Home / 恋愛 / 洛陽夜曲 / 六穣会

Share

六穣会

Author: rinsan
last update publish date: 2026-04-14 19:04:00

彼女は呼吸ひとつ分の沈黙を経て、『はい』とだけ告げた。

彼女の沈黙という深淵に、どのような想像が沈んでいるのか。

彼は一瞬その淵を覗き込もうとしたが、すぐにそれを止めた。

ただ静かに言葉を紡ぎ、その静寂を破る。

「そういうたら、まだ名前をきいてへんかったなぁ。君なんて名前?」

「鈴華、、、槇村鈴華です」

「鈴華、、、ええ名前やな。、、、で、

君何者やの?カタギの娘が血生臭い九条組の『顔』に辿り着くはずがあらへん」

「私はしがない小娘にすぎません。ただ、父が六穣会という場所に

身を置いておりますので、普通の方なら知り得ないようなことが、自然と耳に届いてしまうのです」

「六穣会の槇村やと⁉」

溢れ出したその名が、車内の空気を凍りつかせた。戦慄が指先から全身へ伝わり、

思考するよりも早く、彼は無意識にブレーキを蹴り抜いていた。

不快なタイヤの悲鳴が、彼の心の動揺を代弁するように夜の静寂を切り裂いた。

六穣会といえば大阪に籍を置く公安委員会から主要暴力団として位置づけられた博徒系の組織である。

彼の動揺は、いわば必然であった。その驚きは、本能が鳴らした警鐘に等しい。

槇村という男は、その組織の頂に、絶対的な審判者として君臨しているのだから。

「君、、、槇村会長の娘はんやったんか」

「血は繋がっていません。盃を交わしたわけでもありませんが、

あくまで渡世での親子関係のようなものです」

彼女の言葉は彼の胸の奥底に波紋を広げた。

心底で思うことはいくつもあったが、彼はそれを喉の奥へと静かに埋葬した。

高鳴っていた鼓動を鎮め、彼は再びアクセルを踏んだ。止まっていた時間が、また動き出す。

「それで……あの会長の愛娘、わざわざこの洛中にまで足を運んだのは、

単なる観光ではあらへんのやろう?どないな算盤を弾いてはる?」

若頭としての冷徹な眼光が、まるで抜き身の刀のように彼女を捉え、

一切の言い逃れを許さぬ圧を伴って言葉を突きつける。

彼女はただ、窓に映る景色に心を奪われていた。

その瞳には、彼が投げかける焦燥も熱量も微塵も映っておらず、

まるで彼だけがこの空間から消し去られたかのような、残酷なほどに清らかな静寂が彼女を包んでいた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 洛陽夜曲   神野の便り

    初秋の神野一家は、湧き立つような活気に包まれていた。庭場では、目前に迫った秋祭りの仕度に、組員たちが汗を流して立ち働いている。※庭場…縄張り「ここが稼ぎ時やさかいなぁ」その喧騒を、神野は目を細めて眺めていた。その表情には、家長としての満足げな色が浮かんでいる。「私にも、何かお手伝いできることがあれば」鈴華が控えめに申し出た。神野は彼女の真っ直ぐな瞳を受け止めると、柔和な笑みを湛えて応えた。「せやったら……露店の手伝い、頼まれてくれるか」周囲を埋め尽くす喧噪と、濁流のように過ぎゆく日々。皮肉にもその慌ただしさが、鈴華の乾いた心に染み渡る水のように、静かな癒やしを運んでいった。京司のことを忘れた日など、一度としてない。しかし、胸の奥底で燻り続ける慕情にそっと蓋をすることに、彼女はいつしか――自分でも気づかぬうちに――慣れてしまっていた。(あの人は、もう……。私のことを忘れてしまったかな)ふと見上げた空の淡さに、彼女はあてどない自問をこぼす。それはもはや、答えを求める問いですらなくなっていた。けれども鈴華がふとした瞬間に見せる、影を帯びた横顔。その瞳に一瞬だけ宿る、言葉にならない寂しさを、神野は決して見過ごさなかった。「……槇村の坊々のやつ…、とんだ貧乏くじを引かせおって」独り言のように吐き捨てた言葉とは裏腹に、神野は迷いのない手つきで筆を執った。紙の上を滑る筆先が、静まり返った部屋にさらさらと柔らかな音を立てる。書き終えたばかりの書状を手に取ると、彼は部屋の外に控えていた部屋住みを呼んだ。「これを京都の九条組まで届けてや」差し出された書状には、まだ乾ききらない墨の匂いと、神野の想いが滲んでいた。

  • 洛陽夜曲   神野一家

    奈良、神野家の古い門を鈴華がくぐってから、数日が経とうとしていた。まだ夜の冷気が居座る早朝。薄暗い庭には、乾いた竹箒が砂利をなでる規則正しい音が響いている。「鈴華さん!そんなん、俺らの仕事ですわ。やめてください」慌てて駆け寄ってきた若衆の制止を、鈴華はさらりとかわした。「いいんです。居候の身だもの、これくらいさせて」彼女は視線を落としたまま、淀みのない動作で箒を動かし続ける。戸惑う男の視線を背中に受け流しながら、散らばった落ち葉を手際よく一箇所にまとめあげた。その凛とした佇まいは、すでに一家の風景の一部として、静かに、けれど確実に馴染み始めていた。鈴華が姿を見せるたび、神野の家には目に見えて落ち着かない空気が流れた。彼女の何気ない些細な仕草に、血気盛んな若衆たちはあからさまに翻弄され、部屋の温度が数度上がったかのような密やかな騒めきが広がる。だが、その浮ついた熱を切り裂くのは、決まって若頭である和田の、容赦のない怒声だった。「シャキッとしやがれ!」一瞬で静まり返る室内。引き締まった緊張感と、その中心に平然と佇む鈴華。そんな、どこか歪で、けれど鮮やかなコントラストを描く光景が、今の神野一家にとっては“いつもの朝”の風景になりつつあった。「ここには慣れたかいな?」朝の爽涼な空気を纏って戻った総長、神野の声音は、慈父のような温かさを孕んでいた。その問いに、鈴華は伏せ目がちに、しかし確かな安らぎを込めて応じる。「はい……。おかげさまで」「ほっほっ、若いもんが騒がしゅうてすまんなぁ」神野は目を細め、皺の刻まれた目元をさらに和ませて笑った。その朗らかな笑い声は、朝の静謐な空気に溶けていく。「いえ。皆さんに、とてもよくしていただいておりますから」彼女の言葉は、朝露に濡れた若葉のように瑞々しく、偽りのない感謝を物語っていた。神野一家は、六穣会という冷徹な機能美で動く組織とは、まるで元の血統からして違っていた。トップである総長から最下層の部屋住みに至るまで、彼らは同じ卓を囲み、湯気の上がる大皿を遠慮なく突き合う。そこにあるのは、鉄の規律ではなく、どこか騒々しくも温かい日常の断片だった。これまでの人生で、食事とはただの儀式か、あるいは神経を削る緊張の場でしかなかった鈴華にとって、その光景はひどく異様で、眩しすぎた。最初は

  • 洛陽夜曲   六穣会よもやま話

    大阪の雑多な賑わいを見せる雑貨街。その一角に、下界を見下ろすように聳え立つオフィスビルがある。広域暴力団・六穣会が所有する、冷徹なコンクリートの城郭。その最上階に構えられた組事務所は、今や濃密な不穏に満たされていた。鈴華が奈良の地へ向かった後、空間に立ち込めているのは、湿り気を帯びた硝煙のような焦燥感だ。「――っ、ふざけやがって!」静寂を切り裂いたのは、宏一の怒号だった。腹の底から絞り出されるその声は、虚空を噛み砕くかのように荒々しく響き渡る。行き場を失った怒りは、剥き出しの牙となって室内の空気を切り刻み、窓の外に広がる大阪の街並みさえも震わせんばかりの熱量を帯びていた。剥げ落ちた理性の隙間から溢れ出すのは、隠しようのない苛立ち。それは、静まり返った事務所の壁にぶつかっては、どす黒い残響となって宏一の足元に澱んでいった。「カシラ…あんた、今日でそのセリフ何回目や思てるん?」早緑の漏らしたため息には、隠しきれない倦怠感と、底知れない呆れが混じっていた。その冷ややかな視線はもはや諦めに近く、投げかけられた言葉も空中の塵ほどにも響かない。しかし、当の宏一に届いている様子は微塵もなかった。彼は煮えたぎる苛立ちをそのまま言葉に変え、激しい剣幕で怒鳴り散らす。「藤四郎! てめぇ、よくも鈴華を神野のところに……。あんな場所に安々と引き渡しやがって!」標的にされた藤四郎にとっては、まさに寝耳に水の災難である。論理もへったくれもない宏一の八つ当たりは、理不尽な暴風となって、ただ一人の男の背中に重くのしかかっていた。「お嬢を、たったお一人で奈良へ向かわせ言うんですか?」早緑の鋭利な言葉が、宏一の口を封じた。「……俺かて、あの方を置いてくるんなんて、身が痛むような思いしてたんやで」「くそっ!」宏一は椅子に倒れ込んだ。顔に刻まれた深い皺は、逃れられぬ現実に対する嫌悪の象徴のようだ。デスクを叩く拳の痛みなど、胸に巣食う焦燥に比べれば微々たるものに過ぎない。繰り返される打撃の音は、出口のない迷路を彷徨う彼の心臓の鼓動のようであった。「…机壊したらIKEAまで買いに行ってもらいますからね」「うるせぇっ!てめぇ鈴華より机が大事かよ!」「お嬢と机を壊すんは関係あらへんで」宏一と早緑、そして鈴華。三人の間には、盃を交わしたという形ばかりの盟

  • 洛陽夜曲   早緑の想い

    「オヤジ!そんな雑事、部屋住みにやらせてくださいよ!」血気盛んな若衆が、肩を揺らしながら小走りに駆け寄ってきた。その視線の先には、事もなげに台所へ足を向ける神野の背中がある。台所へ向かおうとする神野を、一人の若衆が必死の形相で制止した。神野は、喉を鳴らすようにして低く笑う。「ええよ。手の空いてるやつがやればいい、それだけのことや」その無頓着な言葉に若衆は面食らっていたが、ふと傍らに立つ鈴華たちの存在に気づくと、瞬時に表情を引き締めた。「六穣会会長槇村の娘鈴華と申します。ご厄介になります」「……失礼いたしました。ようこそおいでくださいました、槇村鈴華さん。神野一家一同、歓迎いたします」深く頭を下げるその所作には、先ほどまでの狼狽は微塵もなかった。現代的な身なりの奥に、この家が守り続けてきた古い気風が、一瞬だけ鋭く覗いたような気がした。「六穣会若頭補佐の早緑藤四郎と申します。以後お見知りおきを」低く、しかし芯の通った声が、静謐な空気を震わせた。対する男は、柔和な笑みの裏に鋭い眼光を宿し、静かに応じる。「これはご丁寧なご挨拶を。神野一家若頭、和田忍にございます。遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」交わされる言葉は儀礼に満ちているが、そこには極道の世界に生きる者特有の、研ぎ澄まされた緊張感が漂っていた。早緑はしばし沈黙した後、万感の思いを込めるように、さらに深く頭を下げた。「……お嬢のこと、何卒よろしくお願い申し上げます」その一言を残し、彼は背を向ける。去りゆく背中は、組織の重圧を背負いながらも、どこか哀愁を帯びていた。西へと向かう帰路。遠ざかる街並みを瞳に映しながら、早緑は心の中で、決して届かぬ誓いを呟く。「お嬢……お許しが出たら、すぐにお迎えに行きますわ」

  • 洛陽夜曲   神野宗一郎

    「すんません。総長にお取次ぎ願いませんか?大阪から来ました六穣会のもんです」早緑は、静寂に包まれた庭先で背を丸める老人に声をかけた。竹箒が落ち葉を掻く規則正しい音が、不意に止まる。老人は急かす風もなく、悠然とした動作で振り返った。その瞳が早緑を捉えると、深く刻まれた目尻の皺がさらに深くなる。「ああ、槇村さんとこの。ようおいでくださった」浮かべたのは、秋の日だまりのような朗らかな笑顔だった。老人は手際よく紅葉の山をまとめると、傍らの壁に箒を立てかける。一歩、また一歩。砂利を踏みしめる柔らかな足音を響かせながら、老人はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。「これは驚いた。若衆たちが色めき立つような、えらい別嬪さんが来たものだ」老人の快活な声が、陽だまりの中に弾ける。ふいに視線を向けられた鈴華は、一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに柔らかな微笑を湛えて深く頭を下げた。「至らない身ですが、よろしくお願いいたします」「総長はどちらにおいででしょうか?」早緑がそう問いかけると、目の前の老人は喉を鳴らして愉快そうにほほ笑んだ。「総長、なんて呼ばれたのは……はは、随分と久しぶりやな」「えっ……!?」思いも寄らぬ返答に、早緑は言葉を失った。目の前の老人は、深くなった皺をさらに刻ませて、彼の狼狽ぶりを愉しげに眺めている。「驚かせたかのう。こんなちっちゃな老いぼれが、あんたの探しておる男だとは思うまい」その柔和な眼差しの奥に、一瞬だけ鋭い光が宿る。この小柄で穏やかな老人こそが、〝神野一家”の頂点、総長・神野宗一郎その人であった。「し、失礼いたしました……っ!」早緑はあわてて頭を下げた。その声は上ずっている。そんな彼の動揺を、神野は春風のような柔和さで受け流した。「かまへんで。そう畏まらんといて。気にせえへんでええて」老人の口調には、長年荒波を潜り抜けてきた者特有の、底知れぬ余裕と慈愛が滲んでいる。彼は細められた瞳で鈴華たちを真っ直ぐに見つめると、奥へと促すように悠然と手を差し伸べた。「まあ、中でゆっくりしていきなはれや」広大な庭の静寂を切り裂き、重厚な土間を抜けて一段上がれば、奥へと誘うような長い廊下がどこまでも続いている。その突き当たり、歳月の重みを宿した古びた襖を静かに滑らせると、微かな光の中に、懐かしい草の香りと共に凛とし

  • 洛陽夜曲   吉野神野屋敷

    早緑がどれほど言葉を尽くして否定しようとも、鈴華の心に深く根を下ろした憂いの影を払うことは叶わなかった。香港の三合会から、あたかも“荷”を捌くかのように海を渡らされた日々。ようやく大阪という地に辿り着き、微かな安息の予感に身を寄せようとしたのも束の間、奈良への“預かり”という名の追放が、その淡い期待を無惨に打ち砕いた。今の彼女を支配しているのは、行き場を失った絶望と、逃れられぬ流転の定めに打ちひしがれた深い喪失感だけだった。---二人を迎え入れた奈良吉野の秋は、燃えるような琥珀と朱色に塗り替えられていた。宿場の面影を色濃く残す吉野の街並みは、秋の陽光を受けて、しっとりと落ち着いた木肌の輝きを放っている。長年風雨に晒されて黒ずんだ格子戸や、朱色が微かに剥げかけた古い看板。軒先に吊るされた干し柿や、道端に置かれた木彫りの仏像…どれも鈴華が初めて目にするものばかりだった。石畳の隙間には、赤く色づいた桜の落ち葉が数枚、模様を描くように張り付いている。街並みを少し抜けると、吉野川のせせらぎの響きが耳に届き始めた。「なんて透き通って綺麗な川…」鈴華が息を呑むように呟いた。「道頓堀川とは大違いやな」視線が重なり、どちらからともなく二人は笑いあった。細い路地の奥、時の流れから取り残されたかのような空間に、その屋敷は佇んでいた。墨色に沈む瓦の連なりと、鮮やかな白磁の壁。歴史の重みを湛えたその門構えに辿り着いた早緑と鈴華の視線の先には、“神野”と記された古びた表札が、静かに家系の誇りを掲げていた。「えらい広いお屋敷やなぁ…」思わずこぼれた感嘆とともに、早緑は視線を屋敷の奥へと滑らせた。庭の木々は力強く、散り急いだ紅葉が血の色のような鮮やかさで地面を覆い尽くしている。カサ、カサ、と規則正しく響く音の主は、風景に溶け込むほど小さな老人だった。竹ぼうきで丁寧に掃き集めるその横顔に向かって、早緑は挨拶を投げかけた。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status