تسجيل الدخولモラハラ夫・達哉に尽くし続け、「いい妻」であろうとするたびに自分をすり減らしてきた沙耶。 仕事も、家庭も、すべてを優先してきたはずなのに、返ってくるのは否定と支配だけだった。 それでも「私が我慢すればいい」と思い込んでいた日々は、ある出来事をきっかけに静かに崩れ始める。
عرض المزيد目が覚めた瞬間、まず確認するのは時計ではなく、隣の気配だ。
六時十二分。翌朝、起き抜けにスマートフォンを確認するのが、沙耶の習慣になってから久しい。 達哉からのラインに「明日の夕飯どうする」とか「洗濯物たたんでおいて」とか、そういったメッセージが来ていることが多い。出勤してからでも言えることを、わざわざラインで送ってくる。直接言葉にすることを、この人はどこかで避けているのかもしれない、と沙耶は思ったことがある。あるいは記録として残したいのか。どちらにしても、朝一番に画面を開くたびに、沙耶の肩は少しだけ重くなった。 でも今朝は違った。 達哉からのラインより先に、別の通知が目に入った。 SNSのDM。神崎蓮からの返信だ。岸谷さんご返信ありがとうございます。早速ですが、今週木曜日の午後二時はいかがでしょうか。オンラインにて、三十分ほどお時間をいただければと思います。ZoomのURLは改めてお送りします。神崎蓮 沙耶はベッドの中で、その短いメッセージを二度読んだ。 木曜日。今日が月曜日だから、三日後だ。 断る理由は何もなかった。達哉は木曜も通常通り出勤する。打ち合わせの時間は午後二時で、夕飯の準備にも余裕がある。何も問題はない。 なのに沙耶は、承諾の返信を送る前に少しの間、画面を見つめていた。 本当にいいのかな。 自分でも可笑しいと思った。仕事の打ち合わせをするのに、何をためらっているのか。フリーランスとしてクライアントと話すのは、何も特別なことじゃない。 でも──何かが、違う気がした。 これまでの仕事は、全部小さな世界の中に収まっていた。達哉の「続かないでしょ」という言葉の範囲の中に、ちゃんと収まっていた。でもKAN DESIGN LABは、その範囲の外にある気がした。踏み出したら、もとの場所に戻れなくなるような、そんな予感が、指先にあった。 戻れなくなって、何が困るんだろう。 沙耶は自分にそう問いかけて、答えが出ないうちに返信を送った。神崎様木曜日の午後二時、問題ありません。よろしくお願いいたします。岸谷沙耶 送信ボタンを押してから、ようやく起き上がった。 キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける。今日の朝食を組み立てる。いつも通りの朝が、いつも通りに始まった。 でも何かが、今日は少しだけ違った。うまく言葉にはできないけれど──足元に、薄い光のようなものがある気がした。踏めば消えてしまいそう
午後二時。 沙耶はパソコンの画面を見つめたまま、冷めたコーヒーに口をつけた。 カフェの女性オーナーへのロゴ案は、昨日の続きからさらに手を加えて、三パターンまで絞り込んだ。Aは洗練されているけれど少し冷たい印象がある。Cは温かみがあるが、少し素朴すぎるかもしれない。そしてB──シンプルで、でも芯がある。余白の使い方が、依頼主の言葉と重なる気がした。 「自分のお店なのに、なかなか形にできなくて」 最初の打ち合わせで、彼女はそう言っていた。恥ずかしそうに、でも真剣な目で。形にできない何かを、ずっと抱えていた人の顔だった。 沙耶の指は自然とBパターンに動いた。 これがいい。理屈じゃなく、そう思った。デザインをしているとき、たまにこういう瞬間が来る。考えるより先に、手が答えを知っている瞬間。沙耶はこの感覚が好きだった。というより──この感覚だけが、今の自分に残っている「好き」だと、最近そんなふうに思うことがある。 好きなものが、まだちゃんとある。 それだけで、今日という日が少し違う色になる気がした。 スマートフォンが振動した。 画面を見ると、知らないアドレスからのメッセージだった。SNSのDM。沙耶がポートフォリオ用に作ったアカウントへの通知だ。最近は月に一件か二件、小さな依頼が来ることもある。たいていは個人経営の飲食店か、ハンドメイド作家からだ。単価は高くない。でも、自分の名前で仕事をしているという感覚が、沙耶には必要だった。 画面を開く。岸谷沙耶さん、はじめまして。KAN DESIGN LABという会社を経営している、神崎蓮と申します。先日、岸谷さんのポートフォリオを拝見しました。ブランディングの軸がブレていない点、非常に興味深く拝見しました。もしよろしければ、一度お話を聞かせていただけますか。詳細はお電話もしくはオンラインでご説明できればと思います。ご検討のほど、よろしくお願いいたします。神崎蓮 沙耶は三回、読み直した。 文面は丁寧で、過不足がない。売り込みでも値踏みでもなく、ただ率直に、話を聞かせてほしいと書いてある。こういうメッセージは珍しかった。たいていは最初から「安くできますか」か「○○風のデザインで」という条件から入ってくる。あるいは、実績を列挙して「このレベルの仕事ができますか
目が覚めた瞬間、まず確認するのは時計ではなく、隣の気配だ。 六時十二分。 達哉はまだ眠っている。寝返りを打った拍子に、掛け布団が半分、床に落ちていた。沙耶は音を立てないようにベッドを抜け出し、布団を拾って、そっとかけ直した。 それから足音を殺してキッチンへ向かう。 冷蔵庫を開ける。卵、豆腐、昨日の残りの小松菜。頭の中で今朝の献立を組み立てながら、沙耶は自動的に手を動かし始める。米を研いで、味噌汁の出汁をとって、卵焼き用のフライパンを火にかける。 窓の外はまだ薄暗い。四月の朝は、明けるのが中途半端に遅い。 卵を三つ割って、菜箸で溶く。砂糖をひとつまみ。いや、少し多かったかもしれない。沙耶は一瞬手を止めて、砂糖の瓶を見た。 ──また甘すぎって言われるかな。 そう思った瞬間、自分でも可笑しくなった。卵焼きを焼く前から、怒られる想像をしている。それがもう、朝の習慣になっていた。 七時ちょうどに、達哉が起きてきた。 「おはよう」と沙耶は言った。 達哉は返事をしなかった。椅子を引いてテーブルに座り、スマートフォンを開く。ニュースか、それともSNSか。沙耶には関係なかった。関係ないように、自分に言い聞かせてきた。 味噌汁をよそって、卵焼きを皿に盛って、ご飯を茶碗によそう。二人分。沙耶の分は、達哉が食べ終わってから。それがいつの間にか決まったルールになっていた。 達哉は箸を取り、卵焼きをひと切れ口に入れた。 二秒の沈黙。 「甘すぎ」 それだけ言って、またスマートフォンに目を戻す。 「ごめんなさい」 沙耶は言った。反射的に。考える前に、口が動いていた。 私はいつから、謝ることが呼吸になったんだろう。 洗い物をしながら、沙耶はぼんやりとそんなことを思った。 謝るのは怖いからじゃない。もうそういう段階は、とっくに過ぎていた。謝るのは、空気を保つためだ。この家の空気を、ぎりぎり呼吸できる濃度に保つための、沙耶なりの技術だった。 達哉は別に、怒鳴らない。手を上げたこともない。傍から見れば、普通の夫婦だと思う。それが──たぶん、一番ややこしいところだと、沙耶はうっすら気づいていた。 「今日、何時に帰る?」 達哉が背後から聞いた。 「クライアントとオンラインの打ち合わせが夕方にあるから、六時か七時くらいには──」 「ふ





