雅彦はふいに口角をつり上げて笑い、桃の言ったようにこっそり待つどころか、堂々とこっちへ歩いてきた。「きゃー、こっちに来る!どういうこと?もしかして私たちの中の誰かを気に入ったとか?」雅彦が微笑みながらこちらに向かって歩いてくるのを見て、入社したばかりの女の子たちは一気に盛り上がった。頭の中には、ドラマのような恋の妄想が次から次へと湧いてくる。こんなかっこよくて、仕事もできる男性と恋に落ちたいと、誰だって思うだろう。「今、私に笑ったよね?絶対そうだって!」「何言ってるの、自意識過剰!私に向けてでしょ?」女子たちは、雅彦が誰を狙っているのかで軽い言い合いを始めた。でも、その中に桃の名前は出てこなかった。彼女の左手にはずっと指輪がついてるし、既婚者なのはみんな知ってる。しかも桃がはめているペアリングは、ダイヤなどの豪華な飾りはなく、素材もシンプルなプラチナ。ひと目見ただけで高価とは思えず、同僚たちは彼女の夫もごく平凡で目立たない人物だろうと考えていた。桃本人はそんな噂を気にしていなかった。ただ、雅彦がまっすぐこっちに向かって歩いて来るので、内心すごく焦っていた。「この人、いったい何考えてんの!」こぶしを握りしめながら、心の中では思わずそう叫んでいた。桃が怒っているのを見て、雅彦は可笑しくも愛らしいと感じながら歩み寄り、ドアを開けた。女の子たちが「えっ?」と声を上げる。誰が選ばれたの!?とドキドキしてる中で――あの完璧すぎる男が、桃の目の前に立ち止まり、手を差し出して言った。「うちのプリンセスをお迎えに」その瞬間、会社のロビーがシーンと静まり返った。まるで時間が止まったみたいだった。人々は目の前の桃と雅彦を驚きのまま見つめ、二人の関係が頭で結びつかずにいた。桃は普段から目立たず、服装もシンプルだったため、あの話題の雅彦の奥さんだなんて誰も想像できなかったのだ。それどころか、忙しい菊池グループの会長が、わざわざ迎えに来るなんて、どういうこと!ふつうなら運転手を寄こすだけで済むはずだ。気づけば、羨望と嫉妬と悔しさの視線が一斉に桃へ注がれた。桃は、どうせこうなるだろうと分かっていた。彼女は雅彦をきつく睨んだが、当の本人は気づかぬふりで手を差し出したまま、彼女がその手を取るのを待っている。これだけ人目がある
そう考えると、海が離れることへの寂しさも、少しだけ和らいできた。その後の会議も、思いのほか順調に進み、出席者たちもほっと胸をなで下ろした。心の中では、さっきメッセージを送ってきた正体不明の相手に、感謝をしていた。……会議が終わったあと、雅彦はオフィスに戻った。定時になると、珍しく残業もせず、すぐに会社を出た。菊池グループの社員たちはこの光景を見て、「まさか月が真昼に昇ったんじゃない?」とざわついた。というのも、雅彦といえば仕事人間として有名で、毎日のように社員たちよりも遅くまで残業していたからだ。とはいえ、こういう日があっても悪くない。少なくとも、自分たちも気兼ねなく残業せずに済む。「これからは、ずっとこんなふうに定時退社してくれたらいいのに……」そんな社員たちの心の声など、雅彦は知る由もなく、知ろうともしていなかった。彼は足早に地下駐車場へと向かい、車に乗り込んで、桃の会社へ向かった。10分ほど走ると、車は建物の前に停まった。雅彦はふと顔を上げ、自社のビルとは比べものにならないほど小さなその建物を見つめながら、桃が働くオフィスを探し始めた。だが、しばらく探しても見つからず、思わず苦笑いした。ビルが小さくても、ひとつのオフィスを探すなんて……なんだか子どもじみたことをしているようで、自分らしくないなと可笑しくなった。苦笑しながら、桃に電話をかけた。桃はオフィスの中で座っていた。定時後は彼が来るのを待っていたので、電話が鳴るとすぐに出た。あまりにも早く電話に出てしまって、思わず頬が赤くなる。これじゃまるで、何もせずずっと待っていたみたいじゃないか。けれど、幸い雅彦はそのことには一言も触れず、ただ一言こう言った。「もう着いたよ、桃。下にいる」「わかった、すぐ降りるね」桃がそう答えて、窓から外をのぞくと、案の定、雅彦の見慣れた車が停まっていた。ちょうど彼が車を降りたところで、タバコを吸っていた。視線もこちらに向いていたので、桃は手を振った。彼もそれに気づき、軽く手を振り返してくれた。それを見て、桃は「待たせたくない」と思い、急いで階段を駆け下りた。ビルの1階まで来ると、同僚たちが雅彦のほうを見ながら、あれこれと噂していた。「えっ、あれって、うちのスポンサーじゃない?どうしてここに?」「社長と何
こんなふうにほのめかされれば、美穂にもすべてが見えてきた。彼女は力強く電話を切ると、すぐさま桃にかけ直した。桃はぼんやりしていた。スマホが再び鳴ったのを見て、慌てて確認すると、菊池家の本宅からだった。一瞬、強い抵抗感を覚えた。菊池家に関して、彼女にはあまりいい思い出がない。必要がない限り、なるべく関わりたくなかった。桃はスマホをサイレントにして、美穂の電話を無視した。美穂は怒りで今にも爆発しそうだった。何度もかけ直してくる彼女に、桃もさすがに「何かあるのかも」と思い、電話に出ることにした。「こんにちは。何かご用ですか?」桃の声は冷たく、よそよそしかった。「桃!またあなたのせいでしょ!海まであなたに追い出されたのに、よくもまあそんな態度でいられるわね!」桃は一瞬言葉を失い、眉をひそめた。海?彼が追い出された?どこへ?桃が雅彦と出会って以来、海はずっと彼の側にいた。彼が去るなんて、まったく想像がつかなかった。けれど、何があったかは気になっても、こんな理不尽な言いがかりをそのまま飲み込む気にはなれなかった。「何のことか分かりません。海さんには彼自身の考えがあるはずです。私に無理やり責任を押しつけないでください」「責任を押しつけるですって?莉子を国外にいさせないよう雅彦に言ったのはあなたでしょ?莉子のことを心配して、海も一緒に帰国せざるを得なかったのよ!私が間違ってるとでも?」美穂は桃の落ち着いた声に、ますます腹が立った。まるで拳を振り上げたのに、柔らかい布に吸い込まれたような……どうにもならない不快感だった。この感覚、桃にしか与えられない。普通の人間ならもっと空気を読むものだ。「……」桃はようやく、美穂がなぜこんなに怒って電話をかけてきたのかを察した。なるほど、本当に莉子を帰国させたんだ。しかも、そのことで海との関係にもヒビが入った。さっき雅彦から電話があったのも、そのせいか――彼、きっと辛かったに違いない。でも、自分には何も言わなかった。桃の胸の内に、複雑な気持ちが湧き上がった。莉子の存在がずっと心の奥に引っかかっていたのに、その棘が、いつの間にかスッと消えていた。「ちょっと!聞いてるの?」美穂はさらにヒートアップし、声を荒げた。もはや、いつもの上品な奥様の姿はそこにはなかった。「こ
「何かあったの?」桃はそっと尋ねた。そして心の中では、自嘲気味に思っていた——もしかして莉子の容態が良くないから、彼がこんなに落ち込んでいるのでは……と。「いや、何も。全部うまくいってるよ」雅彦の声は淡々としていた。それ以上、桃は何も聞かなかった。二人はそれぞれスマホを持ったまま、お互いの静かで穏やかな呼吸音を聞いていた。しばらく前の喧嘩や不快な出来事など、まるで忘れてしまったかのように感じられた。誰も何も話さなかったけれど、この静寂こそが、桃と雅彦にとって心を癒す安らぎの時間となった。どれくらい時間が過ぎたのかわからない頃、雅彦のオフィスの扉がノックされた。「社長、このあと会議があります……」「わかった、すぐ行く」雅彦は軽く頷いた。すると電話の向こうから桃の声が聞こえた。「会議があるなら、早く行って」「うん、今夜、迎えに行くよ」そう言うと、桃の返事を待たずに電話を切った。もし彼女に断られたらどうしよう……そんな思いがよぎって、彼は慌てて電話を切った自分に苦笑した。——いつから自分にも、こんな臆病な一面が出てきたんだろうか。雅彦が迎えに来てくれると知って、桃は頬に手を当てながら考え込んだ。彼、もう莉子のそばにいないの?以前言っていたことは、ただのごまかしじゃなかったの?考えれば考えるほど、頭の中が混乱してきた。桃は頬を軽く叩いて、もう考えないことに決めた。……一方、海は仕事の引き継ぎに追われ、休む暇もないほど忙しかった。そんなとき、電話が鳴った。電話の相手は菊池家の本宅からだった。美穂も海が辞職するという話を聞いていた。当然、簡単には受け入れられなかった。雅彦が一人で海外にいるというだけでも心配なのに、莉子は怪我で療養中、海まで帰国してしまったら、息子は完全に孤立無援になってしまう。もちろん、雅彦の能力は信頼している。けれど、母親としてはどうしても不安だった。海もその覚悟はできていて、電話に出ると、莉子の看病のために辞職して帰国する旨を伝えた。もう決めたことだったし、引き留められるつもりもなかった。莉子が雅彦をかばって銃弾に倒れたこともあり、美穂は文句を言える立場ではなかった。けれど、やはり莉子に対して少し苛立ちを感じてしまった。最初は、莉子が雅彦のそばにいることを全面的に支持していた。しかし、
雅彦の決断を知り、海もまた、一抹の寂しさを覚えた。自由に人を連れて行かせるということは、これまで長年かけて育ててきた部下たちも一緒に連れて行けるということだ。そうなれば、自分の会社を立ち上げるにあたって大きな助けとなる。そしてそれは同時に、雅彦が彼をどれほど信頼しているかの証でもあった。彼は、海がたとえ離れても、決して菊池グループに損害を与えたり、裏切るような真似はしないと信じていたのだ。どういうわけか、海の目頭が熱くなった。けれど、ここまで来てしまえば、もう言うべきことも残っていない。「雅彦様、くれぐれも、お身体を大切に」そう言い残し、海はそのまま退室すると、仕事の引き継ぎに向かった。どれだけ離れたくても、やるべきことをきちんと終えてからでないと気が済まなかった。雅彦は、本当は最後にもう少し莉子のそばにいたいと思っていた。だが、雨織はそれをまったく受け入れず、冷たい言葉を投げかけて、バタンとドアを閉めて彼を追い出した。彼もまた、無理に居座るような性格ではない。そのまま会社へと戻った。すると、海が忙しそうに仕事を引き継いでいる姿が目に入った。周囲の社員たちも、皆驚いていた。海は菊池グループのベテラン、雅彦が最も信頼を寄せる部下だった。そんな彼が辞めるとなれば、不安に思う者が出てくるのも当然だった。「私はちょっと国内で個人的な用事があって戻るだけです。会社に問題があるわけじゃありませんから、心配しないでください」そう言って、海は社員たちの不安を和らげようと努めた。「でも……海さんがいなくなるのは寂しいです」その言葉は、皆の本音だった。海は位こそ高いが、とても話しやすい人柄で、時には雅彦が怒っている場面でも、海がうまく取り成してくれるおかげで、他の社員たちは何度もその怒りの矛先から逃れられていた。雅彦はその光景を見て、思わず頭を振りながらも、ふと考え込んだ。そして、桃に電話をかけた。なぜか分からないが、こんな時には、彼女の声が聞きたくなる。何があっても、彼女がそばにいてくれる限り、自分は安心していられる――そう思った。桃は今、手元の企画書を見ながら、内容の細かい修正をしていた。スマホが鳴って、思考を中断された彼女は、眉をひそめた。画面を見ると、電話の相手は雅彦だった。この時間に電話……何かあったのだろうか?
雅彦がそう言い終えると、雨織もちょうど医者を連れて戻ってきた。医者は莉子の不安定な様子を見て、急いで鎮静剤を打った。莉子はだんだんと眠りに落ちていった。医者は彼女の脚がまだ麻痺しているのかと思って確認したが、そうではないと知ると、眉をひそめて言った。「この患者さんは、まず情緒を安定させないといけません。手術は成功しましたが、これは長い道のりのほんの第一歩にすぎません。これからリハビリを続けなければ、正常に歩けるようにはなりません」「先生、分かりました」海はうなずいて、医師の言葉をしっかりとメモした後、医者を外まで見送った。雨織はすかさず口を開いた。「お姉さんももう大丈夫みたいだし、雅彦様、あなたはもう戻ったほうがいいんじゃない?桃さんにまた何か勘違いされても困るし。ね?」莉子がここまでしても報われないことに、雨織は本当にやりきれない気持ちだった。こんな男、お姉さんにはふさわしくない。そんな器の小さい嫉妬深い女とでも、勝手に一緒にいればいい。雅彦は雨織の目に宿る怒りの色を見て、言葉を失った。もし自分が逆の立場だったら、きっと同じように感じただろう。「これまで、本当にありがとう。莉子の看病のために、たくさんの時間を無駄にさせてしまった。仕事探しもまともにできなかっただろう。帰国したら、俺が適した職場を用意してあげるから……」雨織の態度は冷たかったが、それでも彼女が莉子の世話をしてくれたことには心から感謝していた。彼と海が抱える重荷を、彼女は多く肩代わりしてくれた。職を用意するというのは、その感謝の気持ちの一つでもあった。しかし、雨織が返事をするより先に、海が代わりに断った。「お気遣いなく、雅彦様。彼女は、あなたの用意した職場には向かないと思います。私は帰国後、独立して仕事を始めようと考えています。彼女が一緒に来れば、いろいろと学べることもありますから」その言葉を聞いて、雅彦は思わず拳を握りしめた。顔を上げると、海の目には一切の感情もなく、冷え切っていた。形式上は自分の部下である海——長年、共に困難を乗り越えてきた彼を、雅彦はすでに兄弟だと思っていた。そんな彼が、今はもう去ろうとしている。自分が事故で植物人間になったときも、最後までそばを離れなかった男が、今やもう、二度と自分を支える意思がないのだ。雅彦は、胸にぽ