LOGINモラハラ夫・達哉に尽くし、「いい妻」であろうと自分をすり減らしてきた沙耶。そんな彼女は、仕事で才能を認めてくれるクライアント・神崎蓮と出会い、少しずつ自分の価値を取り戻していく。そんな中、沙耶を襲う不思議な既視感。同じ会話、同じ痛み、そして同じ結末──。これは本当に初めての人生なのか。繰り返される運命を変えるため、沙耶は「都合のいい女」をやめ、自分の人生を選び始める。
View More木曜日の午後三時。KAN DESIGN LABのオフィスに、林が少し早く来ていた。テーブルの上に、A4の紙が三枚。コピー案を、印刷してきていた。井上と田中が来て、最後に神崎が奥のデスクから立ち上がり、テーブルに加わった。「じゃあ、始めよう」四人と沙耶が、揃った。林がA4を一枚ずつ配った。案①「もう、誰かのためだけに生きない。」案②「あなたの人生は、あなたが取り戻す。」案③「ずっと待っていた、自分自身の声を。」沙耶は三枚を、順番に読んだ。言葉は、強かった。まっすぐだった。怒りが、きれいに研がれていた。これは、二年前の私だ。思った。打ち消さなかった。神崎が三枚を読み終えて、一度置いた。何も言わなかった。その沈黙が、否定ではないと、沙耶にはわかった。考えている沈黙だった。「一個、聞いていい」沙耶は林に言った。「はい」と林が言った。「これを読む人は、今、どこにいると思う?」林が少し考えた。
二月の第三週、火曜日。 神崎のオフィスに向かいながら、今日は少し違う感覚があった。 いつもは、打ち合わせの内容を頭の中で確認しながら階段を上がる。今日は、確認よりも先に、聞きたいことがあった。 聞きたいこと。 自分から、聞く。 そのことが、少し緊張を作っていた。 ドアを開けると、神崎一人だった。 今日は二人だけの打ち合わせだった。ビジュアルの最終確認と、三月のクライアント向け提示の準備。 「おはようございます」 「おはようございます。コーヒー、淹れますね」 「ありがとうございます」 神崎がコーヒーを用意する間、沙耶はテーブルに資料を並べた。 今日持ってきたのは、ビジュアルと言葉の整合チェックシートと、提示用の構成案だった。 コーヒーが二つ、テーブルに置かれた。 打ち合わせが始まった。 ビジュアルの確認は、三十分ほどで終わった。井上の第二稿は、方向として固まっていた。細部の調整は来週でいい、という結論になった。 提示の構成も、大きな変更はなかった。沙耶が作ってきた構成を、神崎が二箇所だけ手を入れた。どちらも、沙耶が迷っていた箇所だった。 「ここ、迷っていました」と沙耶は言った。
二月の第二週、木曜日の夜だった。 夕飯を終えて、仕事部屋で作業をしていた。林が書き直してきたコピー案への返信をまとめていた。林は速かった。フィードバックを受けてから三日で、新しい案を五つ出してきた。五つのうち二つが、方向として正しかった。残りの三つも、間違いではなかった。ただ、まだ少し、外側にいた。 どう伝えるか、言葉を選んでいた。 そのとき、スマートフォンが鳴った。 母、美和からだった。 「もしもし」 「沙耶、今大丈夫?」 「うん、大丈夫」 「仕事中じゃない?」 「してたけど、いい」 電話口の向こうで、美和が少し息をついた。 「何となく、かけたくなって」 「何となく」 「そう。何となく。用がなくてもかけていいって言ったの、沙耶じゃない」 沙耶は少し笑った。「そうだったね」 「声、変わったね」 「変わった?」 「笑い方が、少し軽くなった。前は、笑う前に一回確認する感じがあったから」 沙耶は少しの間、何も言わなかった。 笑う前に一回確認する。 自分では気づいていなかった。でも、言われてみると、そうだった気がした。達哉が近くにいるとき、笑ってい
木曜日の朝、神崎のオフィスに向かった。階段を上がりながら、今日の議題を頭の中で確認した。ビジュアルの進捗確認、次フェーズのスケジュール、林が初めてコピー案を出すと聞いていた。最後の一点が、少し気になっていた。気になる、というのは、悪い意味ではなかった。林がどんな言葉を持ってくるか、純粋に知りたかった。ドアを開けると、三人すでにいた。神崎がホワイトボードの前に立っていた。田中はコーヒーを飲みながらノートを開いていた。林はテーブルの端に座って、手元の紙を見ていた。紙を持つ手が、少し固かった。「おはようございます」三人が顔を上げた。林が沙耶を見て、少し表情が動いた。緊張が、隠しきれていなかった。「おはようございます」と沙耶は林に向かって言った。いつもより少し、柔らかい声で。林が小さく頷いた。神崎が口を開いた。「今日の確認事項は三つです。ビジュアルの進捗、スケジュールの調整、それから林さんのコピー案。順番に行きます」ビジュアルの進捗は、沙耶と井上のやり取りを田中が整理して報告した。「重力が出た、という岸谷さんの評価で、方向性が固まりました。来週、井上が第二稿を上げます」「スケジュールは?」と神崎が聞いた。「三月頭のクライアント確認に間に合います」「わかりました。では林さん」林が顔を上げた。手元の紙を、テーブルの上に置いた。「