author-banner
他力本願寺
他力本願寺
Author

Romances de 他力本願寺

夫の浮気相手が捨てた兄妹を救ったら、冷徹辺境伯に家族ごと愛されました

夫の浮気相手が捨てた兄妹を救ったら、冷徹辺境伯に家族ごと愛されました

夫の浮気が発覚した夜、私は家も財産も奪われた。 五年間、傾いた伯爵家を支えてきたアリシアは、夫とその幼馴染に横領の濡れ衣を着せられ、身一つで追放される。 だが、冷たい雨の宿場で見つけたのは、浮気相手が捨てた八歳の兄と四歳の妹だった。 「お願い、もう置いていかないで……」 二人を守ると決めたアリシアは、辺境伯家で住み込み家政婦として再出発。帳簿と交渉の腕で屋敷を立て直すうち、冷徹と噂される辺境伯が彼女たちに心を開き始める。 一方、アリシアを追い出した元夫の家は崩壊の危機に。 今さら戻れと言われても、もう遅い。 私には、守りたい家族がいる。
Ler
Chapter: 第12話 初雪の朝の、温かい厨房
夜明け前、いつものように目を覚ましたアリシアは、窓から差し込む光がいつもよりぼんやりと白いことに気づいた。寝台から抜け出し、窓辺に寄って分厚いカーテンを少しだけ開ける。外の世界は、音もなく降り積もった純白に染まっていた。辺境の地に、初雪が訪れたのだ。王都でも雪は降るが、辺境の雪は全く質が違っていた。湿気がなく、乾いて軽い雪が、荒々しい大地を優しく覆い隠している。遠くの山々が、朝の光を浴びて白く神々しく輝いていた。「ゆき!」目を覚ましたリリィが、寝台から飛び降りて窓辺へと駆け寄ってきた。歓声を上げる妹の背中を追うように、エミルも目を擦りながらやってくる。「アリシアさん、雪、すごいですね」「ええ、本当に綺麗ね」三人で窓越しに雪景色を見つめる。辺境の冬は厳しいと聞いているが、その始まりを告げる朝は、息を呑むほど美しかった。* * *身支度を整え、三人で本邸の厨房へと向かった。扉を開けると、そこは屋敷の中で一番暖かい場所だった。かまどには勢いよく火が入り、ベルナルトが大きな鍋でスープを煮込んでいる。豊かな湯気と、食欲をそそる香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていた。「初雪の朝には、辺境では『雪のスープ』を食べる習わしがあるんですよ」若いメイドのカトリーナが、忙しそうに立ち働きながら教えてくれた。鍋の中で煮込まれているのは、大きく切られた根菜と塩漬け肉、それにたっぷりの香草だ。「身体の芯まで温まる、おばあちゃんの味なんです」ベルナルトが、厨房の隅にやってきたリリィに気づいて顔をほころばせた。「お嬢ちゃん、今日は、お前さ
Última atualização: 2026-10-23
Chapter: 第11話 文字を覚える小さな手
初雪の気配が、辺境の鋭い風に混じり始めた朝。本邸の家政管理室で、アリシアはハインツと向かい合い、本格的な冬に向けた計画を練っていた。冬の辺境は、王都のそれとは比べ物にならないほど厳しい寒さに包まれるという。薪のまとめ買いは先週のうちに無事契約を終え、今は屋敷の中庭に新設した保管所で乾燥を進めている最中だ。残る課題は、食料の備蓄と、屋敷全体の暖房効率の見直しだった。「特に、子どもたちが暮らす使用人棟の二階ですが、窓の隙間からの風が強くなっています」アリシアが懸念を口にすると、ハインツは手元の書類に目を落としながら頷いた。「来週、大工を呼びましょう。隙間を埋める修繕を急がせます」「それまでの間は、簡易の防寒策を取らせていただきます。分厚いカーテンの代わりに古い毛布を吊るし、窓枠の隙間には布をきつく詰めておきます。暖炉の位置も、少しベッドから離した方が安全です」実務的で素早い対応。ハインツは「助かります」と短く答え、次の議題へと移った。* * *その日の午前、ハインツが手配した最初の先生役が屋敷を訪れた。辺境の小さな村で元神官をしており、現在は隠居しているという老人、ヨアヒムだった。痩せて小柄な体つきだが、白髪の下にある目はひどく優しく、穏やかだった。「ハインツ殿に頼まれて、お引き受けいたしました。村の子どもたちには、昔よく文字を教えていたものでしてな」家政管理室の隣にある小部屋で、エミルは緊張した面持ちでヨアヒムに向かい合っていた。「よろしくお願いします、ヨアヒム先生」エミルが深く頭を下げると、ヨアヒ
Última atualização: 2026-10-22
Chapter: 第10話 アリシアのいない伯爵家 (元夫レオハルト視点)
晩秋の冷たい風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。グレイフェルト伯爵邸の主、レオハルト・グレイフェルトは、書斎の重厚な椅子に深く身を沈め、目の前の光景に微かな苛立ちを覚えていた。広いマホガニーの机の上には、領地や商会から届けられた決裁書類が、分類されることもなく雑然と積み上がっている。以前であれば、これらの書類は重要度ごとに綺麗に仕分けられ、彼が目を通すべき箇所には一目でわかるように目印の栞が挟まれていた。今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。「旦那様、お茶をお持ちいたしました……」新しく雇われた若いメイドが、おずおずとティーカップを運んできた。その手は微かに震えており、ソーサーにカップを置く際、カチャリと不快な音を立てて琥珀色の液体が数滴こぼれた。「……下がれ」レオハルトが短く告げると、メイドは怯えたように頭を下げて逃げるように退室していった。あの女がいた頃は、こんなことはなかった。朝の書斎には常に適温の茶が用意され、使用人たちは音を立てることもなく滑らかに動いていた。一瞬だけ脳裏をよぎった前妻の姿を、レオハルトは即座に打ち消した。セレスティアがいる。彼女は美しく、自分に相応しい華やかさを持っている。それで十分だ。あれほど冷たく、可愛げのない女など、この家に必要ないのだ。* * *「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません」午前半ば、書斎の扉を叩いて入ってきたのは、この家に長年仕える年老いた執事だった。その顔には、隠しきれない疲労と深刻な色が浮かんでいる。「商人たちから、支払いの催促が立て続けに参っております。特に、兵士用の保存食を納める商会と、冬の薪を請け負う調達商から、強い問い合わせが……」
Última atualização: 2026-10-22
Chapter: 第9話 アリシアさん、と呼んだ朝
薄暗い夜明け前、アリシアはいつものように正確な時間へ目を覚ました。まだ冷え切った空気のなか、身支度を整えようとベッドから足を下ろした時、部屋の小さな机に一つの影があることに気づいた。八歳のエミルがすでに起きており、ランプの小さな灯りを頼りに、熱心に羽根ペンを動かしている。ハインツから借り受けた歴史書の文字を、粗末な紙へ一字一字、丁寧に書き写しているようだった。気配を察したエミルが、静かに振り返ってアリシアを見た。「おはようございます、アリシアさん」その一言が耳に届いた瞬間、アリシアの手の動きが一瞬だけ止まった。頭の中で、今響いた言葉が静かに反芻される。昨日まで少年の口から放たれていた、張り詰めた敬意の響きを持つ肩書きではない。ほんの少しだけ敬語の壁が低くなった、新しい響き。八歳の少年が、この一週間の時間のなかで、自分との距離を自らの意思で測り直し、選び取った呼び方だった。アリシアの胸の奥に、名前のない小さな温かさが波紋のように広がっていく。だが、彼女はその喜びをあからさまに表情へ出すことはしなかった。それが、少年が自然に選んだ変化に対する、彼女なりの誠実な尊重だった。「おはよう、エミル。早起きね」「アリシアさんを、見送ろうと思って。これ、ハインツ様から借りた本の文字なんです」「……上手に書けているわ。線の引き方がとても綺麗ね」アリシアが机の上の紙をそっと指先でなぞると、エミルの顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。まだベッドで丸くなって寝ているリリィを起こさないよう、二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。* * *
Última atualização: 2026-10-22
Chapter: 第8話 最初の改革は、薪と塩から
夜明け前、まだ屋敷全体が薄暗い静寂に包まれている時間。アリシアは音を立てずに寝床を抜け出し、冷たい水で顔を洗ってから、小さな二つの寝床に近づいた。「エミル、リリィ、朝よ」エミルはすぐに目を擦りながら起き上がったが、リリィは毛布にくるまったまま「うぅん」と寝言をこぼしている。身支度を整えた三人で、使用人棟の共有食堂へと向かった。粗末だが温かい麦粥と硬いパンの朝食。アリシアは分相応の質素な食事を心がけていたが、若いメイドのカトリーナが、リリィの木皿にこっそりと蜂蜜を塗ったパンの切れ端を滑り込ませた。「内緒ですよ」と片目をつぶるカトリーナに、アリシアは小さく頭を下げた。試用期間が始まって一週間。使用人たちも、少しずつこの幼い兄妹に優しさを向け始めている。「リリィ、おねえちゃんと、おはなしする」蜂蜜パンを大事そうに頬張りながら、リリィが嬉しそうに足を揺らす。朝食が終われば、彼女はまたベルナルトのいる厨房の隅へと向かうのだろう。一方、エミルは最近、アリシアの仕事に興味を持ち始めていた。「アリシア様、僕も帳簿を見てみたいです」食後の片付けをしながら、エミルが上目遣いで尋ねてくる。「もう少し大きくなったらね。数字は逃げないから、焦らなくても大丈夫よ」穏やかに答えると、エミルは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。* * *朝食後、アリシアは本邸の家政管理室に向かい、執事のハインツと小さな机を挟んで向かい合っていた。「ハインツ様、先日申し上げた薪の件で、調達計画書を作成いたしました」
Última atualização: 2026-10-21
Chapter: 第7話 旧姓ローヴェル、その名で空気が凍る
使用人棟に割り当てられた質素な部屋に、朝の冷たい空気が流れ込んでいた。アリシアは音を立てないように身支度を整え、まだ眠りに落ちている二人の子どもの顔を覗き込む。エミルとリリィの小さな肩まで毛布の端を掛け直すと、彼女は静かに部屋を出て、本邸へと向かった。辺境伯邸で住み込みの家政婦として働き始めてから、数日が経過していた。最初の数日間、アリシアは徹底して観察のフェーズに徹していた。本邸の厨房で執事のハインツと短い打ち合わせを交わしながら、屋敷の現状を頭の中の帳簿に書き込んでいく。王都の巨大な伯爵邸に比べれば、この辺境伯邸の規模は小さいが、石造りの壁は分厚く堅牢だった。使用人の数も最小限に抑えられている。執事のハインツ、料理長、三名のメイド、そして外回りを担当する馬丁や門番たち。無駄のない人員配置だが、その分、一人ひとりにのしかかる人手不足の歪みが随所に見え隠れしていた。* * *「領主様の奥様にでもなったつもりか。料理に手出ししないでくれ」厨房で野菜の仕込みをしていた料理長ベルナルトは、大柄で無精髭を生やした中年の男だった。人手不足で慢性的に疲弊している彼の声には、新入りの女に対する明確な警戒心が混じっていた。「ええ、料理は料理長の領分です。私は、調達と帳簿の方を担当します」アリシアは不機嫌な態度に反論することなく、役割分担を明確に線引きした。そして、静かに言葉を継ぐ。「それに、兵士用保存食の管理経験があります」その一言で、ベルナルトが動かしていた包丁がぴたりと止まった。「兵士の食料は、辺境では命に関わる。お前、それを知ってる女か」「塩漬け肉の樽の選定と、麦の湿気対策なら心得ております」
Última atualização: 2026-10-21
浮気調査員の私を「不倫妻」に仕立てた夫の誤算

浮気調査員の私を「不倫妻」に仕立てた夫の誤算

他人の浮気は見抜けても、夫だけは調べない。浮気調査員の柚木千景に、十五歳の時のトラウマがそうさせていた。 ところが依頼人の写真に写っていたのは、夫へ贈った結婚記念の腕時計。依頼人はピアノ調律師の桐生朔。彼の妻と千景の夫が不倫していたのだ。 千景は担当を外れ、正規の方法で証拠を集める。だが夫は彼女を「不倫妻」と告発し、職場まで奪おうとする。 夫の狙いは、千景に会社の機密情報を私的流用させること。 ――けれど、彼女は一度も覗かなかった。 嘘に奪われた名誉と人生を取り戻す千景。そして同じ裏切りに傷ついた朔との間に、もう一度誰かを信じたいと思える恋が芽生えていく。
Ler
Chapter: 第08話 知らせるだけで、奪わない
 十一月二十一日、土曜日の午前。 拓真が休日出勤だと偽って家を出たのを見計らい、千景は自室から旅行用のボストンバッグを引っ張り出した。 数日分の衣服と洗面用具。そして、手提げ金庫に保管しておいた自分名義の通帳や、結婚時に交わした賃貸・保険関係の書類のコピー。持ち出すのはそれだけだ。 四日前の夜、拓真は「男の方にも慰謝料を請求してやる」「お前の職場はどうなるだろうな」と明確な脅迫を口にした。もはやこのマンションで寝食を共にすることは、精神衛生上も、今後の交渉上も危険だと篠原弁護士とも合意し、別居へと踏み切ったのだ。 千景は拓真の書斎や、彼が普段使っている引き出しには一切手を触れなかった。 密室の中で相手の私物を物色すれば、後になって「不当な証拠収集だ」「自分の大切なものを盗まれた」と相手に言いがかりをつける隙を与えることになる。調査員として、守るべき手続きの境界線は絶対に越えない。 千景は別居する旨の書き置きをテーブルの上に置き、母・静江が暮らす実家へと向かった。 その日の午後。千景は横浜市内にある篠原法律事務所の応接室に座っていた。 四日前の会話は録音してある。拓真は千景を不倫妻と決めつけ、その相手として桐生朔を名指しし、さらに職場への告発をほのめかした。千景は録音を篠原に渡し、自分が朔に直接連絡するべきか相談した。『あなた一人で会いに行く必要はありません。ご主人は、二人が接触したという事実そのものを利用するおそれがあります』 篠原はそう言って、別の方法を提案した。拓真が実際に朔へ請求や告発を行う前に、何を告げられたのかを双方で確認し、警告を伝えた経緯を第三者の立ち会いのもとに記録しておく。後になって「密かに口裏を合わせた」と言われないための措置だった。 電話やメールだけでも警告はでき
Última atualização: 2026-10-23
Chapter: 第07話 夫が知っていた名前
 十一月十七日、火曜日の夜。 拓真が帰宅してリビングのソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めるのを待ってから、千景は対面の椅子に座った。 千景の手には、仕事で使う黒い小型のICレコーダーが握られている。彼女はそれをローテーブルの中央に置き、拓真の目を真っ直ぐに見据えた。「これからの会話は、記録します」 千景ははっきりと告知し、録音ボタンを押し込んだ。レコーダーの赤いランプが点灯する。 拓真は目を丸くし、次いで鼻で笑った。「はっ。なんだそれ、刑事の真似事か? 夫婦の会話を録音してどうするつもりだ」「一昨日、あなたは私に向かって『離婚の理由は私の不倫だ』と断言しました。もはや、夫婦として通常の対話ができる状態ではありません。言った、言わないの水掛け論を防ぐため、そして今後の代理人間の交渉のために、発言はすべて客観的なデータとして残させてもらいます」 隠し録りではない。これは、自分が理不尽な攻撃に対して正当に防衛しているという、調査員としての明確な意思表示だった。 拓真は忌々しそうに舌打ちをしたが、レコーダーを取り上げるような力行使には出なかった。「好きにしろよ」「では、まず確認します」 千景は手元のノートを開いた。「十一月十五日、あなたは私の同意なく共有家計アプリの閲覧権限を解除し、十一月六日には、婚姻中の貯蓄口座から四百万円をご自身の別口座へと移動させています。これは事実ですね?」「ああ、事実だ」 拓真はソファの背もたれに寄りかかり、ふんぞり返るような姿勢をとった。「お前が俺
Última atualização: 2026-10-22
Chapter: 第06話 不倫したのは、お前だ
 十一月十五日、日曜日の午後。 拓真は朝から「ゴルフの打ちっ放しに行ってくる」と出かけており、マンションには千景一人だった。 千景はダイニングテーブルにノートパソコンを開き、手元のスマートフォンで夫婦の共有家計アプリを立ち上げた。来たるべき離婚協議と財産分与に向けて、現状の金融資産の正確な数字を洗い出しておく必要があった。 六日の金曜日、アーク調査事務所の千田から「対象者と女性が宿泊施設から出てくるところを撮った」という報告を受けて以来、千景の心は奇妙なほど凪いでいた。事実が確定したことで、調査員としての合理的な思考回路が完全に優位に立っているのだ。 アプリの画面をスクロールし、口座の残高推移を確認していく。 その指が、ある日付の項目でピタリと止まった。『十一月六日 振替・出金 四百万円』 出金元は、拓真名義になっている婚姻中の貯蓄口座。振替先は、千景が見たことのない拓真の別口座だった。十一月六日といえば、あの「おとりの予約」を使い、拓真が横浜の施設に奈緒と泊まっていた翌日だ。 千景は即座にスマートフォンの電源ボタンと音量ボタンを同時に押し、画面のスクリーンショットを保存した。 その数秒後のことだった。 アプリの画面が突然フリーズし、「権限がありません」というエラーメッセージがポップアップした。何度リロードしても、過去の履歴も現在の残高も一切表示されない。 拓真が、千景の閲覧権限を一方的にシャットアウトしたのだ。 結婚以来、お互いの透明性を保つために設定していた共有の窓が、今、完全に閉ざされた。 普通なら「財産を隠された」「お金を持っていかれる」とパニックになってもおかしくない状況だ。だが、千景の頭
Última atualização: 2026-10-22
Chapter: 第05話 おとりの予約
 十一月五日、木曜日の夜。 拓真が「大阪出張」と称して家を出てから半日が過ぎていた。 静まり返ったリビングで、千景はダイニングテーブルに座り、スマートフォンを見つめていた。画面は真っ暗なままだが、千景の神経はいつ鳴るかもしれない着信音に向けて極度に張り詰めていた。 午後九時を回った頃、ようやく画面が発光し、短いバイブレーションが鳴った。表示された発信者は、社外のアーク調査事務所の代表、千田剛だった。「もしもし、柚木です」 千景が電話に出ると、千田の声が少しだけ硬いトーンで響いた。『対象者ですが、例の横浜の予約ホテルには現れません。ダミーの可能性があります』 千田の報告は簡潔だった。アークの調査員がホテル周辺で張り込みを続けているが、拓真がチェックインする形跡は一切ないという。 千景は小さく息を吸い込んだ。驚きはなかった。むしろ、冷たい泥水の中に足を踏み入れたような、じっとりとした納得感が胸に広がった。 昨夜、拓真がボストンバッグに荷物を詰めながら浮かべていた、あの不気味な薄笑いが脳裏に蘇る。『俺の足取りなんて、お前の会社なら簡単に調べられるじゃないか?』 あの異様な挑発。 千景の頭の中で、調査員としての冷徹な思考がフル回転し、拓真の思惑の全貌を解体していく。 これではっきりした。あの予約履歴は意図的に残された「おとり」だ。拓真は、自分が朔の案件で岬リサーチに相談に行ったことを、妻である桐生奈緒からすでに聞いているのだろう。だからこそ、自分の行動が「妻の会社の調査」と交差する危険性を十分に認知している。 拓真の狙いは明確だった。 まず、共有ア
Última atualização: 2026-10-21
Chapter: 第04話 私の鞄が、開けられていた
 十一月四日、水曜日の夜。 千景が仕事から帰宅すると、玄関の靴箱の横に拓真の革靴が揃えられていた。リビングのドアの隙間からはテレビの明かりが漏れており、彼がすでに帰宅していることがわかる。「ただいま」 短く声をかけたが、リビングからは「おう」という気の抜けた返事が聞こえただけだった。 千景はそのままリビングには向かわず、コートを掛けるために自室として使っている小さな洋室へと入った。ドアを静かに閉め、部屋の隅に通勤用の鞄を置き、椅子に残していた休日用の鞄に目をやった瞬間、千景の動きがピタリと止まった。 鞄のファスナーの金具の位置が、いつもと違う。 千景は無意識の癖で、ファスナーを閉めるときは必ず一番端の布地の縫い目のところで金具を止めるようにしている。しかし今、金具は縫い目から数ミリ手前で中途半端に止まっていた。 気のせいかもしれない。急いで閉めたから少しずれただけかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、千景は慎重にファスナーを開けた。 中を覗き込み、背筋にぞくりと冷たいものが走った。 常に内ポケットの定位置に、背表紙を上にして入れているはずの手帳の天地が、逆になっていたのだ。それだけではない。ポーチの位置、予備のストッキングを入れた小さな巾着の紐の結び目、すべてが千景の記憶にある「最後にしまった配置」と微妙に違っている。 千景はゆっくりと息を吐き出した。 浮気調査の現場で、対象者が「誰かに探られている」と警戒を強めるのは、決定的な証拠を突きつけられたときではない。日常生活のなかの、こうした数ミリのずれ、ちょっとした違和感が積み重なったときだ。 自分が他人の嘘を暴き、秘密を探る側の人間として培ってきた鋭敏な感覚。それが今、自分自身の部屋で「あ
Última atualização: 2026-10-21
Chapter: 第03話「今度は私が依頼人」
「私の、夫を調べてください」 横浜市内の静かなオフィスビルの一室。篠原法律事務所の応接室で、柚木千景は目の前に座る弁護士に向かってそう告げた。 声が微かに震えていた。膝の上で固く組んだ手は、ひどく冷たくなっている。 相手は、離婚や男女問題の実績が豊富な弁護士、篠原玲子だった。四十六歳の彼女は、感情を取り乱す依頼人を数え切れないほど見てきたのだろう。千景の震える声を聞いても表情を変えず、静かに頷いた。「早瀬拓真さん。ご結婚されて四年半ですね。……現在、具体的な不貞の証拠はお持ちですか?」「いえ。ただ、先週から今朝にかけて、夫のスケジュールと実際の行動、そして家計の決済履歴にいくつもの矛盾があることを確認しました。今週の木曜日、五日から大阪へ出張に行くと言っていますが、夫婦の共有アプリには、横浜市内のホテルの予約履歴が残されています」 千景は持参したノートを開き、事実だけを簡潔に伝えた。「なるほど。不貞行為を立証し、離婚や適切な財産分与、慰謝料の請求を進めるためには、推測や決済履歴だけではなく、肉体関係を伴う客観的な証拠――具体的には、ホテルへの出入りなどの記録が必要になります。調査会社を利用するおつもりですね?」「はい。そのための準備として、まずは篠原先生にご相談に伺いました」 離婚と財産分与の要点に関するやり取りは、わずか三往復程度で終わった。千景自身が浮気調査員であり、法的要件を理解しているため、無駄な感情論を省くことができたからだ。 しかし、知識として知っていることと、自分が「依頼人」の席に座ることは、天と地ほど違った。他人の家庭の崩壊には冷静にメスを入れられるのに、自分の婚姻関係を書類上の手続きとして解体していく作業は、息が詰まるほどの痛みを伴った。「千景さんは岬リサーチにお勤めですよね。ご自身の会社を使って調査をされる方もいらっしゃいますが」 篠原の問いに、千景ははっきりと首を横に振った。「絶対に使いません。職権の私的濫用になりますし、何より……」 桐生朔の顔が浮かんだ。彼の妻である「奈緒」と、自分の夫が繋がっている可能性。それを社内の権限を使って裏付けようとすれば、朔の正規の依頼資料を覗き見ることになる。「会社の資料や、他の依頼人の方の案件と、私の個人的な問題は完全に切り離します」 その言葉に、篠原は口元にわずかな笑みを浮
Última atualização: 2026-10-20
Explore e leia bons romances gratuitamente
Acesso gratuito a um vasto número de bons romances no app GoodNovel. Baixe os livros que você gosta e leia em qualquer lugar e a qualquer hora.
Leia livros gratuitamente no app
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status