Share

お互いのこと-01

last update Dernière mise à jour: 2025-01-11 05:04:00

四月、海斗は年長へ進級し、プール教室もクラス替えになった。

顔付けや潜ることができるようになった海斗はひとつ上のクラスになり、担当の先生も新しくなった。

海斗は担当の先生が杏介でなくなり残念そうにしていたが、子供の順応性とは高いものですぐに馴染んで楽しそうにしている。

そのことについて全く問題はないというのに、なぜだか紗良の方が残念な気持ちになっている。

心のどこかで海斗は杏介じゃないとだめだと思っていたのだろうか?

それとも海斗をダシに杏介に近づこうと思っていたのだろうか?

いずれにせよ、妙な喪失感に襲われている。

きっとこれは四月だから。

年度がかわっていろいろなことに忙しいから。

だから心が弱くなっているのだと、紗良は無理やり結論づけた。

そうやって慌ただしく四月が過ぎていき、あっという間にゴールデンウィークになった。

休みの日は杏介に会いたいなと思っていた紗良だが、どうやら短期プール教室があるらしく杏介は出勤の日々の様子。

「一日くらいどこか行こうか?」

「でも杏介さんはその日しかお休みないんでしょう? お出かけしたら疲れちゃうよ」

「紗良と海斗に会えるなら疲れも吹き飛ぶよ」

「海斗、ますますわんぱくになってるから相手するの大変だよ」

「だったら毎日海斗の相手してる紗良こそ、少しはゆっくりしないと。というわけで、お出かけ決定な」

そうやって少々強引に予定が決まっていく。

甘やかされている気がして、嬉しい気持ちが大きく膨らんでいくようだ。

(海斗よりも喜んでいるんじゃないだろうか、私)

張り切って朝からおにぎりを握り、卵焼きとタコさんウインナーとほうれん草のおひたしをこしらえる。デザートにはパイナップルに可愛いピックを刺して。それらをしっかりとリュックに詰め込んで。

「あらあら、朝から張り切ってるわねぇ」

紗良の張り切り具合に母がニヤニヤと覗きに来る。

「か、海斗がタコさんウインナー好きだから」

「はいはい、杏介くん喜んでくれるといいわね」

「うっ……うん」

なにもかもお見通しのようで妙に気恥ずかしい。

言い訳をすればしただけ、自分の首を絞めるようだ。
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Related chapter

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-02

    杏介のお迎えに、海斗はジュニアシート持参で意気揚々と助手席に乗り込む。海斗はいつも助手席に乗りたがり杏介も快く受け入れている。そんな二人のやり取りを、紗良はぼんやりと後部座席から眺める。今まではそれがとても好きだったし、それでいいよと思っていた。それなのに、最近紗良と杏介二人で出かけることが増えたせいか、紗良も助手席に座りたいと海斗に対抗心が芽生えていることに気付いてそわそわと落ち着かなくなっている。(こんなの大人げないわ)そう、頭ではわかっているのだ。「海斗、この席は順番だぞ。行きは海斗が座ってもいいけど帰りは紗良姉ちゃんと交代な。わかったか?」「わかったー!」まるで紗良の心を見透かしたかのようでドキリとする。杏介は上手く海斗を説得するが、海斗は本当にわかっているのかどうなのか、空返事だ。けれどこうやって配慮してくれることが嬉しくて、いつの間にか紗良の心は落ち着いている。一喜一憂してしまう自分はなんて単純なのだろうと、紗良は人知れず笑った。やってきた動物園はウサギの餌やり、モルモットの餌やり、鯉の餌やり、と様々な体験ができる施設だ。餌を手にした海斗は目をキラキラさせて夢中になった。小さな動物は口も小さくモシャモシャと食べる姿が可愛らしい。海斗もモルモットを膝の上にのせてご機嫌だ。「さらねえちゃん、うまがいるー! みてー!」「わ、ほんとだ……きゃっ」ブルルンと鳴いて今にも柵から飛び出してきそうな勢いの馬たち。海斗は意気揚々とニンジンを手に持って餌やりする気満々だ。海斗がそっと手を出すと、ぎょろりとした目をした馬が興奮気味に口を開ける。ベロンとニンジンが持っていかれ、海斗はきょとんとした後なにが可笑しかったのか大笑いし始めた。「あはは! おもしろーい! さらねえちゃんもやってみて!」「いや、お姉ちゃんは無理だから」「えーなんでー」と海斗とやり取りをしている間に、右手にかかるあたたかい何か。嫌な予感がしてギギギと首を捻ってみれば、至近距離に馬の顔があり今にも紗良の手を舐める勢いだ。「ひっ、ひぃぃぃぃ――」卒倒しそうになる紗良を杏介が慌てて受け止める。「おっと!」「さらねえちゃん、しなないでー!」海斗が冗談なのか本気なのかよくわからない煽り方をして、理不尽にもあとでこっぴどく叱られたのだった。

    Dernière mise à jour : 2025-01-11
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-03

    動物園には芝生の広場もあり、たくさんの家族連れで賑わっている。紗良たちもまわりに植えられている木の影を狙って持ってきたレジャーシートを敷いた。 ちょっとした秘密基地のようで海斗のテンションも高くなる。持ってきた水筒のお茶をグビグビと飲んでからリュックをあさり出した。「まさか紗良があんなにも馬がだめだなんて知らなかったな」「実は動物も虫も苦手なの」「じゃあ動物園は嫌だった?」「ううん。檻に入っていれば大丈夫だし。海斗が楽しそうだからそれでいいよ。でもさすがに馬はきつかったかな。さ、お弁当にしよ」「お弁当作ってきてくれたんだ?」「大したものじゃないけど。杏介さん嫌いな食べ物なかった?」「ないよ。何でも食べる」ドキドキと緊張しながらお弁当箱を取り出すと横から海斗が「はやくはやくー」と急かす。 蓋を開ければお弁当独特の柔らかいにおいがふわっと香った。「やったー! タコさんウインナー!」「こら海斗! いただきますは? あっ、ほら、ほうれん草も食べなきゃダメよ。……杏介さんどうかした?」お弁当を見てじっと固まってしまった杏介に、紗良は恐る恐る尋ねる。 もしかして手作り弁当は迷惑だったのかもと心配になったのだが、どうやらそうではないようだ。「いや、なんか感動っていうのかな。タコさんウインナー初めて見たから。こんな感じなんだ……と思って」「せんせー、タコさんウインナーすき? さらねえちゃん、カニさんウインナーもつくれるよ。あとおはな」「そうなんだ、それはすごいな」「えっ! ただ切れ目入れるだけなんだけど。簡単すぎて恥ずかしいなー」「いや、すごいよ」「海斗が喜ぶかなって練習したの。保育園たまにお弁当の日あるし」「海斗は幸せ者だな」「そうかな? そうだといいけど」杏介はタコさんウインナーをまじまじと眺めてから大事そうにひとつ口に入れた。 ひと噛みひと噛み噛みしめると、じゅわっと肉の味が広がっていく。 素材は普通のウインナーと変わりないというのに特別に美味しく感じるようだ。「うん、美味い!」「……ありがとう」パクパク食べる海斗と杏介の姿を見ているだけで紗良は幸せで満たされていくようだった。

    Dernière mise à jour : 2025-01-12
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-04

    午後からは併設されているキッズ遊園地へも足を運んだ。コーヒーカップでグルグル回ったり、メリーゴーランドに乗ってみたり、海斗でも乗れるキッズ用ジェットコースターが意外とスリルがあったりと、楽しくてあっという間に時間が過ぎていた。観覧車に乗るころにはもう夕方だ。今日ばかりは紗良もシフトを入れておらず、帰りの時間を気にせず目一杯遊んだ。とはいうものの、やはり海斗の生活リズムを考慮して遅くなることは避けるのだが。帰りの車では海斗はきちんと約束を守って後部座席へ座る。紗良はドキドキしながら助手席へ乗り込んだ。杏介の隣に座ることはいつでも嬉しい。車が発進すると、早々に海斗は船をこぎ出す。そんな様子をバックミラーごしに確認して、紗良と杏介は顔を見合わせて笑った。「杏介さん、今日は連れてきてくれてありがとう。 貴重なお休みだったのに」「 紗良、それはもう言いっこなしだ。俺は二人と過ごせてすごく楽しかった。いい休日になったよ」「それならよかった」「でもまさか紗良が動物嫌いだとは思わなかったな。それなのに動物園に行きたいだなんて、やっぱり海斗のため?」「それもあるけど、そういうところで杏介さんとデートしてみたかったというか、杏介さんも一緒なら大丈夫なんじゃないかなって思ったから」「で、どうだった?」「すっごく楽しかった。馬以外は。あれはダメだよ。もう、目が怖くって」「あはは。珍しい紗良が見れたのは貴重だったな」卒倒しかけた紗良を受け止めたことを思い出して杏介はくっくと笑う。「杏介さんこそ、タコさんウインナーにあんなに感動するなんて思わなかったよ」対抗するように紗良も印象深い出来事を口にすると、杏介は「あー」と言いながら頬をかいた。

    Dernière mise à jour : 2025-01-12
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-05

    「 俺さ、母親がいないんだよね」「え?」「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」「そう、だったんだ」「引いた?」「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」世の中にはいろいろな人がいる。 誰一人として環境が同じなわけではない。 そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。 きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。 そんな風に考えていた自分を反省する。「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」「そうかもしれないな」紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。 平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。 そして一人暮らし。今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。 けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。

    Dernière mise à jour : 2025-01-13
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-06

    お互いのことをよく知らない。表面上はよくわかっていても、その生い立ちや家庭環境までは踏み込んでいない。(杏介さんのこと、もっと知りたいかも……)そう思うのと同時に、紗良は自分のことも知ってもらいたいと思った。好きだから知りたい、好きだから知ってもらいたい。付き合うことはできないと断った後もこうして一緒にお出かけして、まるで付き合っているのと変わらないような関係が続いていることに自分自身喜びを覚えている、この矛盾した生活。自分のことを伝えたら杏介は呆れるだろうか。この関係は崩れるだろうか。だったとしても、今、伝えたい気がした。ずっと燻っている、紗良の気持ちを。紗良は海斗がぐっすり眠っているのを確認してから口を開く。「あのね、うちの両親は離婚してるの。私は母子家庭だけどお母さんが明るすぎて父親の存在なんて忘れちゃうくらい」「確かに、紗良のお母さんは底抜けに明るいよな」「でしょう。だからね、海斗を引き取るときも大丈夫だと思った。私もお母さんみたいにやれるって思ったの。でも実際はすごく大変でお母さんに頼ることも多くて全然できてないけど、でも私なりに頑張ってて……」「うん、すごいと思うよ。だって最初に出会ったときは海斗の本当の母親だと思ったから」「そう言ってもらえて嬉しいんだけど。でもね、最近はダメなの……」紗良は杏介を見る。運転している杏介の横顔は夕日に照らされてキラキラと眩しく、それでいて頼もしくかっこいい。(ああ、私ってこんなにも杏介さんのことが好きなんだ……)自覚すると胸がきゅっと苦しくなる。伝えるべきなのか、どうなのか迷う。だが杏介は「何がダメ?」と優しく問うた。

    Dernière mise à jour : 2025-01-13
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-07

    「……杏介さんがいてくれたらいいのにって思っちゃって。……呆れちゃうよね?」「いや、どうして?」「だって、そんな都合のいい話はないじゃない」「都合よく俺のこと好きでいてもらえると嬉しいけど」「私は杏介さんが好きだけど、でもそれは心の奥底では海斗の父親を求めているのかもしれない。そんな風に考えちゃう自分が嫌なの。……ごめんなさい」胸がヒリヒリと痛かった。紗良が誰かを好きになるということは必ず海斗がセットでついてくる。 紗良は誰かに海斗の父親を求めてはいないけれど、海斗を切り捨てることは絶対にない。 この先一緒に生きていくには結局のところ海斗の父親になってもらうということ。 たとえ表面上でも、だ。けれど杏介は「いい」という。杏介の優しさが紗良の鼻の奥をツンとさせた。「そんな風に謝るなよ。俺はそうやって利用してもらっても構わないよ。その話を聞いてますます紗良が好きになった」「……好きになる要素がどこにあるの?」「いいんだ。俺が好きだから。紗良がなんと言おうと口説いてみせるよ。だからまたこうしてデートしよう」「……うん、ありがとう」今度こそ紗良は鼻をすする。 こんなにも理解があって優しい人が、自分のことを好きだと言ってくれる。 待っていてくれる。 その事実がありがたいし申し訳ない。「くそ、今が運転中じゃなければ抱きしめられたのに」「物好きだよね、杏介さんって」「そうかな?」「そうだよ。普通こんな女面倒くさいでしょ」「うーん」杏介は首を傾げる。 ちょうど信号で止まり、ずっと前を向いていた杏介が紗良を見た。 視線が絡まると杏介の目元はくっと緩み、紗良の胸はドキンと悲鳴を上げる。杏介はすっと腕を伸ばし、紗良の髪を優しく撫でた。 ぐいっと引き寄せたいのを我慢し、代わりに心からの想いを告げる。「好きだよ、紗良」「っ!」そんなストレートな言葉は紗良の心を優しく包み込む。 とんでもなく胸がしめつけられて体の奥底から熱いものが込み上げてくるような、そんな気持ちになった。

    Dernière mise à jour : 2025-01-14
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-08

    ゴールデンウィーク明け出勤すると、いつも元気いっぱいの依美が休暇だった。紗良と依美は昼食もよく一緒に食べる。だからどちらかが休暇を取るときは事前に伝えておくか、メッセージなどで連絡をすることにしている。今日は依美からの連絡はないけれど、連休を繋げて長期連休にする社員も多いし、そんな時もあるだろうとさほど気にしていなかった。だが依美は翌日も休み、さらには翌週になっても出勤してこない。さすがに気になってメッセージを送ってみるも、まったく返事はなかった。どうしたのだろうと心配で何度もスマホを確認するが、何度メッセージを送っても返ってくることはなかった。「石原さん、松田さん、ちょっといいかな?」主任から声をかけられ、二人面談室に入る。松田も紗良と同じチームで働く、年配の派遣社員だ。「岡本さんなんだけど、体調不良でしばらく出勤できそうにないんだ。悪いけど、その間の仕事を分担して欲しい。少し大変になるかとは思うけど……」紗良と松田は顔を見合わせる。二人とも残業は無しという契約のため、増える作業量を定時間内にこなせるのか不安が過った。「岡本さん、大丈夫なんです? 私たち残業できないのであまり仕事が増えると捌ききれるかわかりませんけど?」松田が懸念事項を告げてくれたため、紗良も同意見だと大きく頷く。「とりあえず二週間お休みになるから、その間だけ頑張ってほしい。もちろん、契約通り定時で帰ってもらってかまわないよ。それに、我々もサポートするから」「……はい」としか返事はできなかった。しょせん紗良は派遣社員。与えられた仕事を請け負うことが仕事なのだ。「岡本さん心配ね。石原さん何か事情聞いてないの?」「はい、私も心配で何度かメッセージを送ったんですけど、返事がないんです」「そうなの。まあとりあえず分担して頑張りましょうか。復帰したらランチでもおごって貰わなきゃね」茶目っ気たっぷりに松田が言うので、紗良も「そうですね」と笑った。

    Dernière mise à jour : 2025-01-14
  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   お互いのこと-09

    分担した仕事は思いのほか重く、残業のできない紗良は毎日必死にこなしていた。 いくらまわりにサポートするからと言われても未経験の作業を教えるには時間がかかるし、効率的ではない。 紗良とて慣れない作業が発生しているため、自分のことで精一杯なのだ。最初、二週間の期間限定だという話だったが、気づけばそれは一ヶ月に延び、さらに二ヶ月目に入ろうとしていた。さすがにそこまで時間が経てば紗良も時間配分など上手くさばけるようになってくる。 だがそれは余裕で仕事ができているわけではなく、努力して頑張っているからだ。 当然、松田然りである。そんなとき、再び主任に呼び出された紗良と松田は、依美が切迫流産で入院すると聞かされた。 そのため、負担は変わることなくそのまま紗良と松田の仕事になってしまった。「岡本さん、妊娠してたのね。まあ、薄々そんなんじゃないかと思っていたけど」「そうなんですか? てっきり大病でも患ったのかと思ってました」「切迫も大変だけどねー。無事に乗り越えられるといいわよね」「本当ですよね」「まあでも、私たちの負担は変わらずだなんて、主任もひどいと思わない? 他に人雇ってくれたらいいのにねぇ」「松田さんは仕事大丈夫です? だいぶ負担じゃありません?」「しんどすぎでしょ。もうお婆だからさ、無理させないでほしいわよ。しかも帰ったら親の介護が待ってるのよ。ほんとしんどいったらありゃしない。そういう石原さんこそ、息子さんいるんでしょ」「はい、なかなかにバタバタな日々を送っています」「やっぱり私、主任に訴えてくるわ。もう一人雇ってくださいって。だいたい派遣の私たちに仕事押しつけすぎなのよ。ねっ?」「……そう、思います」決して依美が悪いわけではないことはわかっている。 わかってはいるのだが、一言くらいメッセージをくれてもいいのに、と紗良は小さくため息をついた。 疲れはピークに達していた。

    Dernière mise à jour : 2025-01-15

Latest chapter

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-11

    カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-10

    その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-09

    カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-08

    ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-07

    そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-06

    鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-05

    「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-04

    杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   番外編③ シアワセノカタチ-03

    「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。

Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status