太郎は、その食事の席にまったく行く気がなかった。雅彦とあの女が仲良くしている姿を見て、どうして食欲など湧くものか。ちょうど「行きたくない」と言い出そうとしたそのとき、翔吾が突然口を開いた。「僕たち、いったん着替えに戻ろう。すぐに下に降りるから」使用人たちは、ふたりが気難しい性格だと日頃から理解していたため、食事を拒否して面倒を起こすのではないかと心配していた。しかし、意外にも二人は断らなかった。そこで使用人はすぐに頷き、「それでは、先に下へ降りておりますね」と言った。翔吾も軽く頷き、使用人が去ったのを見届けると、太郎の腕を掴んで部屋へ戻った。太郎には、翔吾の意図がよく分からなかった。そもそも莉子に好感など一切ないし、あんな女と同じ席で食事などしたくなかった。それに、あの女が現れる前は、パパとママはまだ仲が良かったのに、彼女が来てから二人の間に争いが生まれたのだ。そのせいで今では家族がバラバラだ。温かな家庭だったはずが、莉子のせいで壊れてしまった――太郎はどうしてもそれを許せなかった。「本当に行くの?あんな女、見たくないよ……」「僕だって好きじゃない。でも、あいつがここに来た理由、考えたことある?」何のために?太郎は少し考えて答えた。「顔を見れば分かる。あの女、菊池家に嫁ごうとしてるんだ」「そうだ。だから放っておけないんだ。パパとママの争いは全部あいつが原因だ。僕たちは無理やりママと引き離されたのに、あいつは平然と菊池家に入り込んでいる。そんなの、絶対に許せないよ」太郎も考えてみれば確かにその通りだった。あの女は自分の家を壊した張本人だ。そんな彼女が幸せそうに暮らしているのを黙って見ているなんて、何よりも耐えがたい。「これからこうしよう……」翔吾は太郎の耳元で小声で何やら告げ、ふたりは相談を終えると、そろって階下へ向かった。食卓に着くと、大人たちはすでに席に着いていた。美穂は年長者として主座に座り、雅彦は美穂に言われるまま、莉子の隣に座らされていた。翔吾は太郎を連れて席へ向かい、その光景を目にして思わず顔をしかめた。あまりにもあからさまだ。パパとママが別れて、まだそう時間も経っていないのに、あの女はもう自分の立場を築こうとしている。今日わざわざ自分たちを呼んだのも、きっとあの女を受け入れさせるためだろう。
美穂が話し終えると、莉子はすぐに雅彦をかばうように口を開いた。「おばさん、私は大丈夫です。雅彦にはせっかく帰国したんですから、もっとおばさんと子どもたちと一緒に過ごしてほしいし、それに会社のほうも忙しいから、無理しなくていいですよ」美穂はそんな莉子の態度にますます好感を抱いた。菊池家の権勢は、もはや単なる政略結婚を必要とする段階ではなく、たとえ良家の令嬢を見つけたとしても、飾りに過ぎないだろう。これまでも探したことはあったが、あまり良い成果はなかった。甘やかされて育った令嬢たちはどうしてもわがままなところがあり、莉子のように常識をわきまえた女性は珍しかった。だからこそ、未来の嫁候補として、莉子には一層の満足を感じていたのだ。美穂は仕方なさそうに首を振り、雅彦の腕を掴んで軽くつねった。「彼女はああ言っているけれど、あなたはそう簡単に言うことを聞いちゃだめよ。菊池家が恩ある方を無視するような薄情な家だなんて噂は、絶対に聞きたくないから」雅彦は今、このことに思いを巡らせる余裕もなく、ただ形ばかりに返事をしただけだった。美穂はそんな彼の様子にため息をついたが、こういうことは急いでも仕方がないと割り切り、言葉を続けなかった。「さあ、早くご飯を食べに行きましょう。遅くなると料理が冷めてしまうわ」そう言うと、美穂は雅彦を軽く押し、莉子を車椅子ごと食卓へと向かわせた。莉子は恥ずかしそうにうつむいて、「私、一人で行けますから」と言ったが、「いいよ、俺が押すから」と雅彦は気にせず答えた。莉子が今は不自由なだけで、たとえ他人でも手助けをするのは当然だと思っていた。ましてや、長年の知り合いなのだから。雅彦はそのままゆっくりと車椅子を押し進めた。美穂は使用人に指示して、翔吾と太郎を下に呼んできてもらった。二人の子どもは戻ると、菊池家の本邸で主人の部屋を除く一番良い部屋に案内された。子どもたちの好きなおもちゃや漫画本が揃い、広い部屋は高価な品物であふれていた。それだけ彼らの生活が裕福であることがわかる。美穂の考えはシンプルだった。まだ幼い二人は母親のことを恋しがるだろうが、時間が経てば記憶は薄れていく。自分が二人にずっと優しく接していれば、菊池家に戻ることがどれほど幸せなことか、自然と感じてもらえるはずだ。今回莉子を呼んだのも、二人に顔を
桃は莉子に対して全く良い印象を抱いていなかった。あの女は、見た目以上にずっと恐ろしい存在だった。もし本当に雅彦と一緒になったら、実の子どもでもないあの二人を可愛がるはずがない。けれど、今の自分にとって、この別荘に一時的に身を寄せているだけでも、十分すぎるほどの贅沢だ。そんな状況で、あの子たちを助けるなんて、叶わぬ夢にすぎない。そう思った瞬間、桃はどうしようもない無力感に襲われた。……一方そのころ。菊池家の本邸では、美穂と莉子が穏やかに言葉を交わしていた。海の姿もあったが、女性同士の会話には興味がなかったのか、外のバルコニーでひとり煙草をふかしていた。しばらく雑談を続けたあと、美穂はふと話題を変えた。ずっと胸に引っかかっていたことを、ようやく口にする。「莉子、脚の具合はどう?何か困ってることがあれば、遠慮なくおばさんに言ってちょうだい。できる限りのことはするつもりよ」それは、美穂の本心からの言葉だった。というのも、莉子が怪我を負ったのは、自分の息子が原因――そう思えば、情としても筋としても、見て見ぬふりはできなかった。ただ、言葉の裏には別の意味も含まれていた。もし莉子の脚がこのまま完全に治らないとなれば、美穂としては、彼女を息子の嫁として迎えるつもりはなかったのだ。雅彦ほどの立場にある人間なら、たとえ離婚歴があっても、名家の娘たちがこぞって嫁ぎたいと申し出てくるに決まっている。そんな中で、わざわざ障がいを抱えた女性を選ぶ理由があるだろうか。母親として、息子にはやはり幸せな未来を歩んでほしい――それが、美穂の正直な気持ちだった。莉子は、そうした思惑にとっくに気づいていた。頭の回る彼女には、美穂の言葉の裏にある本音など、とうに見抜けていた――表面上は心配しているふうに装ってるけど、内心じゃ冷めきってるのね。だが、莉子は取り乱すことなく、冷静だった。そもそも「歩けない」というのはすべて演技なのだから、何の問題もない。さまざまな思いを胸の奥で整理しながら、莉子は柔らかな笑みを浮かべて答えた。「おばさん、ご心配には及びません。帰国後すぐに治療を受けて、だいぶ良くなってきました。お医者様もおっしゃってましたが、もう少しで歩けるようになると思います。リハビリをきちんと続ければ、来年には普通に戻れる可能性もあるそうです」
桃は、画面の中で眠る母の姿を、じっと見つめていた。遠くから見ているだけで、声も届かず、姿も見せられなくても、母が穏やかに眠っている、その姿を見ているだけで、胸の奥でざわめいていた感情が、すっと静まっていく気がした。だがその静けさを破るように、突然、けたたましい着信音が鳴り響いた。画面に浮かんだ名前――莉子。その瞬間、ようやく落ち着きかけていた桃の心に、小さな石が投げ込まれたような波紋が広がった。もうとっくに雅彦のことなんて気にしていない――そう思っていた。だから彼の周りにいる莉子のような人のことなんかで、心が揺れるはずもないと、そう思っていたのに。ただその名前を見ただけで、胸の奥がちくりと痛んだ。それでも桃は、何事もなかったような顔で、携帯を雅彦に差し出す。「電話かかってきてるよ。出たら?」雅彦はそれを手に取り、一瞥すると莉子だと分かり、眉をひそめた。しかし、今日は彼女と食事をする約束がすでにあったため、雅彦は電話に出るために部屋を出て行った。莉子の優しい声が聞こえてきた。「雅彦、今どこにいるの?おばさんが、もし帰ってこなかったら、シェフがわざわざ作ったあなたの大好物の料理が冷めちゃうって言ってたよ」「すぐ戻るよ」そう答えた雅彦の表情は険しいままだったが、約束を破ることもできず、返事をした。電話を切って部屋に戻ると、桃はベッドに背を向けて横になっていた。布団をかぶっていて、何を思っているのかはわからない。しばし黙ったあと、雅彦は心音に桃の様子をよく見て、体調に気を配るように伝え、部屋を出ていった。人が出ていった気配を感じてから、桃はようやく目を開け、そっと腕を動かした。彼女が眠っていないことに気づいた心音はそばに寄り、体温を測る。異常がないのを確認してから、声を潜めて言った。「桃さん、ここにまだしばらく滞在されるのでしたら、雅彦様と敵対しても得はありません。あの方の心をつかまなければ、目的は果たせませんよ」この数日一緒に過ごす中で、心音は桃に悪い印象をまったく抱いていなかった。むしろ、彼女はこの家に無理やり留められているように見えるのに、使用人たちに八つ当たりすることもなく、いつも穏やかに接してくれる。そういう人は、自然と好かれるものだ。桃は、かすかに口元をほころばせたが、その笑みにも似た表情の中には、どこかほろ苦
桃は食事を終えると、空になったお椀をそっと雅彦に見せ、ちゃんと全部食べたことを無言でアピールした。おとなしくしているのだから、あまり無理は言わないでほしい――そんな気持ちも込めて。雅彦に、それが伝わらないはずがなかった。だが、言葉ではなく行動で気持ちを示そうとする桃の様子が、なぜか彼を苛立たせた。しばらくして、桃がふと思い出したように口を開いた。「……お母さんに、会わせてもらえる?ここに閉じ込められてから、ずっと様子もわからないの。せめて、今どうしているのかだけでも知りたい」雅彦は少し黙ったあと、静かに言った。「会えるかどうかは、君の態度次第だ。さっきみたいなやり方じゃ、『特に問題はないよ。体調も安定してる』って伝えるだけだな」桃は拳をぎゅっと握った。この人、いったい何がしたいんだろう。自分はできるだけ逆らわず、大人しくしているつもりなのに、それでもまだ不満なの?「じゃあ、どうすれば……あなたは満足するの?」まっすぐに雅彦の目を見つめながらそう尋ねた。駆け引きなんてしている余裕も気力も、もう残っていない。ただ、答えが欲しかった。雅彦は口元をわずかにゆるめて笑った。彼女が自分のために、必死に正解を探そうとするその姿が――たとえそれが仕方なくであっても――妙に心地よかった。「自分で考えてみな。たとえば、今から俺が外出するとしたら、君はどうする?」桃は唇を噛み、雅彦の様子をじっと観察した。まだネクタイを締めていないし、シャツのボタンも一つ多く開けたままだ。少し考えた末に、桃はおずおずと尋ねた。「……ネクタイ、選んであげればいい?」雅彦は肩をすくめ、肯定とも否定ともつかない反応を見せた。桃はそれを「了承」と受け取り、使用人にネクタイのある場所を尋ねたうえで、今日の服に合いそうな一本を選んで持ってきた。そして彼の前に立ち、つま先でそっと背伸びをして、慎重にネクタイを結び始めた。雅彦は下を向き、黙々と作業する桃の指先をじっと見つめた。胸の奥に、説明のつかない感情がふわりと湧き上がってくる――けれど、それを味わう暇もなく、桃はすでに手際よく結び終えていた。かつて、何度もこうしてネクタイを結んであげたことがあったからだろう。迷いもなく、ほんの数秒で仕上がった。桃が一歩下がって小さな鏡を手渡し、出来栄えを確認させると、ようや
雅彦が素直に耳を傾けている様子を見て、美穂は満足そうにうなずき、それ以上は何も言わずに電話を切った。やはり、あの桃という女さえ雅彦の心を乱さなければ、彼は決して人を失望させるようなことはしない。――幸いなことに、今やその女は、完全に雅彦の生活から姿を消していた。……部屋の中では、薬を服用してからそう時間も経たないうちに、副作用がじわじわと現れ始めていた。桃は軽いめまいを覚え、まぶたもだんだんと重くなっていく。まだ目覚めたばかりなのに、こんなにすぐ眠くなるなんて――本当は避けたかった。聞きたいことも、まだいくつかあったのに。けれど薬の効果には逆らえず、やがてベッドの端にもたれるようにして、静かに目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。その姿を見たのは、ちょうどドアを開けた瞬間だった。雅彦は、ベッドにもたれて眠る桃の寝顔をじっと見つめた。いつもの刺々しい態度はすっかり消えていて、その顔はまるで天使のように穏やかだった。目元の腫れや、ところどころに残る小さな傷がその美しさをわずかに損ねていたが、かえってそのか弱さを際立たせていた。雅彦は声をかけることもせず、静かに桃のそばへと歩み寄ると、つい無意識に、そっと彼女の頬に手を伸ばしていた。その瞬間、半ば夢の中にいた桃は、誰かの気配を感じ、誰かに抱きしめられていることに気づいた。目を覚まそうと、かすかに身体を動かそうとする。だが、解熱剤に含まれていた睡眠成分が、すでに彼女を深い眠りへと導いており、わずかに眉をひそめるのが精一杯で、完全に目覚めることはできなかった。そのうち、誰かが優しく髪を撫でてくれるのを感じた。その手の感触はどこか懐かしく、けれど少しだけ違和感もあった。桃が再び目を覚ましたのは、翌朝だった。目を開けて間もなく、雅彦が部屋にやってきた。彼はすでに外出用の服に着替えていて、その姿は相変わらず整っていた。どうやら今日は、ここに張りついているつもりはないらしい。そのことに気づいた途端、桃はほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。今の彼女にとって、雅彦の存在はあまりにも大きな重圧だった。できることなら、毎日でも外に出ていてほしい――そうでなければ、彼のそばにいるだけで心がすり減ってしまいそうだった。雅彦は、そんな桃の目をじっと見つめた。昨日と比べれば、表情は明らかに穏やか