氷の宰相の専属経理係 ~完済したはずの借金に、「溺愛」という名の永久利息がつきました~ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

42 チャプター

第1話「借金地獄と数式オタク、氷の宰相に捕獲される」

「──あと、七千三百五十二枚」冷たい井戸水に浸した指先の感覚が、とうの昔になくなっていた。 王宮の厨房裏にある洗い場。 そこには山のように積まれた汚れた皿、皿、皿。 私の名前はリアナ・フォレスト。一応は伯爵家の長女だが、現在の職業は「王宮の臨時皿洗いスタッフ(時給九百ベル)」である。「一枚洗うごとに〇・五ベルの収入。洗剤の消費量を一押しあたり〇・二ベルに抑えれば、利益率は三%向上する……」ブツブツと呟きながら、私は無心でスポンジを動かしていた。 手荒れでひび割れた指に洗剤が沁みるが、痛みなどどうでもいい。痛みは金にならないが、皿洗いは金になる。それが全てだ。父が友人の連帯保証人になり、五千万ベルという途方もない借金を背負わされてから二年。 庶民の平均年収が二百四十万ベルの世界だ。五千万ベルなんて、私のような人間が飲まず食わずで二十年働いても返せない。 屋敷の使用人は全員解雇、家財道具は売り払い、残ったのはボロボロの屋敷と、借金取りの怒号、そしてまだ幼い弟と妹だけ。 私が働かなければ、明日のパンも買えない。「リアナちゃん、休憩入っていいわよー」 「はい、ありがとうございます」厨房のおばちゃんに声をかけられ、あかぎれだらけの手をエプロンで拭き、厨房の勝手口から外へ出る。 華やかな王宮の表側とは違う、資材搬入用の殺風景な裏庭。ここが私の唯一の安息の地だ。私はポケットから、セロハンテープで補強した丸眼鏡を取り出してかける。 世界がぼやけた色彩の塊から、鮮明な輪郭を取り戻す。 そして、その辺に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げると、地面の土を均した。「ふう……さて、と」ストレス発散の時間だ。 私は脳裏にこびりついている数字を、土の上に書きなぐり始めた。Σ_{i=1}^{n} (Cost_i × 1.15) - ∫_{0}^{t} Profit(t) dt ≠ Budget_total (総コスト(15%上乗せ) − 累積利益 ≠ 総予算)それは、皿洗いの最中に偶然耳に入った、休憩中の財務官たちの愚痴だった。 『北方の城壁修繕プロジェクト、また予算不足だ』『資材高騰で三億ベルの赤字見込みだとさ』と彼らは嘆いていたけれど。「……違う。絶対に違う」ガリガリ、と枝が土を削る音が心地よい。 私の脳内で、数字たちがダンスを踊り始め
last update最終更新日 : 2026-07-12
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第2話「人身売買? いいえ、これは超ブラックな雇用契約です」

「お姉ちゃん!」玄関に飛び込んだ私の目に映ったのは、部屋の隅で身を寄せ合い、ガタガタと震えている弟と妹の姿だった。 十歳のレオが、七歳のマリーを必死に庇うように抱きしめている。 床には割れた花瓶。父との思い出のアンティークチェアは、脚が折られて無惨な姿を晒していた。「……何の真似ですか」私は震える足を叱咤し、男たちの前に立ちふさがった。 男の一人──熊のように大柄で、見るからに質の悪い借金取りが、ニタニタと笑いながら近づいてくる。「よう、やっとお戻りか。待ってたぜ、貧乏お嬢様」 「不法侵入と器物破損です。衛兵を呼びますよ」 「ハッ! 呼べよ。だがな、衛兵が来る頃には、このガキどもは『行方不明』になってるだろうがな」男がレオたちの方へ一歩踏み出す。 私は反射的にその前に割り込んだ。「子供には手を出さないで! 父が亡くなってまだ二年です。返済計画なら、先月提出したはずでしょう!」 「あんなふざけた計画書で納得できるかよ! 親父が死んで借金がチャラになるとでも思ったか? 連帯保証人の責任は、遺族が引き継ぐんだよ!」男の手が私の胸ぐらを掴み上げた。 足が浮く。首が締まり、呼吸が苦しい。「いいか、俺たちは慈善事業じゃねえんだ。親がいないなら尚更、ガキだけで五千万ベルなんて返せるわけねえだろ?」 「かはっ……だ、から……働いて……」 「お前の皿洗いバイトでか? 笑わせるな。……金がねえなら、代わりのモンを差し出してもらわねえとなあ」男の目が、卑猥に歪んだ。「お前と、そこのガキ二人だ。海外の富豪なら、没落貴族の子供をペットにしたがる奴もいる。三人合わせりゃ、まあ元金くらいにはなるだろうよ」人身売買。 背筋が凍りついた。こいつらは本気だ。 数年前に母を病気で亡くし、二年前に父を過労と心労で亡くした。 私に残されたのは、この借金と、まだ幼い二人の弟妹だけ。 私が守らなきゃいけない。私が親代わりにならなきゃいけないのに。「やめ……離し……っ!」 「暴れるなよ。商品に傷がつくだろうが!」男が拳を振り上げる。 私はギュッと目を閉じた。 殴られる。治療費がかかる。最悪、働けなくなる。 そうなれば、レオの学費も、マリーの明日のおやつも──。(神様、お願いします。奇跡なんて安っぽいものは望みません。ただ、弟と妹だけは……!)その時だった。ピキ
last update最終更新日 : 2026-07-12
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第3話「宰相執務室という名の樹海、本日から開拓します」

王宮の廊下に敷かれた深紅の絨毯は、ふかふかと足首まで沈み込むような厚みがあった。(この絨毯、一メートルあたり一万二千ベルは下らないわね。維持費だけで私の元・年収を超えそう……)私は緊張で胃を痛めながらも、視界に入る調度品の資産価値を勝手に鑑定せずにはいられなかった。 今日が初出勤。 肩書は「宰相補佐官付経理係」。 実態は、氷の宰相アレクセイ様の専属奴隷(借金返済要員)である。案内してくれた衛兵が、重厚なオーク材の扉の前で立ち止まった。「こちらが宰相閣下の執務室です。……では、私はこれで」衛兵はなぜか同情に満ちた目を私に向け、逃げるように去っていった。 嫌な予感がする。昨日の契約の時、私の「不正感知」センサーが鳴り響いていたのを思い出す。「……失礼いたします。本日より着任いたしました、リアナ・フォレストです」私は覚悟を決めて、ノブを回した。ズザザザザザァァァッ──!!扉を開けた瞬間、視界を覆ったのは「白」だった。 雪崩だ。ただし、雪ではない。 天井近くまで積み上げられていた書類の塔が崩壊し、私に向かって雪崩れ込んできたのだ。「っきゃあ!?」悲鳴を上げる間もなく、私は紙の海に飲み込まれた。 重い。紙といえども、束になれば凶器だ。 必死に書類をかき分けて顔を出すと、そこには地獄が広がっていた。広い部屋だということは分かる。だが、床が見えない。 机、椅子、ソファ、ありとあらゆる家具が、無造作に放り出された書類の山に埋もれていた。 ここは執務室ではない。パルプの樹海だ。「……遅い」樹海の奥──かろうじて原形を留めている執務机の向こうから、不機嫌な声が響いた。 書類の山を優雅にかき分け、というより魔法で浮かせ、アレクセイ様が姿を現す。 その姿は今日も完璧に美しく、スーツには皺一つないが、目の下には僅かに隈があった。「あ、あの、おはようございます、閣下。これは一体……」 「見ての通りだ。各省庁から上がってくる決裁書類、陳情書、予算申請書、その他諸々のゴミの山だ」 「ゴミ……いえ、重要書類では?」 「私にとってはゴミと同義だ。無能な文官どもが、要点もまとめずに送りつけてくるせいで、処理が追いつかん」アレクセイ様はため息をつき、近くの書類の束を足で小突いた。「私の秘書官は先週、胃潰瘍で辞めた。その前任者は過労で倒れた。ここ一ヶ月、整
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第4話「神速計算VS貴族の横領、電卓代わりの頭脳」

「──終わりました」朝の光が差し込む執務室。 淹れたての紅茶の湯気がまだ立っている間に、私はペンのキャップを閉じた。「……何?」執務机の向こうで、アレクセイ様が顔を上げた。 眉間に刻まれていた皺が、驚きによって少しだけ緩む。「終わったとは、何をだ? その『第三次地方インフラ整備計画・予算申請書』は、昨日の夕方に届いたばかりだぞ。分厚さが辞書くらいあるはずだが」 「はい、全二百四十八ページ。全て査読完了しました」私は三つの山に分けられた書類タワーを指差した。「右の山が『承認可能』。中央が『要修正(計算ミス)』。そして左の山が──『却下』(悪意ある見積もり)』です」 「……馬鹿な」アレクセイ様が席を立ち、私のデスクへと近づいてくる。 彼は疑わしげに『却下』の山から一冊のファイルを抜き取った。それは財務省の古参官僚、グリーブス子爵が提出した「王都西地区・治水工事」の予算案だった。「これはグリーブスが三ヶ月かけて練り上げた案だぞ。通常、査読には三人の文官で一週間はかかる」 「三ヶ月かけたにしては、お粗末な数字遊びですね」私は眼鏡の位置を直し、淡々と指摘を開始した。「五十八ページを開いてください。護岸工事に使う『強化レンガ』の単価が、市場価格の三割増しで計上されています」 「ふむ。だが、今は資材が高騰している。輸送費込みなら誤差の範囲ではないか?」 「いいえ。このレンガの産地である南方の鉱山都市とは、先月、関税撤廃の条約が結ばれたばかりです。輸送コストは逆に一割下がっているはず。それに──」私はページをめくり、八十二ページの工期表を指した。「雨季の工事遅延を見込んで『待機手当』が計上されていますが、過去十年の気象データを参照する限り、今年の雨季の降水量は平年の六割。工事が止まる確率は五%未満です。起きもしない雨のために、二千万ベルの予備費を積むのは『保険』にしては高すぎます」アレクセイ様が息を呑む気配がした。 私は止まらない。数字を見ていると、脳内でアドレナリンが分泌され、口が勝手に回るのだ。「結論として、この予算案には総額六千八百万ベルの『使途不明金』が隠されています。おそらく、グリーブス子爵の義理の弟が経営するレンガ工場への利益誘導でしょう。……臭いますよ、この書類。腐った卵のような、強欲の悪臭が」「……匂い、か」アレクセイ様は
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第5話「残業のお供は「余り野菜の節約弁当」」

壁に掛けられた重厚な振り子時計が、深夜二時を告げる鐘を鳴らした。 広大な執務室には、ペンが紙を走る音だけが響いている。「……閣下、そろそろ休憩を挟まれては?」 「不要だ。この決裁を今夜中に終わらせなければ、南方の物流が三日は遅れる」アレクセイ様は顔も上げずに答えた。 その美貌には疲労の色が濃く滲んでいる。目の下の隈は深くなり、肌は陶器のように白いが、それは健康的な白さではなく、血の気が引いているだけだ。 夕食に運ばれてきた豪華な御膳は、手がつけられないまま冷めきって下げられていった。(効率が悪い……)私は自分のデスクで、そろばんを弾く手を止めた。 アレクセイ様の処理速度が、一時間前と比べて一八%低下している。 原因は明白。エネルギー不足だ。 宰相という生き物は、魔力で動いているわけではない。カロリーで動いているのだ。「閣下が倒れられると、私の雇用主がいなくなり、路頭に迷うリスクが発生します。資産保全も業務の一環ですので」私は椅子から立ち上がり、足元に置いていた風呂敷包みを手に取った。 アレクセイ様のデスクの横に立ち、コトリとそれを置く。「……なんだ、これは」 「燃料です」 「燃料?」 「はい。見た目は悪いですが、毒見はしていません。腐ってもいません」包みを開けると、塗装の剥げたブリキの弁当箱が現れた。 蓋を開ける。 中身は茶色かった。「……これは、何だ? 土か?」 「失礼な。大根の皮と葉っぱの炒め煮(きんぴら)と、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたラスク、それから昨日の夕飯の残りのオムレツです」彩り? 栄養バランス? そんなものは予算オーバーだ。 これは私が自分用に持ってきた、原価ほぼゼロの「廃棄寸前救済弁当」である。「私の夜食にするつもりでしたが、閣下の顔色が死人のように悪いので譲渡します。……請求書に『夜食代』として十ベル上乗せしておきますね」 「十ベル……」アレクセイ様は呆れたように眉を上げたが、空腹には勝てなかったらしい。 恐る恐る、フォークで茶色い物体(大根の皮)を口に運んだ。「……!」咀嚼する動きが止まった。 アメジストの瞳が、僅かに見開かれる。「……どうですか? まずいなら残していただいて結構ですが」 「……いや」彼は小さく首を横に振ると、次はパンの耳のラ
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第6話「その丸眼鏡の下には、美貌と計算高い瞳」

カチ、カチ、カチ……パチッ。静寂に包まれた宰相執務室に、規則正しい音が響いている。 私がそろばんを弾く音と、アレクセイ様が書類にサインをする万年筆の音。 この二つの音は、まるで精密な二重奏のようにリズムを刻んでいた。「……ふぅ」私は小さく息を吐き、手元にあった熱い紅茶に口をつけた。 時刻は午後三時。集中力が途切れかける時間帯だ。 連日の激務に加え、昨夜の「節約弁当」作りで睡眠時間を削ったツケが回ってきたらしい。目がシパシパする。(眼精疲労は作業効率を三〇%低下させるわ。一分間の休憩を入れて、パフォーマンスを回復させないと)私はカップを置き、鼻すじに食い込んでいた重たい丸眼鏡を外した。 テープで補強されたツルが、カチャリと机に置かれる。 世界が一気に輪郭を失い、ぼんやりとした光の粒になる。私は両手で目頭をぐりぐりと揉みほぐし、大きく瞬きをした。 そして、無防備に顔を上げ、ぼやけた視界の先──アレクセイ様がいるであろう方向へと顔を向けた。「閣下。この『王立図書館・蔵書廃棄リスト』ですが、古紙回収業者への売却益が見積もりに含まれていません。紙資源のリサイクル相場は、先週から二ポイント上昇しているのですが」問いかけるが、返事がない。 万年筆の走る音も止まっている。「……閣下? 聞こえていますか?」私は目を細めた。 ぼやけた視界の中で、銀色の光が微動だにせず、こちらを凝視しているのが分かった。 仕事に没頭しすぎて、私の声が届いていないのだろうか?「もしもし、宰相閣下? 休憩中ですか? それともフリーズしましたか?」私は椅子から立ち上がり、デスク越しに身を乗り出した。 眼鏡がないので距離感が掴めない。 彼の顔があるであろう位置まで、無遠慮に顔を近づける。「……ッ」鋭く息を呑む音が聞こえた。「な、……なんだ、その顔は」アレクセイ様の声が、いつになく上擦っている。 何か変な顔をしていただろうか? 目を揉んだから充血しているのかもしれない。「すみません、目が疲れたので眼鏡を外していました。お見苦しいものをお見せして申し訳ありま……」 「動くな」強い語調で制止された。 私はピタリと動きを止める。 至近距離。彼の吐息がかかるほどの距離だ。 視界はぼやけているけれど、彼が私を──いいえ、私の「瞳」を、穴が開くほど見つめている気配だけは肌で感じ
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第7話「高級ドレスより、丈夫な帳簿をください」

「……閣下。これは、何の嫌がらせですか?」目の前に置かれた巨大な箱を前に、私は眉間の皺を揉みほぐした。 箱には、王都で最も格式高いオートクチュール店『シルヴァ・モード』の箔押しロゴが輝いている。 嫌な予感しかしない。私の「浪費感知センサー」が警報音を鳴り響かせている。「嫌がらせとは心外だな。これは業務命令に必要な『装備品』だ」アレクセイ様は優雅に脚を組み、顎で箱をしゃくった。「今夜、王宮で開かれる建国記念の夜会がある。全貴族が参加する公式行事だ。私の補佐官である君も、当然同伴してもらう」 「同伴……。残業手当は出ますか?」 「出る。深夜割増でな。さあ、開けてみろ」私は恐る恐る箱のリボンを解いた。 蓋を開ける。薄紙をめくる。 そこには、目がくらむような光景が広がっていた。深いミッドナイトブルーのシルク。ふんだんにあしらわれた銀糸の刺繍。そして、夜空の星のように散りばめられた、本物のダイヤモンドの粒。 美しい。息を呑むほどに美しいドレスだ。 だが、私の視線はドレスの美しさではなく、箱の底に落ちていた「納品書」に釘付けになった。「いち、じゅう、ひゃく、せん……」ゼロの数を数える。 数え直す。 何度見ても、桁が変わらない。「……さんびゃく、まん、ベル?」三百万ベル。 庶民の年収を超え、我が家の現在の全財産(借金除く)の五百倍にあたる金額。 それが、たった一晩着るだけの布切れの値段?「うっ……!」視界が暗転した。 脳内の家計簿が炎上し、計算機が爆発音を上げた。「おい、リアナ!? どうした!」アレクセイ様の慌てた声が遠く聞こえる。 私はフラフラとデスクに手をつき、青ざめた顔で彼を睨みつけた。「か、閣下……正気ですか? このドレス一着で、ジャガイモが何トン買えると思っているんですか!?」 「ジャガイモ換算はやめろ。これは宰相のパートナーとして恥ずかしくない最低限の品格だ」 「品格で腹は膨れません! 即刻返品してください! クーリングオフ期間内なら全額返ってきます!」 「返品などしない。それは君のために仕立てさせた特注品だ」 「特注!? 尚更悪いじゃないですか! ならば布面積を減らしてください! 袖と裾を切り詰めれば、二十万ベルくらいは安くなるはずです!」 「やめろ! 貧乏くさいリメイクをするな!」ア
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第8話「嫉妬の炎は氷より冷たい」

王宮の大広間は、光の洪水だった。 天井には数千本の蝋燭を灯した巨大なシャンデリア。床は磨き抜かれた大理石。そして、色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、さざめく波のように揺れている。(……電気代ならぬ蝋燭代だけで、一晩二十万ベル。あのキャビアの山は五十万ベル。給仕の人件費を含めると……)私はアレクセイ様の腕に手を添えながら、会場の総資産価値を目算していた。 この一晩の予算で、スラム街の子供たち全員に靴を買ってあげられるだろう。「リアナ。顔が怖いぞ。経費削減のことばかり考えているだろう」「バレましたか。あのシャンデリア、蝋燭を一本間引いても照度は変わらないはずです」 「……今夜は仕事を忘れろと言ったはずだ。挨拶回りに行くぞ」アレクセイ様は苦笑しつつ、私をエスコートして人混みの中へ進んでいく。 彼の登場に、会場の空気が華やいだのが分かった。 令嬢たちの熱っぽい視線が彼に突き刺さり、その隣の「地味な眼鏡女」には冷ややかな視線が向けられる。「あら、あれが宰相閣下の新しい補佐官?」 「地味ねぇ。ドレスに着られているわ」 「でも、あのドレス……『シルヴァ・モード』の特注品よ。一体おいくらなのかしら」ひそひそ話が聞こえるが、私は痛くも痒くもない。 私の価値は数字で決まる。「閣下、少し失礼します。あちらに財務大臣がいらしたので、先日の予算案の修正について詰めてきます」 「おい待て、今は……」アレクセイ様が止める間もなく、私は彼の手を離し、人混みを縫って移動した。 仕事の話ができるなら、ダンスより有意義だ。そう思って歩いていると、不意に声をかけられた。「おや。美しい数式のようなステップで歩くお嬢さんだね」振り返ると、エメラルド色の瞳をした優男が立っていた。 仕立ての良い燕尾服に、異国の言葉訛り。「……数式のようなステップ、ですか?」 「ああ。君の歩き方には無駄がない。最短距離を、最小のエネルギーで移動している。実に合理的で美しい」男はにっこりと笑い、大袈裟に一礼した。「お初にお目にかかる。私は隣国ラ・メールの外交官、フェルディナンドだ。君のような聡明な女性が、壁の花になっているのは国家的損失だと思うのだが」外交官。 その肩書きを聞いた瞬間、私の脳内電卓が弾かれた。 ラ・メール国は、我が国の主要な貿易相手国だ。ここで良い印象
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第9話「カーテンの裏は秘密の聖域」

昨夜の喧騒が嘘のように、王宮の朝は静まり返っていた。 だが、その静寂は平和なものではない。嵐の前の、あるいは嵐が過ぎ去った後のような、重苦しい淀みを含んでいた。「……閣下。ペンの動きが止まっています」私が指摘すると、アレクセイ様はハッと顔を上げた。 いつもの完璧な宰相の仮面は、今日は少しだけ剥がれ落ちている。 顔色は白磁のように蒼白で、目の下の隈は昨日よりも濃い。夜会での社交という名の、私に近づく男たちの排除活動にエネルギーを使い果たしたのだろう。「……五分だ」 「はい?」 「五分だけ休憩する。……リアナ、こっちへ来い」アレクセイ様はふらりと立ち上がると、執務室の窓際にかかる、重厚なベルベットのカーテンの方へと歩いていった。 私が慌てて追いかけると、彼はカーテンを少しだけめくり、その裏側へと私を招き入れた。「え……?」そこには、驚くべき空間が広がっていた。 窓とカーテンの間の、わずか一メートルほどの隙間。そこに、人が一人寝そべられるだけの長椅子と、小さなサイドテーブルが隠されていたのだ。 窓からは柔らかな陽光が差し込んでいるが、分厚いカーテンが部屋からの視線を完全に遮断している。 まるで、子供が作った秘密基地のような、外界から隔絶された狭い空間。「ここは……?」 「私の避難所だ。文官どもに見つからずに仮眠を取るためのな」アレクセイ様は長椅子に倒れ込むように横たわると、長い手足を投げ出した。 そして、自分の隣のわずかな隙間──床のカーペットをポンポンと叩いた。「座れ」 「は? ここにですか? 狭いですが」 「いいから座れ。……君がいないと、充電効率が悪い」駄々っ子のような理屈だ。 私は仕方なく、彼の顔のすぐ横、床の上に膝を抱えて座った。 膝の上に、計算途中の帳簿とペンを乗せる。「私はここで仕事を続けますよ。ペンの音がうるさくても文句を言わないでくださいね」 「ああ……その音が、いいんだ……」アレクセイ様は目を閉じ、深く息を吐いた。 カーテンで仕切られたこの空間は、執務室の空気とは違う匂いがした。 日向の匂いと、古い紙の匂い。そして、アレクセイ様から香る、甘く冷ややかな移り香。(……静かだわ)カツ、カツ、カツ。 私がペンを走らせる音だけが、狭い空間に響く。 普段は「氷の宰相」として国を
last update最終更新日 : 2026-07-14
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第10話「疑惑の帳簿と、忍び寄る魔の手」

カーテンの裏での甘やかな仮眠時間から、現実へと引き戻された直後のことだった。 私の「不正感知」スキルが、サイレンのように警報を鳴らしていた。手元にある黒い革表紙の帳簿。 初出勤の日に、 書類の樹海の底から発掘した「裏帳簿」だ。 そこにある違和感は、素人目には分からないレベルのものだった。書類の端がわずかに折れている。 ページの開き癖が、昨日私が閉じた時と違う。(……誰かが、見た?)私とアレクセイ様しか知らないはずのこの帳簿。 私たちがカーテンの裏で眠っている間に? いや、アレクセイ様の結界がある執務室に、気配もなく侵入するのは不可能だ。 ならば、私が席を外していたわずかな隙間か、あるいは──。「リアナ、どうした? 顔色が悪いぞ」デスクに戻ったアレクセイ様が、怪訝そうに私を見ている。 私は震える指で眼鏡を押し上げ、深く息を吸った。「……閣下。緊急の報告があります」 「なんだ」 「この部屋に、鼠が入り込んだようです」アレクセイ様の目が、スッと細められた。「鼠? 衛生管理局を呼ぶか?」 「いいえ、四本足の鼠ではありません。二本足の、手癖の悪い鼠です」私は黒い帳簿を開き、特定のページを指し示した。「ここを見てください。七年前の『予備費』の項目です。インクの染みが、新しく付着しています。誰かがこのページをめくり、そして慌てて閉じた痕跡です」 「……」アレクセイ様が無言で立ち上がり、私の手元を覗き込む。 その瞳が、ページに残された微細な痕跡をスキャンしていく。「……確かに。私の記憶にある配置と、三ミリずれている」 「はい。そして、このページに書かれている数字こそが、この国の病巣そのものです」私はペンを取り、裏紙に計算式を書き殴りながら解説を始めた。「閣下、私はこの帳簿を再計算しました。一見すると、予備費は適切に運用され、余剰分は翌年に繰り越されているように見えます。ですが、ここには『幽霊』が住んでいます」 「幽霊?」 「架空の公共事業です。毎年、決まった時期に『道路補修』や『河川整備』の名目で予算が計上されていますが、その工期と資材購入履歴を照らし合わせると、矛盾が生じます。資材を買った記録がないのに、工事が完了していることになっているんです」私はそろばんを弾くように指を動かした。「つまり、行われていない工事に対して、金だ
last update最終更新日 : 2026-07-14
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