Mag-log in五月九日、日曜日。
実家の自室のデスクで、千景は仕事用の黒い手帳を開いたまま、ボールペンの先を紙の上で止めていた。
窓から差し込む朝の光が、白いページを明るく照らしている。本来なら、来週のシフトと調査案件の引き継ぎ事項を整理するはずの時間だった。それなのに、予定を書き込もうとするたび、昨日の夕方の記憶が鮮やかに蘇って思考を邪魔する。
木立に囲まれた静かな小道で、朔の腕の中に包まれたときの確かな熱。生成りのシャツ越しに伝わってきた、驚くほど速い鼓動。耳元で低く呼ばれた自分の名前。
思い出しただけで、誰もいない部屋なのに耳の奥までじんわりと熱くなり、口元が勝手に緩んでしまう。千景は慌てて左手で頬を押さえ、小さく咳払いをした。
気を紛らわせるように手帳のページに視線を戻し、そこでふと手が止まった。
昨日、別れ際に朔は『次の休み、僕の家で一緒に料理しませんか』と誘ってくれた。千景も『はい、行きたいです』と答えた。
けれど、抱きしめられた直後の動揺と嬉しさで頭がいっぱいになってい
十月二十三日、土曜日。 夕暮れの風が冷たくなり始めた午後六時過ぎ、千景は桜木町駅から少し歩いた運河沿いの喫茶店で、朔と向かい合って座っていた。 二週間前の土曜日、小樽から戻った朔の部屋で父・修司の話をしていた夕方に、札幌の音楽ホールから来春の継続委託を打診するメールが届いた。その後、朔は横浜での調律の合間を縫って先方とやり取りを重ね、昨日の夜、詳しい条件がひととおり確認できたと千景に連絡をくれたのだ。 テーブルの上には、紅茶のカップと、朔がメモを書き留めた薄いノートが置かれている。「先方のホールが探しているのは、来年の四月から年間を通してピアノを管理する、専属に近い調律師でした」 朔はノートに視線を落とし、落ち着いた声で話し始めた。「大ホールと小ホールにある計四台のグランドピアノの定期保守と、演奏会本番前の調律、それからリハーサルや本番中の立ち会いが主な業務です。前任のベテランの方が来春で引退されるそうで、以前僕が臨時のお手伝いに入ったときの作業を、音響担当の方が覚えていてくださったんです」「四台のグランドピアノを、年間を通して……すごいお話ですね」「はい。ただ、正社員ではなく、個人事業主としての継続業務委託です。年間の見込み報酬は、いま横浜で個人のお客さんや音楽教室を回って得ている売上より少し多いくらいですが、そこから札幌での住居費や移動費、税金などを賄うことになります」 朔は数字を誇張しなかった。「受けるなら、来春から札幌に生活の拠点を置き、週の半分以上はホールの仕事に関わることになります。横浜のお得意先は、冬のうちに信頼できる同業者へ一件ずつ引き継がないといけません。……先方からは、来期の体制を固めるため、十二月半ば頃までに返事がほしいと
十月九日、土曜日。 午後三時を少し回った頃、千景は私鉄の駅から商店街を抜け、朔が暮らすアパートの外階段を上がっていた。 十月一日に株式会社岬リサーチの代表取締役に就任してから、最初の一週間は目が回るような速さで過ぎていった。取引先への挨拶回りや、現場責任者となった有村莉央との新しい決裁ルールの運用確認、そして変更登記や届出に関する書類のやり取り。毎日新しい「代表取締役 柚木千景」の名刺を差し出しながら、自分の肩に乗った看板の重みを実感する日々だった。 その間、朔は十月一日の夜に予告していたとおり、平日の仕事の合間を縫って二泊三日で故郷の小樽へ帰省し、昨日の夜遅くに横浜へ戻ってきていた。 土曜日の今日、千景は午前のうちに急ぎの決裁と週明けの配置確認をすべて済ませ、午後からの一次対応を莉央と岬に任せてオフィスを出た。『向こうで様子を見てきたら、千景さんにも少し話を聞いてもらってもいいですか』と言っていた朔との約束を、どうしても今日のうちに守りたかったのだ。 インターホンを鳴らすと、すぐに内側から鍵が開き、普段着の朔が顔を出した。「千景さん。お休みの日に来てもらってすみません」「私も顔が見たかったですから気にしないでください。長旅のお疲れは残っていませんか?」「ええ、昨日のうちにぐっすり眠れましたから大丈夫です。どうぞ、入ってください」 玄関で靴を脱いでリビングへ上がると、八日前の夜に秋鮭の炊き込みご飯を囲んだテーブルの上に、二人分のマグカップと、見慣れない紙包みの焼き菓子が用意されていた。 あの夜、フロアランプの光の下で初めて『就任おめでとう、千景』と呼び捨てにされ、自分から背伸びをしてキスを求めた記憶がふっと蘇り、千景は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。朔の方も同じように思い出したらしく、わずかに照れたように目元を緩めてから、淹れ
十月一日、金曜日。 関内にある株式会社岬リサーチの社長室で、千景はまだ革が新しいデスクチェアの前に立ち、新しい名刺入れから刷り上がったばかりの名刺を一枚取り出した。『株式会社岬リサーチ 代表取締役 柚木千景』 少し厚みのある紙に刻まれた明朝体の活字を、千景は指先でそっとなぞった。 九月十一日に岬達郎から具体的な譲渡条件が提示されて以来、この三週間は息をつく暇もないほど慌ただしく過ぎていった。税理士や弁護士、司法書士と契約書面や定款の手続きを一つずつ確認し、九月二十五日までに必要な承認を経て、発行済株式百株のうち岬が保有していた六十株を千景個人の資金六百万円で譲り受けた。残りの四十株を持つ株主への説明や、役員の選任、代表者の選定といった会社としての正式な手続きも滞りなく整い、登記や探偵業に関する変更手続きも専門家とともに進めている。 その合間を縫って、九月十六日の木曜日の夜には、約束していたとおり馬車道の近くで朔と一時間だけ会い、温かい食事をとって言葉を交わした。それ以降の九月後半は互いの仕事が重なって直接会うことはできなかったが、夜遅くに短い電話で声を聞くたび、今日という日を二人で迎えられることが千景の支えになっていた。 コンコン、と控えめなノックの音がして、開けてあったドアから岬と後輩の有村莉央が入ってきた。「名刺は綺麗に刷り上がっていたか」 穏やかに尋ねる岬に、千景は「はい、今確認していたところです」と背筋を伸ばした。 今日から会社の代表は千景に代わり、岬はこれまで担当していた取引先の引き継ぎや監査後の対外対応を支える立場で、もうしばらく会社に関わることになっている。「先ほど、社内のメンバーと主要な取引先へ、本日付での代表交代の通知を出しておいた。……今日からここが君の席だ。よろしく頼むよ、柚木社長」 恩師である岬からそう呼ばれ、千景は照れくさそうに瞬きをしたあと、深く頭を下げた。「はい。精一杯務めさせていただきます」 続いて莉央が一歩前に出て、バインダーを胸に抱えたまま、少し緊張した面持ちで千景を見た。
九月十一日、土曜日。 朝夕の風にようやく秋の涼しさが混じり始めた関内のオフィスで、千景は社長室のテーブルに広げられた一冊の薄い評価報告書に視線を落としていた。 八月の初めに母から過去の調査依頼の話を聞き、自分の名前でこの会社の看板を守りたいと手帳に書き留めてから、ひと月あまりが過ぎていた。その間、千景は通常の調査業務をこなしながら、休日には朔と短い時間を過ごし、岬から渡された財務や管理体制の資料を少しずつ読み解いてきた。 そして今日、税理士による株式の評価と、顧問弁護士による手続きの整理がまとまったとして、岬達郎から具体案が提示されたのだ。「うちの会社の発行済株式は全部で百株ある。そのうち私が保有している六十株を、柚木、君個人に譲り渡したい。税理士が会社の純資産やこれまでの収益力、そして今後のシステム維持費などを踏まえて算定した評価額に基づき、譲渡価格は六十株で合計六百万円という案になった」 岬は報告書の該当ページを指し示しながら、落ち着いた声で説明した。「残りの四十株は別の株主が引き続き保有することになる。君だからといって無償同然で譲るのではなく、専門家の評価に基づいた対価での売買だ。必要な説明や手続きは、他の株主との関係も踏まえて進める」 千景は頷き、数字の並んだ用紙を静かに見つめた。 六百万円。それは会社の口座に新しく振り込まれる運転資金ではなく、株主である岬個人から六十株を買い取るための対価だ。「株式を六割取得したからといって、自動的に代表取締役になれるわけではない。定款に従った株式譲渡の承認手続きや、役員の選任、代表者の選定といった会社としての正式な手続きが別に必要になる。登記の変更や、探偵業の届出についても専門家と確認して進める」 岬はそこで一拍置き、千景の目をまっすぐに見た。
八月一日、日曜日。 朝から強い日差しが照りつける休日の午前十時過ぎ、千景は一階のリビングのテーブルで、母の静江と向かい合って座っていた。 先週の月曜日の夜、仕事から帰った千景に、静江が『あなたに、ずっと言えなかった昔の話があるの』と切り出してから六日が経つ。いつものように二人で朝食を片づけ、静江が新しく淹れた冷たい麦茶のグラスをテーブルに置いたところで、彼女は一度エプロンのポケットに手を当て、それから二階の自室へと上がっていった。 数分後に降りてきた静江の手には、少し角の色が褪せた、A4判ほどの茶封筒が握られていた。 静江は椅子に腰を下ろすと、その封筒をテーブルの真ん中にそっと置いた。 封筒の左下に印刷された小さな社名ロゴを見て、千景の息が止まった。『株式会社岬リサーチ』 千景が大学四年生のとき、母の書類棚の隅で偶然見つけ、いまの会社へ入社するきっかけになったあの名刺とまったく同じ書体の文字が、そこには記されていた。「……お母さん。これ、どうして」「あなたが十五歳だった、二〇〇九年の秋のことよ」 静江は封筒の上に両手を重ね、静かな、けれど逃げない眼差しで千景を見た。「あの頃、私はお父さんの帰りが遅いことや、休日の外出が増えたことに気づいて、お父さんに別の女性がいるのではないかと疑っていたの。それで……誰にも相談できないまま、自分で調べて、岬さんの事務所へ正式に調査をお願いしたのよ」 千景は言葉を失い、テーブルの上の茶封筒を見つめた。 十五歳のあの日、リビングのテーブルに置かれていた父の携帯電話が光り、不倫相手からとしか思えないメッセージの通知が目に入った。それを黙っていられずに母へ告げたせいで、平
七月二十六日、月曜日。 午前九時前の岬リサーチのオフィスで、千景は一週間かけて整えた業務引き継ぎ表のプリントをデスクに広げ、後輩の有村莉央と向かい合っていた。「今日、私が担当している継続案件のうち、午後に動きがありそうなのはこの二件よ。A社の尾行班からの定時連絡は十六時頃に入る予定だから、私がデスクにいる間は直接受けるわ。もし十八時以降に追加の確認が必要になった場合は、このチェックリストの順で一次対応をお願いできる?」「はい、内容は把握しています。判断に迷う変更が出たときだけ、待機してくださる岬社長に直接つなぎますね」 莉央は手元のバインダーに要点を書き込みながら、頼もしく頷いた。 今日の午後からは、外部の監査人と顧問弁護士がオフィスに入り、情報管理体制の実務点検と関係者への説明を行う予定になっている。 もちろん、点検への立ち会いや対象となった顧客への説明責任を負うのは代表の岬と専門家たちであり、一調査員である千景がその業務を代行することはない。ただ、岬や事務方が監査対応にかかりきりになる分、通常の調査現場からの連絡や問い合わせが滞らないよう、千景と莉央で日中の窓口を分担しておく必要があった。 以前の千景なら、「当日はバタバタしそうだから、自分が夜遅くまで残って全部カバーしよう」と一人で抱え込んでいたかもしれない。 けれど今朝は、事前に各案件の進捗と莉央の担当件数をすり合わせ、十八時以降の緊急連絡体制については岬からも「夜間は私が引き取るから、自分の担当分が片づいたら上がりなさい」と正式に承認を得ていた。誰かに無理を押しつけるのではなく、自分の責任を時間内に果たすための段取りだった。 千景は鞄のなかの黒い手帳に記された『十九時、関内で桐生さんと夕食』という文字を思い浮かべ、パソコンの画面に向き直った。 午後一時過ぎ、スーツ姿の







