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第2話

Penulis: 二宮雨音
父の葬儀が終わるまで、遼真が顔を見せることはなかった。

最後に耳にしたのは、父が息を引き取る直前、私の手を握りしめて言った言葉だった。

「遼真はいい子だ。国を守るために忙しいのは当然なんだ。

俺は責めはしない。だから家に戻ったら、彼と喧嘩をしてはいけないよ」

――でも、お父さん。

彼が忙しいのは公務のせいじゃない。水無瀬瑤と一緒に過ごしていたからなのよ。

涙を拭い、食卓の碗や箸を片付けた。

離れる日まで、あと六日。

一日目。

私は一人で司令官・佐久間弘志(さくま ひろし)の事務室を訪ねた。

「これが私と蒼井遼真の離婚申請です。どうか、できるだけ早く承認をお願いします」

弘志は茶碗を持つ手を止め、すぐに書類を手に取り、じっと目を通した。

私と遼真の署名を見つけると、深く溜め息をつく。

「君たち、仲が良かったじゃないか。どうして離婚まで行き着いたんだ?」

そう、どうしてここまで来てしまったのだろう。

遼真とは仲人の紹介で出会った。

機構の若き指揮官と、心優しい小学校教師――誰もが理想的な夫婦だと言った。

けれど、瑤が戻ってきてから、私が耳にしたのはいつも同じ言葉だった。

「蒼井さんは、水無瀬先生に本当に親切ね」

私は小さく首を振り、雑念を振り払った。

「佐久間さん、感情は無理に続けられるものではありません。せめて円満に終わらせたいだけです」

弘志は黙って申請書を引き出しにしまい込んだ。

「二日後に取りに来なさい」

事務室を出た私は、スーパーへ向かった。

棚に並んだ化粧水が目に入る。

結婚して五年、私は一度も自分に買ってあげたことがない。

視線に気づいた店員の女性が、笑いながら言った。

「この前も蒼井さんが五、六本も買っていったのよ。そんなにすぐなくなるのかしら。

余瀬先生、蒼井さんは本当にあなたを大事にしてるのね」

物を持つ手がぴたりと止まった。

ここ数日、私は家にいなかった。

彼は一度だって私に化粧水を贈ったことはない。

昨夜、彼の身体から漂ったあの香り。

それが誰のためのものか、答えは分かっていた。

家事をこなし、五年間寄り添ってきても得られなかったもの。

瑤が戻った途端、簡単に手にしてしまう。

込み上げるのは、悔しさか、怒りか。

私は店員の羨望のまなざしを正面から受け止め、言った。

「一本ください。自分で買いますから」

五日目。

弘志から離婚申請の承認書を受け取り、その足で学校へ退職届を提出した。

学期前で、職員室は人もまばら。

自分の机に向かうと、見覚えのない荷物でいっぱいだった。

私のノートは下に押し込まれ、ぐしゃぐしゃに折れ、跡が消えなくなっていた。

隣の先生が教えてくれた。

「それ、新しく来た水無瀬先生の物よ。空いてるからって、蒼井さんがわざわざ運んで来たんだ」

水無瀬瑤――

一か月前、離婚して神津市に戻り、今は臨時講師としてここにいる。

嗤うしかなかった。

私は彼女の荷物を机から下ろし、黙って自分の物を片付け始めた。

もう少しで終わるという時、背後から甲高い声が響く。

振り向けば、瑤が立っていた。

その後ろには――私に「付き添う」と言っていた遼真が続いていた。

「遼真、見て。私の荷物が床に捨てられてる!」

遼真は歩み寄り、開口一番、私を責め立てた。

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