LOGIN王宮の廊下に敷かれた深紅の絨毯は、ふかふかと足首まで沈み込むような厚みがあった。
(この絨毯、一メートルあたり一万二千ベルは下らないわね。維持費だけで私の元・年収を超えそう……)
私は緊張で胃を痛めながらも、視界に入る調度品の資産価値を勝手に鑑定せずにはいられなかった。 今日が初出勤。 肩書は「宰相補佐官付経理係」。
実態は、氷の宰相アレクセイ様の専属奴隷(借金返済要員)である。案内してくれた衛兵が、重厚なオーク材の扉の前で立ち止まった。
「こちらが宰相閣下の執務室です。……では、私はこれで」
衛兵はなぜか同情に満ちた目を私に向け、逃げるように去っていった。 嫌な予感がする。昨日の契約の時、私の「不正感知」センサーが鳴り響いていたのを思い出す。
「……失礼いたします。本日より着任いたしました、リアナ・フォレストです」
私は覚悟を決めて、ノブを回した。
ズザザザザザァァァッ──!!
扉を開けた瞬間、視界を覆ったのは「白」だった。 雪崩だ。ただし、雪ではない。 天井近くまで積み上げられていた書類の塔が崩壊し、私に向かって雪崩れ込んできたのだ。
「っきゃあ!?」
悲鳴を上げる間もなく、私は紙の海に飲み込まれた。 重い。紙といえども、束になれば凶器だ。
必死に書類をかき分けて顔を出すと、そこには地獄が広がっていた。広い部屋だということは分かる。だが、床が見えない。 机、椅子、ソファ、ありとあらゆる家具が、無造作に放り出された書類の山に埋もれていた。 ここは執務室ではない。パルプの樹海だ。
「……遅い」
樹海の奥──かろうじて原形を留めている執務机の向こうから、不機嫌な声が響いた。 書類の山を優雅にかき分け、というより魔法で浮かせ、アレクセイ様が姿を現す。 その姿は今日も完璧に美しく、スーツには皺一つないが、目の下には僅かに隈があった。
「あ、あの、おはようございます、閣下。これは一体……」
「見ての通りだ。各省庁から上がってくる決裁書類、陳情書、予算申請書、その他諸々のゴミの山だ」
「ゴミ……いえ、重要書類では?」
「私にとってはゴミと同義だ。無能な文官どもが、要点もまとめずに送りつけてくるせいで、処理が追いつかん」
アレクセイ様はため息をつき、近くの書類の束を足で小突いた。
「私の秘書官は先週、胃潰瘍で辞めた。その前任者は過労で倒れた。ここ一ヶ月、整理をする者がいない。……どうだ? 五千万ベルの借金を背負ってまで来る場所ではなかったと後悔したか?」
彼は試すような目で私を見た。 この惨状を見て、泣いて逃げ出すとでも思っているのだろうか。
私は眼鏡の位置を直し、足元に散らばる書類を一枚拾い上げた。『王立庭園における季節花の植え替えに関する予算申請書』。 日付は二ヶ月前。
未決裁のまま埋もれている。(……非効率だ)
私の内側で、カチリとスイッチが入る音がした。 恐怖や不安よりも先に、猛烈な「もったいない精神」が鎌首をもたげたのだ。 この書類が埋もれている間にも、現場の庭師たちは待機を余儀なくされ、無駄な人件費が発生している。この部屋にある書類の山は、ただの紙ではない。国庫から垂れ流されている「損失」そのものだ。
「……閣下。質問してもよろしいですか?」
「なんだ」
「この部屋の決裁権限を持つのは閣下お一人ですか?」
「そうだ。私が全て目を通し、承認印を押す。他人の判断など信用できん」
「では、私がこの部屋を『機能的』に作り変えても、文句はおっしゃいませんね?」
私が睨みつけるように言うと、アレクセイ様は少し驚いたように目を丸くした。
「……好きにしろ。ただし、私の仕事の邪魔はするな」
「了解しました。では──」
私は落ちていた紐で長い髪をきりりと縛り上げ、腕まくりをした。
「これより、
「まず、書類を三つに分類します! 『緊急(今日中)』『通常(今週中)』『ゴミ(焼却)』です!」
「おい、ゴミの基準が過激すぎないか?」
「中身のない社交辞令だけの挨拶状や、既得権益を守るためだけの無意味な陳情書はゴミです。保管スペース(坪単価)の無駄です!」
私は鬼になった。 アレクセイ様が執務をしている横で、猛烈な勢いで書類の山を切り崩していく。 私の特技は計算だけではない。 実家の屋敷で、執事もメイドもいない中、一人で家事を回していた経験がここで火を吹いた。
書類の内容を斜め読みし、一瞬で重要度を判断する。 「不正感知」スキルが役立った。重要な数字が含まれている書類は「重く」、中身のない書類は「軽く」感じるのだ。
「これは財務省へ差し戻し。計算が合っていません」
「これは閣下の決裁が必要です。期限は昨日です」
「これは……あーもう! お茶菓子代を経費で落とそうとしないでください!」
バサバサバサッ! 私の手によって、書類が次々と宙を舞い、あるべき場所へと収まっていく。 アレクセイ様は最初こそ眉をひそめていたが、次第に私の持ってくる書類の的確さに気づいたようで、無言でペンを動かす速度を上げた。
「……おい、リアナ」
「はい、なんでしょう! 今忙しいので手短にお願いします!」
「お前、その処理速度はどうなっているんだ。三日分を三十分で片付けたぞ」
「三十分あれば、複利計算なら百通りはできます。……それより閣下、足元にあるその箱、邪魔です」
「これは未処理の……いや、待て。これは先月紛失したと思っていた、対隣国通商条約の原案か?」
アレクセイ様が箱を開け、絶句した。 国を揺るがす重要書類が、ソファーの下から発掘されたのだ。
「こんな所にあったとは……。前任の秘書官は何をしていたんだ」
「掃除をサボっていたんでしょう。埃の積もり具合からして、三ヶ月は放置されています」
私はハタキを振り回しながら、容赦なく言い放った。
「閣下、優秀なのは分かりますが、環境整備を怠るとパフォーマンスが低下します。一秒のロスも、積もれば億の損失ですよ」
「……耳が痛いな」
アレクセイ様が苦笑する。その表情には、昨日のような冷徹さはなく、どこか少年のような純粋な驚きがあった。
それから四時間後。 樹海は消滅した。
「……信じられん」
アレクセイ様は、ピカピカに磨き上げられた床と、綺麗にラベリングされて整列したファイル棚を見渡し、呆然と呟いた。 窓からは午後の光が差し込み、空気中の埃も消え失せ、インクと紅茶の香りが漂う快適な空間に生まれ変わっていた。
「終わりました。本日の急ぎの決裁書類は、デスクの右上にまとめてあります。承認印を押すだけで終わるように、要約メモも付けておきました」
私はエプロンを外し、額の汗を拭った。 達成感。これぞ労働の喜び。
これで残業代が出れば最高なのだが。「……君は、魔法使いか何かか?」
「いいえ、ただの経理係です。数字と効率を愛しているだけですので」
「経理係の域を超えているがな」
アレクセイ様は自分のデスクに座り、私が用意した書類の束を手に取った。
パラパラと目を通す。その瞳が、次第に真剣な色を帯びていく。「要約も完璧だ。私が読むべきポイントを正確に抽出している。……これなら、徹夜せずに済みそうだ」
「それは良かったです。閣下が過労で倒れると、私の給料の支払いが滞りますから」
「ふっ、君はブレないな」
アレクセイ様は楽しそうに笑い、そして──
ふと、真顔になった。「……ところでリアナ。一つ聞きたい」
「はい?」
「整理された棚の、一番下の段。あの『黒い背表紙』のファイルは何だ? 私の記憶にはない帳簿だが」
ドキリ、とした。 さすがは氷の宰相。私がわざと、目につかない場所に隔離しておいた「それ」に気づくとは。
私は居住まいを正し、その黒いファイルを取り出した。 掃除の最中、書類の山の最深部、床板の隙間から見つけたものだ。
「……これに関しては、ご報告すべきか迷いました」
「なぜだ?」
「これを私が開いた瞬間、強烈な『腐臭』がしたからです。物理的な匂いではありません。数字の……悪意の匂いです」
私はファイルをアレクセイ様のデスクに置いた。 表紙には何も書かれていない。
だが、中には過去十数年分の、国の「予備費」に関する出納記録が記されていた。「私の直感ですが、この帳簿は『裏帳簿』です。しかも、閣下が宰相に就任されるよりもずっと前から、誰かが秘密裏に運用していた形跡があります」
「……なんだと?」
「ページの所々に、数字の
アレクセイ様がファイルを手に取る。 ページをめくる指が止まり、その美しい顔から表情が消え失せた。 部屋の温度が、一気に氷点下まで下がる。
「……なるほど。私の足元に、こんな爆弾が埋まっていたとはな」
彼のアメジストの瞳が、凍てつくような光を放つ。 それは、私に向けられたものではないと分かっていても、思わず身震いするほどの殺気だった。
「リアナ」
「は、はい」
「君は優秀だ。優秀すぎて、恐ろしいほどだ」
アレクセイ様が顔を上げ、私を見た。 その目は、獲物を絶対に見逃さない捕食者の目だった。
「この帳簿を見つけた以上、もう君を単なる経理係として扱うわけにはいかなくなった」
「……といいますと?」
「共犯者になってもらう。この国の膿を出し切るための、な」
アレクセイ様がニヤリと笑う。 それは、昨日私に見せた冷酷な笑みとも、先ほどの少年のような笑みとも違う。 もっと危険で、ゾクゾクするような、「共犯への誘い」の笑みだった。
「もちろん、手当は弾むぞ?」
その一言に、私の警戒心は霧散した。
「……承知いたしました。その『膿』を絞り出せば、いくらになりますか?」
「国の予算の一割は取り戻せるだろうな」
「やります。骨の髄まで計算し尽くして差し上げましょう」
私が眼鏡を光らせて答えると、氷の宰相は満足げに頷いた。
こうして、樹海の開拓は終わった。 だがそれは、国を揺るがす巨大な闇との戦いの、ほんの序章に過ぎなかったのだ。
「宰相閣下万歳! リアナ様万歳!」 「救国の英雄に栄光あれ!」王宮のバルコニー。 眼下には、王都の広場を埋め尽くす数万の民衆が、波のように揺れていた。 歓声の轟音が、身体の芯まで響く。 私はアレクセイ様に手を取られ、訳も分からぬまま群衆に向かって手を振っていた。(……どうしてこうなったの?)さっきまで、涙ながらの別れ話をしていたはずなのに。 今の私は、王家秘蔵のドレスを着せられ、なぜか「国の救世主」として崇められている。 隣にいるアレクセイ様は、完璧な「宰相スマイル」を張り付かせているが、繋いだ手は痛いほど強く、そして掌は冷や汗で湿っていた。「……笑え、リアナ。愛想を振りまくのも公務だ」 「引きつって笑えません。これ、残業手当は出るんですか?」 「出るものか。……これは『私的な儀式』の前座だ」アレクセイ様は群衆に手を振りながら、口元だけで囁いた。「私的な儀式?」 「ああ。……ここなら、誰も邪魔できないからな」彼は突然、私をバルコニーの柱の陰──群衆からは死角になる場所へと引き寄せた。 歓声が少し遠くなる。彼は懐から、一枚の紙を取り出した。 何度も書き直しクシャクシャになった羊皮紙だ。あの夜、深夜の執務室で書き殴っていた『婚姻届兼、永久専属契約書』の成れの果てらしい。書き直すたびに、悪魔の契約書は少しずつ、不器用な愛の言葉へと姿を変えていったようだった。「……読め」 「これは?」 「新しい契約書だ」私は怪訝に思いながら、その紙を受け取った。 タイトルには、殴り書きのような文字でこう書かれていた。『終身雇用契約書兼、人生のパートナーシップ協定』「……なんですか、これ」内容を目で追う。『第一条:勤務地は、甲(アレクセイ)の隣とする。半径五メートル以上離れることを禁ず』 『第二条:勤務時間は、本契約締結の瞬間から、乙(リアナ)の心臓が止まるその時までとする』 『第三条:給与は、甲の保有する全資産、全権力、および……甲の生涯にわたる「愛」の全てを支給する』めちゃくちゃだ。 労働基準法を完全に無視している。 ブラック企業どころではない。これは、私の人生そのものを搾取しようとする悪魔の契約だ。「……閣下。この契約書には不備があります」私は胸ポケットから、愛用の赤ペンを取り出した。 そして、紙の上に容赦なく赤線を入れていく。
「……以上で、全ての業務の引き継ぎを完了いたします」朝の光が差し込む宰相執務室。 塵一つなく磨き上げられた床。 背の順に整列されたファイル。 そして、デスクの上に置かれた一本の鍵。私は深く一礼した。今日、この瞬間をもって、私の雇用契約は満了する。「長い間、お世話になりました。……ご健勝をお祈り申し上げます」顔を上げると、デスクの向こうにいるアレクセイ様と目が合った。 彼は彫像のように動かない。 その顔色は蒼白で、目の下には濃い隈があった。昨夜、一睡もしていないのだろう。 私も同じだ。お互いに、ボロボロの顔をしている。「……行くのか」絞り出すような声だった。「はい。借金は完済されました。私にはもう、ここに留まる理由がありません」 「……理由は、借金だけか?」 「契約書には、そう書いてあります」私は心に蓋をして、事務的に答えた。 そうしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったから。「では、失礼します」私は踵を返し、扉へと歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 ヒールの音が、カウントダウンのように響く。 あと十歩。五歩。三歩。 ノブに手をかける。 これで終わり。 さようなら、私の愛した氷の宰相──。ダンッ!!背後から、凄まじい音がした。 デスクを蹴り倒すような音。 そして、突風のような気配が私に迫る。「行くなッ!!」「え……?」振り返る間もなかった。 背後から、強い力で抱きすくめられた。 アレクセイ様だ。 彼は私の背中に覆いかぶさるようにして、ドアノブにかけた私の手を、自分の手で強引に押さえつけた。「か、閣下……? 何を……」 「行くな。行かせない」耳元で聞こえる声は、宰相の威厳など欠片もない、駄々っ子のような響きだった。 彼の腕が、私の体に食い込むほど強く締め付けられる。 震えている。 あの「氷の宰相」が、小刻みに震えている。「契約終了です。これは監禁罪に当たります」 「知ったことか! 私が法だと言っただろう!」 「滅茶苦茶です……!」 「ああ、滅茶苦茶だ! 計算も論理も知るか! 君がいなくなる世界など、私にとってはエラーでしかないんだ!」アレクセイ様は私を強引に反転させ、向き合わせた。 至近距離にある彼の顔は、苦悶に歪んでいた。 アメジストの瞳が、潤んで揺れている。「……金を払えばいいんだろう?」彼は私の肩を掴んで揺
段ボール箱が三つ。 それが、私のこの公邸での生活の全てだった。「……少ないですね。備品ばかりで、私の私物なんてこんなものです」深夜のゲストルーム。 明日、私はここを出ていく。 契約終了に伴う退去。 それが優秀な経理係の去り際だ。「さて、あとはこの引き出しの中身を仕分けして、廃棄すれば完了……」私はデスクの引き出しをひっくり返し、中身を床にぶちまけた。 ガラガラ、と乾いた音がする。 出てきたのは、一見するとゴミのようなガラクタばかりだった。「……これ、まだ取っておいたんだ」最初に手に取ったのは、小さな白いボタン。 白蝶貝の、欠けたボタンだ。 以前、アレクセイ様のシャツから取れかけ、私が縫い直した時のもの。その際、予備として交換した古い方を、なぜか捨てずに持っていたのだ。『……君は、本当に私の修繕係だな』あの時の、彼の驚いた顔と、少し照れたような笑顔が脳裏に蘇る。 彼の体温。間近で嗅いだ香水の匂い。 ただのボタンなのに、掌に乗せると熱を持っているような気がした。「……資産価値、ゼロ。廃棄対象です」私はゴミ箱へ捨てようとした。 でも、指が動かない。 ゴミ箱の縁で手が止まり、震え出す。(……だめ。捨てられない)私はボタンをポケットにねじ込んだ。 次に出てきたのは、映画の半券のような紙切れ。 街へ「視察」に行った時、露店でもらった福引券だ。ハズレくじ。『一等賞は世界一周旅行か。当たったら、君と行くのも悪くないな』 『ハズレです、閣下。参加賞のポケットティッシュです』 『……ちぇっ』子供みたいに唇を尖らせていた、氷の宰相。 あの時、彼は確かに私との未来を夢見てくれていた。 たとえそれが、冗談だったとしても。そして、最後に拾い上げたのは──小指の爪ほどの、歪な形をした紫色の石だった。 魔力などほとんど残っていない、道端に転がっているようなクズ魔石。 彼が初めて私の「節約弁当」を食べた翌日、お礼だと言って本物の宝石と一緒に渡してきたものだ。『その紫色は、私の目の色に似ているだろう? 君にあげるよ』 『いりません、こんな石ころ』 『持っていてくれ。……私だと思って』「……馬鹿みたい」私はその石を握りしめ、膝を抱えて座り込んだ。「全部、ガラクタじゃないですか。市場価値なんてありません。質屋に持って行っても、一ベルにもなりません」
「……閣下。これは何の冗談ですか?」翌朝。 私は完璧に仕上げた『業務引き継ぎマニュアル(全十巻)』をデスクに積み上げ、アレクセイ様に問いただした。 彼は私のマニュアルを一瞥もしないまま、コートを羽織って扉の前に立っている。「冗談ではない。業務命令だ」 「ですから、引き継ぎをしないと後任の方が困ります。私の独自計算式は、初見では解読不能ですよ?」 「後任などいない」彼はきっぱりと言い切った。「私が全部やる。……君の代わりなど、この世に存在しないからな」 「過労死しますよ?」 「構わん。……それより、行くぞ。今日は『重要拠点』の最終視察だ」アレクセイ様は強引に私の手を取り、執務室から連れ出した。 重要拠点? 財務省か、それとも造幣局か。 しかし、彼が向かった先は、予想もしない場所だった。「……ここですか? 重要拠点というのは」辿り着いたのは、王宮の裏庭。 雑草が生い茂り、資材が雑然と置かれた、殺風景な場所だ。 でも、私にとっては見覚えのある場所だった。「ああ。ここが、すべての始まりだ」アレクセイ様は地面の一角を革靴のつま先で指した。 そこには、私が数ヶ月前、木の枝で書きなぐった数式の跡が、雨風に晒されて微かに残っていた。「……あの時、君はここで、一人でブツブツと国家予算の矛盾を計算していたな」 「見ないでください。黒歴史です」 「いや、美しかった。泥だらけの靴で、ボロボロの服で……それでも君の瞳は、どんな貴族よりも知的に輝いていた」彼は懐かしそうに目を細め、隣にあるベンチに腰掛けた。 そして、隣をポンポンと叩く。「座れ。……あの日と同じ景色を、もう一度見たかったんだ」私は躊躇いながらも、彼の隣に座った。 肩が触れ合う距離。 風が吹き抜け、木々の葉がざわめく音だけが響く。「……リアナ」「はい」 「私は、君に出会うまで……この世界がただの『チェス盤』に見えていた」アレクセイ様がポツリと語り出した。「人間は駒。感情はノイズ。全ては利益と損失で計算できるゲームだと思っていた。……だが、君という『エラー』が、私の盤面を茶苦茶にした」 「エラー扱いは心外です」 「最高の褒め言葉だ。……君のおかげで、私は初めて、盤上の駒ではなく『生きた人間』として呼吸ができた気がする」彼は私の手を取り、その指に自分の指を絡ま
王立銀行発行の小切手。 額面、二千万ベル。 それは、羊皮紙一枚とは思えないほどの物理的な重さを持っていた。 私の手の中で、それは「自由への切符」であると同時に、アレクセイ様との縁を切る「絶縁状」のように感じられた。(……行きましょう、リアナ。これが貴女の望んだゴールなのだから)私は震える足を叱咤し、廊下を歩いた。 一歩進むごとに、心臓が冷えていく。 宰相執務室の前。 いつもならノックもせずに飛び込んで「書類が散らかってます!」と怒鳴るところだ。 でも今日は、手が震えてノックができない。「……入れ。そこにいるのだろう」中から、低い声がした。 気配でバレている。 私は深呼吸をし、重い扉を開けた。「失礼いたします」夕暮れの執務室。 アレクセイ様はデスクに座り、窓の外を見ていた。 逆光で表情は見えない。 だが、その背中から漂う空気は、かつてないほど張り詰めていた。「……来たか」「はい。お約束どおり、精算に参りました」私はデスクの前に進み出た。彼との距離、わずか二メートル。この距離が、今日は無限の谷のように遠い。私は小切手をデスクの上に置いた。 そして、徹夜で作成した『借入金完済計算書』をその横に添えた。「閣下。これまでの借入金、および利息、遅延損害金、その他諸経費……全てを含めた全額です。これにて、完済とさせていただきます」事務的な口調を保つのが精一杯だった。 少しでも気を抜けば、声が震え、泣き出してしまいそうだったから。アレクセイ様はゆっくりと椅子を回し、私と向き合った。 そのアメジストの瞳が、小切手を見つめる。 そして、眉間に深い皺を寄せた。「……計算が、合わないな」「はい?」「足りないと言っている」彼は小切手を指先で弾いた。「二千万ベル? 馬鹿な。私の計算では、君の借金はあと一億ベルは残っているはずだ」「はあ!? 一億!? どこの悪徳金融ですか!」私は思わず素の声で叫び、そろばんを構えた。「法定利息は年一五%です! 私の計算に間違いはありません! どこからその一億なんて数字が出てきたんですか!」「……慰謝料だ」「い、慰謝料……?」「ああ。君が私の心を掻き乱し、業務に支障をきたしたことへの精神的苦痛に対する賠償金だ。日割り計算で加算している」アレクセイ様は真顔で、子供のような理屈を並べ立てた。「それか
「号外! 号外だーっ! 財務大臣マクシミリアン・バロン・グレイ、国家反逆罪で逮捕!」 「偽造金貨組織、壊滅! 宰相閣下、万歳!」王都の大通りに、新聞売りの少年の声が響き渡る。 窓の外を見下ろすと、数日前まで暴動寸前だった市場は、嘘のように平穏を取り戻していた。 人々は安心して買い物をし、店先には「政府公認・金貨交換所」の看板が掲げられている。「……計算通り、ですね」私は宰相公邸の自室で、静かに呟いた。 グレイ伯爵の逮捕から三日。 押収された彼の隠し資産──総額五十億ベルは全て国庫に没収され、被害を受けた経済の補填に充てられた。 ハイパーインフレの危機は去り、ベルの価値は守られた。 完璧なハッピーエンドだ。 国の経理係としては、これ以上ない成果と言えるだろう。コンコン、と控えめなノックの音がした。「リアナ様。王宮からの使者の方がお見えです」 「はい、今行きます」私は鏡の前で服装を整えた。 今日受け取るものが、私の人生を劇的に変えてしまうことを、私は知っていた。応接室に通されると、そこには侍従長が恭しく待っていた。 彼は私を見ると深々と頭を下げ、一枚の豪奢な羊皮紙と、重厚な木箱を差し出した。「リアナ・フォレスト嬢。この度の貴女様の働き、誠に天晴れでございました。国王陛下より、特別報奨金が下賜されます」 「……恐縮です」私は震える手で木箱を受け取った。 ずしりと重い。 中には、王立銀行発行の最高額面小切手が入っているはずだ。「金額は、金貨二千枚。……二千万ベルでございます」「に、二千万……」息を呑んだ。 私の借金の残債は、先の報奨金を充当した後でも、約一千八百万ベルある。 つまり──。「……完済、ですね」 「はい。それどころか、二百万ベルほどの余剰金が出ます。さらに、陛下からはフォレスト家の爵位保全と、弟君たちの学費免除の特権も授与されるとのことです」侍従長はニコニコと笑っている。 貧乏令嬢が一夜にして借金をなくし、特権まで手に入れたのだ。 私は飛び上がって喜ぶべき場面だ。なのに。(……どうして?)私の心臓は、冷たい鉛を飲み込んだように重かった。 口角が上がらない。 「ありがとうございます」という言葉が、喉に張り付いて出てこない。「……リアナ嬢? いかがなさいましたか?」 「あ、いえ……あまりの光栄に、言葉が出







