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「今日から、俺の部屋においで」…妖艶な香りと共に寄り添うのは、神西。「い…いつの間に?」驚く凛花の目が、今朝は注がれなかった自分の背後を見ていると気づく。やはり…忘却のキスの効果は短いと知る。「…忘れ物に気づいて…取りに行こうと思って来た」「…え、何を、忘れたんですか?」「替えの…ネクタイを」取り返しのつくものだったとホッとしたのだろう。凛花はそれでも律儀に言った。「…こんなことになっちゃって…あの、お給料が出たら買ってお返しします」グスッと鼻をすすり、涙ぐむ目元を拭くのを見て、神西はわずかに首をかしげた。なぜ泣く…?引っ越したばかりでたいした荷物はなく、ほかの入居者もいないというので焼き払ったのに。…俺の魔力で。「こ…ここですか?」「そうだ。まぁ古いマンションだが、造りはしっかりしている」薄暗い廊下にオレンジ色の裸電球がぶら下がり、エレベーターの中の明かりも、切れかかってチカチカしている。「ひ、1人の時は…階段が良さそう…」…ここに住む気になったようだ。つい、口角が上がる。5階建ての4階に到着し、一番手前のドアを開け、まずは凛花に入るよう指先で示す。「あの、鍵は…閉めてないんですか?」「あぁ。盗られて困るものはないからな」本当は鍵などなくても、バリアを張れば…誰もこの部屋に入れないからだ。「君は、この部屋を使ってくれ」恐る恐る足を踏み入れた凛花に、神西は後ろから声をかけた。「…ヒィ…っ…!」と驚いた声を上げ、慌てて口元を押さえる凛花。神西が開けたドアの向こうに入っていく。明るさや日当たりなどを求めない死神の住まいは、夏はひんやりとしているが、冬なら極寒の寒さを誇る。「…わぁ…見晴らしがいい部屋ですね」そんな住まいのなかでも唯一陽射しが入る部屋を凛花に与えた。4月とはいえ…まだ寒い夜もある。彼女には長い寿命があり…わざわざ暗い部屋で寒さに耐える必要なはい。…死神でも、それくらいのことは考えるのだ。「シャワーも風呂も、好きなだけ使ってくれ。人間は、温まるのが好きだろう?エアコンも自由に操作して、快適を追求したらいい」「人間は…って、神西さんだって同じ人間じゃないですか!」「いや、俺は…死神だから」「死神って…!」笑う凛花に、自分の名前の由来を話した。「神西は…『しにがみ』を入れ替えて作った偽の名
…いったいどういうつもりなのか。本当に部屋にやってきた上司が、部下の部屋で普通にスーツの上着を脱ぐなんて…会議室での話は、役員たちが集まってきて呆気なく終わった。2人で中にいた事をごまかすように、とっさに会議の準備を手伝っているふりをした凛花。…お茶汲みまでさせられたところで、神西に声をかけられた。「ありがとう鈴原さん。もうデスクに戻っていいですよ」ドアを開けてくれる仕草が自然で、意外にジェントルマンだと感心したのに…バシッと強めにファイルを押し付けられた。「…このファイル、あとでよく目を通しておいてください」デスクに戻って確認してみれば…中味は小さなメモ1枚。『寄り道厳禁。帰宅後、すみやかに鍵をかけて俺を待て。帰りの予定は23時』…なかなか男らしい命令調だ。けれどこの時点で、凛花にはまだ余裕があった。なぜなら、住所を尋ねられていないし…他の手段を使っても、神西が私の自宅にたどり着ける可能性は低いから。実は引っ越して日が浅く…まだ新住所を人事部にも総務部にも伝えていないのだ。だから例えば…社内の個人データにアクセスして住所を調べようとしても無理だし、そもそも会社の人に引っ越した話すらしていない。どうやって住まいを突き止める気なのか…凛花はまず来ないだろうと高を括って、のんびり過ごしていた。なのに…メモの通り23時きっかり、部屋のチャイムが鳴らされた。…驚いて、座ったまま1センチくらい飛び跳ねたと思う。そして、本当に神西が来たのか確認したい気持ちが勝って、躊躇なくドアを開けてしまったのだ…「…よし、いるな」夜も遅くなっているのに、ざっくり後ろに流した髪に、乱れひとつ見当たらない。疲れた様子もなく、会社で会った時と同じ様子の神西は、凛花が何か言う前に部屋に入った。…そしてリラックスした様子でスーツの上着を脱ぎ、それを手渡してきたのだ。あまりに自然なので受け取ってハンガーにかける。つい、お食事は…?なんて、聞いてしまいそうだ。「シャワーを借りていいか」「は…」切れ長の瞳に見つめられると、ダメなんて言えない…それでも、わずかな勇気を振り絞って言った。「あ、当たり前みたいに部屋に入ってきて夫みたいに上着渡してきて、シャワーってなんですか?…次はご飯ですか?」…文句の言い方が少し違う気がする。神西もポカン…としているので、次の反撃
「…効かない?自分に惚れさせるためのキスだったってことですか?…だとしたら残念ですね?まったく効きませんし、むしろ…」丸い目を頑張ってつり上げて、神西を睨み上げる凛花。「…嫌いになりましたわ!ふんっ!!」つかまれた腕を振りほどこうとするのを、神西は力でねじ伏せる。…このまま離すわけにいくか…!「…ちょっと待て。もう一度…」忘却のキスが効かないとは、鈴原凛花…突然変異の人間か?逃れようとする凛花を抱きしめ、もう一度唇を合わせた。…今度はもう少し長く。…やがて、彼女の体から…フッと力が抜けるのがわかった。そっと体を離し、さっきと同じように凛花の様子を伺うと…意外な反応に神西は頭を抱えた。「…どうして2回もキスをするんですか?」ハラハラと涙が頬を伝っている。なぜキスくらいで鈴原が泣くのか、意味がわからない。「どうして泣く…?」「泣きますよ…いきなりこんな会議室に連れ込まれてキスなんて…」「…キス、されたことが悲しいのか」コクン、とうなずく表情は…わずかながら神西に罪悪感のようなものを植え付けた。「初めて、だったんですよ?なのに、無理やり2回も…ムードもなく、愛もないキスを…」…これは、どういうことだ?キスをされた記憶はあるようだが、背中のカマについての記憶はどうなった?「…鈴原、俺を見てみろ」凛花の正面に立ち、様子を伺う。「はい…何ですか」…背中のカマについて何も言わないということは、忘却のキスが2回目でやっと効いたということ。そんなの聞いたことないが…忘れたならそれでいい。「キスについては突然すまなかった。だがあれは、必要なキスだった。俺にとっては」「…どういう意味ですか?」「わからないならいい。ただ勘違いしないでくれ。君に対して、特別な気持ちはない」人間の女にとって、キスが特別なものだということはわかっている。だが普通、忘却のキスをしたら、キスをしたこと自体を忘れるものなのだ。だがこの鈴原凛花という部下には…「特別な気持ちがないのはこっちだって同じです」神西の言葉に、凛花はふふ…っと笑みをこぼした。「…神西課長はカッコよすぎて、私のタイプではありません。ファーストキスの相手が課長なんて、落ち込みますっ!」神西をキッと睨みつけ、凛花が会議室を出ていく。強めの音を立ててドアを閉めたのは、怒りの表現だろうか。…
「あの…神西課長、大丈夫ですか?」ついに、言ってしまった。…言ったそばからもう後悔する。「…は?」ゆっくり振り返った顔が怒っていて…それより言いたいことがあると、その端正な顔に書いてあるのがわかる。「そんなことより、企画書は?」「はい!…わかってます。今、マネージャーに提出してちょっと見てもらってるところで…」「…どうしてそんなまどろっこしい事をする?できたらすぐに俺に出せと、何度言ったらわかるんだ?!」いつの間にか怒られるこの構図…予想できてたから今まで言えなかった…「…だって!神西課長、背中に大きなカマを背負ってるから、ずっと気になって!」マーケティング戦略部の神西蓮【かみにしれん】は、32歳という若さで課長に昇進した強者で、私…鈴原凛花【すずはらりんか】の目の上のたんこぶ…いや、直属の上司だ。昼休み。外へランチに行く社員で賑わう1階エントランスで、流れに逆らうように前を歩く神西に気づいて、つい声をかけてしまった。私も、コンビニでサンドイッチを買ってオフィスに戻るところだった。「…今、なんと言った?」「え、あの…ずっと、危ないなぁって、思ってまして…」早足で近づいてきて、大きな手が肩を掴む。クールで色気ある目元がたまらない、と言われている顔が、顔面蒼白になっているように見えた。「とりあえず、こっちへ来い」「…え、あの…」勢いよく引っ張られて、サンドイッチが袋から飛び出してしまった。拾うことも許さず、階段を上がり始める神西。「か、階段ですか?うちの会社、28階ですけど…」2階あたりまでは何とかついて行ったが、3階になるともう息が切れる…「ふん…運動もしてないのか。若いからって病気にかからないと思ってるな?」「…え?運動不足で病気?」「生活習慣病は、運動不足が原因のひとつだろう?」だからって、今階段を登らせなくてもいいのに…ちゃんと、運動を習慣化するから…今はエレベーターに乗せてほしい。心の声は届かず、結局引きずられるようにして、オフィスのある28階に上がってきた。倒れるように床に座り込み、ゼェゼェと息をする凛花とは違い、神西はまったく息が乱れていない。…嘘でしょ?あのスピードで階段を駆け上がって、汗もかいていないなんて…トップアスリートか?「…早く来い」再び腕をつかまれ、凛花は無理やり立たされた。そして







