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第4話「神速計算VS貴族の横領、電卓代わりの頭脳」

Author: 額田ハル
last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-13 11:36:37

「──終わりました」

朝の光が差し込む執務室。 淹れたての紅茶の湯気がまだ立っている間に、私はペンのキャップを閉じた。

「……何?」

執務机の向こうで、アレクセイ様が顔を上げた。 眉間に刻まれていた皺が、驚きによって少しだけ緩む。

「終わったとは、何をだ? その『第三次地方インフラ整備計画・予算申請書』は、昨日の夕方に届いたばかりだぞ。分厚さが辞書くらいあるはずだが」 

「はい、全二百四十八ページ。全て査読完了しました」

私は三つの山に分けられた書類タワーを指差した。

「右の山が『承認可能』。中央が『要修正(計算ミス)』。そして左の山が──『却下』(悪意ある見積もり)』です」 

「……馬鹿な」

アレクセイ様が席を立ち、私のデスクへと近づいてくる。 彼は疑わしげに『却下』の山から一冊のファイルを抜き取った。それは財務省の古参官僚、グリーブス子爵が提出した「王都西地区・治水工事」の予算案だった。

「これはグリーブスが三ヶ月かけて練り上げた案だぞ。通常、査読には三人の文官で一週間はかかる」 

「三ヶ月かけたにしては、お粗末な数字遊びですね」

私は眼鏡の位置を直し、淡々と指摘を開始した。

「五十八ページを開いてください。護岸工事に使う『強化レンガ』の単価が、市場価格の三割増しで計上されています」 

「ふむ。だが、今は資材が高騰している。輸送費込みなら誤差の範囲ではないか?」 

「いいえ。このレンガの産地である南方の鉱山都市とは、先月、関税撤廃の条約が結ばれたばかりです。輸送コストは逆に一割下がっているはず。それに──」

私はページをめくり、八十二ページの工期表を指した。

「雨季の工事遅延を見込んで『待機手当』が計上されていますが、過去十年の気象データを参照する限り、今年の雨季の降水量は平年の六割。工事が止まる確率は五%未満です。起きもしない雨のために、二千万ベルの予備費を積むのは『保険』にしては高すぎます」

アレクセイ様が息を呑む気配がした。 私は止まらない。数字を見ていると、脳内でアドレナリンが分泌され、口が勝手に回るのだ。

「結論として、この予算案には総額六千八百万ベルの『使途不明金』が隠されています。おそらく、グリーブス子爵の義理の弟が経営するレンガ工場への利益誘導でしょう。……臭いますよ、この書類。腐った卵のような、強欲の悪臭が」

「……匂い、か」

アレクセイ様はパタンとファイルを閉じた。 その口元には、獰猛な笑みが浮かんでいた。

「君の脳みそは、一体どういう構造になっているんだ?」 

「構造は凡人です。ただ、貧乏生活が長かったので、『一ベルの無駄』に対する嗅覚が犬より鋭いだけです」 

「謙遜するな。……面白い。実に面白いぞ、リアナ」

彼が私の肩に手を置こうとした、その時だった。 ノックの音と共に、執務室のドアが無遠慮に開かれた。

「失礼するよ、宰相閣下! 先日提出した治水工事の件だがね、そろそろ承認印を頂きたいのだが!」

現れたのは、小太りの男だった。 脂ぎった顔に、高そうな服をパンパンに着込んだ姿。先ほど話題に上がったグリーブス子爵本人だ。 彼は部屋に入るなり、私を見て鼻を鳴らした。

「ん? なんだその地味な女は。新しいお茶汲みか? ……まあいい、席を外せ。国家の重要案件の話だ」

私を羽虫のように追い払おうとする子爵。 私はアレクセイ様を見た。彼は「やれ」と目で合図を送っている。 なるほど。ここは私が「番犬」として吠える場面らしい。

「グリーブス子爵。席を外す必要はありません」

私が席に座ったまま告げると、子爵は顔を真っ赤にした。

「な、なんだと? たかがお茶汲みの分際で!」 

「訂正させていただきます。私はお茶汲みではなく、宰相補佐官付経理係です。そして、貴方が提出された予算案の査読担当者です」

 「さ、査読だと? 女にか!?」 

「はい。そして結論から申し上げますと、この予算案は『却下』です」

私は『却下』の山から彼のファイルを放り投げた。 

ファイルが机の上を滑り、子爵の目の前で止まる。

「なっ……貴様! 素人が何を勝手なことを! その計画は完璧なはずだ!」 

「完璧なのは『隠蔽工作』だけですね。レンガの単価水増し、不要な待機手当、さらには架空の人員配置……。これら全てを修正し、適正価格で再提出してください。期限は明日朝イチです」 

「き、き、貴様ァ……ッ!」

子爵がプルプルと震え出し、私に掴みかかろうと腕を伸ばした。

 だが、その手は私には届かなかった。

ヒュッ──

空気が凍りついた。 子爵の足元、深紅の絨毯が瞬く間に白く霜付き、彼の革靴を床に縫い止めたのだ。

「ひいっ!?」 

「……私の執務室で、私の『最高傑作けいさんき』に触れようとは。いい度胸だね、子爵」

アレクセイ様が、優雅にソファーから立ち上がった。 その顔には、完璧な営業スマイルが張り付いている。だが、アメジストの瞳は絶対零度。子爵を見る目は、道端の石ころを見るそれよりも冷たかった。

「か、閣下! この女がデタラメを! 私は国のために……!」 

「デタラメかどうかは、監査局が判断するだろう。……ああ、そういえば」

アレクセイ様は私のデスクから、一枚のメモ用紙を摘み上げた。 先ほど私が書いた、横領疑惑の要約メモだ。

「ここにある『義弟のレンガ工場』という指摘。実に興味深い。監査が入れば、工場の帳簿と君の個人の資産口座、両方を洗うことになるだろうな」 

「ッ……!?」 

「もし不正が見つかれば、君は爵位剥奪、財産没収、そして北方の鉱山で『適正価格』の労働に従事することになる。……楽しみだね?」

「あ、あ、あああ……」

子爵は腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。 氷に捕らえられた足が動かず、無様に床を這う。 自分の悪事が、たった一人の「お茶汲みに見える女」に見抜かれた恐怖と、宰相の容赦ない宣告に、彼の精神は崩壊したようだった。

「衛兵。このゴミを運び出せ。ついでに監査局長を呼べ」

アレクセイ様が冷たく命じると、控えていた衛兵たちが蒼白な顔の子爵を引きずっていった。 部屋に静寂が戻る。

「……ふぅ。お騒がせしました」

私は何事もなかったかのようにペンを持ち直した。 まだ査読すべき書類は山ほどある。感情を動かしている暇などない。コストの無駄だ。

「リアナ」 

「はい」 

「君は、怖くないのか? 相手は貴族だぞ。逆恨みされるかもしれない」

アレクセイ様が、不思議そうな顔で私を覗き込んでいる。 私は首を傾げた。

「逆恨みをするための費用対効果コストパフォーマンスが悪すぎます。彼にはもう、私を害するだけの財力も権力もありませんから。……それに」 

「それに?」 

「私が守ったのは六千八百万ベルの税金です。パン換算で六十八万個分。それだけの価値を守れたのですから、仕事としての成果は黒字です」

私が真顔で答えると、アレクセイ様は一瞬ぽかんとし、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。

「く、くくっ……! パン換算! 黒字! あはははは!」 

「……笑うところではありません。真面目な経済の話です」 

「すまない、いや、最高だ。君は本当に、私の予想を超えてくる」

ひとしきり笑った後、アレクセイ様は涙を拭い、私を熱っぽい瞳で見つめた。 

それは、昨日までの「便利な道具」を見る目とは少し違っていた。もっと執着めいた、所有欲の混じった視線。

「いいだろう。その『黒字』を出し続ける限り、私は君を全力で守ってやる。……誰にも、指一本触れさせない」

その言葉は甘く響いたが、同時に背筋がゾクリとするような重さも含んでいた。 私はとりあえず「では、護衛費は経費でお願いします」と返しておいた。

こうして、私の「神速計算」デビュー戦は、一人の貴族の社会的抹殺という形で幕を閉じた。 

だが、この一件が王宮内に波紋を広げないはずがなかった。

『宰相閣下が、身元不明の女を囲っている』 

『あの氷の宰相が、執務室で女と二人きりで過ごしている』 

『グリーブス子爵を陥れたのは、その女の差し金だ』

そんな噂が、瞬く間に貴族たちの間に広まり、

そして──私の知らないところで、黒い嫉妬と殺意が芽吹き始めていたことを、私はまだ知らなかった。

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