ログイン「姐さん、今日は“ご挨拶”に行っていただきます」
あやめの朝食が終わる頃、ダイニングにやってきた鷹見がそう告げた。
あやめの生活面は早苗があれこれやってくれるが、神崎の女としての仕事は鷹見があれこれやってくれるのだと、あやめは理解していた。
“ご挨拶”――その言葉の意味を、あやめはすぐに理解した。
龍神会の幹部たちの妻たちに、龍神会組長の妻として正式に顔を見せること。
形式的なものとはいえ、裏社会における“序列”を確認する重要な儀式だった。
「神崎家の着物をお召しください」
「ご用意しております、奥様」
早苗に案内された和室、飾られていたのは深い藍色の訪問着。
控えめな金糸の刺繍が、品のある光を放っていた。
着付けを終えたあやめは、鏡の前に立った。
髪はきっちりと結い上げられ、耳元には真珠の簪が揺れている。
見慣れない和装ということもあって、まるで別人のようだとあやめは思った。
「馬子にも衣装、ね」
思わず漏れたあやめの本音に、早苗が微笑んだ。
「姐さん、極道の世界では美しさなど二の次とは言いませんが、その身に覚悟を宿したものがとっても美しく見えます。大事なものは、目の奥にあるものです」
その言葉に、あやめはわずかに目を伏せた。
“美しさ”――それは、姉・さくらの代名詞。
どこへ行っても、どんなときも、姉さくらはその美しさで注目を集めた。
よい縁組には美しさが必要。
それが姉さくらの身上だった。
美しさが必要な世界では、あやめはさくらの影にいた。
だが、今のあやめは、さくらの“影”ではない。
いまいる世界では、美しさを必要としていない。
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顔合わせの会場は、神崎家の最も広い和室だった。
広い部屋に煌びやかな女性たちが、キレイな配列で並んでいた。
あやめが入ると、一斉に視線が集まった。
興味、値踏み、嫉妬。
視線の種類は様々だが、あやめのすることは決まっている。
微笑む。
「初めまして。神崎あやめと申します」
あやめは、深く頭を下げた。
媚びない、でも、礼儀は尽くす。
その所作は、政治家の娘として身につけたものだった。
表だろうと裏だろうと、同じ人付き合いだとあやめは腹をくくっていた。
「まあまあ、若いのにしっかりしていらっしゃるわ」
あやめの次に上座にいた女性、あやめを除いて最上位と思われる女性がにこやかに笑った。
「流石、冬弥さんが選んだ方だわ。ねえ、皆さん」
有無を言わせない、賛同を強要する声だった。
これが”序列”。
自然とあやめの身が引き締まった。
「本来なら”姐さん”と呼ぶべきなのでしょうけれど、母親と大差ない年齢の私たちにそう呼ばれても困ってしまうわよね。”あやめさん”で宜しいかしら?」
「はい。そう呼んでいただけるなら、光栄です」
この女性の言葉を好意的に見れば、「あやめ」という個人を認められたことになる。
でも、悪意を持って聞けば姐さん、つまり彼女たちの上に立つ者として認めないということになる。
(どちらかは、これからになるかしら)
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見た目は穏やかに終わった挨拶が終わり、身支度を整えた部屋に戻ったあやめは大きく息を吐いた。
先に着替えたほうが楽だと分かっていたが、あやめは部屋にあった籐の椅子に座った。
「よくやったな」
不意に聞こえた冬弥の声に、あやめは驚いて部屋の入口のほうを見た。
「いつ、お帰りに?」
あやめの言葉に、冬弥は口元を緩めただけ。
でもその表情に悪戯が成功したようなものを感じて、あやめは冬弥が外出などしていなかったことを理解した。
「かくれんぼ、ですか?」
「年甲斐もないと責めるか?」
「さあ……楽しければ、何よりです」
「楽しかったぞ」
あやめの振る舞いは満足できるものだったらしい、あやめは少しだけ笑った。
その夜、深夜近かったが、あやめの部屋には灯りがついていた。
あやめは、机に広げた資料から顔を上げる。
神崎芸能の過去十年分の報道履歴、所属タレントのスキャンダル傾向、記者の名前と所属、SNSの拡散パターン。
それらを、蛍光ペンで色分けしながら、ノートにまとめていく。
「この記者が書くのは神崎芸能のスキャンダルばかり。ターゲットはいつも“若手男性”で、必ず女性側の証言が先行してる。つまり、情報源は……」
独り言を呟きながら、あやめはペンを走らせた。
政治家秘書として、何度も“火消し”の現場を見てきた経験が、今ここで活きていた。
「まだ寝ないのか?」
背後から声がして、あやめは振り返った。
冬弥が、書斎に入ってきた。
右手には、ウイスキーが注がれたグラスを持っていた。
「意外、だったな」
「私が、ですか?」
「最初に会ったときは、もっと……そうだな、“いいとこのお嬢さん”という感じだった」
「今は?」
「少なくとも“お嬢さん”ではないな」
冬弥の言葉に、あやめは少しだけ笑った。
「それは、褒め言葉ですか?」
「好きなように取ってくれ」
冬弥は、グラスを片手にソファに腰を下ろした。
あやめは、資料を閉じて彼の向かいに座った。
「あなたの望む“神崎の女”とは?」
「俺が見落とすものを拾い、俺が届かない場所に手を伸ばす。俺を補ってくれる……そういう存在だな」
「影のように?」
「影と光は揃って完璧だ。光だけじゃ人は守れない」
あやめは、しばらく黙っていた。
冬弥の言葉が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「お前の判断は、俺にはないものだ。お前を見てると……なんだろう。俺の何かが揺らぐ」
冬弥の言葉は、あやめの心を揺らし、あやめは反射的に目を伏せてそれに抗った。
その日、神崎邸にさくらが訪ねてきた。早苗から「お姉様がいらしています」と告げられたとき、あやめは一瞬、耳を疑った。あやめと姉さくらの関係は、悪くないが、良くもない。互いに干渉し合わない距離感にいる、ようにしている。「姉が? 何か、用事で?」「いいえ、“妹の顔を見に来た”と仰っられて、柊家のご令嬢でしたし、応接間にお通しいたしました」「……ありがとう」父である柊謙一の用事で来たのだとあやめは期待したが、早苗の回答にため息を吐いた。姉さくらは、時折こうしてあやめとの距離を詰めようとする。ただ、あやめの過去の経験から、姉さくらのこの行動は好意的な理由ではない。いままでは、自分の引き立て役とすることが多かった。でも、ここは観客などいない。なんのために来たのか。理由が読めないのが、あやめには怖かった。---応接間に入ると、さくらはいつもの様に上質なワンピースに身を包み、優雅に紅茶を口にしていた。 その姿は、まるで舞台の主役のように完璧だった。「あら、あやめ。元気そうで安心したわ」「お久しぶりです、お姉様……その、どうして急に?」「妹が極道の妻になったって聞いたら、普通は心配になるじゃない」姉さくらの言う”極道の妻”になったのは、もう数カ月前の話。入籍直後ならまだしも、どう聞いても口実にしか聞こえなかった。(そして、それはここで言っていい言葉ではない)姉さくらが”極道の妻”と言った瞬間、後ろに控えている鷹見と早苗の雰囲気がピリッとした。さくらとしては、いつも通りあやめを貶めたかったのだろうが、この場合はそう聞こえない。特に”姉妹”だと先入観があれば、極道を馬鹿にされたと感じてしまう。 「お父様は、お元気ですか?」あやめは無難な話題を振り、ぴりついた雰囲気を宥めることにした。「そうそう、お父様も、あなたのことを“よくやってる”って褒めてたわよ」その言葉に、あやめはわずかに眉をひそめた。 父が自分を褒めるなど、あやめは珍しいと思ったし……。(どこでそんな話題になったのかしら)「神崎冬弥さん」姉さくらが冬弥の名を語る声に、あやめは嫌な予感がした。まるで蜜のような甘い声。この声はいつも……。「神崎冬弥さん。とても素敵な方ね」さくらは紅茶の入ったカップを置き、あやめの目をまっすぐに見た。「ねえ、あやめ」
神崎芸能の本社ビルは、都心の一等地にそびえるガラス張りの高層ビルだった。あやめは、週に数回このビルを訪れていた。表に出ることはないが、何となく手持無沙汰を解消するように仕事をしていて、冬弥の日程調整や文書確認、広報部と連携して戦略の立案など、あやめの仕事は多岐に渡っていた。 「神崎様、次の会議は十時から。その後、広報部長との面談が十一時半。午後は新規プロジェクトの契約締結式がございます」そう告げるのは、冬弥の秘書の一人である水原玲奈。冬弥の指示で、あやめが来るときはあやめの秘書のような立場になっている。二十七歳、二十五歳のあやめと二歳違いだが、スレンダーな体型に黒のスーツを纏い、知的な眼差しを持つ女性のため水原玲奈はあやめの目にも大人っぽく見えた。水原玲奈の所作には一切の無駄がなく、声のトーンも落ち着いている。秘書としては申し分ない、あやめはそうは思っている。「水原さん、いつもありがとうございます」あやめが声をかけると、水原は一礼して微笑んだ。「いえ、神崎様のご指示が的確なおかげです」(”神崎様”……ね)水原玲奈は、あやめのことを「神崎様」と呼ぶ。決して「奥様」とは呼ばない。奥様という名称は誰かに付随するものだから、「神崎様」という名称は個を尊重しているとも言える。しかし、”そう”ではないことは、あやめも感じ取っている。---ふと視線を感じてそちらをみると、あやめの目に、会議室のガラス越しに、冬弥と水原玲奈が並んで座っているのが見えた。あやめと目が合うと、水原玲奈は満足気に笑って会釈をする。その行動が冬弥の気を引いたのか、それとも冬弥に気になることがあったのか、冬弥が水原玲奈に話しかける。何も、不思議な光景ではない。
神崎邸で「神崎」の姓をもつのは冬弥とあやめだけだが、神崎邸には龍神会の組員たちや住み込みの家政婦など大勢の人間がいる。広い神崎邸は「神崎」のプライベート空間と、その他のエリアがある。あやめは毎朝身支度を整えると、「神崎」のプライベート空間から出てダイニングに向かう。廊下に差し込む光は柔らかく、庭の緑はよく手入れされていて、空気は澄んでいる。何もかもが整っていて、何もかもが満たされている――はずだった。しかし、最近のあやめの胸の奥には、言葉にできない“空白”がある。---「おはようございます、奥様」早苗さんがあやめの朝食の準備を整えながら、いつものように声をかけてくる。「おはようございます」あやめは微笑んで答え、いつもの自分の席に着いた。目の前のテーブルには、栄養バランスの取れた和食が並んでいる。味噌汁の湯気が立ちのぼり、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。「早苗さん、冬弥さんは?」「本日は撮影現場の視察に行くそうで、早朝に出られました。午後には神崎芸能本社に戻られる予定です」「そう。ありがとう」あやめは箸を取ったが、食欲が出なかった。口に運んだ味噌汁の味が、妙に薄く感じられる。 あやめと冬弥は寝室が別だ。白い結婚――それが、あやめと冬弥の関係を表す言葉だった。政略結婚の形式だけの夫婦が、別の寝室を使うことは珍しいことではない。互いに干渉せず、あるときに”夫婦の役割”を果たす。ただ、あやめはその”役割”を果たしていない。正直なところ、最初はそうであることにあやめは安堵していた。知らない男と暮らすことにあやめは警戒していたからだ。この屋敷にきた夜も、入籍したあとのいわゆる初夜も、冬弥が離れていってホッとしていた。けれど、今―
人間は、環境に慣れる。それがどれほど理不尽であっても、どれほど不自由であっても、時間が経てば、心も身体も順応してしまう。あやめは、神崎邸の中庭に面した縁側に腰を下ろし、雨上がりの空を見上げていた。梅雨は明け、空は夏らしく蒼かった。「暑くなってきたわね」誰にともなく呟いたあやめの声は、庭の緑に吸い込まれていった。冬弥に初めて会ったのは梅雨の最中。いまは夏。この屋敷に来てから、時は経っている。そして、この環境にすでに順応しているわが身にあやめは呆れる。自分は意外と図太い人間だったのだ、と。この結婚を、あやめは最初は檻に例えた。自由を奪われ、名前を変えられ、知らない男の妻にされた、いわば被害者のような心境で、この結婚は、あやめにとって“人生の終わり”のようにも思えた。だが今、こうして静かな庭を眺めながら、あやめはふと、思うのだった。私は、もともと檻の中にいたのかもしれない、と。―― 価値観、という名の檻。 これまでのあやめは、柊謙一の娘としての人生を送っていた。それは、常に“正しさ”を求められる日々だった。言葉遣い、姿勢、交友関係、服装、表情、全てにおいて「正しくあれ」と躾けられた。(正しいとは、何だったのだろうか)あの頃の「正しい」は、柊家が基準だっただけ。あの世界で求められるものを体現してこそ、「正しい」と認められた。あやめの姉のさくらは、その基準を完璧に体現していた。穏やかな言葉遣い。指の先まで神経が通ったような仕草。父の望む交友関係を築き、はやりの服にその身を包む。美しく、社交的で、誰からも愛される存在の姉さくら。将来は政略結婚であっても、最も良い家に嫁ぐことが当然とされていた存在。
「姐さん、今日は“ご挨拶”に行っていただきます」あやめの朝食が終わる頃、ダイニングにやってきた鷹見がそう告げた。あやめの生活面は早苗があれこれやってくれるが、神崎の女としての仕事は鷹見があれこれやってくれるのだと、あやめは理解していた。“ご挨拶”――その言葉の意味を、あやめはすぐに理解した。龍神会の幹部たちの妻たちに、龍神会組長の妻として正式に顔を見せること。形式的なものとはいえ、裏社会における“序列”を確認する重要な儀式だった。「神崎家の着物をお召しください」「ご用意しております、奥様」早苗に案内された和室、飾られていたのは深い藍色の訪問着。控えめな金糸の刺繍が、品のある光を放っていた。 着付けを終えたあやめは、鏡の前に立った。髪はきっちりと結い上げられ、耳元には真珠の簪が揺れている。見慣れない和装ということもあって、まるで別人のようだとあやめは思った。「馬子にも衣装、ね」思わず漏れたあやめの本音に、早苗が微笑んだ。「姐さん、極道の世界では美しさなど二の次とは言いませんが、その身に覚悟を宿したものがとっても美しく見えます。大事なものは、目の奥にあるものです」その言葉に、あやめはわずかに目を伏せた。“美しさ”――それは、姉・さくらの代名詞。どこへ行っても、どんなときも、姉さくらはその美しさで注目を集めた。よい縁組には美しさが必要。それが姉さくらの身上だった。美しさが必要な世界では、あやめはさくらの影にいた。だが、今のあやめは、さくらの“影”ではない。いまいる世界では、美しさを必要としていない。---顔合わせの会場は、神崎家の最も広い和室だった。広い部屋に煌びやかな女性たちが、キレイな配列で並
神崎芸能の会議室は、重苦しい空気に包まれていた。広報部長、今回スキャンダルを起こしたという俳優のマネージャー、法務担当者。彼らが揃って冬弥の前にひれ伏すように並ぶ。あやめは冬弥の彼の斜め後ろで、控えるように座っていた。「週刊『真実』が来週号で例の件、狩野が未成年と飲酒、その後に性交渉までいたった件で記事を出すそうです」広報部長が、青ざめた顔で報告した。 俳優の狩野は、神崎芸能が今もっとも推している若手俳優だ。来月にはゴールデンタイムのドラマ主演が決まっており、スポンサーも大手企業が並んでいた。「証拠は、何かあるんだな」冬弥の言葉に、あやめは神崎冬弥が証拠がない前提でうやむやにしようとしていたことが分かった。(苛立ちが、分かる)冬弥の声は低く、冷静だったが、声から感じる音が、第三者的にこの馬にいるあやめの肝も冷やした。「こちらです」プリントアウトされた写真、おそらくその一部は雑誌に載るだろう写真だろう。未成年らしき女性と一緒に飲んでいる写真、女性に狩野が大胆に触れる写真、ホテルに入っていく写真。(あら……)「これは?」「おい……」見るなどでも言うように冬弥が制止するようあやめに声をかけたが、あやめは手で制した。写真は、シャワーを浴びたあとと思われる狩野の姿と、いわばハメ撮りと言われる行為中の写真。「この写真ですが、こちらの性交渉中の写真は狩野が撮影したのですか?」「そうです」「データのやりとりは? メッセージアプリなどの履歴はありませんか?」狩野の担当マネージャーが、該当するメッセージのやり取りを印刷したものをあやめに渡した。「メッセージのやり取りはこれで全てですか?」「はい。狩野本人の画面も確認しました」(それなら……)「この相手の女性は狩野の熱狂的なファンであり、年齢を偽って狩野に接触したことにしましょう。この性行為中の写真は彼女が記念として撮ったことにし、狩野からデータを送っている件は思い出の共有、狩野が彼女に送ると約束することにしましょう」「相手の女性がSNSで、性的関係を強要されたと匂わせる投稿をしておりますが」「放っておきましょう、その手のことに証拠はありませんもの」あやめの口封じ策は、狩野が強要したなら被害女性を追い込むことになる非道の手口だ。それを虫も殺せないような穏やかな表情であっけら