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10.庭園での出来事

Author: 杵島 灯
last update Last Updated: 2025-09-10 17:58:22

 マリッサが母国シーブルームから持ち込んだ品はいくつもあった。

 衣装や宝飾品、書物や香油などはもちろんのこと、実はその中に一つだけ楽器もあった。

 竪琴だ。

 シーブルームでは、青い光彩に銀の光が輝く瞳を『海の瞳』と称している。

 その『海の瞳』を持つ者にまつわる伝説として有名なのは「他国に恵みをもたらす」というもの。加えて実は「なんらかの楽器が得意」というものもある。

 とはいえ普段の『海の瞳』を持つ者の音楽は確かに人々を楽しませるが、優れた演奏者の域を出ない。

 ならばなぜ伝説となっているのか。

 それは『海の瞳』を持つ者が、心から愛しいと思える人に出会ったときに楽器を奏でると、とても麗しい音になるからだと言われている。

 人の世のものとは思えぬほどの旋律は、荒れ狂う嵐を鎮め、乾いた土地に恵みをほどこし、戦で疲弊した兵に再び立ち上がる力を与える。

 それが「他国への恵み」として語られる伝説の正体なのだと。

 まるでおとぎ話のようなこの内容がどこまで真実なのかは分からない。『海の瞳』を持つ者は国を出る運命であるため、シーブルームには詳細な伝承が残っていないからだ。

 ただ、マリッサが竪琴を弾くのが好きなのは事実だった。

 シーブルームの王宮にも、人の背丈ほどもある大きな竪琴が据えられていた。

 子どものころからその音色に触れて育ったマリッサは、成長してからしばしば父や母や兄、侍女たちの前で奏でてきた。

 今回の輿入れにはさすがに持って行けないので、代わりに添えられたのが小ぶりな竪琴だった。

 抱えればそのまま歩けるほどの大きさで、艶やかな木肌は陽の光を浴びて琥珀色に輝く。

 楽の音が響くグリージアに嫁ぐ娘のために、父王が最も優れた職人に命じて作らせたものだった。

 グリージアで最初の夜を迎える前か、あるいは後か。

 マリッサは自分の演奏を、まずハロルドに聞いてもらうつもりでいた。それが『海の瞳』の伝説通りになるかどうかは分からない。

「だけど……」

 ハロルドとは単なる契約上の夫婦になった。

 『海の瞳』の伝説がグリージアで発動する日は、きっと来ない。

 今日の午後、マリッサは竪琴を携えて王宮の庭園へと足を運んだ。

 庭園の奥にある東屋は人が来ることが少なく、静かで景色も良い。竪琴が弾きたい気分になると、マリッサはこの東屋へ来ることにしていた。

 池に面した椅
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