ログイン俊平はそう言ってから、大股で病室を出る。病室の外に出た瞬間、少し離れたところに立つ奏の姿が目に入る。彼は窓辺に寄りかかりながら煙草を吸っている。まさか、もう病院に戻ってきていたとは。それなのに、病室には入らなかったようだ。俊平は大股で奏のもとへ向かい、彼の足元のゴミ箱に吸い殻が山のように溜まっているのに気付く。「とわこは無事なのか」俊平が問いかける。「うん。お前が眠っていたから起こさなかった」奏は指に挟んだ煙草をゴミ箱に放り込む。「帰っていい」「俺も戻るつもりだ。真帆が目を覚ましたぞ。君も病室を見てきたほうがいい」奏は薄い唇をきゅっと結び、そのまま大股で病室のほうへ向かう。俊平はエレベーターへと歩いていった。どうしてか、奏からは底知れない怖さを感じる。表情は穏やかに見えるのに、瞳の奥では荒波が渦を巻いているようだ。まるで潜んでいた獣が、いつでも目を覚ましそうな気配がする。一晩が過ぎ、朝になる。とわこは俊平の部屋の前に立ち、インターホンを押す。俊平はすぐに扉を開け、とわこを見るなり中へ招き入れた。「俊平、目が腫れてる。薬をもらいに行ったほうがいい」とわこは彼の顔の傷に思わず息をのむ。「消炎剤を飲んだから大丈夫だよ」俊平は気にも留めない様子で言う。「そうだ、とわこのスマホは俺が預かってたけど、充電が切れてな。俺の充電器じゃ合わなかった」そう言って携帯を返した。「昨日は何時に帰ってきた?」「戻ったのは一時過ぎくらい。だから部屋には寄らなかった。あなたは?」とわこが受け取りながら尋ねる。「三時すぎだよ」俊平は水のボトルを取り、キャップを開けて一口飲む。「昨日は眠すぎて、真帆の病室でそのまま寝てた」「俊平、昨日は本当にありがとう」とわこはほとんど眠れなかったが、意外と元気だった。死にかけた恐怖がまだ体に残っているせいかもしれない。「最初は一度奢ってもらうだけで帳消しにするつもりだったけど、あれだけのことがあったなら二回は奢ってもらわないとな」俊平はボトルを置く。「朝ごはんまだだろ。一緒に行こう」「うん。朝ごはんのあと、眼鏡も買い替えに行こうね」「そうしよう。ああ、そうだ。スマホ、電源が落ちる直前に一本着信があった。誰からかは見えなかった。大事な用かもしれないから、部屋に戻っ
一郎が桜を館山エリアの別荘に送った時、蓮はちょうど出かける準備をしていた。彼は今日の午後三時の便でY国へ飛ぶ予定だった。けれど桜が戻ってきたことで、その予定は狂ってしまう。「蓮、ごめん。叔母さんに悪いことをした」一郎は蓮に頭を下げる。「もう僕の家にいたくないって言うから、ここに連れてきた。夜になったらとわこに事情を話しておく」蓮は桜に視線を向ける。彼女の目は泣き腫らして真っ赤で、ひどく傷ついたような顔をしている。うつむいたまま、荷物を持って以前使っていた客室へ向かって歩いていく。「子どもがいなくなった」桜が離れていったあと、一郎は蓮に告げる。「前に僕の隣に住んでた子がやった」蓮はその言葉に、聞く気をなくす。「もう帰って。顔も見たくない」一郎はひどく後悔している表情を浮かべ、何か言いたげに口を開くが、結局なにも言えない。何を言っても無駄だと分かっていた。一郎が帰ったあと、蓮は自分の部屋へ行き、リュックを置いた。リビングに戻ると、三浦が声をかける。「レラのところへ行くんじゃなかったの?大丈夫よ、あなたは行ってきて。おばさんのことは私が見るからね」レラは涼太に連れられてイベントに参加していた。蓮はレラと約束していた。レラには表向きの嘘をついてもらい、自分はこっそりY国へ行ってとわこに会う。レラは快く協力してくれた。「明日行くよ」蓮はそう言い、桜の部屋の方へ歩いていく。蓮は奏のことが好きではない。けれど、奏と桜は兄妹であっても全く違う人間だということは分かっている。桜の身に起きたことには同情していた。だからこそ、少しでも力になりたいと思っていた。ちょうど蓮がノックしようとした時、桜が内側からドアを開けた。「蓮、あの人帰った?」「うん」「私、子どもがいなくなったの」桜は突然蓮に抱きつく。「すごく悲しい。でも今の私が産んでも、みんなに迷惑をかけるだけだと思うと、そこまでじゃなくなるの。どうしたらいいのか分からないの。とわこみたいに強い人になりたい」蓮はそっと彼女を引き離す。「俺が助ける」少し間を置いてから続ける。「でも、アメリカに行くよ」桜は迷いなく頷いた。Y国。真帆は夜中に目を覚まし、横を見ると男が机に突っ伏して眠っていた。ぼんやりした意識の中で、彼女はそれを奏だと思い、か
とわこは三郎のそばまで歩き、きっぱりと言う。「少なくとも、奏にきちんと話をしてもらわないと帰れないです」「お前らの事情なんて知るかよ」三郎は彼女の頑固な様子に頭を抱える。「口ではそう言っても、ほんとは優しい人です。奏も同じです」とわこの胸の奥に、わずかな光が差し込む。さらわれて屈辱を味わったけれど、奏の気持ちははっきり分かった。もし彼がまるで彼女に情がなかったなら、わざわざ三郎に頭を下げに来るはずがない。「甘ったるいこと言いやがって、恥ずかしくないのか」三郎は顔を赤くし、足早にリビングを出ていく。三郎のボディーガードはとわこをホテルまで送り届け、そのまま去った。とわこがエレベーターへ向かうと、彼女のボディーガードがすぐに駆け寄り、肩をぽんと叩く。「社長、やっと戻ってきたんですね。菊丸さんから電話があって、さらわれたって聞いて、こっちは気が気じゃなかったんですよ」ここはY国で、ボディーガードには土地勘もコネもない。なにも情報が得られず、ホテルのロビーで待つしかなかった。「今日あなたに休みなんてあげるべきじゃなかった」とわこはエレベーターの開ボタンを押した。まだ胸の鼓動が落ち着かない。「大貴が本当に横暴すぎて、道端でいきなり私をさらったのよ」「ここは高橋家の縄張りですからね。そりゃやりたい放題しますよ。無事戻ってきてくれてよかったです。マイクさんになんて説明すればいいか分からないし、子ども二人のことも……で、誰が助けたんです?」「奏」「やっぱり。あの人以外、そんな真似できませんよ。菊丸さんから電話が来たとき、泣きそうでしたからね」ボディーガードはため息をつく。「でもあの人、義理堅いですよ」「俊平は今どこ?」とわこが聞く。「分かりません。あの時は、奏さんを探しに行くって言ってました。今は奏さんがあなたを救い出したんだから、部屋に戻って休んでるんじゃないですか。電話してみたらどうです?」「スマホ、なくしたの」とわこは両手を広げる。「拾ってくれたかどうかも分からない」「じゃあ明日部屋に行ってみましょう。今はもう遅いですよ」ボディーガードが時間を見て言う。「もうすぐ一時です」「うん」日本。一郎は桜を病院へ連れて行き、エコー検査を受けさせた。結果は、彼女の体内からすでに胎嚢がなくなっているというものだ
豪邸の中で、三郎は奏を一瞥し、電話の向こうへ落ち着いた声で返事をする。「どうした。とわこに何かされでもしたのか」大貴はまるで虫を飲み込んだような顔で言葉に詰まる。「今とわこと……どういう関係なんですか」「今日は彼女を俺の代わりに真帆の誕生日パーティーへ行かせたろ。そんな質問してる暇があるのか」三郎の声には苛立ちが滲む。「で、どうなんだ。とわこはお前に何かしたのか」「いや……別に何も。ただ今日はヨットで、彼女と奏がああいうことを……それを父さんが知ったんです。父さんが怒ってて、俺もまあその……」「お前に怒る資格があるのか。真帆に銃を撃ったのは誰だ」三郎は容赦なく言い放つ。「それに、奏ととわこのことは知ってる。二人は三人の子までいるんだ。ああいうことして何が悪い」大貴「?」叱られたことよりもつらいのは、三郎が知った上でそれを受け止めていて、しかも当然のように話していることだ。世の中どうなってるんだ。彼の知っている三郎はこんな人物ではなかったはずだ。「三郎おじさん、奏にバレたら揉めませんか」「お前には関係ない」三郎は冷たく言い捨て、再び奏に目を向ける。「それに、奏はとっくに知っているかもしれないだろ」大貴「……」頭が割れそうだ。まさか三郎と奏が、とわこを共有しているなんて。「わかりました!すぐに彼女を連れて行きます!父さんは彼女に少し仕置きしろと言ったけど、安心してください、まだ何もしてません」「親父の方がもう駄目になってるみたいだな」三郎は皮肉を言って電話を切った。携帯を机に置き、三郎はゆっくりと奏に話しかける。「とわこは無事だ。ただ、夜中にここまで来て頼むなんて、まだ彼女のことを忘れてないんだな」「それは重要じゃない」奏は表情を崩さず答えるが、胸の奥で静かに安堵していた。「もう遅いので、これで失礼」「大貴がすぐにとわこをここへ連れて来ると言っていた。待たないのか」三郎は手の中で胡桃を転がしている。奏は首を横に振り、そのまま静かな夜へと歩き去った。半時間後、大貴はとわこを三郎の前へと連れて来た。大貴は彼女に新しい服を買い、髪も整えさせていた。泣き腫らした目元を除けば、特に乱れはない。「三郎おじさん、とわこをお連れしました。俺は彼女に触れてません。今日はもう遅いので、失礼します」大
「そうか、そう言うなら安心した」俊平は大きく息を吐き出した。「お前は見てないから分からないだろうけど、あの黒服の男、めちゃくちゃ凶暴だったんだ!俺の眼鏡なんて粉々だぞ」奏は彼の腫れた目元を一瞥した瞬間、とわこが今、どれほど恐ろしい状況にいるかが脳裏に鮮明に浮かんだ。拳が勝手に握り締められる。そして彼は一言も言わず、病室の外へ向かって歩き出す。「おい、どこ行くんだ?」俊平は慌てて追いかける。「タバコだ」奏は言った。「吸うか?」「俺、そんなに吸えないんだけど」俊平は断ろうとした。しかし胸の奥に積もった焦りと苛立ちに押され、言い直す。「吸う」少しして、ボディーガードが買ってきたタバコとライターを奏に渡す。二人は喫煙スペースへ向かい、それぞれ一本に火をつける。白い煙が夜の空間にゆっくりと溶けていった。「奏、本当にとわこのこと、全部忘れたのか?ボディーガードが言ってた。お前たち、昔はすごく愛し合ってたって」俊平はぽつりと呟く。「今日、あいつのボディーガードはついてなかったのか?」奏が問い返す。「ついてない。今日は真帆の誕生日パーティーだろ?三郎が車を手配して送り出したから、とわこはボディーガードに休みをやったんだ」そこまで話して、俊平はまた自分を責めるように顔を歪める。「俺がもっと強けりゃ!もしボディーガードがいれば、拉致なんてされなかった!」その言葉がまるで稲妻のように、奏の脳を切り裂いた。奏はタバコをその場で靴底に押し付け、即座にスマホを取り出し、三郎へ電話をかける。廃工場。とわこの衣服は大貴によって無残に引き裂かれていた。屈辱と恐怖が胸を締め付ける中、彼女は渾身の力で大貴の頬を叩きつける。「大貴、私に手を出せないわ。だって……」彼女の目は屈辱の涙でいっぱいだったが、言いかけて言葉を飲み込んだ。剛は奏なんてまったく怖くなかった。だから彼女は別の方法を考え出すしかなかった。大貴は頬を押さえ、怒りに沸騰しながら吐き捨てる。「ああ?俺に逆らった奴は死ぬんだよ!」「私は柳瀬三郎の女よ、この名前、聞き覚えがあるでしょ?あなたの父の義弟で、奏の義兄でもある方よ!あなたが三郎おじさんと呼ぶべき人よ!」とわこは大声で叫んだ。大貴の動きが、ぴたりと止まる。「お前が柳瀬三郎の女?まさか?」大貴は笑い話
剛の言葉は今夜の拉致事件をほとんど自分が仕組んだことを認めるようなものだった。「とわこを渡してくれればすぐにY国から追い出します」奏は剛を刺激しないよう言葉を選ぶ。今、とわこは剛の手にあり、どんな仕打ちを受けるか分からない。「いいだろう。ただし明日にしよう。今夜はだめだ」剛は奏を見つめて冷たく言う。「女に手を出すのはやめたって、お前は言っていたな。心配するな、死なせはしない。それなら安心して休めるだろう」奏は剛の言葉に危険を感じた。「なぜ今夜はだめなのですか」「大貴はお前が今日、真帆の誕生パーティーで彼女としたことを知って怒っている。だから少し懲らしめてやろうと思っただけだ」剛は続ける。「大貴には命を奪うなと指示した。だから大貴はせいぜい『遊ぶ』だけだ。今彼女はお前の妻でもない。他の男が相手にするのは当たり前だろう」奏の額に血管が浮き、拳が強く握られる。「今夜は俺が悪かったです。怒るなら俺を罰してください。とわこを解放してください」奏は顎を引き締め、二秒ためらってから片膝をつく。「彼女は子どもたちの母親です。辱められてほしくないんです」「お前の子が三人だと?そのうち二人はお前の苗字を名乗っていないじゃないか」剛はからかうように言う。「後で日本に戻ったら子どもの苗字を変えられます」奏は言葉を返す。「だからとわこが嬉しく大貴と関係を持つかも」剛は目を細め冷たく叱責する。剛は奏がとわこのためにひざまずいたことが信じられなかった。どうして彼女のことを心に留めていないと言えるのかと剛は思う。「本人に会って確かめさせてください。もし自分の意思でやったと言うなら、俺は二度と口を出しません」奏は頼む。「奏、お前は真帆よりもとわこに執着している」剛は冷酷に言う。「たとえ真帆がお前を守るために弾丸をかばってくれたとしても、お前の心には元妻が残っている。もし俺が彼女を放っておかなければ、お前は真帆にもっと冷たくなるだろう。ここはY国だ。ここは俺の縄張りだ。お前が俺を憎むことになっても構わない。だが逆らうとどうなるか思い知らせる」剛は冷たく言い放つと椅子から立ち上がる。「休みたくないならここで真帆のそばを守っていろ」言い終えると剛は病室を大股で出て行った。奏は立ち上がり、閉ざされた病室の扉を見つめながら歯を食いしばる。