LOGIN黒いビュイックが彼らの斜め後ろを、距離を保ちながらついてくる。奏は前方の道路状況を確認し、静かに言った。「人の少ないところで止めろ」「了解です」運転手はすぐにアクセルを踏み、車を人気のない脇道へと入れていった。後ろの車もそのまま曲がってくる。ところが、角を曲がった瞬間、奏の車が道端に停まっているのが見えた。ボディーガードは思わず悪態をつきながら、急ブレーキを踏み込む。奏が車を降り、大股でボディーガードの車のもとへ歩み寄る。ボディーガードは舌打ちしながら、しぶしぶ窓を下げた。その顔を見た奏の目に、一瞬だけ驚きと納得が混じった光が宿る。普通の人間なら、こんなあからさまな尾行はしない。「とわこに命じられたのか?」奏の声は冷たく、刺すようだった。ボディーガードは肩をすくめて言う。「そうっすよ。社長の命令がなきゃ、わざわざあなたを追うわけないでしょ?家で寝てた方がよっぽど幸せですよ。だから、俺に当たらないでくださいよ。こっちもただの社畜なんです」奏の顎の筋肉がぴくりと動く。「彼女は、俺を尾行して何をしたい?」「住所を知りたいそうです」ボディーガードは正直に答えた。「奏さん、家の住所を教えてくれませんか?そうしたら今日の任務、さっさと終われるんです。社長が言ってたんすよ、家を突き止めるまで一日中つけろって。……一日中後ろにいられても困るでしょ?」奏の瞳が冷たい光を宿す。低い声で、威圧的に言い放った。「とわこが死にたいなら勝手にすればいいが、お前も死にたいのか?」ボディーガードは慌てて両手を振る。「死ぬのは勘弁してください!怒るなら社長に怒ってください。俺はただの使いっ走りです!それに、社長があなたの住所を知りたいのは、別に邪魔したいからじゃないっすよ……もしかしたら、あなたが誰かに殺された時に、せめて遺体を引き取れるようにって考えてるのかもしれません」奏の眉がぴくりと動いた。この男、今まともなことを言ったのか?自分は生きているというのに、なぜ死を前提に話をする?「社長は高橋さんの状況がかなり危険だってもう知っています」ボディーガードはさらに言葉を続けた。「危険だと分かっているなら、なぜ彼女を日本に連れ戻さない?」「俺だってそうしたいですけど、聞かないんですよ!昔っから頑固なんです。正直、あな
秘密というより、むしろプライベートな情報だ。とわこは、自分のすべてのアカウントとパスワードを、そのノートに書き残していた。だが、奏には覗き見る趣味などない。他人の秘密を暴くことに、何の興味もなかった。ページを一枚めくると、そこに、一枚の写真が貼られていた。それは、かつて二人が仲睦まじく笑っている写真。彼がカメラの前で彼女の頬にキスをしている一瞬を切り取ったものだった。胸が大きく波打ち、鼓動が乱れる。体温がじわりと上がっていく。慌てるようにページをめくっていくと、どのページにも、彼女とのツーショットが貼られていた。リビング、ダイニング、寝室、レストラン、街角、海辺。だが奏は、ひとつひとつを見ようとしなかった。過去を思い出すこと自体が、もう無意味だと思った。自分の過去は「失敗」として終わったのだと、心のどこかで決めつけていた。パタン、黒い手帳が、無造作にゴミ箱へと放り込まれた。「奏さん、CTの結果が出ました」放射線科の医師が、紙のレポートを差し出す。「回復は順調です。ただ、無理は禁物です。頭を酷使したり、激しい運動は避けて、できるだけ休養を」「ありがとう」奏は受け取りながらも、視線はゴミ箱から離れなかった。医師は不思議そうに首を傾げる。「副院長に見せに行かなくていいんですか?」「あとで行く」「何かありましたか?」「いや、ない。仕事に戻ってくれ」医師は頭を掻きながら、CT室へと戻っていった。ドアが閉まるやいなや、奏は即座にゴミ箱へ歩み寄り、あの黒いノートを拾い上げた。最初のページを破り取り、ノート本体を再びゴミ箱に戻す。写真も記録も、もう見たくなかった。だが、彼女のプライベートを他人に晒すことだけは、許せなかった。破り取った一枚の紙を丁寧に折りたたみ、胸ポケットにしまい込む。病院を出ると、運転手がすぐにドアを開けた。車は静かに発進する。その頃、駐車場の一角、とわこのボディーガードが、吸いかけの煙草をアスファルトに落とし、靴で踏み消した。今日の任務は奏の尾行。できれば奏の住まいを突き止める。無理なら、一日の行動と接触相手を報告する。あまりに危険で、気が重い任務だ。朝、その指令を聞いたとき、彼はすぐに首を横に振った。だが、とわこが黙って帰国チケットを
「うん!」二人はまるで長年の友人のように、意気投合して話が止まらなかった。玄関で靴を脱いでいた一郎は、その会話の一部始終を聞いてしまい、胸が痛んだ。「桜、僕たちは二人で話そう」一郎は歩み寄り、静かに言った。「僕たちのことは僕たちで解決する。他の人を巻き込むな」「一郎さん、桜おばさんをいじめないでよ!」レラは一郎の険しい表情を見て、すぐに桜の味方をした。「レラ、いじめてなんかいないよ」一郎は苦笑いを浮かべたが、その顔はむしろ泣きそうだった。「ちゃんと話をつけに来ただけだ」「じゃあ、どうやって解決するの?」レラは首を傾げた。「まさかパパみたいに無責任なことはしないよね?」その言葉に、一郎はぐさりと胸を刺されたような気分になった。「じゃあレラ、君の考えでは、桜と結婚したら責任を取ったことになるのか?」「それはおばさんが結婚したいと思うかどうか次第だよ。一郎おじさんが望んでも、おばさんが嫌なら意味ないでしょ」一郎は言葉に詰まる。「それにおばさんは若くてきれいだし、おじさんはパパより年上なんでしょ?」レラは容赦なく続けた。「涼太おじさんが言ってたよ。年上の男の人は賢いけど現実的でプライドが高くて、ちょっと面倒なんだって。やっぱり若い人のほうがいいって」「涼太、お前、何教えてるんだ」一郎は呆れ顔で涼太を睨む。「事実を言っただけだよ」涼太は淡々と返した。一郎は言葉を失う。「桜、君が二人で話したくないなら、みんなの前で話そう」一郎は深く息を吸い、「君がとわこの家にずっといるのは良くない。あのマンション、気に入ってたろう? 住んでいい」「じゃああなたは?」桜が問い返す。「一人が怖いって言ってたろう?僕も一緒に住む。お腹が大きくなったら、何かあったとき困るだろう」一郎は、昨晩眠れぬまま考え抜いた結論を口にした。結婚するかどうかはさておき、まずは彼女と赤ん坊を守ることが先だと。「私たち、結婚もしないのに一緒に住むなんておかしいわ」桜は眉をひそめる。「結婚しろって言ってるのか?それなら別にいいが、条件は多く出すな。僕は束縛が嫌いなんだ」一郎は半ば投げやりに言った。三浦が蒼を抱いて現れ、運転手と護衛も様子を見に来た。桜はこれ以上人に見られたくなくて、顔を赤らめながら一郎を引っ張って外に出た。「桜、奏の
看護師が通りかかり、俊平の様子を見てすぐさま車椅子を押してきた。とわこは彼を乗せ、急いで救急室へ向かう。検査の結果を待つあいだ、俊平の意識が少しずつ戻ってくる。胸の痛みはまだ鋭く残っていたが、それ以上に胸を締めつけたのはなぜ、とわこがあんな乱暴で暴力的な男をいまだに想っているのか、という思いだ。「とわこ、もしあいつがもう少し強く殴ってたら、俺はもうアメリカに戻れなかったかもしれない。あんな危ない男に、殺されるかもしれないって思わないのか?」俊平の声は痛みと苛立ちに震えていた。今の奏は、もう彼女のことを覚えていない。それでも彼女は必死に彼を地獄から救い出そうとしている。だが彼女の言う地獄は、奏にとってはもしかしたら天国なのかもしれない。「ごめんね、俊平。彼は誰かが背後から襲ってきたと思ったの。だから反射的に。次に会うときは、ちゃんと正面から声をかけてあげて」とわこは申し訳なさそうに言う。「次があるのか?俺はもう二度と会いたくないね」俊平は泣きそうな顔をした。「肋骨、たぶん折れてる。入院コースだな……」その言葉どおり、レントゲンの結果は肋骨の軽い骨折だ。命に別状はないが、少なくとも一週間の安静が必要だという。その頃、日本。この日はレラの休日で、涼太が彼女を館山エリアの別荘まで送ってきた。玄関を入ると、三浦が駆け寄って伝える。「レラ、パパが生きていたそうよ」「お兄ちゃんから聞いたよ」レラは無理に笑おうとしたが、唇がうまく動かない「それに、パパが新しい奥さんを迎えたって」三浦もその話は耳にしていた。だが、どう考えても何かの誤解にしか思えない。とはいえ、今はもう奏の肩を持つようなことは言えなかった。あまりに非常識な話だからだ。「レラ、あなたのおばさん、パパの実の妹さんが、今この家に住んでるのよ」三浦は話題を変えた。「うん、お兄ちゃんが言ってた。しかもそのおばさん、一郎さんの赤ちゃんを妊娠してるんでしょ?」レラはため息をつく。「ちょっと家を空けただけで、こんなことになってるなんて。ほんと、疲れちゃう」ソファに沈みこむように座るレラの顔は沈んでいた。父は遠い国で新しい妻と暮らし、母は戻ってこない。きっとつらい思いをしているに違いない。そのとき、物音を聞いた桜がリビングに現れる。レラを見るな
「奥様、どうして旦那様と一緒にいらっしゃらないのですか」「彼は忙しいわ、私がそばにいる必要はないの」真帆はソファに腰を下ろし、果物皿を手に沈んだ声で食べる。「あの人、私に興味がないみたい。私ってそんなに美しくないのかしら。前に彼の元妻に会ったけど、私のほうがずっと綺麗だと思ったし、年齢だって若いのに」家政婦が褒める。「奥様が元妻より綺麗なのは当然ですわ。だからこそ、あんなにあっさりと婚姻を決めたのです」「でもさっき、私が彼の服を脱がせたのに、また着てしまったのよ」真帆は囁くように推測する。「もしかして体の調子が悪いのかしら」「旦那様は手術したばかりですから、今は体が弱っているのでしょう。あと一ヶ月もすれば普通に戻るはずです」家政婦は慰める。「彼は背が高くて立派な体格だし、とわこと三人も子どもを作ったくらいですから、体に問題があるとは思えません」真帆は急に安心する。翌朝。奏は病院で再検査を受ける。副院長が体調を確認したあと、脳のCTを取る。「奏さん、ひとつ注意しておきます。あなたの元妻がどこからか今日のあなたの来院を聞きつけ、来られる前に一度ここへ訪ねてきました」副院長が告げる。奏は昨日の彼女の言葉を思い出す。彼女は「あなたが記憶を取り戻すまで、毎日来る」と言っていた。彼は検査票を手にして副院長室を出る。すると、向かいからとわこが現れる。とわこは黒いノートを差し出す。「これはあなたのノートよ。手術前に書いていた記録が入っている。受け取ってくれたら、私はすぐに帰る」彼はためらわずそのノートを受け取る。受け取られたのを見て、とわこはほっと息をつく。「今日は検査に来たのね。CT室は六階よ、行って」「とわこ、俺が記憶を取り戻したらお前をまた愛すると思っているのか」彼は傲然と見下ろす。「たとえ何があったかを忘れていても、ネットで調べれば分かる。もう二度とお前に振り回されはしない」「あなたが私に振り回されているかどうかは、記憶が戻ってから判断すればいい。今のあなたの印象は、誰かが植え付けたものに過ぎない。剛が植え付けたものかもしれないし、ネットの情報かもしれない、どちらにせよ偏った見方よ」彼女はわざと彼を刺激する。「今のあなたは半分は馬鹿よ」その最後のひと言が、彼の怒りに火をつける。彼は彼女を強く壁際
とわこに「高橋家の娘と一緒に寝ないで」と言われたのに、彼はあえてそうした。自分はもう過去の奏ではないと証明したかった。今の彼は、自分の意志で動く。誰にも支配されない。「奏、少し緊張してるの……優しくしてくれる?」真帆は頬を染めながら、彼のバスローブの帯に手を伸ばした。彼はその指を掴み、眉をひそめる。「香水をつけた?」「うん。いい匂いでしょ?」真帆は柔らかく微笑み、上目遣いで尋ねた。今夜は男が惹かれる香りと評判のものを、特別に身につけていた。「好きじゃない」奏は淡々と答え、結んだ帯をもう一度しっかり締めた。「洗ってこい」「う、うん……実は私もあんまり好きじゃなかったの」真帆は苦笑して浴室へ向かった。その強い香りのせいだろうか。彼の中の何かが、一気に冷めていくのを感じた。奏はスマホを取り出し、時刻を確認する。まだ早い。彼は寝室を出て、家政婦に酔い覚ましのスープを作らせた。十五分ほどして、真帆がシャワーを終えて戻ってくる。しかし寝室には、もう奏の姿はなかった。真帆は慌てて部屋着を羽織り、外へ出る。ちょうど階段を上ってくる家政婦と出くわした。「奏を見た?」「旦那様は酔い覚ましを書斎に持ってこいと。奥様、ご自分でお持ちになりますか?」「書斎に?どうして……」真帆は小さくつぶやき、スープを受け取って書斎へ向かった。ノックして入ると、デスクのノートパソコンが開いていて、奏はスマホで誰かと話していた。彼は真帆を見るなり通話を切る。「少し仕事がある。先に寝ろ」「うん」真帆はスープをデスクに置き、優しく言う。「これ飲んでね。じゃあ、私は寝室に……」「ゲストルームで寝ろ」彼は淡々と告げる。「明日、病院で検査がある。今夜眠れないと、結果に影響する」「わかったわ。あまり遅くまで起きてないでね。何かあったら呼んで」真帆は微笑み、静かに部屋を出て行った。その笑顔が、彼の脳裏に焼きつく。こんなにも従順で、穏やかで、怒ることを知らない女が本当に存在するのだろうか。彼女はあまりにも完璧で、まるで作られた人形のようだ。湯気を立てるスープの匂いが、現実に引き戻す。彼が真帆を拒んだのは、とわこの言葉のせいではない。医者から「明日、再検査に来るように」と電話があったからだ。酒を飲んだせいで、