Masuk「帰りなさい。あの空っぽなパナメーラを抱えて、下品な生活の匂いのしない、高貴な人生を生きてください」私は背を向け、レストランの厨房へと戻っていった。彼が冷たい雪の中で泣き叫ぶのを、そのまま放っておいて。それが、紘太と交わした最後の会話になった。その日を境に、紘太はまるで魂を抜かれた別人のようになった。もう私に付きまとうこともなく、かといって国にも帰らなかった。聞いた話では、国内の莫大な資産をすべて処分し、パリのじめじめした地下室を借りて、毎日街をあてもなくさまよっているという。彼はすり切れた古いコートを羽織り、以前のような高級オーダーメイドのスーツを着ることはもう二度となかった。毎日アジア系スーパーで安い食材を買い、地下室に戻ると、不器用にもつ鍋を作る練習を繰り返していた。だが彼の作るものは、真っ黒に焦げているか、塩辛すぎて、とても食べられないかのどちらかだった。食べては吐き、吐いてはまた食べる。それを狂ったように繰り返すうち、彼は深刻な胃出血を起こして倒れ、大家に発見されて病院に運ばれた。医師は、このまま無茶を続ければ胃はいずれ取り返しのつかない状態になると厳重に警告した。だが彼はただ、痛ましいほど虚ろに笑ってこう言ったという。「だめになった方がいい。だめになれば、あいつも少しは俺を可哀想だと思ってくれるかもしれないから」けれど、彼は致命的に間違っていた。私はもう二度と、彼を不憫だと思うことはない。……3年後。私はル・コルドン・ブルーを優秀な成績で卒業し、パリの中心部に、東洋料理とフレンチを融合させた自分のレストランを開いた。開業から1年目にして、ミシュラン一つ星を獲得した。かつて紘太に下品だと疎まれたあのもつ鍋のスープを、私は上質なフレンチのコンソメへと昇華させ、店の看板メニューに育て上げた。多くの著名人や政治家が列をなして味わいに訪れ、口を揃えて「これは魂を揺さぶる味だ」と称賛してくれた。そして私も、ようやくこの異国の地で、自分らしく胸を張って生きられるようになった。ある深夜、閉店後の静まり返った店で、私は厨房で明日の仕入れリストを確認していた。ルックが入ってきて、少し複雑な表情を浮かべてこう言った。「外にまた、あの人が来てる」私はペンを置き、窓際へと歩み寄った
彼の手は無数の切り傷だらけで、滲んだ血が木の柄を赤黒く染めていた。「琴、また新しく彫ったぞ。前のには及ばないけど……お前が気に入る形になるまで、ずっと練習するから……」彼は私を見つめる目に、おずおずとすがるような光を宿していた。私は俯いて、彼の血の跡がこびりついたその木製のお玉を見つめ、ふと、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いがこみ上げた。「あなたはこれで、罪滅ぼしのつもりなの?」私は顔を上げ、氷のように冷たい視線で彼を真っすぐに射抜いた。「あなたは佳世子を守っていた時、私のあのレシピ帳をただのガラクタ扱いした。今、佳世子に騙されていたと知ったら、今度は私のところに来て、不器用にお玉を彫る。あなたが愛しているのは、私なんかじゃない。ただ、人に騙されたという事実が我慢できないだけ。自分に従順だった犬が、突然尻尾を振らなくなったことが、耐えられないだけなんです」紘太の顔から完全に血の気が失せ、彼は必死に首を横に振った。「違う!お前を愛してるんだ!昔の俺が馬鹿で、自分の気持ちに気づけなかっただけで……」「もういい!」私は鋭い声で彼の言葉を遮ると、その木製のお玉を彼の足元へと無惨に叩きつけた。「口では愛してると言うけれど、あなたがゴミ収集車に押し潰させたあのレシピ帳の中に、何が挟まっていたか知ってるの?」紘太の体が大きく震え、震える手でコートのポケットから、あの半分焼け焦げた封筒を取り出した。「知ってる……母さんの手紙だ……琴、すまない、本当に、知らなかったんだ……」「あなたが知らないことは、他にもたくさんあるわ」私は彼を見つめながら、一字一句、残酷な真実を告げた。「あのもつ鍋屋は、あなたのお母さんが、あなたの学費を貯めるために、お父さんに内緒で手に入れたお店だったのよ!私の母は、ただそれを代わりに管理していただけ!あなたが自分の手で叩き壊したのは、実の母親があなたに残した最後の形見だったのよ!」紘太は息を呑み、目を見開いたままその場に立ち尽くした。「まさか……そんなはずが……」紘太は膝から崩れ落ち、冷たい雪の中に、どさりと膝をついた。自分の髪を掻き毟るように掴みながら、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れる。「母さん……あれは、母さんが俺に残してくれたものだったのに……」彼がこれ
私の顔には、紘太がもう何年も見たことのない、心の底からの笑みが浮かんでいた。油まみれのエプロン姿でもなく、体に染みついたもつ鍋の匂いもない。明るい街灯の下に立つ私を前にして、彼は一瞬、それが私だと気づくことすらできなかった。「琴……っ」紘太の声が震え、足元もおぼつかない様子で私のもとへ駆け寄ってきた。その掠れた声を聞いた瞬間、私の口元の笑みはすっと引き、凍りついた。振り返ると、無精髭を生やし、両目を血走らせたその男を、まるで見知らぬ他人を見るような冷ややかな目で見つめ返した。紘太は私の目の前まで来ると、すがりつくように抱きしめようと手を伸ばしてきた。だが、隣に立っていたフランス人シェフのルックがそれを遮った。「ムッシュ、何をなさるおつもりですか?」ルックは不快げに眉をひそめ、私を庇うように一歩前に出る。紘太はルックのことなどまるで目に入らないとばかりに、私だけをじっと見つめ、みるみるうちに両目を真っ赤にした。「琴、やっと見つけた……頼む、一緒に帰ってくれないか?佳世子は追い出した。あいつの実家も破産させたんだ。もうお前の仇は討ったんだよ!」支離滅裂に懇願するその姿は、ひどく卑屈だった。私は黙って彼の滑稽な独り芝居を見届け、彼が話し終えるのを待ってから、冷ややかに告げた。「人違いではありませんか」紘太は言葉を失い、信じられないというように私を見つめた。「琴、何を言ってるんだ?俺だよ、紘太だよ!まだ怒ってるんだろ?」「怒ってなんていません」私はルックの腕をそっと押しのけ、紘太の目をまっすぐに見据えた。「唐田琴という女は、あの日の大雨の中で死にました。今あなたの前に立っているのは、ル・コルドン・ブルーの留学生、唐田です。あなたとは何の関わりもない、ただの赤の他人よ」紘太の顔から、さっと血の気が引いた。彼は一歩前に踏み出し、私の手首をすがるように強く掴んだ。「そんなはずない!お前は20年も俺を愛してきたんだ。それを、知らないなんて一言で片づけられるはずがないだろ!」彼は俯き、私の右腕にあるはずの、あの痛々しい火傷の痕を探した。それが、彼に残された最後の望みとでも言うように。だが、私が袖をまくり上げた瞬間、彼は全身を凍りつかせた。かつてのひどく引きつれた傷痕は、そこにはなか
3ヶ月後。私を失い、紘太の生活は荒みきっていた。胃の調子はどんどん悪化する一方だった。もう誰も、彼の胃をいたわる料理を作ってくれる人がいなかったからだ。佳世子は一応、何度か食事を作ろうとしたらしい。だが彼女の言う潔癖症のせいで、野菜を切るのにも医療用手袋を三重に重ねてはめる始末で、そうして手間暇かけて出来上がったものは、到底口にできる代物ではなかった。紘太は頻繁に不眠に苦しむようになった。目を閉じるたび、木箱が押し潰される瞬間の、あの虚ろな私の瞳が頭から離れなかった。彼はあらゆるコネを使って私の行方を探ったが、国内の口座がすべて解約されていること以外、何も掴めなかった。まるで、ふっと蒸発してしまったかのように。そんなある夜のこと。紘太は接待を終え、会員制クラブから出た車の中で、古びた飲食店街を通りかかった。何気なく窓の外に目をやった瞬間、見覚えのある人影を見つけ、思わず急ブレーキを踏んだ。油煙の立ち込める、激辛もつ焼きの屋台の前。佳世子が、女友達数人と一緒に、行儀もかまわず肉をむさぼっていた。目の前には串の山が積まれ、唇は辛さで真っ赤に染まっている。潔癖症も、ひどい喘息も、そこにはかけらも見当たらなかった。「佳世子、この油煙の匂い苦手なんじゃなかったっけ?今日はずいぶんガツガツ食べてるじゃん」友人のひとりがからかうように言った。佳世子は串をひとつ置くと、得意げに笑った。「そうでも言わなきゃ、あの唐田琴なんて女のもつ鍋屋を紘太に畳ませることなんてできなかったでしょ。あんたたち、あの日の唐田琴、泥水の中を犬みたいに這いずり回ってたの見た?もう笑いが止まらなかった。紘太の馬鹿、私が本当に喘息持ちだと思い込んでてさ。コホコホって咳の真似をするだけで、この世の終わりみたいな顔して心配してくれるのよ。今は邪魔者も消えてくれたし、あの立地の良いもつ鍋屋、そのまま私のフレンチスイーツ店に使えるんだから、紘太も店も手に入って最高じゃない」車の中で、ハンドルを握る紘太の手の甲に青筋が浮き上がり、指の関節が白くなるほど力がこもった。彼は、けたたましく笑い転げるその女を凝視したまま、めまいと吐き気に襲われた。ドアを開け、道端のゴミ箱に手をつき、彼は激しく嘔吐した。最後には、鮮血まで吐き出した。
部屋の中は、恐ろしいほどに静まり返っていた。空気には、食べ物が腐ったような酸っぱい臭いが漂っている。紘太はわずかに眉をひそめ、反射的に声を上げた。「……琴、何か腐らせたのか?」返事はなかった。靴を脱いでリビングへ入ると、そこには私の痕跡が何ひとつ残っていないことに気づく。置きっぱなしだったクッションも、干していた洗濯物も、洗面台の歯ブラシさえも、すべてが消え失せていた。紘太の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。足元から、冷たいものが這い上がってくる。彼はダイニングテーブルへ駆け寄り、鍵の下に置かれたメモを見つけた。【豚汁は鍋の中。温かいうちに食べてね】見慣れた整った字だった。だが、そこには奇妙な冷たさが滲んでいた。紘太の手が、微かに震えだす。彼は台所へ飛び込み、土鍋の蓋を勢いよく開けた。中には確かに、彼の好きな豚汁があった。だが丸3日放置されていたせいで、表面には緑色のカビが浮き、吐き気を催すような悪臭を放っていた。紘太は胃がひっくり返るような感覚に襲われ、シンクにもたれかかって激しく嘔吐した。持病の胃痛がまた発作を起こし、彼は体を丸めて冷や汗を流した。いつもならこんな時、私はすぐに温かいはちみつ湯を用意して、心配しながら胃のあたりをさすってやっていた。だが今、がらんとした台所には、彼ひとりの荒い息遣いだけが虚しく響いていた。「……琴、ずいぶんいい度胸になったな……」紘太は歯を食いしばり、激痛に耐えながらスマホで私の番号にかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」冷たい機械音声に、紘太の胸が詰まった。画面を見つめる。使われていない?そんなはずが。信じられずに何度もかけ直したが、結果は同じだった。紘太はもう立っていられなくなり、転がるようにして部屋を飛び出すと、車を走らせて、あの見る影もなくなったもつ鍋屋へと向かった。店はすでに工事用の仮囲いで覆われ、中からは電動工具のけたたましい音が響いていた。紘太は作業員を押しのけて瓦礫の中へ飛び込み、めちゃくちゃに何かを探し始めた。「川人社長、何をお探しですか?ここはもうほこりばかりですよ、服が汚れますよ」現場監督が慌てて駆け寄り、愛想笑いを浮かべた。紘太は目を血走らせ、監督の襟元を掴み上げた。「あの日
「佳世子さんが待ってるんでしょ。これ以上、私の『下品な匂い』を嗅がせないほうがいいんじゃない?」私は壁に手をついて、膝の痛みに足を引きずりながら、なんとか立ち上がった。佳世子が近づいてきて、私にティッシュを差し出す。だがその目には、あからさまに勝ち誇った挑発の色が浮かんでいた。「琴さん、紘太くんを恨まないであげてね。あなたのためを思ってのことなんだから。若い女の子が、いつも服や髪にもつ鍋の匂いを染みつかせてたら、何かと大変でしょう?」私はそのティッシュを受け取ることなく、ただ冷徹な目線で彼女を見つめ返した。「せいぜい、一生そういう生活臭とは無縁でいられるよう祈っておくことね」それだけ言い捨てると、私は降りしきる雨の中へと歩き出した。背後から、紘太の理性を失ったような怒声が飛んでくる。「唐田琴!今日出て行ったら、二度とうちに来るな!」私は振り返らなかった。一瞬たりとも足を止めることはなかった。部屋に戻ると、私物をすべて綺麗に片づけた。何着かの普段着と、ル・コルドン・ブルーの合格通知書。それ以外は、何ひとつ持ち出さなかった。空っぽになった部屋を眺めながら、5年間暮らしたこの場所を、最後に一度だけ見回した。玄関には、紘太のお気に入りのルームシューズを、そのまま置いていた。台所には、彼が一番好きな長芋と豚肉のやさしい豚汁も、そのまま残していた。私はダイニングテーブルに歩み寄り、メモ用紙を一枚取り出すと、こう書き残した。【豚汁は鍋の中。温かいうちに食べてね】書き終えると、部屋の鍵をそのメモ用紙の上に重ねて置き、スーツケースを引きながら、二度と振り返ることなく家を出た。3日目。フランスへと旅立つ日。天気は不思議なほどに晴れ渡り、その眩しい日差しに、なぜか不意に涙がにじんだ。空港の待合室で、私はスマホの画面に映る紘太のアイコンをじっと見つめていた。昨日から今まで、彼からは1通のメッセージも、1本の電話もこなかった。きっと彼は、私がまた駆け引きのつもりでじらしているだけだと思っているのだろう。自分が折れて機嫌を取りに来るのを待っているのだと。搭乗が始まる直前、スマホが鳴った。紘太からだった。私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。「お前、一体何のつもりだ?昨日は1日中