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浮生は夢のごとし

浮生は夢のごとし

By:  あめCompleted
Language: Japanese
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生まれ変わって再び警察署の課長である父が縁談の相手を選ばせたあの日、明子は一切迷わずくじ引きで相手を決めた。 前世で彼女が長年慕ってきた佐久を選んだ結果、結婚して間もなく、彼の幼馴染の暁美が妊娠した。 それは佐久の子だった。 佐久は彼女を家に連れ帰り、淡々と告げた。 「暁美は妊娠中で辛いだろう。これからはお前が心を込めて世話をしてやれ。一日の食事も、違う献立にしてな」 暁美のわずかに膨らんだ腹を見つめ、明子は唇を噛みしめた。 その時すでに彼女は決めていた。 数日経ったら佐久に離婚を切り出そう、と。 だが思いもよらぬことに、明子が差し出した料理を食べたその夜、暁美は出血し、子を失った。 大出血のせいで、彼女は二度と子を宿せない身体になった。 佐久はすべてを明子のせいにした。 「お前がこんな残酷な女だったとは!」 血走った目で睨みつけ、両手で彼女の喉を締め上げる。 呼吸が途切れ、死の淵に引きずり込まれるような窒息感に、明子の全身が震えた。 ――二度目の人生。 今度こそ佐久を選ばない。

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Chapter 1

第1話

生まれ変わって再び警察署の課長である父が縁談の相手を選ばせたあの日、市原明子(いちはら めいこ)は一切迷わずくじ引きで相手を決めた。

前世で彼女が長年慕ってきた辻井佐久(つじい さく)を選んだ結果、結婚して間もなく、彼の幼馴染の小池暁美(こいけ あけみ)が妊娠した。

それは佐久の子だった。

佐久は彼女を家に連れ帰り、淡々と告げた。

「暁美は妊娠中で辛いだろう。これからはお前が心を込めて世話をしてやれ。一日の食事も、違う献立にしてな」

暁美のわずかに膨らんだ腹を見つめ、明子は唇を噛みしめた。

その時すでに彼女は決めていた。

数日経ったら佐久に離婚を切り出そう、と。

だが思いもよらぬことに、明子が差し出した料理を食べたその夜、暁美は出血し、子を失った。

大出血のせいで、彼女は二度と子を宿せない身体になった。

佐久はすべてを明子のせいにした。

「お前がこんな残酷な女だったとは!」

血走った目で睨みつけ、両手で彼女の喉を締め上げる。

呼吸が途切れ、死の淵に引きずり込まれるような窒息感に、明子の全身が震えた。

――二度目の人生。

今度こそ佐久を選ばない。

……

「明子、本当に決めたのか?指輪を盗んだあの若造と結婚するって」

耳元で聞き覚えのある声。

警察署の課長である父の心配そうな眼差しを見て、明子ははっと気づいた。

自分は生まれ変わったのだと。

「わ、私は......」

父は黙ったまま、用意していた四枚の写真を取り出し、探るように言った。

「明子、あのさ......父さんの部下に四人の若い隊員がいる。皆まじめで人柄もいい。試しに付き合ってみないか?」

明子はその写真を一瞥もせず、無造作に一枚を引き抜いた。

裏返すと、そこには「岩切充」と書かれていた。

「お父さん。やっぱり私、佐久と結婚しない。この人にするよ」

娘が佐久を諦めたのを知り、父はようやく胸をなでおろした。

「指輪の件は午後、警察署で証言するよ。佐久が盗んだのは叔母さんの指輪って。必ず彼に償わせるんだから」

その出来事は大事にも小事にもできたが、父は娘の恋の経緯を知っていた。

娘は学生の頃からあの若者を好いていた。

だが辻井家はあまりに貧しく、苦労させたくない父はずっと反対していたのだ。

もし娘が他の相手を選ぶなら、指輪窃盗の件も揉み消してやるつもりだった。

だが明子はその午後、本当に警察署へ足を運んだ。

「この人がうちの叔母さんの指輪を盗んだのです。私、見たんです」

署内で、佐久は驚いたように顔を上げ、明子の静かな眼差しに息を呑んだ。

芝居だと思ったのかもしれない。

前世の彼女なら、涙をこらえながら父と対立してまで彼を救おうとしたからだ。

胸の奥に湧く恐怖を押し隠し、佐久は涙をこぼした。

「これはお前を娶るために......」

「もうやめて!」

明子は冷たく遮った。

目には一片の温もりもない。

「私、佐久と結婚しないから。思い込みはもうやめて」

言い切って立ち上がり、迷いなく署を後にする。

佐久は彼女が変わったと感じた。

理由は分からずとも、慌てて腕を掴んだ。

「明子、そんなに怒るな。俺を助けてくれ」

腕に走る痛みに足を止めた明子は、怒りに目を見開く。

「離して!」

「誤解があるなら帰って話そう。お前は俺の許婚で、辻井家の嫁になる人だって、みんな知ってる。俺が捕まったら、お前の父さんの評判にだって響くんだぞ!」

思わず明子は目を瞬いた。

たった数言で責任を彼女に押し付ける――

前世の自分は気づきもしなかった。

佐久の家は貧しく、結納金を貯めるため、人に捨てられた不用品を宝物のように拾い集めていた。

近所の奥さん連中に嘲笑される度、明子は泣いた。

「泣くな。必ず結納金を貯めて明子を迎えに行く。待っててくれ」

彼女は何度も頷き、信じ切っていた。

だから彼が指輪を盗んだと聞いても、疑いもしなかった。

父と対立してまで庇った。

だが現実は?

結婚後、彼女は偶然知った。

自分の信頼と愛情は、佐久と仲間たちの賭けの種に過ぎなかった。

「そういえば佐久、課長の娘なら、警察署で暴れてまで庇ってくれるかな」

佐久は暁美を抱き寄せ、鼻で笑った。

「警察署どころか、本当に捕まっても、俺のために父親と絶縁してみせるさ」

「口ばっかり。市原家に高そうな指輪があるって聞いたけど、彼女の叔母のものだったっけ。ね、あれを盗んでみてよ」

明子は目を閉じ、再び開いた瞬間、平手を振り抜いた。

パシン!

鋭い音が署内に響き、佐久の頬に朱が走った。

「離しなさい!」

――自分は、もうすぐ妻になる女に殴られた?

予想外の一撃に佐久は逆上した。

だが自分の体面を守るために手を上げた瞬間、肩に強い衝撃が走り、床に押し伏せられた。

足掻く間もなく、佐久の両手は冷ややかな顔立ちの若い職員によって手錠をかけられた。

「大人しくしろ。これ以上暴れるなら十日は延びるぞ」

佐久は動けなくなった。

明子は目を伏せ、ふと気づいた。

この人は父の部下の者だろうか。

「証言ありがとうございます、市原さん。事件はすでに立件されました。被害者にも連絡済みですので、ご安心を」

警官の声に思考を中断され、明子はうなずき、署を後にした。

背後で、その若い職員が立ち上がり、凛とした姿勢で言う。

「『市原さん』、か」

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第1話
生まれ変わって再び警察署の課長である父が縁談の相手を選ばせたあの日、市原明子(いちはら めいこ)は一切迷わずくじ引きで相手を決めた。前世で彼女が長年慕ってきた辻井佐久(つじい さく)を選んだ結果、結婚して間もなく、彼の幼馴染の小池暁美(こいけ あけみ)が妊娠した。それは佐久の子だった。佐久は彼女を家に連れ帰り、淡々と告げた。「暁美は妊娠中で辛いだろう。これからはお前が心を込めて世話をしてやれ。一日の食事も、違う献立にしてな」暁美のわずかに膨らんだ腹を見つめ、明子は唇を噛みしめた。その時すでに彼女は決めていた。数日経ったら佐久に離婚を切り出そう、と。だが思いもよらぬことに、明子が差し出した料理を食べたその夜、暁美は出血し、子を失った。大出血のせいで、彼女は二度と子を宿せない身体になった。佐久はすべてを明子のせいにした。「お前がこんな残酷な女だったとは!」血走った目で睨みつけ、両手で彼女の喉を締め上げる。呼吸が途切れ、死の淵に引きずり込まれるような窒息感に、明子の全身が震えた。――二度目の人生。今度こそ佐久を選ばない。……「明子、本当に決めたのか?指輪を盗んだあの若造と結婚するって」耳元で聞き覚えのある声。警察署の課長である父の心配そうな眼差しを見て、明子ははっと気づいた。自分は生まれ変わったのだと。「わ、私は......」父は黙ったまま、用意していた四枚の写真を取り出し、探るように言った。「明子、あのさ......父さんの部下に四人の若い隊員がいる。皆まじめで人柄もいい。試しに付き合ってみないか?」明子はその写真を一瞥もせず、無造作に一枚を引き抜いた。裏返すと、そこには「岩切充」と書かれていた。「お父さん。やっぱり私、佐久と結婚しない。この人にするよ」娘が佐久を諦めたのを知り、父はようやく胸をなでおろした。「指輪の件は午後、警察署で証言するよ。佐久が盗んだのは叔母さんの指輪って。必ず彼に償わせるんだから」その出来事は大事にも小事にもできたが、父は娘の恋の経緯を知っていた。娘は学生の頃からあの若者を好いていた。だが辻井家はあまりに貧しく、苦労させたくない父はずっと反対していたのだ。もし娘が他の相手を選ぶなら、指輪窃盗の件も揉み消してやるつもりだ
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第2話
佐久はそのまま七日間の拘留を受けた。その七日間のうちに、明子は彼とのあらゆるつながりをほとんど断ち切った。両親と共に新しく建てられた洋風の家に引っ越し、旧住所を廃止し、佐久と顔を合わせる可能性のある場所をすべて避けた。七日後、佐久は釈放されると、まるで狂ったように明子を探し回った。だが、本屋にも映画館にも、明子がよく通っていたカフェにも、三日三晩張り込んでも彼女の姿は一度も現れなかった。結局、四、五人の同級生に頼み込み、遠回しに騙すような形で明子を食事会に呼び出した。食事の席で佐久の姿を見た瞬間、明子は立ち上がって帰ろうとした。しかし、事情を知らない親切な同級生が慌てて腕をつかんだ。「ちょっと待って、明子。明子と佐久の仲がどれほど深かったか、大学の頃からみんな知ってるんだ」「誤解があるなら、今この場で話してしまえばいいじゃない」明子は足を止めた。彼女は同級生たちに悪気がないことをわかっていた。だからその顔を立てて、席に戻って黙って座った。ところが隣の同級生が気を利かせたつもりで、席を立ち、佐久と場所を替わってしまった。明子は眉をひそめ、拳を握りしめる。「明子、どうして俺を避けるんだ?指輪を盗んだのは悪かった。でもそれも、結婚資金を貯めて早く君を迎えるためだったんだよ」周囲の目も構わず、佐久は目を赤くして、明子の手を取ろうとした。「触らないで!あなたの顔を見るだけで吐き気がする」明子は即座に、伸ばされた手を振り払った。その強い拒絶に佐久は一瞬怯み、まるで叱られた子供のように言葉を失った。その瞬間、別の席から皮肉交じりの声が飛んだ。「へぇ、さすが課長さんの娘。卒業して数年で、もう庶民の同級生が目に入らないのね。お金持ちのくせに、たった60万円の結婚資金を理由に、佐久に指輪盗ませるなんて恥ずかしくないの?」その声の主を見やると、暁美がそこにいた。挑発的な目つきで、薄く笑いながら明子を見ている。こういう人間に関わるつもりはなかった。だが前の人生で、明子が佐久と結婚したあの三年間、暁美は正妻である自分よりも長く佐久の傍にいた。その記憶が胸を刺し、心の奥が鈍く痛んだ。結婚から三年。佐久は暁美を連れて地方で起業を始め、二年をそこで過ごした。帰ってきたのは、暁美が
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第3話
再び目を覚ました時、明子は自分が病室のベッドに横たわっていることに気づいた。手と腕の傷はすでに丁寧に包帯が巻かれている。ふと、柔らかな花の香りが漂ってきて、思わず顔を上げた。すると、枕元のテーブルには、上品にラッピングされた百合の花束が置かれていた。包装紙には名前がない。明子はすぐに顔をそらした。――きっと佐久が持ってきたに違いない。そう思うと、見る気も失せた。二時間ほど前、佐久は隣の病室で暁美の治療に付き添っていた。この病室の前を通った時でさえ、彼は一瞥すらしなかった。「明子?」突然の声に、明子ははっとして目を見開く。目の前には、薄暗い笑みを浮かべた暁美が立っていた。彼女の視線が枕元の百合に移ると、その瞳の奥に一瞬だけ嫉妬の色が閃いた。暁美はわざと首筋を見せつけるようにしながら、手で真珠のネックレスをなぞった。「ほら見て。これ、佐久が買ってくれたの。30万円もしたのに、佐久ったら迷いもせずに払ったのよ」明子はその時初めて、彼女の首元に光る真珠の粒を見た。一粒一粒が丸く艶やかで、まるで宝石のようだった。明子の拳は自然と握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。――なんて愚かだったんだろう。佐久は、貧しいどころか、ただ自分を愛していなかっただけ。60万円の結婚資金は惜しむくせに、愛人には30万円のネックレスを迷わず買う男だった。夜更け、明子はぼんやりとした眠りの中、かすかな悲鳴に目を覚ました。看護師としての本能が働き、すぐにベッドを出る。窓の外を覗くと、敷地裏にある小さな植え込みのあたりで、数人の不良青年が一人の少女を囲んでいた。どう見ても助けを求める余地などない、深夜の無人の場所だった。恐怖に震える少女の姿に、明子の胸が痛む。気がつけば、彼女は走り出していた。だが現場に近づけばづくほど、おかしな感じがする。その顔、どこかで見たような......「彼女を離しなさい!」明子の声を聞いた瞬間、不良たちの視線が躊躇なく一斉に明子へと向く。そのときようやく少女の顔をはっきり見えた。明子は息を呑んだ。――暁美?「あなたは......」明子はためらわず、飛び込んできた男の腹を蹴り飛ばした。だが、相手は多勢。腕を掴まれ、押さえつけられる。「
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第4話
充が正式に身分を明かしたその日から、結納の品が次々と明子の家に運び込まれてきた。結婚資金については、彼が個別に用意した封筒が渡されており、その中には1000万円が入っていた。明子が何か言いかけた瞬間、充の黒く深い瞳が彼女を射抜いた。「多いなんて言わないでほしい。君を妻にできるなら、1000万円でも足りないくらいだ」居間いっぱいに積まれた贈り物を前に、両親は笑顔が止まらなかった。数日間の付き合いの中で、明子の充に対する印象はますます良くなっていった。そしてついに、結婚衣装を選ぶ日が来た。街角の老舗仕立て屋のショーウィンドウに、伝統刺繍を施した美しいドレスが飾られていた。明子はそれを見た瞬間、まるで運命の出会いのように心を奪われた。さっそく注文しようとした時――「すみません、そのドレスは私たちがもらいます。三倍の値段で」横から伸びた手が先に代金を差し出した。振り返ると、そこにいたのは佐久と暁美だった。たった二日見ない間に、佐久はまるで別人のようだった。革のジャケットに派手なブーツ、太い金のネックレスを光らせている。暁美も全身ブランド物で着飾り、唇の端を吊り上げて嘲るように笑った。「明子の評判はもう地に落ちてるのに、こんなドレスが似合うと思ってるの?」佐久も鼻で笑いながら、金のネックレスを指で弾いた。「明子はあの連中に汚されたって聞いたけど、昔の情に免じて娶ってやろう」老職人は困惑の表情を浮かべ、明子と二人を交互に見比べた。明子の心に、前世の記憶が不意に蘇る。――この展開、思ったより早い。前の人生で佐久は、結婚して間もなく、どこかから莫大な金を手にしていた。彼が何をして稼いだのか詰問すると、逆上した佐久は彼女に平手打ちを食らわせた。「余計な詮索をするな。金の道を知ってる奴がいるんだ」その言葉の意味を、あの時の明子は知らなかった。家の検査で、父親の部屋から違法薬物が見つかるまでは。佐久がそれを父に押し付けたのだ。目の前の傲慢な佐久を見据え、明子は静かに言った。「そのドレス、あなたたちに譲るわ。別のにするから」彼女の落ち着いた反応に、佐久は一瞬言葉を失った。彼は明子が泣きついてくる姿を期待していたのだ。なのに彼女は、何の反応も示さなかった。
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第5話
結婚式が近づくにつれ、明子は人目を避け、静かに過ごすようになった。あの夜の事件が噂になり、近所の人々の視線も変わり始めていた。「聞いた?市原家の娘さん、夜中に不良に襲われたって。目撃者もいるんだってさ」「ほらね、あの子昔から気が強かったし、最近おとなしくしてるのはきっとそのせいよ」「それより、結婚相手って岩切家の者でしょ?まさか知らないんじゃ......」噂を口にするおばさんは驚いた顔をした。「岩切家?あの家の旦那って......」噂は瞬く間に広がった。暁美のまいた泥を、明子は気にも留めなかったが、この閉鎖的な街では言葉が凶器になる。市原家はもともと暮らしが豊かだったこともあり、市原父が弁解したとしても、嫉妬と悪意が一層強まっていた。「辻井佐久......絶対に許さないぞ!でも本当によかった。明子が、あの男を選んでいなくて」父親は怒りで息を荒げた。明子は微笑んで父の肩に手を置く。「お父さん、もう気にしないで。これでよかったじゃない。それより、お願いがあるの。結婚式までは家からあまり出ないで。それと、知らない人を家に入れないようにして」唐突な言葉に父親は首を傾げたが、娘の真剣な表情に押され、黙ってうなずいた。そして、結婚式の前日がやってきた。だがその日の昼、明子の胸騒ぎは収まらなかった。何かが、自分の手の届かないところで動いている気がした。彼女はここ数日、理由を言わずに自宅にこもっていた。充も気にかけてはいたが、まだ正式に夫婦ではないため訪問を控え、代わりに明子の大学時代の友人に伝言を頼んでいた。正午になると、友人がいつものように家を訪れ、充からの贈り物を渡してくる。「明子、本当に羨ましいわ。あの岩切さんが、あなたにだけはこんなに優しいなんて。見て、また真珠のネックレスと手書きの恋文よ。ほんっと、甘すぎる!」友人のからかう声に、明子は顔を赤らめ、そっけないふりをした。だがその胸の奥では、静かに深い幸福が広がっていた。......壁に掛けられた時計の針が、コチコチと音を立てながら何度も一周していた。午後二時になっても、親友の姿は見えない。明子は落ち着かず、ついに外へ様子を見に出ることにした。その瞬間、親友が青ざめた顔で駆け込んできた。「明子、大
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第6話
「違います、おばさん......私の結婚相手は佐久じゃありません、放してください!」明子は必死に弁明するが、婦人は唾を吐き捨てて罵る。「はっ、まだシラを切る気かい!あんたみたいな女、うちの子以外に誰が貰うっていうのよ!調子に乗るんじゃないわよ!佐久、見たか。この女、嘘ばっかり言ってる!今のうちに締めておかないと、後であなたが泣くことになるよ!ほら、やりなさい!」母親に焚きつけられ、佐久は震える拳を握った。怒りのままに手が飛んだ。十発、二十発......明子の頬が腫れ、唇が切れた。それでも彼は止まらず、近くの箒の柄を掴み、全力で叩きつける。やがて彼女が意識を失いかけた頃、ようやく箒を捨て、縄を解いた。髪を掴んで床に引きずり、母親の足元に押し付ける。「母さんに謝れ!でなきゃ結婚なんてしてやらないぞ!」明子は必死に顔を上げるが、その瞬間、背後から強い力が首を押さえつけた。額が床にぶつかり、血が滲む。耳元で、暁美の冷たい声が響く。「覚えときなさい、明子。たとえこの家に嫁いでも、佐久が愛するのは私だけよ。あなたの名誉はもう地に落ちた。父親ももうすぐ立場を失う。今の明子に残された道は一つ――家の財産を全部持って、黙って辻井家に嫁ぐことよ」――父親?明子の瞳が見開かれ、息が止まる。「あなたたち......父に何をしたの?まさか――きゃ!」言い終える間もなく、鈍い痛みが右手を襲った。見下ろすと、腹の大きな暁美が彼女の手をヒールで踏みつけていた。「私の代わりに佐久と結婚するっていうなら、これくらい当然でしょ?」満足げに足をどける頃には、明子の右手は紫に腫れ、血が滲み始めていた。その横で、佐久の母親が紙を一枚放り投げる。契約書だ。傷だらけの右手を掴まれ、無理やり拇印を押させられる。「これでいい。これがある限り、明子は死んでも辻井家の人間よ」婦人は冷たく言い放ち、明子を乱暴に蹴り飛ばした。「佐久、この女を閉じ込めておきなさい。それから、あの黒のウエディングドレスを持ってきて。明日の式でこの女が着るのはそれよ。白いのは、私と暁美が着るから」……その夜、明子は命からがら自宅に戻った。帰ってきて初めて、父が人を集めて自分を十時間近く探し回っていたことを知った。市原父と
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第7話
「全員、動くな!」その場にいた全員が凍りついた。何が起こったのか、誰にも分からなかった。やがて警官たちが道を開け、その中央を充が歩いてきた。明子の胸が高鳴る。充は彼女の顔に残る傷跡を見た瞬間、拳を握り締めた。その目は怒りに濁り、声を押し殺すように市原父へ向き直る。「市原さん......あなたの家から白い粉の袋がいくつも見つかりました。何か心当たりは?」市原父は呆然とした。意味が掴めず、警官が証拠品を掲げるのを見て、ようやく理解する。目を見開き、声を震わせた。「バカな!私はそんなことしてない!」明子の頭が真っ白になり、足元がふらついた。充が素早く手を伸ばし、彼女の腰を支える。その様子を見た暁美が、狡猾な笑みを浮かべて叫んだ。「へえ、市原家って、裏でこんな悪どいことしてたのね?さすが『課長』様」辻井母も負けじと顎を上げ、明子の頬を思いきり叩いた。「なるほどね、血筋が腐ってるから、娘もこうなるわけだ」その言葉に明子の怒りが爆発した。彼女は容赦なく手を振り上げ、辻井母の頬を打ち返す。「父を侮辱しないで!」佐久は母が叩かれたのを見て激昂し、殴りかかろうとしたが、充に蹴り倒された。充は明子の手をしっかり握り、低い声で市原父に言う。「お義父さん、油断なさいましたね。昨日、情報を得て追跡していましたが、あなた方が家を出た直後、女がひとり侵入したのを確認しました」暁美の顔がみるみるうちに真っ青になった。「充、もうそのへんにして、早くあの連中を捕まえなさい。結婚式、まだこれからなんだからな」冷ややかな声が玄関から響いた。市原父が顔を上げ、その人物を見た瞬間、息を呑んだ。「い......岩切署長!」岩切署長は静かに微笑み、軽く頷いた。その場にいた全員が驚きに息を呑む。明子でさえ、充が署長の息子だったとは思いもよらなかった。すぐに警官たちが動き出し、暁美を地面に押さえつけ、手錠をかけた。佐久は完全に呆然としていた。まさか暁美が自分に「金になる仕事」と持ちかけていたのが、違法なものだったとは――そしてそのときになってようやく、会場正面のウェルカムボードに書かれた新郎の名前が目に入る。そこには、はっきりとこう記されていた。新郎:岩切充そう、最初
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第8話
「連れて行け!」充の低い号令が響いた瞬間、背後に控えていた警察官たちが動いた。大きなお腹を抱えた暁美と、同じく蒼白な顔の佐久が、容赦なく腕を掴まれ、式場から連れ出されていく。「ちょ、ちょっと!うちの子に何するのよ!」華やかな衣装を着た辻井母が、半ば取り乱しながら叫ぶ。暁美は涙を浮かべ、縋るようにその名を呼んだ。「お義母さん、助けて!」しかし辻井母も状況を飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。やがて彼女は警察に押さえつけられた息子を奪えず、怒りの矛先を明子に向けた。「この疫病神!本来うちの嫁になるはずだったのに、男をたぶらかして――」パシンッ!パシンッ!二発の鋭い音が式場に響き渡った。頬を押さえ、辻井母の目が大きく見開かれる。打ったのは明子の母親だった。市原母は怒りで胸を上下させながら、指を突きつけて叫ぶ。「やっと会えたわね!昨夜うちの子を連れ去り、体中傷だらけにしたわよね。そんな恥知らずがよくもそんな恰好で娘の結婚式に来られたもんだ!」もう一度手を振り上げようとしたところを、明子が慌てて止めた。母親の怒りは痛いほど分かっていたが、これ以上ここで騒ぎを大きくすれば、余計な問題を招く。何より警察が見ている。その時、充の視線が明子に向いた。透ける生地の下、腰や足のあたりに浮かぶ青あざが目に入る。瞬間、彼の目が氷のように冷たく光った。「その女も連れて行け」指差された辻井母が、たちまち蒼白になる。充は市原母の前に立ち、声の調子を和らげた。「お義母さん、ここは私に任せてください。明子には、もう二度と辛い思いはさせません」佐久たちが連れ出されると、ざわめきに包まれていた式場がようやく静まった。音響が戻り、ウェディングの旋律が流れ始める。明子は深く息を吐き、周囲を見渡して、思わず感慨に浸った。前世の結婚式を思い返す。辻井家は結婚式場を手配するお金がなかったため、彼女と佐久の結婚式は辻井家の前で行われた。辻井父は早くに亡くなり、辻井母は極端に小心な性格で、結婚式にまともに金を出すことなどありえなかった。呼んだのは最も安い料理人で、客をもてなす料理も十品揃わなかった。家の前に赤いカーペットを敷いただけで、結婚式とされた。まともな婚礼衣装すら
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第9話
暁美は呆然としていた。佐久の、あの少し冷たくなった眼差しに気づいた瞬間、彼女にはすぐに分かった。――あの目を、前にも見た。同窓会の夜、彼が明子を見つめていた、あのときの目だ。そこにあったのは、嫌悪と、倦怠。泣き喚く間もなく、警察署に着いた。初回の取り調べの結果、暁美は重大な関与の疑いがあるとして強制捜査の対象に。辻井母もまた、不法監禁および傷害の容疑で拘留された。佐久も取引に間接的に関わっていたが、完全に事情を知らされていなかったため、取り調べ後に無罪放免となった。「小池暁美を主要容疑者として、重点的に捜査を進めます。証拠が固まり次第、司法機関へ送致します。ただし妊婦であることを考慮し、出産まで自宅での監視拘禁を認めます。ここ二日間は定期取り調べのため、署内に留置します。家族の方は衣類などを届けてください」取り調べ室に響くのは、暁美の泣き叫ぶ声だけだった。「衣類は送れません。彼女の家族ではないので」その言葉に、暁美は泣き止んだ。涙が頬に張り付き、声が震えた。「佐久......何を言ってるの......あなた、子どもの父親でしょう......!」その頃、明子は違う意味で泣いていた。涙は悲しみではなく、幸福のあまり溢れ出たものだった。岩切家が用意した結婚式は、まさに夢のようだった。さらに婚礼の新居は、一番高級な独立住宅。この豊かでない町の人々にとって、平屋を出て二階建てに住むだけでも奇跡のようなことだったのに、庭付きの洋館など見たこともなかった。たちまち岩切家は近隣の羨望の的となり、明子の旧友たちも「すごいよ!」と言いながら次々と顔を出したが、彼女は誰にも会おうとしなかった。――あまりに現実離れした幸せ。一人静かに座るとき、明子はつい、前の人生の記憶をたどってしまう。けれど浮かんでくるのは、断片的な記憶の中の、あの冷たく険しい顔だけ。どうしてだろう。充を見るたび、胸の奥で懐かしい痛みが走る。そんな穏やかな日々も長くは続かなかった。結婚して間もなく、充は出張に出た。彼の職業柄、急な出動は珍しくない。明子も深く考えなかった。だが、何日経っても音沙汰がない。電話も通じない。そしてその朝、胸騒ぎがした。「明子!充が南地区に行ったって、本当か!?
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第10話
どれほどの時間が経ったのかも分からない。彼はふと、鼻をつくような強い消毒液の匂いを感じた。必死にまぶたを開くと、医師や看護師たちが一斉に悲鳴を上げる。途切れ途切れの叫び声の中、誰かが言った。「心拍も呼吸も止まってたのに......まさか、生まれ変わった?」――生まれ変わった?佐久はぼんやりした頭を振った。自分が死んだという実感はない。ただ、やけに長い夢を見ていた気がする。夢の中で、彼は走馬灯のように、前の人生――明子と結婚したあとの日々を見た。実家の村の片隅にある古い平屋。狭い部屋には、腹の大きくなった暁美も住み着いていた。明子は昼間、辻井母の皮肉を黙って受け、夜は暁美の挑発に耐えた。自分の寝る場所さえなく、二脚の椅子を並べてソファのそばで眠る彼女。誇り高い彼女が、ただ「一緒にいたい」という思いだけで、そんな惨めな結婚生活を続けていた。結婚前はあんなにおしゃれで綺麗だったのに、結婚してからは美容品ひとつ買うこともなく、顔には小じわが刻まれていった。そんな日々を、彼女は三年間も耐えたのだ。夢から醒めたあと、佐久は額に汗を滲ませた。――これが、生まれ変わったというものなのか。だが、そんなことはどうでもよかった。大切なのは、あの夢で見た明子の苦しみ。そしてようやく気づいた――自分が本当に愛していたのは、暁美ではなく、明子だったのだと。彼女はあまりにも眩しく、自分の卑屈さを照らし出す太陽のような存在だった。その光がまぶしすぎて、目を背けるように、彼は暁美の媚びへつらいに逃げた。それが自尊心を満たす唯一の手段だった。ベッドの上で、佐久は思わず自分の頬を叩いた。パシン、と音が響く。そして突然、はっと思い出したように立ち上がった。「そうだ、南地区......!明子に伝えなきゃ。俺の口でちゃんと説明しないと。きっと、彼女は許してくれる!」医師たちの制止を振り切り、その日のうちに病院を飛び出した。向かった先は――南地区。最初は、彼女が新婚旅行に行ったのだと思っていた。だが山を越え、森を抜け、本土へ入るほどに、警察の数が増えていく。通過するたびに、彼らの制服を見た。――岩切充と同じ部署だ。その瞬間、佐久はすべてを悟った。胸がぎゅっと締め
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