LOGINそれから兄は毎日、昔の私の部屋にこもるようになった。何度も謝り、後悔の言葉を繰り返す。「ごめん……俺が間違ってた」昔の私なら、夢に見るほど聞きたかった言葉だった。でも今ではもう聞き飽きるほどだった。三か月後、裁判の結果が出た。警察は当時私を襲った男を突き止めた。男は犯行を認め、懲役20年の判決を受けた。そして真奈もまた、犯行を指示した罪で無期懲役を言い渡された。だが直哉はそれでも納得しなかった。誰にも知らせずに刃物を用意し、真奈のいる場所へ押しかけた。そして何も言わず、その刃を真奈の胸に突き立てた。宙に浮かんでいた私は、思わず口元を押さえた。真奈の顔から血の気が引く。信じられないという顔で、直哉の手をつかんだ。「お兄ちゃん……正気なの?紗良のために……人殺しまでするの?私、もう無期懲役なんだよ……そこまでする意味あるの?」直哉は苦しむ真奈を冷たい目で見下ろした。「無期懲役じゃ軽すぎる。足りない。全然、足りないんだよ。お前は死ぬべきだ」やがて真奈は力を失い、その場に倒れ込んだ。もう動くことはなかった。直哉はその姿を見つめながら笑った。長い間、壊れたように笑い続けていた。やがて目から涙を流しながら、ぽつりと呟いた。「紗良……真奈を家に連れてきたことが、俺の人生で一番の間違いだった。でももう大丈夫だ。お兄ちゃんが……仇を取ったから」兄は壊れてしまった。私はそう確信した。なぜか胸の奥が締めつけられた。そんな兄を見ていると、息苦しいほど胸が重くなった。昔は本当に願っていた。兄に私の味方をしてほしかった。真奈を家から追い出して、私の手を握って、これからはずっと守ると言ってほしかった。でも、まさか、人を殺してほしかったわけじゃない。直哉はその場に座り込むと、妙に落ち着いた様子でスマートフォンを取り出し、由衣へ電話をかけた。由衣は出るなり苛立った声を上げた。「何?もう連絡してこないでって言ったでしょ!」直哉は淡々と答えた。「会社の株は、秘書に頼んで全部お前へ譲る手続きをした。昔、紗良を引き取ってくれたことへの礼だ。この五年間、本当に苦労をかけた。ありがとう」由衣は何かがおかしいと気づいたらしい。訝しげに尋ねた。「何言ってるの?私、お金なんていらないよ。紗良の面倒を見てたのは、お金
パンッ!直哉は真奈の頬を思い切り叩いた。口元が切れ、血が滲む。「俺の実の妹は、紗良だけだ!言え!紗良の遺骨をどこへやった!」直哉の目に浮かぶ激しい怒りを見て、真奈は泣きじゃくりながら叫んだ。「捨てた!骨壺ごと割ったの!あそこの窓の下!もう風でどこかに飛んでいったと思う!」直哉のこめかみに青筋が浮かんだ。すぐさま外へ駆け出し、ベランダの真下へ向かう。そこには確かに、割れた骨壺の破片が散らばっていた。安物の骨壺だった。由衣が、とりあえず遺骨を納めるために買ってくれたものだ。兄が私の死を知ればあとはきちんと葬ってくれる、と由衣はそう思っていた。まさか兄が、私が死んだことすら信じないなんて思わなかったのだ。直哉は散らばった陶器の破片を見つめ、信じられないというように首を振った。目は真っ赤に充血していた。地面に残っていたのは、ほんのわずかな骨片だけ。直哉はその場に崩れ落ちるように膝をついた。そしてひとつひとつ拾い集める。骨片を強く握りしめたせいで、掌が傷つき、血が流れた。それでも痛みなど感じていないかのように、もう片方の手で胸元を押さえた。「ごめん……紗良。お兄ちゃんが悪かった……」それだけ呟くと、直哉は糸が切れたように意識を失った。……病院の中で、私は兄のベッドのそばを漂っていた。医師によれば、強い感情の高ぶりで一時的に意識を失っただけで、大きな問題はないらしい。二時間ほどして、直哉はゆっくり目を覚ました。手の甲に刺さっていた点滴の針を抜くと、すぐにスマートフォンを取り出す。そして由衣へ電話をかけた。今度の声には、これまでのような傲慢さはなかった。掠れた声で、必死に言う。「由衣……全部知った。俺が悪かった。本当に、二人には申し訳ないことをした……紗良は……生前、何か言ってなかったか?頼む。教えてくれ」電話の向こうで、由衣が冷たく笑った。「今さら後悔したの?直哉、この五年間、私が何回あんたに連絡したと思ってるの?あの偉そうな態度はどうしたのよ。最低だよ、あんた。紗良が私に何を話してたとしても、絶対に教えない」直哉の唇が震えた。目尻から涙が一筋流れる。その声は、縋るように弱々しかった。「俺は……真奈があんなことをしてるなんて、本当に知らなかった。知ってたら、放っておくわけないだろ
直哉は何も言わず、いきなり職員の顔を殴った。「な、何すんだよ!」職員は訳が分からないという顔をした。直哉は険しい表情のまま、その胸ぐらをつかむ。目には抑えきれない怒りが浮かんでいた。「松井紗良の遺骨はどこだ。ここにはないなんて、もう言わせない。もう一度嘘をついたら、今度は訴える」職員の目に明らかな動揺が走った。「し、知らない!松井紗良なんて名前、聞いたこともない!」「そうか」直哉は手を離すと、後ろにいた秘書へ言った。「警察を呼べ」「はい、松井社長」秘書がスマートフォンを取り出し、電話をかけようとする。すると職員はとうとう耐えきれなくなった。その場にへたり込み、慌てて叫ぶ。「待って!警察はやめてくれ!話す!全部話すから!」直哉は拳を強く握りしめたまま、冷たい目で職員を見下ろした。職員は震える声で話し始めた。「一週間前、石田真奈って女が来たんだ。松井紗良の家族だって言って、遺骨を引き取りたいって……。それで、誰にも言わないでくれって、大金を渡されて……」直哉の顎が、みるみる強く引き締まっていく。奥歯を噛みしめた頬がわずかに動き、その目には嵐のような怒りが渦巻いていた。秘書が声を荒らげる。「何を考えてるんですか!遺骨を、身元もろくに確認せず渡したんですか?家族じゃないことくらい分からなかったんですか!」職員はむっとしたように言い返した。「そんなに大事だったのか?松井紗良の遺体は、ここに五年も置かれてたんだぞ。岡田由衣って人以外、誰も引き取りになんて来なかった!火葬したあとの遺骨だって、引き取り手がなければこっちで処理する決まりだった。そこへ突然、金を払うから引き取りたいって人が現れたんだ。あんたなら断ったのかよ?」秘書は言葉を失った。その横で直哉の体がわずかに揺れた。職員はさらに続けた。「あんたたち、あの人の親族なのか?だったら、今まで何してたんだよ。そんなに大事な人だったなら、どうして五年間、一度も来なかったんだ?」「黙れ!」直哉は図星を突かれたのか、怒鳴った。その声は、これまで聞いたことがないほど激しかった。両親が亡くなったあの日以来、兄がこれほど感情をむき出しにする姿を、私は見たことがなかった。どんなことが起きても、いつも冷静な人だった。何億円規模の仕事が
「家のお墓に入りたいんだっけ……絶対にそんな願い叶えさせない」そう言うと骨壺の蓋を閉め、足早にベランダへ向かった。そして窓の外へ、思い切り骨壺を投げ捨てた。ガシャン!陶器の壺が砕け、私の遺骨が辺り一面に散らばった。「今の音、何だ?」突然、直哉が部屋の入口に現れた。真奈は慌てて振り返った。「か、花瓶を落としちゃって……」直哉は怪訝そうに真奈を見つめた。「怪我は?」「大丈夫。ありがとう、お兄ちゃん。さっきのことで怒ってるのかと思ってた……」直哉は笑った。「怒るわけないだろ。お前に悪気がなかったのは分かってる」真奈は目に見えてほっとした。だが気づいていなかった。兄は笑っていたものの、その目は少しも笑っていなかったことに。両親を亡くしたあと、直哉はたった一人で会社を立ち上げた。海千山千の大人たちを相手に、ここまで会社を大きくしてきた人だ。人の顔色を読むことには慣れている。ほんのわずかな表情の変化だって見逃さない。案の定、寝室へ戻った直哉は、すぐに秘書へ電話をかけた。声は冷え切っていた。「紗良と由衣のことを調べるついでに、真奈のことも調べろ。あいつ、何か隠してる」それから数日、直哉は少しずつ真奈を警戒するようになった。表向きはこれまでと何も変わらない。相変わらず優しく笑い、真奈を可愛がっていた。「最近、天気が崩れやすいから、外に出るなら暖かくしていけよ」そんなふうに毎日のように声をかけていた。だが実際には、これまで真奈に任せていた会社の仕事を、「無理して体を壊したら困るから」という理由で、少しずつほかの社員へ回していた。直哉は密かに真奈を会社から遠ざけ始めていた。一週間後、秘書が直哉のオフィスへ入ってきた。顔色はひどく悪かった。部屋に入ってからも、しばらく何も言わない。書類の山に目を通していた直哉が、苛立ったように顔を上げた。「何か分かったなら言え」秘書は覚悟を決めるように口を開いた。「松井社長……心の準備をしてください」直哉が眉をひそめる。「何だ?」秘書は一度目を閉じた。「紗良さんが日記に書いていたことは、全部本当でした。本当に性的暴行を受けています。そして……紗良さんは、本当に亡くなっています」カラン。直哉の手から、ペンが床へ落ちた。
三十分後、直哉は大通り沿いの葬儀場に到着した。中へ入ると、棚には骨壺がずらりと並んでいた。直哉は眉をひそめ、一つひとつの名前を素早く目で追っていく。その表情は複雑だった。よく見れば、目の奥には隠しきれない不安が滲んでいる。職員が近づいてきた。「どなたのご家族でしょうか?」直哉は小さな声で答えた。「松井紗良です」職員の表情が一瞬だけ変わった。それから、何事もなかったように台帳をめくり、最後には笑顔を作った。「申し訳ありません。そのお名前の方は、こちらにはいらっしゃいません」その言葉を聞いた瞬間、直哉の瞳がわずかに揺れた。明らかにほっとしていた。けれど次の瞬間には、強く拳を握りしめる。「紗良……やっぱり俺を騙してたんだな!」私は宙に浮かびながら苦笑した。お兄ちゃん。私の遺骨なら、とっくに真奈が先に持ち出してるよ。お兄ちゃんはずっと、真奈のほうがいい子で、素直で、妹らしいと思っていた。でも考えたことはない?本当はあの子こそ、羊の皮をかぶった狼だったかもしれないって。葬儀場を出たあとも、直哉の怒りは収まらないようだった。考えれば考えるほど腹が立つのか、顔色は見る見る険しくなり、額には青筋まで浮かんでいた。車を運転する秘書は冷や汗をかきながら、口を開くことすらできない。しばらくして、直哉が冷たく言った。「由衣がどこへ行ったか調べろ。紗良にはほかに頼れる友達なんていない。どうせ由衣について行ったんだろ。ここまで俺をコケにしたんだ。今度は俺が直接見つけ出す」私は小さくため息をついた。この五年間、兄は一度だって、私がどこにいるのか調べようとしなかった。自分から探しに来てくれたこともない。ずっと待っていたのだ。私のほうから折れて、謝りに来るのを。まさか、ようやく兄が自分から私を探してくれる日が来るなんて。それが私の死後になるとは思わなかった。三十分後、車は屋敷の前に停まった。直哉が帰宅すると、すぐに真奈が駆け寄ってきた。「お兄ちゃん!今日は肉じゃがを作ったの。食べてみて!」直哉は疲れたように眉間を揉んだ。「真奈、先に食べててくれ。少し休みたい」真奈は心配そうに尋ねた。「どうしたの?今日、仕事すごく忙しかった?」「紗良のことだ」直哉は眉を寄せた。「
秘書は小さくため息をつき、また一ページめくった。だがそこに書かれた文字を見た瞬間、目を見開いた。声まで震え始める。「2020年12月31日、大晦日。今日、私はレイプされた」……私は夕飯を買いに外へ出ただけだった。由衣は自分の実家で一緒に年を越そうと誘ってくれた。でも家族水入らずの時間を邪魔したくなくて断った。帰り道、ふと兄のことを考えた。お兄ちゃんは今、何をしてるんだろう。真奈と一緒に雪だるまを作ったり、年越しのごちそうを食べたりしてるのかな。ああ、そうか。今どこの国にいるのかさえ分からないんだった。そこに雪が降るのか、そもそも新年を同じように祝う場所なのか。それすら分からない。私は自嘲するように笑った。うつ病の薬をずっと飲んでいないせいか、頭まで鈍くなってしまったらしい。道沿いの家々には明かりが灯り、遠くでは年越しのイベントの音楽が響き渡った。私はゆっくり歩きながら、その光景をぼんやり眺めていた。そのとき突然、視界が真っ暗になった。次の瞬間には、何人もの男に腕をつかまれ、人気のない路地裏へ引きずり込まれていた。押さえつけられ、服を剥ぎ取られた。その夜、私の悲鳴は、新年を祝う音楽にかき消された。……地獄のような時間が終わったのは夜が明ける頃だった。私は何も考えられないまま、地面に横たわっていた。目の前の景色を、ただぼんやりと眺めていた。男の一人が私の上から立ち上がり、顔に唾を吐きかけた。「真奈に手を出した罰だよ。自業自得だ」私は何も言えなかった。遠ざかっていく男たちの背中を、ただ呆然と見つめた。しばらくしてから体を起こし、服を着た。そして由衣の家へ戻った。今の私は、きっとまともな文章を書けていない。何があったのか、一つの出来事として順序立てて書くことさえできない。文字を書こうとするたび、手が震える。ペンすらまともに握れない。私は由衣に一枚のメモを残した。――私の最後のお願い。死んだら、家のお墓に入れてほしい。お父さんとお母さんの隣に埋めて。お兄ちゃんには、もういらないって言われたから。私は、お父さんとお母さんのところへ行く。由衣には私が死んでもあまり悲しまないでほしい。それから、お兄ちゃんが私の遺体を見たら、もう許してくれますように。もう謝れなんて言わ