汐恩には、自分が生きているのか死んでいるのか、もうわからなかった。気がつけば、一面真っ白な空間に立っていた。空も地も、すべてが真っ白だった。生死はどうでもよかった。彼が気にしていたのはただ一つ、綾羽と子どもが無事かどうか。これまで苦労ばかりだった彼女が、ようやく穏やかな生活を手にしかけたところだったのにどうしてこんな時に、命を奪うなんてことが起こるんだ。彼は歩き出した。しばらく進むと、見覚えのある風景が現れた。あのレストランの前。彼が綾羽を乱暴に突き飛ばし、美玲だけをかばった場面。病院では、綾羽の首を締め、美玲に土下座させようとし、美玲の冷たい目が、綾羽の惨めさを際立たせていた。洗面所では、容赦なく熱湯を浴びせ壁際へ追い詰め、彩葉の治療費を盾に、血を流しながら頭を下げさせた。客間では、心無い言葉で彼女を傷つけ、無理やり迫ろうとした。あのとき、彼女がなぜそこまで拒んだのか、今ならわかる。すでに妊娠していたのだ。過去の場面が次々と浮かび上がり、無音のフィルムのように彼の前で繰り返された。膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣いた。どうしてあんなにも冷酷だったのか。どうして彼女の想いに気づけなかったのか。すべてが取り返しのつかない後悔に変わっていた。もし償えるなら、命を差し出してもいい――そう願いながら、彼は力を振り絞って目を開けた。まぶしい光に思わず目を細める。体中の痛みが、まだ生きていることを示していた。首をゆっくり動かすと、綾羽がベッドのそばに座っていた。驚いて目を見開いた。幻覚かと疑い、動けずにいると、綾羽が手話で伝えた。「やっと目が覚めたのね」その顔には少しだけ微笑みが浮かんでいた。彼女は、ほっとしたようだった。汐恩は、嬉しさとともにどこか寂しさを感じた。綾羽が笑ったのは、自分のためではない。ただ、恩を残したくなかっただけなのかもしれない。それでも、彼は少しだけ救われた気がした。綾羽は無事で、自分もまだ生きている。怪我の程度は重く、汐恩は半月ほど入院してからようやく退院を許された。この町に一ヶ月以上も滞在した。もう会社も誤魔化しきれない頃だった。出発の日、空は晴れていた。汐恩は荷物を手に、レストラン彩葉の前に立った。だが今回は中に入らなかった。もう綾羽の顔
この町に滞在している時間があまりに長くなったせいで、ついに汐恩の両親から電話がかかってきた。「口もきけない女のために死にそうになってるって?そんな情けない奴に育てた覚えはない!」罵詈雑言に、汐恩は何も言わず、ただ聞いていた。ひとしきり罵倒されたあと、「さっさと帰ってこい」と言われたが、彼はただ一言、「帰らない」とだけ答え、電話を切った。綾羽は、そんなやりとりがあったことを知らないし、汐恩も話すつもりはなかった。やがて綾羽の両親の命日がやって来た。汐恩は自ら申し出て、一緒に墓参りへ行くと言った。彼が来ると決めた以上、綾羽に止めることはできず、二人で霊園に向かった。綾羽の両親の墓は並んで建てられていた。汐恩にとって、ここに正式に手を合わせるのは初めてのことだった。彼は裕福な家庭に育ち、綾羽が病気の妹を抱えて、どれほどの苦労をしてきたか、想像もできなかった。そんな彼女を、傷つけ続けてきたのは他ならぬ自分だ。墓前に膝をつき、香を焚きながら、汐恩は心の中でさまざまな言葉を告げた。それがどんな言葉だったのか、彼は綾羽に語らず、綾羽も問いただすことはなかった。きっと、遅れてやってきた懺悔なのだろうと、彼女は察していた。それからも、汐恩は毎日彼女の店に顔を出した。まるで出勤するかのように、真面目に通い詰めた。綾羽は最初こそやんわりとやめるよう言ったが、まったく効果がないとわかってからは、何も言わなくなった。妊娠三ヶ月。お腹も少し目立ち始め、汐恩も奏多も、綾羽の一挙一動に過剰なほど気を配るようになった。汐恩に至っては、どこで手に入れたのか妊婦向けのチラシを読み漁り、なんと自分ひとりで妊婦教室に通い始めた。妊婦教室といえば、通常は夫婦か妊婦本人が行くものだ。だが、汐恩は男ひとりで参加し、周囲の妊婦たちの中で異様な存在感を放っていた。そんなある日、奏多が綾羽に冗談めかして言った。「こんだけ見てると、あいつ.....ほんとに変わろうとしてるっぽいな。復縁とか考えたりしてないの?」綾羽は手を動かしながら、静かに首を横に振った。奏多は満足そうにうなずいた。「世の中、男なんていくらでもいる。わざわざあいつに戻る必要なんてないって」その日は店が忙しくなっていた。近くの大学から、新聞
綾羽は先に病院を出て、入口の前で奏多からのビデオ通話を受けていた。新しい料理について、意見を求める内容だった。汐恩が薬の入った袋を持って出てくると、綾羽が手話で楽しそうに奏多と話している姿が目に入った。彼は足を止めた。その穏やかな空気を壊すのが惜しくて、近づくことさえためらわれた。こんなふうに綾羽が自然に笑っているのを見るのは、いつぶりだろう。昔は、よく笑う子だった。けれど、その笑顔は日々の中で少しずつ――自分の冷たさに削られて、消えていった。汐恩はその姿を名残惜しそうに見つめてから、ようやく足を進めた。綾羽は彼の姿に気づき、一瞬驚いたような顔をした。まるで、彼の存在すら忘れていたかのように。「もう平気だ。帰ろうか」汐恩が苦笑しながらそう言うと、綾羽は無言でうなずいてスマホをしまった。さっきまで浮かべていた笑顔は、嘘のように消えていた。彼女は黙って車に乗り込んだ。表情はすっかり無機質になっており、助手席に汐恩が乗るのを、何の感情も見せずに待っていた。車内では、二人とも一言も喋らなかった。やがて、レストラン彩葉の前に車が止まると、汐恩が先に降りた。綾羽はそのまま車を近くの駐車場へ回した。その間、奏多が腕を組んで店の前に立っていた。そして汐恩が綾羽の車の去っていく方向をじっと見ているのに気づき、皮肉げに笑った。「で、今さら何だ?本気ぶってんのか?」その言葉には、あからさまな嘲りが滲んでいた。汐恩の表情が一気に険しくなる。彼が優しさと我慢を向けられるのは、綾羽に対してだけだ。他人に対しての彼は、昔と変わらない――プライドの高い御曹司そのものだった。「どういう意味だ」「文字通りだよ。お前がどれだけ彼女を傷つけたか、忘れたのか?家出させて、妊娠した彼女が一人で小さな飲食店で働いて、ようやく少し落ち着いたところに、今さら顔出して‘やり直したい’だ?」「お前、頭は回るくせに、なんでこんな図々しいことできるんだ?綾羽がまったく相手にしてないの、見りゃわかるだろ?」奏多は綾羽のすぐそばで、彼女の苦労をすべて見てきた。だからこそ、遠慮なく言えるのだった。彼の言葉は、どれも事実だった。けれど、あまりにも真っ直ぐすぎて、聞く者には刺さる。汐恩は眉をひそめ、目を
汐恩はようやく、自業自得という言葉の意味を思い知った。綾羽の愛情を、無駄にしたのは――他でもない、自分自身だった。「俺、お前を傷つけるようなことをたくさんしてきた。本当にバカだった。でも今はわかったんだ。美玲よりも......俺は、お前のほうが大切なんだ」その言葉は、まるで深い愛を語るように聞こえた。だが、綾羽にとってはただの‘笑い話’だった。「それって......私が妊娠してるから?」汐恩は慎重に手話の意味を読み取り、すぐに首を横に振った。「それは関係ない。お前が妊娠してるなんて、来るまで知らなかった。俺は......お前に会いたくて来たんだ」綾羽は穏やかに微笑んでいた。知らない人が見れば、嬉しそうにも見えるかもしれない。けれど近くで見れば、それがどこか他人行儀で、距離を置いた笑みだとわかった。「結局......都合よく働いてくれる家政婦でも欲しいんでしょ」その手話に、汐恩は言葉を詰まらせた。反論したいのに、なぜか口が動かない。気がつけば、綾羽はすでに階段を降りて行っていた。汐恩は悔しさに顔を歪め、慌てて後を追った。店では、綾羽が奏多と席を並べ、手話で新しい料理の打ち合わせをしていた。奏多は笑顔で、できたばかりの料理を綾羽に見せながら、改良点を楽しそうに語っている。まるで、何年も前からの仲のように自然だった。それを見ていた汐恩の胸には、もやもやとした嫉妬が湧き上がってきた。どこか焦るような気持ちのまま、唐突に口を開いた。「俺も......料理、ちょっとできるんだ。綾羽、ちょっと待ってて。得意料理を作るから」綾羽は驚いた。この大企業の御曹司が、料理なんて?初耳だった。だが、あまりに自信満々な様子に、断るのも悪く感じて、黙って後ろ姿を見送った。もちろん、汐恩に料理の腕などなかった。ただ、奏多の前で見せ場を作りたかっただけだった。慣れない厨房の道具を前にして、逃げ場のない汐恩は、スマホでレシピを検索し始めた。だが、要領も悪く、不器用さ全開だった。蒸し器のフタを開けようとした瞬間、勢いあまって腕を火傷してしまい、思わず大声を上げた。皮膚はすぐに赤く腫れ、痛みに顔をしかめる。綾羽は驚き、すぐに駆け寄った。どれだけ嫌っていても、見て見ぬふりはできない
綾羽に汐恩の目的がわからないはずがなかった。けれど、家を買うのは彼の自由で、追い出すことはできない。だから無視するしかなかった。あの日以来、汐恩は毎朝七時半にやって来て、丁寧に用意された朝食を持ってきた。見ればすぐに高級品だとわかる。綾羽にも察しはついた。きっと近くの高級ホテルから取り寄せているのだろう。「さっぱりした味が好きだって言ってたから、油少なめにしてもらった。海鮮粥もいい素材使ってるから、食べてみて」汐恩の目は熱っぽく、どこか緊張していた。何度も拒まれているせいで、食事を渡すだけでも慎重だ。案の定、綾羽は今回も受け取らなかった。【もう私に時間を使わないで】綾羽はスマホにそう打ち込み、保温容器を指さして、持って帰るように示した。汐恩は唇を結んだまま、まだ諦めきれない様子だった。これまで何でも思い通りに手に入れてきた彼にとって、綾羽だけがどうしても思うようにならなかった。無力さと戸惑いが押し寄せてくる。「食べたくないならいい。でもこのサプリは受け取って。妊婦にいいって、医者に聞いて選んだんだ」ドアの前に積まれたサプリのパッケージは、ほとんど外国語表記だった。綾羽には、それが高価なものだとすぐにわかった。以前なら感謝したかもしれない。でも今は違う。欲しければ自分で買える。綾羽が断る前に、汐恩は隣の部屋に素早く戻り、鍵をかけた。綾羽が無駄に物を捨てない性格だと知っているから、彼はそれを狙っていた。ドア越しに綾羽が品物を片づける音を聞いて、ようやくホッとしたように彼は出てきた。再び綾羽と目が合った。綾羽は呆れたように首を振った。まるで、手のかかる子どもを相手にしているような気分だった。彼女が階段を降りようとすると、汐恩は何を思ったのか、突然背を向けて片膝をついた。「俺が背負うよ。階段高いし、あとでエレベーターをつけさせる」綾羽はその背中を見つめた。あの背中に何度置いて行かれ、どれだけ傷ついたか。けれど今、その背中は自分の前にひざまずいている。思わず、綾羽は静かに笑った。人生は本当にわからない。しばらく動かない綾羽に、汐恩が振り返った。彼女の顔は穏やかすぎるほどで、まるで退屈な映画でも見ているようだった。そして彼女は無言のまま、彼を避けて階段を降りて
綾羽の身体は、打撲こそあったものの、幸い命に関わるような大怪我ではなかった。しばらく静養すれば元のように動けるだろうと医者にも言われていた。あの事件以来、汐恩は彼女の安全に異常なほど神経を尖らせるようになった。綾羽の知らぬ間に数人のボディーガードを手配し、交代で彼女を警護させていた。自分自身も、毎日「レストラン彩葉」の周囲で見張るようにしていた。綾羽はそんな彼に「そこまでしなくてもいい」と何度も伝えた。けれど、汐恩はまるで強迫観念にとりつかれたように、どんな説得にも耳を貸さなかった。綾羽はもう疲れてしまい、いっそ放っておくことにした。美玲が逮捕されて以降、汐恩は弁護士と共に事後処理を進めていた。彼は綾羽に誓うように言った。「絶対に、美玲には相応の罰を受けさせる。最大限の償いをさせるから」綾羽はため息をついた。汐恩が自分に対して負い目を感じているのは分かっている。だが、彼女が欲しいのはその「罪滅ぼし」ではなかった。【美玲だけが悪いわけじゃない】――綾羽は、スマホにそう打ち込んで見せた。【そもそも私があなたに近づきすぎた。それが原因】もし最初から関わらなければ、あんなことは起こらなかったのだ。もう二度と、同じことは繰り返したくない。汐恩はその言葉の意味を理解した。表情にはどうしようもない苦さがにじみ出て、それはまるで目からこぼれ落ちそうなほどだった。それでも、彼は言い訳の一つもせず、ただしばらく沈黙して――ぽつりと、こう呟いた。「......俺なんていないと思って、空気のように扱ってくれ。それでも、そばにいられるだけで、俺は満足だから」判決の言い渡しの日、綾羽は法廷に自ら足を運んだ。かつて輝くように美しかった美玲は、わずか数日でまるで別人のようにやつれていた。白髪が混じり、顔には深い疲労の色が刻まれている。彼女は陪審団に必死にすがりつき、「ほんの出来心だった」と涙ながらに訴えたが、法律の前ではそんな言葉に意味はない。判決は――殺人未遂、誘拐罪の併合により、実刑八年。法廷の刑務官に連れられ、美玲が傍聴席の前を通り過ぎるとき、彼女と綾羽の視線が、ぴたりと交差した。その瞬間、美玲はまるで狂犬のように怒鳴り散らした。「このクソ女!お前のせいで、全部お前のせいで私の