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第1052話

Author: 佐藤 月汐夜
桃は一歩一歩、森の奥へと踏み込んでいった。今はまだ午後のはずだったが、木々が自然のまま高く生い茂っているせいで、あたりは薄暗く、どこか言いようのない不気味さが漂っていた。太陽の光も、枝葉にさえぎられ、地面に届くのはごくわずかだった。

そのため、数歩進んだだけで、桃の身体にはぞくりとするような冷気がまとわりつき、無意識に身をすくませる。

桃はハイキングの経験もなくて、そんな不安を抱えながらも、遠くにそびえるあの別荘だけが、彼女に進むべき方向を示してくれていた。

とにかく、あの別荘に向かって進めばいい――それだけを心の支えにしていた。

桃の小さな背中は、森の暗がりに少しずつ吸い込まれていき、やがてその姿もほとんど見えなくなった。佐俊はついに奥歯を噛みしめ、彼女のあとを追って走り出した。

このまま桃がこの森の中で命を落としたなら、たとえ自分が無事にここを出たとしても、一生、人を殺したという罪悪感に苛まれ続けるだろう。

自分はもう、十分すぎるほどの罪を犯した。それでも……それでも、彼女が目の前で死ぬのを、黙って見ていることだけはできない。

たとえ、彼女が自分を必要としていなくても。

しばらく歩いたころ、背後から足音が聞こえ、桃は反射的に身構えた。咄嗟に手近な太い枝を拾い上げ、振り向きざまに構えると――そこにいたのは佐俊だった。彼の姿を見た桃の顔には、戸惑いの色が浮かんだ。

「……なんでついてくるの?」

「君一人じゃ、心配だから」

その言葉に、桃はあきれ果てたように笑いを漏らした。

「今さらいい人のふり?この期に及んで、また私を騙すつもり?もう私には、そんな価値もないはずだけど?」

冷たい皮肉が口を突いたが、佐俊は無言のまま、ただ彼女の背後を黙々と歩き続けた。

そんな彼の態度に、桃はますます苛立ちを覚える。そんな図々しい相手には、どんなに強く当たってもまるで響かない感じだった。

まあ、ついてきたければついてくればいい。私には関係ない。目的はただ一つ、雅彦にもう一度、子どもたちのことを考え直してもらうことだけ。

そう割り切ることにして、彼女は黙って歩を速めた。

佐俊は距離を保ちつつ、黙って後を追い続けた。

どれほど歩いただろうか――空は次第に暗くなり、気づけば、桃は森の奥深くまで進んでいた。

夜の森というだけでも十分に不安を掻き立てるのに、
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