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第3話

Auteur: 三原 笑
綾羽は、一人で自宅へ戻ってきた。

家に着いてすぐ、荷物をまとめ始めた。

もともと持ってきたものが少ない上に、汐恩の家に嫁いで日が浅かったため、荷物はさほど多くなかった。

二十インチのスーツケースひとつに、すべてが収まった。

誰もいない広々としたリビングに立ち尽くすと、綾羽はそっと自分のお腹に手を当てた。

理由もない寂しさが、胸の奥に染みこんでいく。

ここは、自分の居場所じゃない。

もとから分かっていた。

結婚したとはいえ、結局は赤の他人。

やがて、この家から離れる時が来るだろうと。

唯一心残りなのは、今も病院にいる妹のことだった。

伊丹家からのお金の支援がなければ、一日たりとも持ちこたえられないだろう。

そのとき、玄関の扉が突然開かれた。

綾羽は驚き、咄嗟にスマホをしまい込んだ。

汐恩が慌ただしくリビングへと入って来た。

スーツケースを持つ綾羽を見て、彼は無言でその手首を掴んだ。

「何やってんだよ。悪いことして逃げる気か?」

その言葉に綾羽は、戸惑いを隠せなかった。

自分がまた彼を怒らせたというのか?心当たりは、まるでなかった。

しかし、黙って出て行こうとしていたことに、少しばかり後ろめたさを感じていたのも事実だ。

彼女はスマホを取り出し、文字を打った。

「暇だったから、古着を整理して、寄付しようとしただけ」

汐恩はそれに目を通した。疑いはしなかったが、それが返って彼の怒りを煽った。

「美玲は、お前が取り分けた料理のせいで、急性胃腸炎になって、今も病院で寝てるんだぞ?そんなときにお前は、呑気に服を整理してたのか」

冷たく言い放ったあと、彼は決定的な命令を下した。

「お前のせいでこうなったんだ。退院するまで、美玲の世話をしろ」

綾羽は言葉を失った。

自分が、美玲を病院送りにした?

美玲に料理を取り分けた覚えなんて、ない。

反論したかったが、汐恩は彼女の説明など一切聞く気がなかった。

そのまま綾羽を車に押し込み、問答無用で病院へと向かった。

車内でも、綾羽は必死にスマホを使って弁明しようとしたが、汐恩は一度も画面を見ようとしなかった。

そのとき、彼女は悟った。

真実なんて、どうでもいいのだ。

汐恩にとって自分は、「家政婦」同様なのだ。

この一件は、彼の不満や怒りをぶつけるための材料にすぎなかった。

彼女はやるせなさそうに、苦い笑みを浮かべていた。

自分の妻に、元カノの世話をさせるなんて、伊丹汐恩という男は、どこまでも冷酷だった。

病院に着くと、汐恩は駐車をするため、綾羽を先に一人で病室へ向かわせた。

病室の扉を開けると、ベッドに横たわっている美玲が目に入った。

彼女はわざとらしく優しい笑顔を浮かべ、言った。

「わざわざ来てくれてありがとう。ごめんなさいね、私のせいで......でも汐恩ったら、どうしてもって聞かなくて。私のことが心配で仕方ないんだって」

その言葉は、笑顔に包まれていながらも、鋭利な刃のように綾羽の心をえぐった。

綾羽は無言で、微かに口元を引きつらせたが、「看病に来たんだから」と自分に言い聞かせ、美玲に水を注いであげることにした。

ポットの中の水は、まだ沸きたてのように熱かった。

綾羽はグラスに注ぎ、美玲に手渡した。

「熱いから気をつけて」そう伝えたかったが、彼女は声が出せない。

身振りで伝えようとした、その瞬間だった。

美玲の手が、わざとらしく震えた。

グラスの中の熱湯が、彼女の手の甲にこぼれた。

「きゃあっ!」

美玲が叫び悲鳴を上げた。

綾羽が驚き、美玲を洗面所に連れて行こうとしたその瞬間、病室の扉が開き、怒気をまとった汐恩が飛び込んできた。

「何してるんだ!」

彼は、美玲の赤く腫れ上がった手を見て、声を荒げた。

綾羽が慌てて手話で説明しようとしたが、美玲が泣きながら訴えた。

「私......ただお水をお願いしただけなのに、彼女が急に怒りだして、熱湯をかけられたの。汐恩、すごく痛いよ......」

綾羽の目が大きく見開かれた。

違う、そうじゃない――!

「あ、あ......」必死に声を出そうとするも、うまく言葉にならない。

汐恩の視線は、氷のように冷たかった。

彼は無言で立ち上がると、綾羽の頬に強烈な平手打ちを放った。

打たれた衝撃で、綾羽は床に倒れ込んだ。

白い頬が、みるみる紅く腫れ上がった。

「謝れ」

冷たい声で命じながら、彼女の首の後ろを掴み、美玲の前へ無理やり跪かせた。

綾羽は痛みと悔しさに震えながら、目に涙を浮かべてうめき声を漏らした。

それでも彼は許さなかった。

「喋れなくても、土下座くらいできるだろ」

綾羽は顔を上げようとしたが、彼の腕の力に負けてしまった。

無意識に噛み締めていた唇から、血が滲んでいた。

彼女は人生で、天に、地に、そして両親に跪いたことがある。

だが、夫に元カノへの土下座を強いられる日が来るとは、思ってもみなかった。
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