LOGIN素羽は司野に感謝の眼差しを向けると、改めて壇下のメディア関係者たちへ向き直った。「皆様、ご多忙の折、本日の記者会見にお集まりいただきありがとうございます。本日この場にお越しいただいたのは、この機会をお借りして――私、江原素羽と元夫・須藤司野の関係についてご説明するためです」この言葉が投げかけられた瞬間、記者席の一角から声が上がった。「それはどういう意味ですか?元夫とは?以前、須藤さんに同伴して宴席に出席されていたはずですが」素羽は静かに口を開いた。「私と司野は、三ヶ月も前にすでに離婚しております。本来であれば、これは私たちのプライベートな問題であり、公表する必要はないと考えておりました。しかし、須藤さんが誤解されているのを見て、皆様にけじめをつけるべくお話しすることに決めたのです。私たちの離婚は第三者の介入によるものではなく、円満な別れでした。離婚に至った決定的な理由は私にあります。私には、子供を授かる能力がなかったからです。この五年の婚姻期間中、須藤さんは私にとてもよくしてくれました。彼は立派な夫であり、私生活でも至れり尽くせりに世話を焼いてくれました。仕事においても、誠心誠意尽くす素晴らしいリーダーです」司野は思わず、隣に立つ素羽へと目を向けた。彼女の顔に浮かぶ、あまりにも真実味を帯びた表情を見ていると、ふと、かつて自分だけを見つめていたあの頃の素羽が戻ってきたかのような錯覚に陥る。以前、仕事で疲れ果てて帰宅したとき、素羽はいつも心を痛め、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。彼がそれまで見て見ぬふりをしてきたその献身が、今になって鮮やかに脳裏へ蘇る。一体いつから、心の行き違いが始まってしまったのだろう。視線を感じた素羽も、絶妙なタイミングで彼を見返した。司野の瞳に宿る深い情愛を目の当たりにし、彼女は一瞬ぎょっとする。やっぱり、演技が上手いわ。この手の芝居なんて、私よりずっと上だわ。素羽は気を引き締め、完璧な調子のまま締めくくった。「これほど素晴らしい人なのですから、皆様には須藤さんの私生活を執拗に追い回したり、彼や瑞基に対して悪意ある邪推を向けたりしないでいただきたいのです。それらは事実無根の誹謗中傷にほかなりません。この場を借りて、皆様にはこの騒動をここで終結させていただき、これ以
流石は翔太、須藤の姓を名乗るだけのことはある。須藤家という一族は、どいつもこいつも一筋縄ではいかない連中ばかりだ。一族の内輪揉めに首を突っ込む気など、素羽にはさらさらなかった。楓華を連れて車に乗り込み、その場を後にした。車内に入るや否や、楓華が力いっぱい素羽を抱きしめた。素羽はその背中をぽんぽんと叩き、冗談めかして言う。「これ以上抱きしめられたら、絞め殺されちゃうわよ」楓華はすぐに応えた。「死なないでよ。数えきれないほどのイケメンたちが、あなたの寵愛を待ってるんだから。いい暮らしはこれからよ」素羽はくすりと笑う。「変なこと吹き込まないで。今は男なんてこりごりだわ」「男が嫌いなら、それでもいいわよ。私が素敵な世界へ連れて行ってあげる。これからは、二人で広い世界を見に行きましょう」幸雄との約束を違えるわけにはいかない。素羽はアクセルを踏み込み、車を記者会見の会場へと走らせた。一方、司野のそばでは、まだ翔太が口を動かしていた。「僕の可愛い甥っ子はいつ生まれるんだ?その時は叔父さんに教えろよ。不義の子とはいえ、須藤家の血を引いているんだ。お祝いの一つくらい包んでやるからさ」司野の表情が険しくなる。「失せろ……」翔太は唇を尖らせ、皮肉たっぷりに言い返した。「兄貴を振ったのは僕じゃないだろ。なんで僕に八つ当たりするんだよ。自分の下半身も管理できねえくせに、偉そうに腹立ててるのか?須藤家の面汚しもいいところだぜ」まったく、おじいちゃんも焼きが回ったものだ。あんな司野より自分の方が劣っているなんて。僕に言わせれば、自分の方がよほど優秀だ。少なくとも、元カノの妹との関係でへまをぶっこくようなバカじゃない。翔太は会見の野次馬に行くつもりで、司野との口喧嘩にこれ以上付き合う気はなかった。「僕は素羽の応援に行くんだ。ついでだ、乗せてってやろうか?」司野はそれを無視し、別の方向へと歩き出した。翔太は鼻で笑う。なるほど、これほど器が小さいんじゃ離婚されて当然だ。彼は愛車のスーパーカーに乗り込み、傲慢にエンジンを吹かして走り去っていった。岩治は車の中から、この一連の茶番を冷静に眺めていた。漏れる言葉といえば、ため息くらいのものだった。実のところ、素羽が来る前から司野と岩治はすでに到着してい
二人の視線がぶつかり合った。司野の眼差しは深く沈み、その奥には読み取ることのできない複雑な感情が渦巻いている。だが、素羽にはそれを読み解こうとする興味など微塵もなかった。今の彼女の胸にあるのは、ただ一つの願い――「離婚」だけだ。司野は机の上のペンを取り上げ、素羽の名前の下に自らの署名を書き込んだ。離婚届に受理印が押されたその瞬間、素羽がずっと握りしめていた拳は、ようやく静かにほどけた。出来たばかりの離婚届受理証明書を手にした途端、抑えきれない笑みが自然と口元に浮かぶ。その一挙手一投足のすべてが、司野の目に焼き付いた。――これほどまでに、嬉しいのか。素羽は両手で証明書を受け取ると、先に立ち上がり、微笑みを浮かべて言った。「須藤さん、翁坂さんと一生お幸せに」証明書をバッグにしまうと、そのまま外へと歩き出す。足取りは驚くほど軽く、まるで身体が宙に浮いているかのようだった。あまりにも現実味がなく、思わず自分の腕をつねってみる。痛い。夢ではない――紛れもない現実だ。司野が後を追ってきた。「車がないんだ。記者会見の会場まで乗せていってくれ」素羽はにべもなく断った。「嫌よ。タクシーでも拾いなさいな」彼が車で来ているかどうかなど、今の彼女には知ったことではない。区役所から出たその瞬間、素羽の頭上でクラッカーが弾けた。同時に、あらかじめ録音されていた音楽が鳴り響く。「離婚おめでとう、幸せを祈るよ。素羽さんならもっと素敵な人が見つかる……」派手な格好に身を包み、まるで結婚式以上にめでたい雰囲気を醸し出している張本人――翔太の姿を見て、素羽の表情が引きつった。区役所の外には、翔太が手配したスタンド花までずらりと並べられている。「僕からのプレゼントだ。見てくれよ」【祝・絶世の美女、素羽。クズ男を蹴り飛ばして新たな人生へ。若いツバメを九人十人と囲って、尽くされる快感を味わえ】素羽は言葉を失った。これが祝福なのか、それともかつて「尽くす側」だった自分への皮肉なのか、判断に迷う。大騒ぎで駆けつけた翔太は、親友である楓華でさえ隅に追いやってしまっていた。花束だけを持って現れた楓華でさえ、翔太のこの気合いに比べれば霞んで見えるほどだ。素羽は呆れたような目で翔太を一瞥し、思わず言いそ
素羽は床に座り、荷造りを終えたスーツケースを見つめながら、ぼんやりと思いに沈んでいた。「ニャー」猫の鳴き声が、彼女の意識を現実へと引き戻す。だんごは素羽の膝へとよじ登り、心地よい場所を見つけると、仰向けになって丸々とした腹をさらした。素羽は、撫でてほしそうにしているだんごを見下ろした。今回は拒まず、そっと手を伸ばして撫でてやると、小さな生き物は気持ちよさそうに喉を鳴らした。この猫に対する感情は、素羽にとってどこか複雑だった。この子の存在そのものが、花を捨てた罪を償おうとする司野の証のようなものだからだ。だんごに罪はない。だが、買い主が買い主である。この子を見るたびに、素羽の脳裏には、あの幼い猫が今もどこかで生きているのだろうかという思いがよぎる。「もう二度と会うことはないわね。お腹が空いたら森山さんを頼るのよ。あの不届きな買い主じゃなくてね。あいつには、あんたへの本物の愛情なんてないんだから」司野が本当に猫を好きなのかどうか、素羽にははっきり見えていた。すべては表面的なパフォーマンスに過ぎない。彼らの婚姻関係と同じだ。かつては偽りの調和を装っていたが、ひと突きすれば脆く崩れ去る。だが、それもようやく終わろうとしていた。心に期するものがあったからだろうか。その夜、素羽の眠りは浅かった。体内時計が鳴る前に、彼女は目を覚ました。一度目が覚めてしまうと、もう眠る気にはなれない。彼女は起き上がり、静かに身支度を整え始めた。朝。森山は、いつになく活気に満ちた素羽の様子を見て、不思議そうに尋ねた。「奥様、今日は何かいいことでも?ずいぶん嬉しそうですね」森山はあまりニュースを見ないため、昨夜起きたスキャンダルのことなど露ほども知らなかった。素羽は穏やかに答える。「もうすぐ自由になれるの」森山には、自由と喜びがどう結びつくのか理解できなかった。それでも、素羽が嬉しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。そこで、彼女は素羽が喜びそうな話をひとつ持ち出した。「そういえば、美宜さんのご両親なんですが、昨日どういうわけか慌てて出て行かれて、それきり戻ってらっしゃらないんですよ」素羽には、彼らが去った理由がはっきりと分かっていた。景苑別荘で最後となる朝食を済ませると、彼女は車を走らせて区役
「女を抱いたんなら、責任くらい取りなさいよ。じゃないと、亡くなった彼女に妹を裏切ったって知られたら、地獄から這い上がってきて恨まれるわよ」司野の顔の筋肉が、びくりと激しく痙攣した。「素羽、言っておくが、この離婚は絶対にさせない」素羽は何も言わずスマホを取り出し、楓華に電話をかけた。「楓華……」その名を口にした瞬間、司野がそれをひったくり、凄まじい勢いで床へ叩きつけた。画面は一瞬で暗転し、次の瞬間には粉々に砕け散った。素羽はゆっくりと瞼を持ち上げ、冷えきった眼差しで彼を見据える。「携帯を壊せば、すべて解決するとでも思っているの?」司野の呼吸は一つ一つがまるで炎を孕んでいるかのようだった。怒りのせいか視界には二重の残像が揺れ、耳鳴りが激しく響き渡る。次の瞬間、視界が急激に暗転した。身体は制御を失い、そのまま素羽の方へ崩れ落ちていく。「司野さん……!」意識が途切れる直前、司野ははっきりと気づいた。手を伸ばせば自分を支えられる距離に立っていた素羽が、彼が倒れ込む寸前、すっと身を翻して避けたことを。そのまま彼は、無防備なまま床へ叩きつけられた。非難の視線が一斉に素羽へ向けられたが、彼女は自分が何か間違ったことをしたとは微塵も思っていなかった。鉄人のような体を持つ司野が、まさかこれほど突然虚弱に倒れるとは予想もしなかったのだ。彼女はただ、司野が暴力を振るおうとしているのだと思い、本能的に身をかわしたに過ぎない。この予期せぬ事態により、話し合いは一時中断となった。司野は部屋へ運び込まれ、すぐに家庭医が呼ばれる。酒の回った身体に発熱、さらに鞭打ち。いくら頑丈な体を持っていようとも、到底耐えきれるものではなかった。だが素羽は内心、少なからず不満を抱いていた。よりによってこのタイミングで気を失うなんて、わざとではないのか。話し合いは後日に持ち越されるものと思われたが、予想に反して幸雄は決断の早い男だった。彼は即座に医者に命じ、司野に注射を打たせ、無理やり目を覚まさせたのである。須藤家の人間は、やはり容赦がない。彼女が内心やりたかったことを、平然と代わりにやってのけた。司野が目を開けるや否や、幸雄は冷然と言い放った。「明朝、目が覚めたらすぐに素羽と離婚してこい」司野
現在のこの窮状は、須藤家が自分を追い詰めた結果に他ならない。素羽は毅然と言い放った。「私と司野さんの離婚を認めてくださるなら、私が記者会見を開き、彼とはとっくに協議離婚が成立していたと公表します。今日の騒動についても、彼と美宜が恋人同士として合意の上で行ったことであり、不倫の事実は一切ないと説明しましょう」幸雄が低い声で問い返す。「……もし、認めないと言ったら?」素羽はその瞳に、一片の躊躇も曇りも見せなかった。「それでも会見は開きます。ただし、語る内容は真逆のものになるでしょう。裏切られた妻として、世間に助けを求めるしかありません。会社の株価に致命的な悪影響が出ることは、おじいさんも望まないはずです」幸雄が口を開くより早く、司野が叫ぶように割って入った。「ふざけるな、ありえない!」しかし、素羽は微塵も動じない。「司野、今回は不倫の現場を押さえられ、その動画もすでに拡散されているの。前回のように、あなたの思い通りに情報を操作できるなんて思わないことね」司野は憎しみを込めて素羽を睨みつけた。「……あの時、俺に意識がなかったのは分かっているはずだ」異変に気づいた時、なぜ引き離さなかった。なぜ誤解を解こうとせず、これほどの大騒ぎに発展させたのか。「酔っていただけでしょ。死んでいたわけじゃないわ」素羽の唇に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。「美宜の面倒を見ると言い出したのは、あなた自身。ベッドの上でああして『世話し合う』のが、あなたの望みだと思っただけよ。無粋に邪魔をして、目が覚めたあなたから『空気が読めない』なんてなじられるのは、もう御免だわ」司野の呼吸が荒く乱れる。「離婚するためなら、これほど卑劣な手段も選ばないというのか?」彼は、素羽がこれほどまでに冷酷になれるはずがないと信じていた。だが、目の前の現実は、彼女が目的のためならなりふり構わず牙を剥くことを冷徹に示していた。「これも全部、あなたに教わったことよ」素羽は静かに告げた。それこそが、司野が自分に刻み込んだ最初の教訓だった。彼女は視線を司野から幸雄へと戻す。「おじいさん、決断を」幸雄の濁った双眸の奥で、老獪な計算が渦巻く。「……明日、記者会見の手配をさせよう」須藤家の名誉という絶対的な天秤の前では、他のすべては些事に
「先生、私の結婚相手のこと、ご存じですか?」雅史は、牛のように鼻を鳴らして、またもや不機嫌そうに唸った。素羽は、ますます胸が痛んだ。まさか、雅史がまだ自分のことを気にかけてくれているとは思わなかった。てっきり、もう完全に見放されているのだとばかり……申し訳なさで胸がいっぱいになり、唇を引き結び、鼻の奥がツンとし、目頭も熱くなってくる。雅史は、そんな素羽をうとましそうに睨んだ。「泣きそうな顔して、情けない。まるで年寄りが若いもんをいじめてるみたいじゃないか、やめてくれ」「……」泣く勇気も失せて、素羽は必死に涙をこらえた。そんな空気を和ませようと、清人が口を開く。
37度。それは人の体にとって一番心地よい温度。でも、感情にとっては決して最適な温度じゃない。波風の立たない結婚生活なんて、まるで死んだ水溜まりと同じ。そこには、ただ静かに危機が潜んでいるだけ。……七恵は、毎月お寺に二日ほど泊まりに行くことが決まりごとだった。経を読み、仏に祈りを捧げるためだ。素羽が縁起直しの嫁として迎えられ、無事に役目を果たしてからというもの、七恵はこの「福の子」をすっかり気に入り、たびたび寺参りの付き添い候補にしてくださるようになった。今日は素羽だけじゃなく、琴子も一緒だ。お寺に着くなり、素羽は琴子に言われて仏前で跪き、子宝を願うことになった。
帰り道、素羽は一言も発さなかったが、車内は決して静かではなかった。美宜がぺちゃくちゃと喋り続けている。司野のスマホが鳴った。電話の相手は利津で、「美宜ちゃんを連れて一緒に飲みに来ようぜ」と誘ってきた。素羽は表情を変えず、何も気にしていないふうだったが、電話を切った後、初めて口を開いた。「道端で降ろして。先に帰るわ」美宜がすかさず口を挟む。「素羽さんも一緒に行着ましょうよ。みんな司野さんの友達だし、顔見知りでしょ?」美宜が善意で誘っているとは、素羽は思わなかった。素羽はもう一度断った。「いえ、他に用事があるの」「こんな時間に何の用事ですか?一緒に行きましょうよ。みんなで騒
もし離婚することになっても、素羽は司野との縁が完全に切れる前に、どうしても芳枝の命を繋いでおかなければならなかった。夏輝は率直に告げる。「正直、簡単な話じゃない。でも、絶対に無理ってわけでもない。ただ、少し時間がかかる」「須藤家が北町でどれだけの地位か、わかってます?」素羽が念を押すと、夏輝は微笑んで返した。「心配するな。彼は俺に手出しはできないさ」夏輝は本来、港町出身だったが、須藤家とてあちらでは無力なわけではない。清人が選んだ弁護士だけあって、只者ではなかった。素羽は昔から、清人が普通の家柄じゃないと感じていたが、それは間違いではなかった。類は友を呼ぶ。結局、人は自