تسجيل الدخول司野が口を開くより早く、傍らにいた幸雄が鶴の一声で話を締めくくった。「その必要はない。お前の祖父さんがわざわざ俺に頼んできたことじゃ。余計なことはせんでいい」司野は幸雄の決定に異を唱えるつもりはなかった。菜穂子が入社しようがしまいが、自分には関係のないことだったからだ。祖母が無事だと分かった以上、これ以上ここにいる理由もない。「おばあちゃん、俺はまだ用がある。先に行く」立ち去ろうとしたその時、幸雄がまた呼び止めた。「待て。菜穂子さんを会社まで送って、手続きを済ませさせてやれ」司野は淡々と言った。「俺はこれから会社へ行くわけじゃない」すると菜穂子が口を挟んだ。「幸雄お爺ちゃん、そんなに気を遣わなくていいわ。私、一人でタクシーに乗って行けるから」だが幸雄は首を横に振った。「会社へ行くかどうかは関係ない。とにかく、お前が車で送ってやるんじゃ」司野はもう「嫌だ」とは言わなかった。幸雄から菜穂子へと視線を移し、何も言わないまま踵を返して外へ向かう。幸雄は、それが了承だと受け取ると、笑顔で菜穂子に声をかけた。「行ってきなさい。会社で困ったことがあれば司野を頼れ。それでも駄目なら、この俺に言うんじゃぞ」菜穂子は丁寧に挨拶をすると、司野の後を追って部屋を出た。廊下へ出るなり、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。「司野さん、ご迷惑をおかけしてごめんなさい。それと、昨日は空港まで迎えに来てくれてありがとう。今度、お礼に食事をご馳走させてくれない?都合のいい日はある?」前を歩いていた司野がふいに足を止める。菜穂子も慌てて立ち止まった。「どうしたの?」司野は冷たい横目を向けた。「俺は、お前と親しくない」その一言に、菜穂子の笑みは一瞬だけ固まった。だがすぐに気を取り直し、微笑みを浮かべる。「だって、私たち十年以上も会ってなかったんだもの。今は私のことをよく知らないのも当然よ。でも、これから――」最後まで言わせることなく、司野はきっぱりと言い切った。「今も親しくないし、これから先も親しくなるつもりはない」菜穂子は戸惑ったように目を見開いた。「司野さん……あなた、私に何か誤解してない?」しかし司野は答えず、そのまま背を向けて歩き出した。菜穂子は慌てて小走りで後
司野は何も答えなかった。代わりに七恵が口を開き、彼をかばった。「もう、おじいさんは少し黙っていてちょうだい。司野はこんなに親孝行な子よ。あなたが言うような子じゃないわ」幸雄は鼻を鳴らし、そのまま声を荒らげた。「親孝行だと?こいつは最近、自我ばかり強くなりおって、俺の言うことなんぞ屁とも思っとらん。一つも聞きやせんわ!お前に聞くが、菜穂子さんを案内してやれと言ったのに、どうして行かなかった?」司野は淡々と答えた。「俺はガイドじゃない」幸雄は髭を震わせ、目をむいた。「菜穂子さんはお客さんじゃぞ。ホストとして少しくらいもてなしてやることの、何がそんなに不満なんじゃ!」司野の瞳は相変わらず冷え切っていた。「彼女はあなたの客だ。俺には関係ない」自分の客なら、自分で世話をすればいい。幸雄は司野を指差し、そのまま七恵へ愚痴をこぼし始めた。「見てみろ、この態度を!俺が何か頼んでも、まるで動こうとせん!」七恵は終始穏やかな口調だった。「お医者様もおっしゃっていたでしょう?あまり怒らず、穏やかに過ごしなさいって。おじいさんったら、どうして少しも言うことを聞かないの」幸雄は憤然と言い返した。「俺だってそうしたいわ!だが、この若造が何かと俺を怒らせるんじゃ!」七恵はなだめるように微笑んだ。「はいはい、分かったわ。司野、菜穂子さんは重夫さんのお孫さんなのよ。小さい頃、一緒によく遊んでいたでしょう?覚えていないの?」司野は短く答えた。「覚えていない」七恵はその冷たい返事にも動じず、穏やかに話を続けた。「菜穂子さんはここ数年ずっと海外へ留学していてね。去年卒業したの。帰国して経験を積みたいそうで、北町で働きたいと言っているのよ。それで重夫さんがおじいさんにお願いしてきたの。瑞基グループで働かせてもらえないかって。だから会社では、あなたが少し気にかけてあげてちょうだい。嫌な思いだけはさせないようにね。そうしないと、重夫さんに申し訳が立たないでしょう」司野は向かいに座る二人の老人を一瞥した。これでようやく、自分を呼び戻した本当の理由が分かった。祖母を案じていた気持ちは静かに引いていき、その表情はいっそう冷たさを帯びる。菜穂子が瑞基グループへ入社すること自体に異論はない。だが司野
奏はルームミラー越しに、すれ違った車へちらりと視線を向けた。わずかに口角を吊り上げ、その妖しく艶めく瞳には、嘲るような笑みが一瞬よぎる。やがて二台の車は、それぞれ反対方向へと走り去っていった。供え物を手に芳枝の墓前へやって来た司野は、墓石の前に置かれた別の供え物に目を留めた瞬間、はっと表情をこわばらせた。目を細め、何かを必死に探すように、焦りを滲ませながら勢いよく周囲を見回す。その様子を見た岩治が声をかけた。「社長、どうかされましたか?」「素羽が来たんだ」「……」突然、何を言い出すのだろう。岩治は周囲に並ぶ黒々とした墓石を見回した。まさか、素羽さんが墓の中から這い出してきたとでも言うのだろうか。昼間だからまだいいものの、これが真夜中だったら背筋が凍っていたに違いない。司野は墓前の供え物を指さした。「どれも、芳枝おばあちゃんが好きだった菓子だ」素羽でなければ、こんなものを供えるはずがない。「……」岩治は言葉を失った。やがて静かに口を開く。「楓華さんは、素羽さんの親友ですから」その一言で、供え物が置かれている理由は十分に説明がついた。素羽は亡くなってしまったが、楓華は今も生きている。あれほど仲が良かったのだから、彼女が墓参りをして供え物を置くのは、ごく自然なことだった。その言葉を聞くと、司野はふっと背を丸め、半ば伏せた瞼の奥に沈む深い失望を隠すように目を伏せた。薄い唇をわずかに開き、小さく呟く。「……そうか」岩治は迷うことなく頷いた。きっと、そういうことなのだ。司野の瞳はいっそう暗く沈んでいく。彼は静かに身をかがめ、持ってきた供え物を墓前へそっと供えた。遺影の中で穏やかに微笑む芳枝を見つめていると、この五年間、自分だけが時を止められたまま生きてきたような気がした。「申し訳ありません」司野は慈愛に満ちた笑顔の芳枝へ向かって、静かに頭を下げる。彼は、大切な人を失ってしまった。「あなたも……俺を憎んでいますか。だから、素羽を俺に会わせてくれないんですか」これほど長い歳月が流れたというのに、一度たりとも素羽が夢に現れたことはない。きっと彼女は、心の底から俺に会いたくないのだ。それでも――会いたくて、たまらなかった。ひと陣の風
奏は肩をすくめながら言った。「見つからないって、どういうこと?君のママがいるじゃないか」誠矢は首を横に振って言い返した。「違うよ。ひいおばあちゃんが言ってたもん。二人はまだ結婚してないって。結婚して初めてお嫁さんになるんだから、ママは僕のママだけど、パパのお嫁さんじゃない。だから僕からママを取っちゃダメ。ママは僕だけのものなんだから」言い終わるや否や、奏は腹いせのようにまた誠矢の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、ようやく整えた髪をまた鳥の巣のように乱してしまった。小さいくせに、妙に口が達者だ。「パパなんて大っ嫌い!」また髪型が台無しになってしまった。奏は鼻で笑う。「この嫌われ者のパパがいなかったら、今ごろママに会えてたと思うのかい?ママができた途端、俺のことなんて忘れちゃうなんて、本当に薄情なおチビちゃんだな」誠矢はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、素羽を見上げた。「ママ、本当?」素羽は白くてもちもちした頬を優しく撫で、微笑んだ。「ううん、違うわ。ママは誠矢が一番大好きよ」その一言で誠矢の顔はぱっと花が咲いたように明るくなった。そして小さな顎をつんと上げ、得意げに奏を見た。「ほらね。ひいおばあちゃんの言う通りだ。パパは嘘つきだもん。いつも人をだましてばっかり」奏は舌打ちした。「このクソガキ、お仕置きされたいのか?」その瞬間、誠矢は慌てて素羽の足にしがみついた。「ママ、助けて!パパがいじめる!」「言っとくけど、誰に泣きついても無駄だからな」奏はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。さっきまで胸に広がっていた感傷は、二人のにぎやかなやり取りのおかげですっかり消え去り、素羽の心には、ようやく帰ってこられたという温かな安堵だけが残った。――この場所に、やっと帰ってきた。素羽は身をかがめて誠矢を抱き上げ、あからさまに彼の味方をする。「もういいでしょう。いい大人なんだから、本気になって子どもをからかわないの」奏はふんと鼻を鳴らした。「君は本当にえこひいきだな。誠矢くんの肩ばかり持つ」そう言ったかと思えば、すぐに機嫌を直し、にやりと笑う。「まあ、俺は心が広いからね。君たちと同じ土俵で張り合ったりしないけど」そう言って、素羽の腕から誠矢をひょいと抱き上げた。「俺が抱
奏にせっつかれ、翌日、素羽は半ば押し切られる形で、おばあちゃんのお墓参りに行くことになった。彼女自身もしばらく顔を出せていなかったこともあり、その誘いを断る理由はなかった。墓地――墓石の前。「おばあちゃん、帰ってきたよ」素羽はきれいに手入れされた墓石を見つめ、そっと花束を供えた。遺影の中で優しく微笑むおばあちゃんの顔を見つめていると、胸がぎゅっと締めつけられ、目頭が熱くなる。会いたかった。こんなにも長い間、お墓参りにも来られなかった自分を、不孝者だと思わずにはいられなかった。「おばあちゃん、会いに来たよ」そう口を開いたのは奏だった。ところが彼は、やたらと気合いの入った自己紹介を始め、危うく先祖代々の話まで披露しそうな勢いで、息継ぎも忘れたかのようにしゃべり続ける。プロのラッパーですら、ここまで口は回らないだろう。「パパ、お話が長すぎるよ。もう終わりにして。僕、まだ自己紹介もしてないのに……」ビシッとキッズスーツを着こなした誠矢が、奏のズボンの裾をちょんちょんと引っ張った。――パパって、どうしてこんなにおしゃべりなんだろう。僕が話す隙もくれないじゃないか。奏は横目で誠矢を見た。「俺はしゃべりたいからしゃべってるんだよ。なんでしゃべっちゃ駄目なんだ?君だって話したいことがあるなら話せばいいじゃないか。どうして俺を黙らせようとするのさ」四歳の誠矢は、ぷくっと頬を膨らませた。「だってパパの声、大きすぎるんだもん。僕の声が聞こえなくなっちゃうよ。ひいおばあちゃんとお話ししても、届かなくなっちゃう。だからパパ、その大きなお口、閉じててくれる?」奏はすかさず言い返す。「俺の大きな口は閉じられないからね。だったら君がその小さな口をもっと大きく開ければいいじゃないか。体もちっちゃいし、声もちっちゃい、おチビちゃんなんだから」そう言いながら、きれいにセットされていた誠矢の髪をぐしゃぐしゃと撫で回し、あっという間に鳥の巣のような頭にしてしまった。まだほんの小さな子どものくせに、出かける前には毎日きちんと身だしなみを整えて、一人前の大人みたいに気取っている。下手をすれば、自分よりよほどナルシストだ。おチビちゃん扱いされた誠矢は、さらに口をとがらせると、奏の手を振り払い、すぐに素羽へ駆け寄った。「ママ
素羽はその一連の出来事を思い返し、瞳の奥に暗い影を宿した。須藤家の人間を信用できなかったからこそ、家を逃げ出した後も一瞬たりとも警戒を緩めなかった。そして、その警戒心こそが彼女の命を救ったのだ。幸雄の冷酷さと薄情さは、須藤家の人間がどれほど残忍な存在かを嫌というほど思い知らせた。そして奏は、彼女が川へ転落してから初めて出会った生身の人間だった。制御を失った救急車が激突し、そのまま川へ転落する寸前、素羽は間一髪で車外へ飛び出した。だが、一歩及ばず、川への転落そのものは避けられなかった。それでも、救急車ごと沈まず、自分だけが川へ投げ出されたのは、不幸中の幸いだった。もし車内に閉じ込められていたら、ほかの乗員たちと同じように、生きたまま水底へ沈み、冷たい亡骸となって引き上げられていたに違いない。命こそ取り留めたものの、その時の彼女は全身が重傷だった。肋骨は三本折れ、左腕と左脚も骨折した状態で、あの底知れぬ暗い川からどうやって岸までたどり着いたのか。何が自分をそこまで突き動かしたのか――今でも素羽には分からない。振り返るたび、自分は踏まれても枯れない雑草のようにしぶとい人間なのだと苦笑してしまう。どれほど過酷な目に遭っても死なず、土壇場になれば必ず絶体絶命の窮地から這い上がり、生き延びる道を切り開いてしまうのだから。奏と出会ったのは、まさにそんな時だった。あの時、彼の車は運悪くエンストを起こし、迎えを呼ぶために連絡を取っている最中だった。そこへ、全身ずぶ濡れの彼女が突然視界へ飛び込んできたのだ。あまりにも唐突な登場に、奏は飛び上がるほど驚いていた。素羽は今でも、初めて会った時に奏が放った第一声を忘れていない。「真夜中に幽霊でも見ちまったのか、俺?」実際、あの時の彼女は幽霊と呼ばれても仕方のない姿だった。ついさっきまで暗い川底から這い上がってきたばかりの、「幽霊」そのものだったのだから。幸雄が自分を殺そうとしていると知った以上、奴らが最後まで息の根を止めに来ることは目に見えていた。だから岸へ這い上がった瞬間も、素羽は一息つくことすらしなかった。傷だらけの身体を引きずりながら、一歩も立ち止まらず、その場から逃げ続けた。見知らぬ人に出会っても足を止める勇気などなく、ただひたすら橋とは反対の方向へ歩き続けた。







