ANMELDEN家柄の穴埋めとして冷徹社長・神崎玲司と結婚した葵。熱い夜を重ねても「愛している」の一言もない夫に諦めを抱いていた矢先、彼が真に愛する幼なじみが帰国する。「私はただの都合のいい身代わり妻だったのだ」と絶望した葵は、妊娠を秘めたまま離婚を決意。かつて諦めた天才研究者としてのキャリアを取り戻すため家を出る。 一方、言葉足らずゆえに擦れ違い、最愛の妻を失って初めて狂おしい執着と執拗な嫉妬に突き動かされる玲司。 「もう遅い」と冷たく言い放つ覚醒した元妻と、壊れるほど後悔し必死に追いかけ直す元夫。二人のすれ違いの愛が辿り着く結末とは——。
Mehr anzeigen神崎家を出て研究所へ向かう道中、葵のスマートフォンが激しく主張するように揺れた。 画面に表示されたのは『一ノ瀬 蓮(れん)』——二歳下の実弟の名前だった。 苦い予感を抱きながら通話ボタンをスライドさせると、開口一番、焦りに満ちた弟の声が鼓膜を叩いた。 『あ、姉ちゃん!? やっと出た! 頼む、助けてくれ! 今回だけでいいんだ、一千万円……いや、八百万円でもいい! 今月中に用意しないと俺の会社が不渡りを出してしまうんだよ!』 「……またなの、蓮?」 葵は歩みを止め、溢れ出しそうになる溜息を飲み込んだ。 弟は大学を卒業後、まともな企業に就職もせず「起業する」と言っては失敗を繰り返してきた。そのたびに実家や葵のもとへ泣きつき、資金をせびってきたのだ。 「もう無理よ、蓮。何度も言ったでしょう? 向いていないなら一度夢を諦めて、きちんと就職して地道に働きなさい」 『冷たいこと言うなよ! 姉ちゃんは良いよな、神崎グループの御曹司に嫁いで、何不自由ない金持ち生活送れてさ! 俺たち実家がどれだけ苦労してるか分かってんの!? おやじの治療費だって——』 「お父さんの治療費と、あなたの無謀な事業資金は別の話でしょう!」 葵は語気を強めた。けれど、「おやじ」というワードを出されると、胸の奥が痛むのを止められなかった。 父の病状、実家の窮状。自分が神崎家という檻に身を捧げた理由が、そこにはあったからだ。完全に切り捨てることのできない家族という重荷。 「……とにかく、私からお金は出せないわ。自分でなんとかしなさい」 電話を切り、葵は深く息を吐き出した。 断ったものの、もし本当に不渡りを出して実家にまで借金取りが押し寄せたら、病床の父はどうなるのか。不安で押し潰されそうになった葵は、藁にもすがる思いで海外にいる親友・結衣へメッセージを送った。 『結衣、突然ごめんなさい。もしもの場合……一千万円ほど、お借りすることってできるかしら。必ず私が働いて返します』 すぐに結衣から返信が届いた。 『葵、お金なら全然用意できるよ! 快く貸す! でも……また家族のこと? 葵がこれ以上傷つくために自分を削る必要なんてないんだよ?』 親友の温かい気遣いに、目頭が熱くなる。葵は『本当にありがとう。でも大丈夫、ち
昨夜、離婚を切り出された玲司は、翌日になってもその言葉が頭から離れずにいた。不自然なほど突然始まった研究所での猛勉強、以前から「部屋を借りて出ていく」と言い張っていたこと、そして最近の帰宅の遅さ。そのうえ、ついに「離婚したい」とまで言い出した。仕事で百戦錬磨の頭脳を誇る玲司だったが、妻のこととなると正常な思考回路が狂い始めていた。(……まさか、研究所で誰か男と知り合ったのではないか)自分以外の男の手によって葵が変えられ、手元から離れていこうとしている——。その歪んだ恐怖と不快感が、冷酷な仮面の裏で醜く渦巻いていた。翌朝。朝食の席で、静かに紅茶を口に含んでいた葵に対し、玲司は唐突に冷ややかな声を投げかけた。「……研究所で、誰かに言い寄られているのか」「……え?」突拍子もない問いかけに、葵はカップを浮かせたままポカンと玲司を見つめ返した。何を言われているのか、一瞬本気で理解できなかった。しかし、玲司は感情の読めない暗い瞳で葵を射抜いたまま、畳みかけるように追及を続ける。「最近いつも遅いだろう。毎日誰と一緒に残っている。……男の研究員もいるのか」嫉妬とも独占欲ともつかない、どこまでも不躾で一方的な疑い。その言葉の意図を理解した瞬間、葵の胸の奥で、静かな怒りの炎がメラメラと燃え上がった。三年間、自分がどんな思いで彼の帰りを待ち、彼の言葉に傷つき、耐えてきたか。それらをすべて無視しておいて、いまさら自分を不貞の女扱いしようというのか。葵はゆっくりとカップを皿に戻すと、背筋を伸ばし、冷ややかな瞳で玲司を直視した。「……あなたは、彼女から電話がかかってきたら、私に何も説明もせずすぐに出ていくでしょう?」「何……?」「それなのに、私は普通に同僚と仕事をするだけで、いちいちあなたに報告しないといけないのですか?」静かだが、強い拒絶を込めた言い返し。まさか反論されると思っていなかった玲司の顔が、微かに歪む。そして、会話の文脈に莉乃の存在を出されたことに困惑し、反射的に言葉を返した。「……彼女は違う」短く、一切の迷いもなく放たれたその一言。玲司としては、「莉乃は昔から家族同然の幼なじみであり、下心や不貞を疑うような対象ではない」という意味での「違う」だった。だが、そんな玲司の勝手な意図など、葵に伝
陽性ラインがくっきりと浮かび上がった検査薬を握りしめたまま、葵は冷たい床の上で呆然と立ち尽くしていた。(……そんな……私の中に、新しい命が……?)三年間、いくら望んでも与えられなかった愛。その果てに訪れた奇跡だというのに、胸を満たしたのは歓喜ではなく、恐怖と絶望だった。今、この妊娠を玲司に知らせたらどうなるか。彼は「神崎家の血を引く跡取り」として、この子を奪い、自分を「妻」という役割の中に生涯閉じ込めるだろう。愛のない結婚生活の中で、子供まで神崎家の道具として生きることになってしまう。(……この子だけは、渡さない。私一人の手で、守ってみせる)その時、ドアがノックもなく開いた。「葵、体調でも悪いのか」入ってきたのは、玲司だった。床に座り込んでいる葵を見るなり、彼はすばやく眉根を寄せ、歩み寄ってくる。葵は咄嗟に妊娠検査薬をポケットの奥深くへと押し隠した。「……なんでもありません。少し、足をひねっただけです」玲司は黙って葵の前にしゃがみ込むと、躊躇いもなくその身を抱き上げ、ベッドへと運んだ。救急箱を持ってくると、膝を突き、葵の足首を慎重に手で確かめる。その手つきは驚くほど手慣れていて、触れられる皮膚から彼の体温がじんわりと伝わってきた。ほんの一瞬だけ、胸の奥が揺れる。(もし……今、この人に妊娠していることを伝えたら……喜んでくれるのだろうか)だが、その儚い淡い期待は、次の玲司の一言によって無惨に打ち砕かれた。「大したことはなさそうだな。……それで、昨日のピアスはどこに置いた? 早く莉乃に渡さなければならない」足首を冷やす氷嚢を手渡しながら、玲司は感情の窺えない声でそう尋ねた。葵の血の気が、すーっと引いていく。先ほどまで見せていた彼のみせかけの気遣いすら、すべて「莉乃に渡すピアスを取り戻すため」の行動に過ぎなかったのだ。「……洗面所に、置いてあります」「そうか」玲司はそれ以上葵の顔を見ようともせず、立ち上がって部屋を出て行った。残された葵は、お腹にそっと手を当て、固く唇を噛み締め直した。(やっぱり、この人には絶対に言わない……!)その直後、葵のスマートフォンが震えた。画面を開くと、西園寺莉乃からのメッセージが届いていた。『私へのプレゼントのついでに、少しだけ良い思いができて良かったで
翌日。恩師・佐々木教授から課された考査課題の凄まじい量に、葵は朝から没頭していた。研究所のデスクには、創薬化学の最新論文、遺伝子解析のグラフデータ、分子構造式のスケッチが所狭しと広げられている。難解な数式と向き合う時間は、神崎家での息苦しさや玲司への痛切な思いを忘れさせてくれた。(……大丈夫、覚えている。私の頭も、指先も、まだ戦える)集中するあまり、手元のスマートフォンが何度か短く震えていたことすら気づかなかった。画面には、玲司からのメッセージと着信履歴が数件残されていた。それに気づいたのは、陽が完全に落ちた夕方過ぎのことだった。画面に並ぶ『神崎玲司』の文字を見つめ、葵の指先がピタリと止まる。(……玲司さんの方から、こんなに何度も連絡してくるなんて……結婚してから一度もなかったのに)仕事の要件以外の連絡など、三年間で一度だってくれたことはない。もう期待しないと決めたはずなのに、「どうして?」という戸惑いと共に、胸の奥で小さな熱が揺れてしまうのを葵は抑えきれなかった。最近、強い吐き気やめまいを感じることが増えていた。(きっと、連日のストレスと寝不足のせい……)深く息を吐きながら胸元を押さえ、葵は荷物をまとめて研究所をあとにした。「……あ、離婚して一人になったら、研究所の近くで小さなアパートでも借りようかしら」夜風に当たりながら呟いた言葉に、葵自身驚いていた。あれほど固執していた「玲司の妻」という立場。それを手放したあとの自分の人生を、初めて具体的に思い描いている。だが、研究所の重厚なエントランスを出た瞬間、葵の足が止まった。街灯の光を反射して黒く光る、神崎グループの専用車。後部座席のドアが開き、仕立ての良いスーツに身を包んだ玲司が静かに降りてきた。「……玲司さん? どうして、ここに」結婚して三年間、彼がこうして研究所まで迎えに来たことなど、一度だってなかった。昼間の着信履歴と相まって、葵は驚きを隠せない。玲司は無表情のまま歩み寄ってくる。「連絡が出なかった。迎えに来た、乗れ」短くそれだけ言い放ち、玲司は車の後部座席へと葵を促した。車内は重苦しい静寂に包まれる。革シートの匂いと、玲司の持つ冷涼な香水の香りが混ざり合い、葵は緊張で背筋を伸ばした。沈黙を破ったのは、玲司が無造作にポケットから取り出