「ご主人が提出されたというこの新幹線の予約確認票ですが、記載されている到着時刻と、こちらのカフェのレシートの打刻時間には、物理的な矛盾が生じています」 横浜・関内にある株式会社岬リサーチの応接室で、柚木千景はテーブルの上に二枚の紙片を並べた。結婚後の戸籍上の姓は早瀬だが、仕事では旧姓の柚木を使っている。 向かいに座る依頼人の女性が、食い入るようにそれらを見つめる。「新幹線が東京駅のホームに滑り込んでから、改札を抜け、地下鉄に乗り換えてこのエリアのカフェに到着するまで、どう計算しても四十分はかかります。ですが、レシートの時刻は新幹線到着のわずか十五分後です。つまり、ご主人は出張先から戻ってきたのではなく、最初から都内に滞在していた可能性が高いと推測されます」 千景の声は、淡々としていて抑揚がない。同情も、過剰な寄り添いもそこにはない。ただ、客観的な事実と数字だけを積み上げ、嘘の輪郭を浮き彫りにしていく。 依頼人の女性は、震える手で二つの時刻を何度も見比べ、やがて顔を覆って小さく泣き始めた。 九年半、千景はこの仕事をしてきた。対象者がどれほど巧妙に嘘を取り繕おうとも、行動の痕跡には必ず綻びが生じる。そのわずかな糸口を見逃さず、徹底的に引いて事実を暴き出すのが、浮気調査員としての彼女の職能だった。 ふと、紺色のステンカラーコートのポケットの中で、千景のスマートフォンが短く震えた。 画面は見なくてもわかっている。夫婦で設定している共有家計アプリからの、自動通知だ。千景はスマートフォンを取り出すことも、画面を確認することもなく、ただ静かに依頼人の嗚咽が収まるのを待った。 他人の些細な矛盾や嘘は、一瞬で見抜くことができる。それなのに、自分の夫のこととなると、途端に見えないふりをしてしまう。 十五歳の時、父親の携帯電話の画面から不倫を知り、それを母親に告げた。その結果、家族は壊れた。両親の離婚は自分のせいだという思いが、千景の心の奥底に重くこびりついている。だから、自分の家族だけは絶対に調べない。疑念が湧いても、決してその先へは踏み込まない。それが、千景が自分に課した絶対の掟だった。 午後になり、新たな相談者が応接室に通された。「桐生朔と申します」 名乗った男性は、三十代半ばほどに見えた。黒い工具鞄を椅子の脇に置き、少し癖のある髪を無造作に流している。
Dernière mise à jour : 2026-10-20 Read More