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last update Last Updated: 2025-10-04 08:29:07

 調査は迅速だった。数時間後、玲香の元に一通のメールが届く。

 添付されていた調査報告書を開いて、彼女は侮蔑に唇を歪めた。

 報告書には、智輝の行動を裏付けるホテルの予約記録や、従業員への聞き込みをまとめたテキスト。そして、一枚だけ画像データがあった。

 ホテルのエントランスに設置された防犯カメラの映像から切り取られたものだろう。画質は少し粗いが、智輝にエスコートされ、慣れない様子で俯きがちに歩く結菜の姿ははっきりと見て取れた。

 さらに結菜個人の情報が続く。

『早乙女結菜。22歳。両親は既に他界し、天涯孤独。派遣社員』

 高校も大学も名門とは程遠い、平凡なものだ。

 写真に写る女は、派手さのないどこにでもいるような娘だった。

(つまらない女。どうしてこんな女に、智輝様が夢中になっているわけ!?)

 玲香は安堵し、同時に屈辱と激しい怒りを覚えた。

(絶対に別れさせてやる。智輝様の婚約者は、このあたしよ)

 報告書を手に、玲香は智輝の母・鏡子との面会を求めた。

「あら、玲香さん。今日のお食事会が済んだばかりだというのに、何かご用かしら?」

 桐生家の邸宅、その奥にある鏡子の私室。優雅に紅茶を飲む彼女を前に、玲香は悲劇のヒロインを完璧に演じきった。

「鏡子様、お伝えしなければならないことがあります。智輝様が、素性の知れない女に誑かされておりますの」

 結菜の調査報告書を渡すが、鏡子はそれに目を通しても表情一つ変えない。しかしその銀灰色の瞳の奥に、氷のような冷たい光が宿ったのを玲香は見逃さなかった。

 鏡子にとって重要なのは、智輝の恋愛感情ではない。桐生家の血筋と比類なき名誉を、「正しい」妻を娶って受け継がせること。家柄のない結菜は、その両方を汚す「害虫」でしかなかった。

 鏡子は静かにティーカップを置くと、冷静な声で告げた。

「そのような女、桐生の名を汚すだけの存在です。智輝のためにも、家の名誉のためにも、早急に『処分』しなければなりません」

 玲香の嫉妬と、鏡子の家のための冷酷な計算。目的が一致した2人の間に、共犯者としての濃い空気が生まれた。

「まずはその女がどのような人間か、わたくしたちの目で直接確かめる必要があります。そして、智輝にはっきりと分からせるのです。身分不相応な女がいかに浅ましく、汚らわしい存在であるかを」

 鏡子は報告書に記された結
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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   26

     結菜の職場は、海辺の町に立つ市立図書館だ。 古いけれど手入れの行き届いた建物である。一歩足を踏み入れれば、少し埃っぽい古書のインクと紙の匂いが迎えてくれる。父が教えてくれた、魔法の世界への入り口そのものだった。「早乙女さん、おはよう」「おはようございます、佐藤さん」 カウンターで同僚の司書に挨拶を交わす。 司書として働くことは、結菜の長年の夢だった。司書の資格は学生時代に取っていたものの、就職口は少ない。故郷の町でたまたま空きが出て職に就けたのは、大きな幸運だった。 数字を追いかけるだけだった東京の派遣社員時代とは違う。ここでは、本と人と、物語を繋ぐことができる。 結菜は柔らかな日差しの差し込む図書館の一角、絵本コーナーへと向かう。そこは彼女が一日の中で最も心安らげる場所だった。靴を脱いで上がるカラフルなマットの上には、すでにお母さんに連れられた小さな子供たちが数人、期待に満ちた顔で座っている。「こんにちは。今日はどんなお話かなって、待っててくれたのかしら」 結菜が微笑みかけると、子供たちはきゃっきゃと笑い声をあげた。一番前に座っていた男の子が、こくりと頷く。一生懸命な眼差しに、結菜の心はふわりと温かくなった。(樹も、こんな顔をする。私が家で絵本を読む時は、いつも) 今日の絵本は『くまくんのちいさなぼうけん』。何度も読み聞かせをしている、結菜のお気に入りの一冊だ。「はじまるよ、はじまるよー」 小さな手遊びで子供たちの心を惹きつけて、最初のページを開く。「森の奥、お日様の光がキラキラ踊る朝のこと。くまの男の子、くまくんは、目を覚ましました」 結菜の声は、静かな春の陽だまりに溶けるように優しく響いた。 主人公のくまくんが登場する場面では声を弾ませ、いじわるなカラスが出てくると、少しだけ眉をひそめて低い声色を作る。ページをめくるたびに、子供たちの小さな世界が、くまくんの冒険で彩られていくのが分かった。くまくんがどんぐりを見つけて喜ぶと、子供たちも「わあ」と声を上げ、谷川に落ちそうになると、息を呑む気配が伝わってきた。

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   25:小さな天使と穏やかな日々

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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   23

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    『書斎喫茶 月読』でのあの日以来、結菜の時間は止まっていた。 智輝からの連絡はもちろんない。彼との思い出が詰まった東京の風景すべてが、彼女を苛むだけのものに変わってしまった。(これ以上、この街にはいられない) その想いが、結菜の心を支配していた。 彼女は、心を無にして電話を手に取った。相手は、いつも事務的に仕事の連絡をしてくる派遣会社の担当者だった。「お世話になっております。早乙女です。急で申し訳ありませんが、本日付けで、退職させていただきたく思いまして」『えっ、早乙女さん? どうしたの、急に。何かあったの? あなた、真面目で評判も良かったのに。次の契約先も決まりそうだったのよ?』 電話の向こうで、担当者が珍しくうろたえているのが分かった。けれど結菜の心はもう何も感じない。「いえ、何も。ただ一身上の都合です」『何か不満があったなら言ってくれないと、急に辞められてしまうと困るわ。言ってくれれば、改善できるかもしれないし……。まさか、派遣先の会社に乗り込んできた人たちのことで?』 桐生夫人、鏡子の話は担当者の耳にも届いていたようだ。だが結菜は声の調子を変えずに続ける。「申し訳ありません。もう、決めましたので」 それきり結菜はどんな引き止めの言葉にも、ただ「申し訳ありません」と繰り返すだけだった。 電話を切った後、結菜は続けてアパートの管理会社に電話をかけた。解約を告げる声は、自分でも驚くほど平坦だった。『お部屋の家具はどうされますか?』 事務的な問いに、結菜は迷わず答える。「そちらで処分をお願いします。費用は、敷金から差し引いてください」 結菜はがらんとした部屋を見渡した。ベッドフレームのないマットレスと、小さなローテーブル、衣類を収めただけのプラスチックケース。東京での生活を支えてくれたのは、だったこれだけのささやかな家財道具だ。だが今の彼女には、それら一つひとつを梱包して引っ越しの手続きをする気力は残っていなかった。 できるだけ早く、できるだけ簡単に、この街から自分という存在の痕跡を消し去りたかった。 結菜は最低限の荷造りを始めた。クローゼットを開けて目に飛び込んできたのは、智輝とのデートのために懸命に選んだ、アイボリーのワンピース。 楽しかった思い出と今の現実が一度に蘇り、結菜は小さく首を振る。そのワンピースを迷いなく掴み

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   21:決別の言葉

     智輝は店の入り口に立ったまま、動かなかった。彼の顔からは一切の感情が抜け落ちている。銀灰色の瞳は、結菜ただ一人を冷たく見据えていた。 結菜は智輝の突然の登場と、彼の瞳に宿る見知らぬ冷たさに、全身が凍りついた。(何か言わなければ。手切れ金は断ったと、伝えなければ) そう思うのに、カラカラに乾いた喉が張り付いたように声が出ない。 智輝がゆっくりとした足取りでテーブルへと近づいてくる。 カツ、カツと彼の革靴が床を打つ音が、張り詰めた静寂の中で不吉に響いた。 智輝はテーブルの数歩手前で足を止めると、温度のない声で低く呟いた。「……そうか。これが、君の答えか」 問いかけではない。全てを諦めた者の、絶望の独り言だった。 結菜はようやく言葉を絞り出す。「違う。智輝さん、これは……」 だがその細い声は、絶望の中にいる智輝には届かない。 彼は、テーブルの上の封筒と結菜の青ざめた顔を交互に見ると、唇の端に笑みを浮かべた。痛々しい自嘲の笑みだった。 そして彼は静かだが、はっきりとした口調で言う。「君も結局、金目当てだったのか」 その言葉は、怒鳴り声よりもずっと深く結菜の心を抉った。それは単なる詰問ではない。「他の連中と同じように」という響きを伴った結菜の人間性の全否定であり、2人が分かち合った特別な時間の完全な拒絶である。(そんな……) 智輝の言葉は、物理的な暴力よりも強く結菜を打ちのめした。美しい思い出が、彼自身の言葉によって打ち砕かれていく。 彼に信じてもらえなかったという事実が、結菜の胸にひどく重くのしかかった。 何か言おうとして唇を開くが、はくはくと息が漏れるだけで声にならない。ただ目の前の男の瞳の中に、昨夜までの優しい面影を探して、必死に見つめることしかできなかった。(違う。信じて……) しかし智輝の銀灰色の瞳は、もはや何の感情も映さない氷の湖のようだった。

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