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泥濘の愛
泥濘の愛
Author: 二宮雨音

第1話

Author: 二宮雨音
父が亡くなって三日目になっても、遼真は帰ってこなかった。

「村長さん、決めました。父の遺志を継いで、この村に残り、子どもたちに勉強を教えます」

荷物をまとめながら、私は毅然と告げた。

男は目を丸くし、諭すように言った。

「馬鹿な子だ……せっかく黎明機構に随伴できる身分を得たのに、どうしてこんな貧しい村に戻って苦労するんだ」

私は首を振り、手首の古びた腕時計に目を落とした。それは父が遺してくれた唯一の形見だった。

「私は苦労なんて怖くありません。七日以内に離婚を申請します」

夜七時。私はようやく拠点の家へ戻った。

食卓の上には、出ていく前と同じ料理がそのまま残っている。

荷物を下ろした途端、玄関から足音が響いた。

制服に身を包み、背の高い蒼井遼真(あおい りょうま)が入ってきた。声は冷ややかだった。

「まだ飯はあるか?食堂が閉まってしまった。温めて弁当箱に入れてくれ。瑤に持っていく。

彼女、体調を崩していてな。しばらく料理もできないんだ」

振り返った私は、やつれた顔を見せた。

「今帰ったばかりで、料理はしていない」

遼真は眉をひそめただけで、私がどこに行っていたのかも、やつれた理由も尋ねなかった。

返事を聞くと、そのまま台所へ向かう。

その時の彼の頭の中は、初恋の女のことしかなかった。

私は立ち尽くし、彼が不器用に卵を焼き、麺を茹でる様子を見ていた。

結婚して五年、これが彼の初めての料理だった。

水無瀬瑤(みなせ よう)が離婚して神津市に戻ってからというもの、こうした変化は嫌というほど目にしてきた。

麺を弁当箱に入れると、遼真は私の横をすり抜けようとした。

私は彼を遮り、声をかけた。

「数日後、また実家に戻るわ。申請書にサインして。手続きに必要なの」

書きかけの離婚申請書を差し出し、空欄に署名を示した。

遼真は一瞬きょとんとしたが、目も通さずにサインした。

「数日前、瑤が病気でな……彼女の容体がよくなったら、一緒に実家に帰ろう」

私は目を伏せ、赤くなった目尻を隠した。

「ええ」

すれ違う瞬間、彼の体から漂う香りに気づいた。

私が惜しんで買えなかったが、彼の初恋が好んで使っていたあの化粧水の匂いだ。

門が閉まる音を聞き、私は硬直したまま食卓に戻り、紙を丁寧に折り畳んだ。

一週間前。

村長から電話があり、父が授業中に脳溢血を起こし、病院に運ばれたと知らされた。

私は頭が真っ白になり、家を飛び出して遼真の腕を掴んだ。

「お願い、一緒に実家へ戻ってくれない?父が……」

言葉の途中で、外から瑤の声が響いた。

「遼真、早く!約束したでしょ、買い物に行くって」

その声を聞いた瞬間、遼真は苛立ちを隠さず、私の手を振り払った。

「用事がある。お前は先に帰れ。暇ができたら行く」

そして、私は七日間、待ち続けた。

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