登入吉野の里は今、秋祭りのただ中にあった。琥珀色の陽光が降り注ぐ山あいの集落は、平素の静謐を脱ぎ捨て、湧き立つような熱気に包まれている。ひっそりと息を潜めていた古びた家並みも、今日ばかりは遠来の客を迎え入れ、地鳴りのような喧騒に身を委ねていた。その賑わいの裏側で、神野一家は休む間もなく立ち働いている。軒を連ねる露天商の差配から、寄合の細々とした調整に至るまで。祭礼という大舞台を支えるための無数の雑事に追われ、彼らは秋の深まりを感じる暇もないほどに、忙しなく村の中を駆け回っている。「どう……かしら?」神野の法被に身を包んだ鈴華は、慣れぬ生地の感触を確かめるように、心許なげな視線を落とした。袖を通した瞬間に漂う香の香りと、男たちの熱気の残り香が、彼女の白磁のような肌をかすかに染める。当人の戸惑いを置き去りにして、周囲には波紋が広がるような感嘆が満ちていった。「――お見事だ」「まるで、この日のためにあつらえたかのようですよ!」神野の若衆たちは、普段の荒々しさも忘れて童心に帰ったかのように声を弾ませる。彼女が纏ったのはただの衣装ではない。その場に集う者たちの魂を昂ぶらせる、一輪の火花のような鮮烈さであった。「鈴華さん、露店の手伝いをお願いできますか? 地元の婦人会の方々がお汁粉を振る舞うそうなんです」「わかりました」その声に応じ、彼女は一房の長い黒髪をうなじで静かに束ねた。覚悟を決めるように深く、長く吐き出された呼気。賑やかな笑い声の渦巻く、地元婦人会の輪。湯気の向こうに並ぶ年長者たちの快活な喧騒の中へ、鈴華は一歩、静かに、しかし確かな足取りで踏み入っていった。---静かな田舎の空気は、鈴華という異邦者の存在によって一変した。道端に集っていた婦人たちは、その姿を認めるなり、春の野を駆ける風のような喧騒を巻き起こす。「まあ、何ちゅう器量良しや!こんな別嬪さん、この村の歴史が始まって以来やわ」「ほんま、銀幕から抜け出してきた女優さんみたいやねぇ…」彼女たちの感嘆は、好奇心と羨望が入り混じった高音の花火となって鈴華に降り注ぐ。色めき立つ輪の中心で、鈴華はただ戸惑いのなかに立ち尽くしていた。その熱を帯びた空気を切り裂いたのは、若頭・和田の鋭い怒号だった。「こら!腐れ婆ども! 無作法に囲むんじゃねえ!」鈴華と婦人達の間に和
怪訝な色の混じった声が、静まり返った部屋に響く。「……いや。義理事の席で顔を合わせた程度や」京司は吐き捨てるように応じると、机上の封筒に再び視線を戻した。自分を指名して届いたその書状が、平穏な日常の裏側に潜む“何か”を連れてきたようで、彼は不機嫌そうに眉根を寄せ、一点を凝視した。京司は、自らに宛てられた封筒にそっと指先をかけた。丹念に筆を走らせた跡が残るその封を、刃物一つ入れず、慈しむように丁寧に解いていく。中から現れたのは、墨の香を微かにまとった手紙であった。白泥の紙の上を、流麗な筆致が縦横に駆け抜けている。一文字一文字が呼吸しているかのようなその達筆な連なりには、相手の静かな体温と、尽くされた礼節が深く刻まれていた。「……神野は何と?」「奈良の秋祭り、神野が差配する秋祭りへの招待や」「祭りの招待…ですか」錨の声に、隠しきれない当惑が混じり、わずかに上ずった。「何を目論んでいるのでしょう……」「神野の周りで、最近火種が燻ってるような話、聞いたことないんか?」「いえ。あそこは露店の差配を生業とする的屋。極力、荒事からは身を遠ざけています。……いわば孤立を守るモンロー主義ですよ」「…しかも九条としてやない。俺個人に来てほしいらしい」「カシラ個人…ですか」京谷と錨の視線が、神野の封書の上で交錯する。疑念が静かに、しかし確実に室内の密度を増していく。「どう動かれますか」「そうやなぁ……」京司は、錨が運んできたウィスキーのグラスへ緩慢に指を伸ばした。氷が微かな音を立てて鳴る。琥珀色の液体を唇に含み、その熱が喉を下るのを待ってから、彼は重い沈黙を深く吐き出した。「奈良の重鎮からお呼び出しや。無視するわけにはいかんやろ。謹慎もじき解けるしな」「なら誰か護衛を」「いらん」遮るように言い放つ。「荒事をしに行くわけやない。俺一人で、十分や」
謹慎という名の枷をはめられた京司は、その時間の多くを私邸という名の檻に預けていた。壁一枚を隔てた外界へ、彼は見えない糸を操るようにして組員たちへ意思を伝播させる。代紋を背負う場所が事務所から書斎へと移ったに過ぎず、彼の権能は些かも削がれてはいなかった。かつての日常と何ら変わらぬ、完成された機能美がそこにはあった。ただ一点、その静寂のなかに鈴華という名の色彩が欠けていることを除けば。誰一人としてその境界を越えようとしない、しんと静まり返ったマンションのエントランス。その冷ややかな空気の中に、場違いなほど馴染みのある男の姿があった。「カシラ。お疲れ様です」画面の向こう側で、男――錨はいつもと変わらぬ、どこか世俗を突き放したような表情で立っていた。電子音の混じる声が、静寂に包まれた廊下に微かに響く。「錨か。……藪から棒に、何の用や」「何、たまにはカシラの息災な尊顔を拝んでおこうかと思いまして」そう答える錨の右手には、琥珀色の液体を閉じ込めたような、一瓶の上等なウイスキーが提げられていた。「……入れや」短く、重厚な響きとともに、鉄の沈黙を守っていたエントランスの電子錠が吐息を漏らすように解かれた。(相変わらず、浮世離れした城に住んでおられる……)足を踏み入れた先、光を乱反射させる大理石の床と、富の象徴を詰め込んだような豪華な装飾が錨を迎える。彼はそれらを、羨望とも諦観ともつかぬ眼差しでなぞりながら、静寂を運ぶ鉄の箱——エレベーターの中へと身を沈めた。重厚な玄関の扉を開き部屋に入ると、琥珀色の液体がグラスに落ちる音だけが、部屋の静寂をわずかに揺らす。「カシラ。お変わりないようで、何よりです」手渡された上等なウィスキーを受け取り、京司は口角を微かに上げた。「……やり取りなら、毎日のようにしとるやろ」呆れたような、苦笑。注いだグラスの底で氷が小さく鳴る。「もうじき…ようやく、謹慎が明けますね」「ああ……。そうやな」「あまり嬉しそうには見えませんね」「…やらかした事がのうなるわけやないしな」「……そうだ。今日は、これを渡しておこうと思って来たんでした」ふと思い出したような、わざとらしいほど自然な仕草で、錨は懐から一通の封筒を取り出した。「カシラ宛の郵便物です」差し出された封筒を、京司は眉を寄せて見つめた。「…
初秋の神野一家は、湧き立つような活気に包まれていた。庭場では、目前に迫った秋祭りの仕度に、組員たちが汗を流して立ち働いている。※庭場…縄張り「ここが稼ぎ時やさかいなぁ」その喧騒を、神野は目を細めて眺めていた。その表情には、家長としての満足げな色が浮かんでいる。「私にも、何かお手伝いできることがあれば」鈴華が控えめに申し出た。神野は彼女の真っ直ぐな瞳を受け止めると、柔和な笑みを湛えて応えた。「せやったら……露店の手伝い、頼まれてくれるか」周囲を埋め尽くす喧噪と、濁流のように過ぎゆく日々。皮肉にもその慌ただしさが、鈴華の乾いた心に染み渡る水のように、静かな癒やしを運んでいった。京司のことを忘れた日など、一度としてない。しかし、胸の奥底で燻り続ける慕情にそっと蓋をすることに、彼女はいつしか――自分でも気づかぬうちに――慣れてしまっていた。(あの人は、もう……。私のことを忘れてしまったかな)ふと見上げた空の淡さに、彼女はあてどない自問をこぼす。それはもはや、答えを求める問いですらなくなっていた。けれども鈴華がふとした瞬間に見せる、影を帯びた横顔。その瞳に一瞬だけ宿る、言葉にならない寂しさを、神野は決して見過ごさなかった。「……槇村の坊々のやつ…、とんだ貧乏くじを引かせおって」独り言のように吐き捨てた言葉とは裏腹に、神野は迷いのない手つきで筆を執った。紙の上を滑る筆先が、静まり返った部屋にさらさらと柔らかな音を立てる。書き終えたばかりの書状を手に取ると、彼は部屋の外に控えていた部屋住みを呼んだ。「これを京都の九条組まで届けてや」差し出された書状には、まだ乾ききらない墨の匂いと、神野の想いが滲んでいた。
奈良、神野家の古い門を鈴華がくぐってから、数日が経とうとしていた。まだ夜の冷気が居座る早朝。薄暗い庭には、乾いた竹箒が砂利をなでる規則正しい音が響いている。「鈴華さん!そんなん、俺らの仕事ですわ。やめてください」慌てて駆け寄ってきた若衆の制止を、鈴華はさらりとかわした。「いいんです。居候の身だもの、これくらいさせて」彼女は視線を落としたまま、淀みのない動作で箒を動かし続ける。戸惑う男の視線を背中に受け流しながら、散らばった落ち葉を手際よく一箇所にまとめあげた。その凛とした佇まいは、すでに一家の風景の一部として、静かに、けれど確実に馴染み始めていた。鈴華が姿を見せるたび、神野の家には目に見えて落ち着かない空気が流れた。彼女の何気ない些細な仕草に、血気盛んな若衆たちはあからさまに翻弄され、部屋の温度が数度上がったかのような密やかな騒めきが広がる。だが、その浮ついた熱を切り裂くのは、決まって若頭である和田の、容赦のない怒声だった。「シャキッとしやがれ!」一瞬で静まり返る室内。引き締まった緊張感と、その中心に平然と佇む鈴華。そんな、どこか歪で、けれど鮮やかなコントラストを描く光景が、今の神野一家にとっては“いつもの朝”の風景になりつつあった。「ここには慣れたかいな?」朝の爽涼な空気を纏って戻った総長、神野の声音は、慈父のような温かさを孕んでいた。その問いに、鈴華は伏せ目がちに、しかし確かな安らぎを込めて応じる。「はい……。おかげさまで」「ほっほっ、若いもんが騒がしゅうてすまんなぁ」神野は目を細め、皺の刻まれた目元をさらに和ませて笑った。その朗らかな笑い声は、朝の静謐な空気に溶けていく。「いえ。皆さんに、とてもよくしていただいておりますから」彼女の言葉は、朝露に濡れた若葉のように瑞々しく、偽りのない感謝を物語っていた。神野一家は、六穣会という冷徹な機能美で動く組織とは、まるで元の血統からして違っていた。トップである総長から最下層の部屋住みに至るまで、彼らは同じ卓を囲み、湯気の上がる大皿を遠慮なく突き合う。そこにあるのは、鉄の規律ではなく、どこか騒々しくも温かい日常の断片だった。これまでの人生で、食事とはただの儀式か、あるいは神経を削る緊張の場でしかなかった鈴華にとって、その光景はひどく異様で、眩しすぎた。最初は
大阪の雑多な賑わいを見せる雑貨街。その一角に、下界を見下ろすように聳え立つオフィスビルがある。広域暴力団・六穣会が所有する、冷徹なコンクリートの城郭。その最上階に構えられた組事務所は、今や濃密な不穏に満たされていた。鈴華が奈良の地へ向かった後、空間に立ち込めているのは、湿り気を帯びた硝煙のような焦燥感だ。「――っ、ふざけやがって!」静寂を切り裂いたのは、宏一の怒号だった。腹の底から絞り出されるその声は、虚空を噛み砕くかのように荒々しく響き渡る。行き場を失った怒りは、剥き出しの牙となって室内の空気を切り刻み、窓の外に広がる大阪の街並みさえも震わせんばかりの熱量を帯びていた。剥げ落ちた理性の隙間から溢れ出すのは、隠しようのない苛立ち。それは、静まり返った事務所の壁にぶつかっては、どす黒い残響となって宏一の足元に澱んでいった。「カシラ…あんた、今日でそのセリフ何回目や思てるん?」早緑の漏らしたため息には、隠しきれない倦怠感と、底知れない呆れが混じっていた。その冷ややかな視線はもはや諦めに近く、投げかけられた言葉も空中の塵ほどにも響かない。しかし、当の宏一に届いている様子は微塵もなかった。彼は煮えたぎる苛立ちをそのまま言葉に変え、激しい剣幕で怒鳴り散らす。「藤四郎! てめぇ、よくも鈴華を神野のところに……。あんな場所に安々と引き渡しやがって!」標的にされた藤四郎にとっては、まさに寝耳に水の災難である。論理もへったくれもない宏一の八つ当たりは、理不尽な暴風となって、ただ一人の男の背中に重くのしかかっていた。「お嬢を、たったお一人で奈良へ向かわせ言うんですか?」早緑の鋭利な言葉が、宏一の口を封じた。「……俺かて、あの方を置いてくるんなんて、身が痛むような思いしてたんやで」「くそっ!」宏一は椅子に倒れ込んだ。顔に刻まれた深い皺は、逃れられぬ現実に対する嫌悪の象徴のようだ。デスクを叩く拳の痛みなど、胸に巣食う焦燥に比べれば微々たるものに過ぎない。繰り返される打撃の音は、出口のない迷路を彷徨う彼の心臓の鼓動のようであった。「…机壊したらIKEAまで買いに行ってもらいますからね」「うるせぇっ!てめぇ鈴華より机が大事かよ!」「お嬢と机を壊すんは関係あらへんで」宏一と早緑、そして鈴華。三人の間には、盃を交わしたという形ばかりの盟