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第5話

Auteur: あめ
結婚式が近づくにつれ、明子は人目を避け、静かに過ごすようになった。

あの夜の事件が噂になり、近所の人々の視線も変わり始めていた。

「聞いた?市原家の娘さん、夜中に不良に襲われたって。目撃者もいるんだってさ」

「ほらね、あの子昔から気が強かったし、最近おとなしくしてるのはきっとそのせいよ」

「それより、結婚相手って岩切家の者でしょ?まさか知らないんじゃ......」

噂を口にするおばさんは驚いた顔をした。

「岩切家?あの家の旦那って......」

噂は瞬く間に広がった。

暁美のまいた泥を、明子は気にも留めなかったが、この閉鎖的な街では言葉が凶器になる。

市原家はもともと暮らしが豊かだったこともあり、市原父が弁解したとしても、嫉妬と悪意が一層強まっていた。

「辻井佐久......絶対に許さないぞ!

でも本当によかった。明子が、あの男を選んでいなくて」

父親は怒りで息を荒げた。

明子は微笑んで父の肩に手を置く。

「お父さん、もう気にしないで。これでよかったじゃない。

それより、お願いがあるの。結婚式までは家からあまり出ないで。それと、知らない人を家に入れないようにして」

唐突な言葉に父親は首を傾げたが、娘の真剣な表情に押され、黙ってうなずいた。

そして、結婚式の前日がやってきた。

だがその日の昼、明子の胸騒ぎは収まらなかった。

何かが、自分の手の届かないところで動いている気がした。

彼女はここ数日、理由を言わずに自宅にこもっていた。

充も気にかけてはいたが、まだ正式に夫婦ではないため訪問を控え、代わりに明子の大学時代の友人に伝言を頼んでいた。

正午になると、友人がいつものように家を訪れ、充からの贈り物を渡してくる。

「明子、本当に羨ましいわ。あの岩切さんが、あなたにだけはこんなに優しいなんて。

見て、また真珠のネックレスと手書きの恋文よ。ほんっと、甘すぎる!」

友人のからかう声に、明子は顔を赤らめ、そっけないふりをした。

だがその胸の奥では、静かに深い幸福が広がっていた。

......

壁に掛けられた時計の針が、コチコチと音を立てながら何度も一周していた。

午後二時になっても、親友の姿は見えない。

明子は落ち着かず、ついに外へ様子を見に出ることにした。

その瞬間、親友が青ざめた顔で駆け込んできた。

「明子、大変なの!岩切家の門が閉まってて、充さんの姿がないの!」

「......え?」

明子の心臓が一瞬で冷たくなった。

親友は息を切らしながら、一枚の紙切れを差し出す。

「私も詳しくは分からないけど、来る途中でたまたま辻井に会ったの。彼の顔、すごく怖かったよ。それでね、これを明子に渡してくれって......ねぇ、まさか充さん、彼の手に......?」

明子の胸の奥が、どんどん重く沈んでいった。

最も恐れていた事態が、やはり起きてしまったのかもしれない。

震える手で紙を受け取り、視線を走らせる。

確かに、この字は佐久のものだ。

直接充の名前は書かれていなかったが、会うようにとだけ記されている。

しかも充の失踪とあまりに近い時間――偶然とは思えない。

感情でしか動けない男。

前の人生で何度も思い知った、あの危うさ。

明子は迷うことなく決意した。

もう誰も、特に充のような無関係な人を巻き込みたくない。

上着を羽織り、玄関の扉を勢いよく開けて外へ出る。

約束の場所――街外れにある林へと向かった。

辺りを見回した瞬間、背後から重い衝撃が襲う。

鈍い痛みが後頭部に走り、体がぐらりと揺れた。

振り向いた視界の中で、怒りに満ちた佐久の顔が浮かぶ。

「さすがだな、明子。もうすぐ結婚だっていうのに、他の男とこそこそ逢引か?」

明子は唇を噛み、冷や汗を浮かべながら問い返す。

「佐久......岩切さんをどこにやったの?」

その言葉に、佐久の手が振り上がった。

「この浮気女が!まさか噂が本当だったとはな!」

乾いた音とともに頬が焼けるように痛む。

視界が霞み、意識が遠のいた。

......

再び目を開けたとき、手足が縛られ、狭く薄暗い平屋の中に転がされていた。

冷たい水が頭から浴びせられ、続けざまに二発の平手打ちが飛んでくる。

痛みと衝撃で一瞬混乱したが、すぐに状況を把握した。

「まだ嫁にも来てないのに、もう男をたぶらかすなんて......一体どういうつもり?」

怒鳴りつけるのは佐久の母親だった。

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