えるべきか、計算が始まっていた。どちらも親しい間柄なら、両方贈らないといけないかも。久しぶりに大盤振る舞いできる喜びに、紫乃の目が輝く。「あかり、話してやれよ」饅頭が穏やかな声で促す。確かに、以前の饅頭からは想像もできないほど落ち着いた雰囲気を纏っていた。引き締まった顔立ちには、どこか凛々しさすら感じられる。「別に……」あかりが艶のある声で言う。「年頃だから、師匠が『身内で固めろ』って。それで、この人を選べって」「へぇ」紫乃が意地悪く笑いながら二人を見比べる。「まぁ、饅頭は随分痩せたけど、こんな可愛いあかりをもらえるなんて、運のいい奴じゃない」門派では同門の弟子同士が結ばれるのは珍しくなかった。外の世界との関わりが少なく、若い男女が日々顔を合わせているのだから、自然と心が通じ合うのも当然だった。あかりと饅頭は戦場を共にした仲間。互いの背中を預け合った戦友同士で、物の見方も価値観も似通っている。幼い頃から一緒に過ごしてきた二人は、いつしか「この人となら」と思うようになっていた。完璧な相手ではないかもしれないが、一生を共にすれば幸せになれる——そんな確信があった。祝福の言葉を交わした後、皆で一息つき、話題は南風楼の一斉摘発へと移った。「徹夜までして……お役人って大変なのね」あかりはさくらの顔を心配そうに覗き込んだ。「さっき入ってきた時から眉間に皺が寄ってたけど、何かあったの?辛い思いをして、嫌な思いをして、そんな役人なんてやめちゃえば?梅月山に戻ってきたら?のんびり暮らせるのに」「梅月山か……」さくらは懐かしそうに微笑んだ。「そりゃ

  • 桜華、戦場に舞う   第1240話

    馬を親王家へと駆り、門前で下馬すると、厩役に馬を任せ、鞭を手に玄関へと駆け込んだ。「王妃様がお戻りです!」誰かが声を上げる。きっと紫乃が門で待機するよう言いつけていたのだろう。白い大理石の影壁を回った瞬間、真紅の影が疾風のように駆けてきた。三歩ほどの距離で跳び上がり、さくらは咄嗟にその体を受け止める。二人はその勢いのまま幾度も回転した。「やっと帰ってきたのね、我らが上原様!」あかりの弾むような声が耳元で響く。さくらは彼女を下ろすと、両手でぷっくりした頬を挟んだ。目を輝かせながら「あかり、丸くなったじゃない」「もう!」あかりは軽く肩を押しながら、艶のある唇を尖らせた。「会って早々、意地悪言わないでよ」「違うわ」さくらは笑みを浮かべる。「ふっくらした感じが素敵よ。相変わらず綺麗」「本当に太った人は、まだ姿を見せてないでしょ?」あかりはさくらの腕に自分の腕を絡ませながら前に進む。二、三歩行くと、紫乃と饅頭がゆっくりと歩いてくるのが見えた。饅頭は以前より痩せてはいたが、全身が引き締まって逞しくなっていた。落ち着きも出てきている。さくらを見るなり、顔いっぱいに笑みを浮かべた。「さくら、やっと戻ってきたか?公務がそんなに忙しいのか?」「この饅頭め」さくらはあかりの手を引きながら近づき、饅頭の胸板を軽く叩く。弾力のある筋肉の感触。「やるじゃない。一流の武道家の域に達したんじゃないの?」「一流か二流かは分からねえが」饅頭は誇らしげに胸を張る。「前より随分強くなったぞ。今なら、さくらと戦っても負けはしないかもしれない」「へぇ?」さくらの目が楽しげに輝く。「それは試してみないとね」「まぁまぁ、さくらに勝てるわけないでしょ」あかりが遠慮なく茶化す。「たった二百合で地面に転がされて歯を探すことになるわよ。ちょっと修行したくらいで天下無敵になれると思ってるの?恥ずかしい奴ね」さくらは二人の師兄妹が昔から口喧嘩が絶えないこと、特にあかりが饅頭をからかうのを楽しんでいることを知っていた。「ふん」紫乃が鼻を鳴らす。「昨夜も手合わせしたけど、まだまだ私の敵じゃないわよ」「手加減してただけだって」饅頭が恨めしそうな目を向ける。「本気なら、負けるわけないさ」笑い声を交わしながら屋敷の中へ。有田先生が既に食事を用意させ、梅田ばあやが直々に養生粥を

  • 桜華、戦場に舞う   第1239話

    三人が呼び入れられ、順番に叱責を受ける中、他の二人が平伏して罪を認める中、さくらだけが沈黙を守り通した。「よくもそのような言い訳を!」天皇の声が烈しく響く。「帝師の南風楼通いを知っていながら、事前に報告しなかった罪は重い」徹夜の疲れが滲む中、さらなる叱責に付き合わされるさくらの胸中にも、僅かな反発が募る。「では、もし私が事前に申し上げていたとして」さくらは静かに切り返した。「陛下は南風楼の摘発を取り止められたというのでしょうか」「摘発は断行していた」天皇の顔が朱に染まる。「だが……」言葉が途切れる。続きようがないことは天皇自身が一番分かっていた。事前に知らせてくれれば、と言いたいのだろうが、まさか密かに知らせを回すとは言えまい。そもそも、昨夜の出入りさえ確実でない状況で、帝師の南風楼通いを報告されても、誰が信じただろう。天下で最もあり得ない話ではないか。帝師という高位高官、万民の尊敬を集め、文人墨客の鑑とされる人物が、そのような場所へ?告げ口として一蹴されただけだろう。「それに」さくらの声が響く。「斎藤家ほどの大家で、これほどの従者を抱えながら、誰一人として帝師様の南風楼通いを知らなかったとでも?私は調査を任されただけです。誰が、いつ行くかまでは分かりません。そして、現場で見つかったのは帝師様だけではありません。貴族の子弟も、官僚たちも……」陛下が最も気にかけていた、かの重臣たちのことまでは、あえて口にしなかった。怒りに震える天皇に非を認めさせることなど不可能だ。「要するにお前の仕事が杜撰だったということだ。言い訳は無用」「承知いたしました。ただちに帝師様を」さくらは一旦言葉を区切った。「釈放いたしましょう」清和天皇の表情が一層冷たくなる。釈放?できるはずがない。全員二日間の拘留——自らが下した命だ。帝の威信は朝令暮改で保てるものではない。天皇はさくらを見つめ直した。先程の反論で冷静さを取り戻していた。確かに、彼女を責めるのは筋違いかもしれない。式部卿は広陵侯爵の告発を耳にしていた。真偽は定かではない。昨夜、父は何も語らなかったのだから。だが、今は釈放など許されない。「釈放するなら、昨夜のうちに裏門から密かに出すべきでした」式部卿は青ざめた顔で言った。「今となっては……」言葉が途切れる。禁衛府の

  • 桜華、戦場に舞う   第1238話

    ついに式部卿は立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、さくらは思った。かつての颯爽とした式部卿が、今や首を引っ込めた亀のようだ。側室問題の時でさえ、これほどの落胆は見せなかったというのに。まるで雷に打たれたかのような様子だった。さくらは再度の見回りを終えると、睡魔も去り、山田鉄男を呼び寄せた。「上原殿はお戻りになられても。私どもで十分お守りできます」「丑の刻を過ぎているわ。大丈夫よ」さくらは首を振った。「外には名家の者たちが潜んでいる。彼らが騒ぎを起こせば収拾がつかなくなるでしょう。あなたには荷が重すぎる。それに」言葉を継ぐ。「陛下は彼らの面目を潰すつもりなどなかった。もし大騒ぎになって一人一人の正体が暴かれでもしたら、陛下への言い訳も立たなくなる」「確かに」鉄男は頷いた。翌朝、誰よりも早く現れたのは広陵侯爵だった。背中に荊を負い、涙ながらに告白する。南風楼は元々影森茨子の経営で、その失脚後は店を畳むつもりだった。だが斎藤帝師の意向で営業を続けた、と。つまり、広陵侯爵は手のひらを返すように、帝師を売り渡したのだ。彼が斎藤家を敵に回す道を選んだのは、羅刹国の密偵の件を知ったからだ。誰かが罪を被らねばならず、間違いなく自分が標的になる。帝師を巻き込むことでしか、一家の命は救えなかった。斎藤家の怨みを買う代償は大きいが、この供述により帝師は単なる客から、南風楼存続の黒幕へと変わる。そうなれば話は別だ。清和天皇は先帝の面目を考え、事態を収束させるだろう。斎藤式部卿が参内すると、清和天皇の怒りが渦巻く御前に迎え入れられた。硯が飛んできて、厚い衣服に当たった。痛みこそなかったが、その威圧に脚が震え、式部卿は崩れるように跪いた。「陛下、どうかお慈悲を!」広陵侯爵が外で荊を負い跪いているのは目にしたが、何を申し立てたのかは知らない。父の南風楼通いを白状したのだろうか。「父は一時の過ちを……どうか、お許しを」「愚かも甚だしい!」天皇の怒声が御前を震わせた。「斎藤家の所業は単なる愚行ではない。これほどの狂気とは!朕は幾度となく寛容を示した。見て見ぬふりをしてきた。それなのに影森茨子の商いを引き継ぐとは!南風楼に潜む羅刹国の密偵を、これほどの年月、匿っていたというのか」震え上がった式部卿は、天皇の言葉の真意を理解す

  • 桜華、戦場に舞う   第1237話

    斎藤式部卿は結局、部屋を後にした。正庁を通り過ぎようとした時、炉辺で暖を取るさくらの姿が目に入った。式部卿は彼女との対面を避けたかったが、足が勝手に中へ向かってしまう。ふと思った——もし彼女がここを見張っていなければ、たとえ陛下の逆鱗に触れようとも、父を連れ出していただろう。これ以上の恥辱は見たくなかった。「こんな遅くまで、お帰りにならないのですか」さくらの声が静かに響く。式部卿は霜に打たれた茄子のように萎れていた。生気のかけらもない。これほどの恐怖を感じたことはない。この扉を出た後に待ち受けているものへの恐れ。最初に来た時は交渉の腹積もりをしていたのに、彼女は何の見返りも求めようとしない。式部の要職にあって、権力のために策を弄する者たちの醜態を散々見てきた。だが彼女は、この機に乗じて自分の息のかかった者を送り込もうともしない。愚かなはずはない。清和天皇が北冥親王を警戒していることも、もし何かあった時、朝廷に味方がいれば助けになることも、分かっているはずなのに。思考が乱れる中、白粉を塗った父の蒼白い顔と、きちんと畳まれた派手な衣装が幾度も脳裏に浮かび、狂気すら覚えた。「上原殿は、ここで夜を明かされる?」取り繕うように尋ねる。「ええ、動きませんよ」「王妃様はお帰りになっても……」視線を逸らしながら言葉を絞り出した。彼女の目を直視する勇気さえなかった。さくらは式部卿を一瞥した。「私が離れれば、権力を笠に着て誰かを連れ出そうとする者が現れても、禁衛府には止める力などありませんから」位が一つ上というだけで人を圧せるのに、まして数段も上ければなおさらだ。式部卿の肩が落ちた。確かにそのつもりでいた。「式部卿だけではありませんよ。外にも虎視眈々と狙う者がいる」さくらは冷笑を浮かべた。「誰もが恥を避けたがり、禁衛府から連れ出そうとしている。ですが、私は陛下の勅命を受けています。陛下の命がない限り、誰も解放はしません。帝師様の件も、ただご高齢で体が弱く、牢獄が寒すぎるから、側室を貸し出しただけです」思惑を見透かされ、式部卿は一瞬たじろいだ。「上原殿のご厚意に感謝いたします」しばらくして低い声で言った。「もし汚れが気になるようでしたら、出獄後に椅子や机を全て取り替えさせていただきます」「汚れ?」さくらの

  • 桜華、戦場に舞う   第1236話

    「先に失礼します」さくらが部屋を出ると、勇人も続いて退室し、静かに扉を閉めた。側室に残された父子は、長い沈黙に包まれた。ついに式部卿が前に進み出て、父の顔を覆う布を取ろうとしたが、帝師は両手でしっかりと布を握りしめ、離そうとしない。「着替えをなさってください。背を向けていますから」式部卿は布団と着替えを置き、背を向けた。かすかな衣擦れの音が響く。胸が締め付けられるような痛みが込み上げてきた。鼻の奥がツンと痛み、目に涙が滲む。悔しさなのか、怒りなのか、それとも現実を受け入れられない思いなのか。父はいつも威厳に満ちていた。否、誰の前でも冷徹で威厳のある存在だった。文学界を一言で震撼させる権威者として。もしこれが広まれば、文壇どころか、天地がひっくり返るような騒ぎになる。「お召し替えは……済まれましたか?」返事はない。ただ、物音も止んでいた。ゆっくりと振り返ると、並べた椅子の上で、父は綿入れの布団にすっぽりと身を包み、顔まで隠していた。脱いだ衣装は丁寧に畳まれ、脇の机に置かれている。なんと几帳面な畳み方か。普段は数人の侍女に着替えを手伝わせていた父が、一人でこれほど手際よく着替え、衣装を畳める——その派手な色彩が目に突き刺さり、堪えていた涙が頬を伝った。「なぜです?」声が震える。「どうして、こんな……」布団の下で、帝師は両手を強く握りしめ、爪が肉に食い込むほどだった。息子は入室以来、一度も「父上」と呼んでいない。息子の思いなど、父親として分からぬはずがない。恥ずかしさのあまり、親とも認めたくないのだろう。式部卿は腰を下ろしたまま動かない。ここを出れば上原さくらと向き合わねばならない。今の自分には、誰とも顔を合わせる勇気がない。すでに広陵侯爵に使いを出し、父の南風楼通いを知る者の数を探らせている。その答えが出るまでは、どこにも行くまい。今や書斎に独り籠もっていても、無数の目に見つめられているような錯覚に苛まれる。「なぜなのです……」声が掠れ、涙で鼻が詰まった声で問いかける。布団の下は石のように動かず、息をする気配さえない。「このように私にさえ顔向けできないというのに、他人にはどう向き合うおつもりです?」懇願するような声。「せめて理由だけでも。事が露見した時、私にも何か言い

  • 桜華、戦場に舞う   第1235話

    「十両の銀子で食事を用意しておきましょう」さくらは御城番の兵に銀子を渡した。「出獄後に銅銭で精算すればよいでしょう」その言葉には二重の意味が込められていた。この収監は長引かない、静かに従えば二日で終わる——そんな暗黙の約束だった。それは同時に、隅で震える斎藤帝師への言葉でもあった。真夜中近く、さくらが再び見回りに訪れると、帝師の震えはさらに激しくなっていた。「申し訳ございません」勇人が小声で近づいてきた。「旦那様に毛布を一枚いただけませんでしょうか。持病があり、寒さに耐えられないようで」さくらは斎藤帝師を観察した。風の吹き込む隅で、異様な姿勢で体を丸めている。全身が硬直したようだ。平等な扱いは難しいかもしれないが、初日からこれでは凍死されても困る。「こちら」さくらは声を上げた。「帝師様を別室へ。綿入れの布団を用意しなさい。ここで死なれては面倒です」「恩に着ます」勇人は地面に膝をつき、涙ながらに礼を述べた。帝師はもはや立つことすらできず、勇人に背負われるままだった。他の者たちは不公平さを感じながらも、声を上げる者はいなかった。老人の背中を見れば、このまま置けば死んでしまうのは明らかだった。死人と同じ牢に居たくはない——その思いが皆の胸をよぎった。禁衛府は広大な敷地を誇る。厨房から食堂へと続き、その先七、八丈ほどには武術場が広がる。中央には議事堂が構え、正庁のある前院に加え、脇に小さな側室が設けられていた。その側室は普段さくらが使用する場所で、小ぶりながら炭火一台で十分暖かい。今は、ここが最適な場所だろう。「椅子はお好きにどうぞ」さくらは部屋に案内しながら言った。「ただし、寝椅子は使えません。私の昼寝用ですから」「ご主人様はお体が弱く」勇人は懇願するように言った。「一晩中椅子では耐えられません。寝椅子をお借りできないでしょうか。二日後には新しいものをご用意いたしますが」「それは許可できません。ここへの移動自体、特例なのです」「ご主人様はご高齢です。どうか、お年寄りへの思いやりとして」さくらは、まだ顔を布で隠している帝師を一瞥した。「年齢を理由にするなら、そもそもあのような場所へ行くべきではなかったはず。行けるということは、それだけの体力があるということでしょう。椅子で我慢なさい。炭火は用意させます」

  • 桜華、戦場に舞う   第1234話

    さくらは湯飲みを両手で包み、その温もりを感じながら言った。「式部卿は、私に何をお与えになれるというのです?私自身で得られないようなものが?」式部卿は言葉を失った。その意図が掴めない。「お帰りになって」さくらは微笑んで言った。「今夜は私が直々に見張りをいたしますから」寒さで頭が回らなくなっていた式部卿は食い下がった。「どうか、はっきりとおっしゃってください」「何も望みません」さくらは少々苛立たしげに答えた。「すべては先帝様への敬意からです。物事すべてが利害関係で動くわけではありません。そうそう」と付け加えた。「禁衛府では食事の用意はいたしません。お食事をお届けいただくか、銀子をお預かりして一括で手配いたしますが」式部卿は困惑しながら立ち上がった。なぜ彼女がこれほど無条件で斎藤家を助けようとするのか。深い恨みこそないものの、これまで些細な諍いは絶えなかったはずだ。この善意は一体……先帝の面子のためだと?まさか一介の女がそこまで朝廷の事情を慮るはずもない。「上原殿、もし適任の人物を朝廷へ推薦するとすれば、六位以下であれば……」「お引き取りください」さくらは冷ややかに言葉を切った。式部卿は言葉を飲み込み、困惑の表情を隠せないまま立ち上がった。彼女の真意を測りかね、全身を探って銀子を持ち合わせていないことに気付くと、食事の手配をすると一言残して退出した。式部卿が去るや否や、紫乃が駆け込んでくる。「さくら!先に屋敷に戻るわ。今、親王家から使いが来てね、あかりと饅頭が夕方には着くって!あなたは今夜ここの当番でしょ?」さくらは跳ね起きるように立ち上がり、目を輝かせた。「本当!?私も……あぁ、そうね。あなた先に帰って。明日、陛下に報告を済ませたらすぐ戻るから。それまでしっかりもてなしておいて」戦後の帰京以来、二人には会えていなかった。さくらはどれほど会いたがっていたことか。「うわぁー!」紫乃は風のように駆け去り、その興奮した声が禁衛府中に響き渡った。確かに寒い夜になりそうだ。さくらは牢獄に炭火を数台運ばせた。上等な炭ではないため煙も出るが、何もないよりはましだろう。見回りに出たさくらは、隅で身を寄せ合う斎藤帝師と梁田勇人の姿を見つけた。勇人は帝師を守るように、誰も近寄れないよう身構えている。勇人の目つきは鋭かったが、さく

  • 桜華、戦場に舞う   第1233話

    清らかで熱々の茶を前に、式部卿は一口も喉を通す気になれなかった。今や喉は干からび、口の中は火傷でもしたかのように痛んでいたというのに。さくらが女学院の話題に触れようとしないのを見て、式部卿は目を細めた。「北冥親王様の側近として、私から推薦させていただける者が一、二名ほど……」「式部卿様」さくらは手で制すように軽く下ろした。「余計なことは結構です。ご安心を。帝師様の件は今のところ誰も知りません。南風楼から連行する際も、机掛けで顔を隠しました。牢獄でも同様の処置を取っております」あまりにも単刀直入な物言いに、式部卿は言葉を失った。これほど露骨に事実を突きつけられ、頬が熱くなるのを感じた。すべてを置いても、事の本質を見れば、なんと面目丸つぶれな話か。もし父上でなければ、いや、一族の誰か他の者であったなら、即刻打ち据えて領地に追放し、野たれ死ににさせていただろう。すべてを暴かれた今となっては、もはや言い訳の余地もない。式部卿は小さな声で問うしかなかった。「上原殿、父を解放していただけませんでしょうか。年老いており、体も弱く……この苦しみには堪えられませぬ」「式部卿様」さくらは言葉を継いだ。「実は、今回の一斉摘発は陛下の勅命によるものです。禁衛府と御城番が共同で行動を起こしました。その場にいた者たちは二日ほどの拘留で済むでしょう。本来の目的は彼らではなく、南風楼に潜伏していた羅刹国の密偵たちです」さくらは一呼吸置いた。「ご存じないでしょうが、あの数軒の南風楼には十数名の羅刹国の密偵が潜んでいました。全員、影森茨子が都に連れ込み、南風楼に匿っていた者たちです。帝師様も、彼らの接待を受けていらしたはずです」式部卿の顔から血の気が引いていく。あまりの衝撃に言葉を失った。これはただの風紀の乱れどころの話ではない。父上がなぜ、こんな愚かな……どれほど準備を重ねていたところで、さくらの容赦ない言葉の前では全て無意味だった。式部卿は震える手で茶碗を取り、一気に飲み干した。「上原殿」掠れた声で尋ねる。「では、陛下は父が南風楼に出入りしていたことを……」「ご存じありません。陛下はお名前を知ることを望まれませんでした。ただし、その場に居合わせた者は身分に関係なく、全員二日間の拘留という勅命です」式部卿の目に一筋の光が宿った。「では、独房での

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status