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火傷の痕を消した日、涙も涸れた

火傷の痕を消した日、涙も涸れた

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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幼馴染みという関係に甘え、私、唐田琴(からた こと)は、川人紘太(かわひと こうた)のそばに20年ものあいだ居座り続けてきた。 誰もが知っている。私が彼にとって振り払えない厄介者であり、来る日も来る日もあの手この手で、彼を振り回し続けてきたのだと。 それなのに、彼が新車を手に入れたその日を境に、私は嘘のようにおとなしくなり、まるで空気のように存在感を消してしまった。 私のことをよく知る紘太でさえ、その急な変わりように戸惑いを隠せずにいた。 彼は深夜、雨の中を二人の家まで駆け戻ってくると、珍しく声を和らげ、私に事情を説明した。 「今夜、お前を車に乗せなかったのは……佳世子のせいなんだ。あいつ潔癖症で、お前の服に染みついたもつ鍋屋の匂いがどうしても駄目らしくて。 雨もそれほどひどくはなかったから、佳世子を先に送っていっただけだ。頼むから、もう口をきかないなんて言わないでくれ」 ああ、また白井佳世子(しらい かよこ)か。あの、ささいな生活臭すら許せないという、お上品な潔癖症のせいで。 私はふっと笑った。 「別に。気にしてないから」 どうせ3日後には、フランスのル・コルドン・ブルーへ発つ身だ。これからはもう、お互い相手の匂いに悩まされることもないのだから。

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Chapter 1

第1話

紘太は帰ってきたときのまま玄関先に立ち、微かに眉をひそめていた。

まるで、私がいつものように大喧嘩を吹っ掛けるのを、待ち構えているかのように。

無理もない。この20年、彼のそばに女の気配が少しでもあれば、私は決まって大騒ぎしてきたのだから。

ましてや今日は、彼があのポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。

3ヶ月ものあいだ、カップ麺ばかりの生活に付き合い、数え切れないほどの企画書を書き上げ、彼が車を一括で買えるほどの大型契約を取れるよう支えた。

それなのに彼は、鍵を受け取った瞬間、真っ先に助手席へ佳世子をエスコートしたのだ。

そして私ひとりだけを、店の前に置き去りにした。

「本当に、気にしてないのか?」

紘太はスリッパに履き替えると、私の前まで歩み寄り、探るような視線を向けてきた。

私はスーツケースに服を詰めるのに夢中で、顔すら上げなかった。

「気にしてないよ。佳世子さんはお体がデリケートなんだから、あなたが気を遣うのは当然でしょう」

紘太の眉間の皺が、いっそう深く刻まれる。

彼は服を畳み続ける私の手を、上から強く押さえつけた。

「琴、そういう嫌味っぽい言い方はやめてくれ。

佳世子は潔癖症なだけじゃない、ひどい喘息持ちなんだ。あの古い店の匂いは本当にきつすぎる。嗅いだら発作を起こしかねない。

機嫌が悪いなら、明日、お前がずっと欲しがっていたあのバッグを買いに行こう。それでいいだろ?」

バッグ?

端正な顔立ちの奥に苛立ちを滲ませる紘太を見上げて、私はふと滑稽に思えた。

あのバッグは先月、私が目をつけていたものだ。彼への納車祝いを買うためにお金を貯めようと、ずっと買うのを我慢していたのに。

それなのに、彼が佳世子への手土産に選んだのは、数百万円もするオーダーメイドのネックレスだった。

「いらない。バッグなら足りてるから」

私はそっと手を引き抜き、最後の一着のセーターをスーツケースに押し込んだ。

紘太はようやく床に置かれたスーツケースの存在に気づいたらしく、その目をすっと冷たくした。

「唐田琴、また家出の真似事か」

フルネームで私を呼ぶのは、彼が本気で苛立っている時の悪い癖だ。

「お前は少しでも気に入らないことがあると、毎回大騒ぎして荷物をまとめて実家に帰ろうとする!

もう25なんだから、いい加減、大人になれよ」

私はスーツケースのファスナーをしっかりと閉め、立ち上がって彼の目をまっすぐに見つめ返した。

「別に騒いでなんかいないよ。ただ、衣替えで服をクリーニングに出すだけ」

紘太は一瞬虚を突かれ、面食らった表情を見せた。

苛立たしげにネクタイを緩めると、再び声を和らげてみせる。

「……わかった、今日のことは俺が悪かった。お前を雨の中に置き去りにするべきじゃなかった。

1日中、胃が痛いんだ。麺を作ってくれよ、目玉焼きを2つのせてな」

彼は、私が心配のあまり慌てて台所へ駆け込むものと信じて疑わない様子で、当然のように命じてきた。

胃を押さえる彼の手を見つめながら、私の脳裏に浮かんでいたのは、今日の昼間の光景だった。

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松坂 美枝
松坂 美枝
クズ男がしつこい…帰国してそこでひっそりとやっていけばよかったのに 意味のない後悔の中で生きないで欲しい
2026-10-11 09:45:02
3
0
Tomo Tomo
Tomo Tomo
幼なじみの親の形見を壊すのに躊躇いないのに、自分の親の形見だとショックを受けるクズ男。改心してもしなくても相手にする価値がないね。 ところで、これ、本当に新作?ほぼほぼ同じストーリーをしばらく前に読んだ気がするんだけど。
2026-10-11 11:55:55
6
0
ノンスケ
ノンスケ
他の人も書いてたけど、同じような話を少し前に読んだ気がする。で、結局20年の絆を嘘つき女に騙されて切り捨て、彼に残ったのは後悔と壊れた胃だけなのね。
2026-10-11 18:28:25
3
0
9 Chapters
第1話
紘太は帰ってきたときのまま玄関先に立ち、微かに眉をひそめていた。まるで、私がいつものように大喧嘩を吹っ掛けるのを、待ち構えているかのように。無理もない。この20年、彼のそばに女の気配が少しでもあれば、私は決まって大騒ぎしてきたのだから。ましてや今日は、彼があのポルシェ・パナメーラを手に入れた記念すべき日だ。3ヶ月ものあいだ、カップ麺ばかりの生活に付き合い、数え切れないほどの企画書を書き上げ、彼が車を一括で買えるほどの大型契約を取れるよう支えた。それなのに彼は、鍵を受け取った瞬間、真っ先に助手席へ佳世子をエスコートしたのだ。そして私ひとりだけを、店の前に置き去りにした。「本当に、気にしてないのか?」紘太はスリッパに履き替えると、私の前まで歩み寄り、探るような視線を向けてきた。私はスーツケースに服を詰めるのに夢中で、顔すら上げなかった。「気にしてないよ。佳世子さんはお体がデリケートなんだから、あなたが気を遣うのは当然でしょう」紘太の眉間の皺が、いっそう深く刻まれる。彼は服を畳み続ける私の手を、上から強く押さえつけた。「琴、そういう嫌味っぽい言い方はやめてくれ。佳世子は潔癖症なだけじゃない、ひどい喘息持ちなんだ。あの古い店の匂いは本当にきつすぎる。嗅いだら発作を起こしかねない。機嫌が悪いなら、明日、お前がずっと欲しがっていたあのバッグを買いに行こう。それでいいだろ?」バッグ?端正な顔立ちの奥に苛立ちを滲ませる紘太を見上げて、私はふと滑稽に思えた。あのバッグは先月、私が目をつけていたものだ。彼への納車祝いを買うためにお金を貯めようと、ずっと買うのを我慢していたのに。それなのに、彼が佳世子への手土産に選んだのは、数百万円もするオーダーメイドのネックレスだった。「いらない。バッグなら足りてるから」私はそっと手を引き抜き、最後の一着のセーターをスーツケースに押し込んだ。紘太はようやく床に置かれたスーツケースの存在に気づいたらしく、その目をすっと冷たくした。「唐田琴、また家出の真似事か」フルネームで私を呼ぶのは、彼が本気で苛立っている時の悪い癖だ。「お前は少しでも気に入らないことがあると、毎回大騒ぎして荷物をまとめて実家に帰ろうとする!もう25なんだから、いい加減、大人になれよ」
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第2話
SNSで彼が「いいね」を押していた、佳世子との優雅なフレンチディナーの写真。「もう麺は切らしてるよ。デリバリーでも頼めば」私はスーツケースを引きずり、寝室へ向かって歩き出した。その背後から、紘太が突然私の手首を強く掴んだ。あまりの力強さに、思わずくぐもった悲鳴が漏れる。「唐田琴。俺がこれだけ下手に出て機嫌を取ってやってるってのに、まだ気が済まないのか」手首に走る鋭い痛みに、私は反射的に身を捩って逃れようとした。紘太は私の右腕に残る、ひどく引きつれた火傷の痕をじっと見つめた。一瞬だけその瞳を揺らしたあと、結局彼は手を離した。あの痕は18歳の年、彼の家が突然の火事に見舞われたとき、私が燃え盛る炎の中に飛び込んで彼を引きずり出した証だ。この傷痕のせいで、私はダンス学校を受験する夢を諦めた。代わりにお玉を握り、母が遺したあの古びたもつ鍋屋を継いだのだ。あの時、紘太は血まみれになった私を強く抱きしめ、泣きながら一生守り抜くと誓ってくれたのに。今の彼にとって、私の体に染みついた鍋の匂いは、憧れの佳世子を不快にさせるだけの忌まわしいものでしかないらしい。「拗ねてるんじゃないよ。ただ本当に、疲れただけ」私は痛む手首をさすりながら、感情を押し殺した声で答えた。紘太はしばらく私を睨みつけていたが、ふと氷のように冷たく笑った。「そうか、作らないんだな。なら明日、あの潰れかけのもつ鍋屋、他人に売り渡す手続きを進める!佳世子はあの通りを通るたび、嫌そうに鼻をつまんでる。前から店を畳ませたいと思ってたんだ」ピタリと足が止まる。信じられない思いで、私は彼を振り返った。「紘太、あれは母が残してくれた唯一の遺品だよ。あなたに勝手に処分する権利なんてない」私の顔にようやく感情の波が浮かんだのを見て、紘太の目に一瞬、愉快そうな笑みがよぎった。「権利ならあるさ。あの店の名義は、今はもう俺のものだからな。琴、少しは素直になれよ。店を畳んで、うちの会社で事務でもやればいい。毎日綺麗な格好で働けるじゃないか。あんな場所に1日中入り浸って、下品な匂いを体に染みつけて。お前を連れて人前に出るのすら、俺は恥ずかしいんだよ」下品な匂い。その一言に、胸が詰まった。この20年間、彼のために夜通し夜食を作ったり、彼の起業資金を
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第3話
まだ遠くからでも、はっきりと見えた。母が生前、自らの手で書き上げたあの看板が、泥まみれの路上に無惨に投げ捨てられているのが。佳世子は紘太の差しかける傘の下に立ち、鼻を押さえながら、店から次々と運び出される鍋や食器の山を、あからさまな嫌悪を込めて眺めていた。「紘太くん、ここすごく汚いね。本当に素敵なスイーツ店に生まれ変わるの?」「安心して、佳世子。消毒も徹底させるし、床の古いタイルも全部剥がして新しく張り替える。匂いなんて一切残らないようにするからさ」紘太の声は、驚くほど優しかった。昨夜、狂ったように私に怒鳴り散らしていた時とは、まるで別人のように。私は野次馬の人だかりをかき分け、現場へ飛び込んだ。その瞬間、目に飛び込んできたのは、ゴミの山のいちばん上に無造作に投げ捨てられた、あの古い木箱だった。あれは、私にとって命より大切なものだった。中には母が遺した秘伝のスープの配合表だけでなく、紘太が15歳の時、自分の手でナイフを使って不器用に彫ってくれた木製のお玉が大切にしまってある。あの時、彼は指を切りながらも照れくさそうに笑って言ったのだ。「琴、将来お前が立派な板前になったら、俺が助手になってやるよ」考えるより先に体が動き、私は木箱を取り戻そうと必死に飛びついた。「唐田琴!何やってるんだ!」背後から紘太が私の襟首を掴み、力任せに引き戻した。足がもつれ、私はそのまま油汚れの浮いた冷たい水たまりに倒れ込んだ。砕けたタイルに膝を強く打ちつけ、骨の髄まで響くような鋭い痛みが走る。佳世子が短い悲鳴を上げ、紘太の胸に縮こまるように身を寄せた。「紘太くん、あの人すごく汚い、私に絶対触れさせないで!」紘太はすぐさま佳世子を背中にかばい、泥だらけの私を見下ろすように冷酷に睨みつけた。「何を狂ったように暴れてるんだ。昨夜言ったはずだろ、この店は必ず畳ませるって」私は彼の言葉を無視して、手足を使って泥まみれになりながらあの木箱へ這い寄ろうとした。だが、もう遅かった。ちょうどバックしてきたゴミ収集車がその場に停まり、作業員たちが次々とゴミ袋を後部の投入口へ放り込んでいった。そのゴミの山も、あっという間に収集車の中へ飲み込まれていった。「やめて!止めてお願い!その中に、母の形見が入ってるの!」喉が裂ける
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第4話
「佳世子さんが待ってるんでしょ。これ以上、私の『下品な匂い』を嗅がせないほうがいいんじゃない?」私は壁に手をついて、膝の痛みに足を引きずりながら、なんとか立ち上がった。佳世子が近づいてきて、私にティッシュを差し出す。だがその目には、あからさまに勝ち誇った挑発の色が浮かんでいた。「琴さん、紘太くんを恨まないであげてね。あなたのためを思ってのことなんだから。若い女の子が、いつも服や髪にもつ鍋の匂いを染みつかせてたら、何かと大変でしょう?」私はそのティッシュを受け取ることなく、ただ冷徹な目線で彼女を見つめ返した。「せいぜい、一生そういう生活臭とは無縁でいられるよう祈っておくことね」それだけ言い捨てると、私は降りしきる雨の中へと歩き出した。背後から、紘太の理性を失ったような怒声が飛んでくる。「唐田琴!今日出て行ったら、二度とうちに来るな!」私は振り返らなかった。一瞬たりとも足を止めることはなかった。部屋に戻ると、私物をすべて綺麗に片づけた。何着かの普段着と、ル・コルドン・ブルーの合格通知書。それ以外は、何ひとつ持ち出さなかった。空っぽになった部屋を眺めながら、5年間暮らしたこの場所を、最後に一度だけ見回した。玄関には、紘太のお気に入りのルームシューズを、そのまま置いていた。台所には、彼が一番好きな長芋と豚肉のやさしい豚汁も、そのまま残していた。私はダイニングテーブルに歩み寄り、メモ用紙を一枚取り出すと、こう書き残した。【豚汁は鍋の中。温かいうちに食べてね】書き終えると、部屋の鍵をそのメモ用紙の上に重ねて置き、スーツケースを引きながら、二度と振り返ることなく家を出た。3日目。フランスへと旅立つ日。天気は不思議なほどに晴れ渡り、その眩しい日差しに、なぜか不意に涙がにじんだ。空港の待合室で、私はスマホの画面に映る紘太のアイコンをじっと見つめていた。昨日から今まで、彼からは1通のメッセージも、1本の電話もこなかった。きっと彼は、私がまた駆け引きのつもりでじらしているだけだと思っているのだろう。自分が折れて機嫌を取りに来るのを待っているのだと。搭乗が始まる直前、スマホが鳴った。紘太からだった。私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。「お前、一体何のつもりだ?昨日は1日中
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第5話
部屋の中は、恐ろしいほどに静まり返っていた。空気には、食べ物が腐ったような酸っぱい臭いが漂っている。紘太はわずかに眉をひそめ、反射的に声を上げた。「……琴、何か腐らせたのか?」返事はなかった。靴を脱いでリビングへ入ると、そこには私の痕跡が何ひとつ残っていないことに気づく。置きっぱなしだったクッションも、干していた洗濯物も、洗面台の歯ブラシさえも、すべてが消え失せていた。紘太の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。足元から、冷たいものが這い上がってくる。彼はダイニングテーブルへ駆け寄り、鍵の下に置かれたメモを見つけた。【豚汁は鍋の中。温かいうちに食べてね】見慣れた整った字だった。だが、そこには奇妙な冷たさが滲んでいた。紘太の手が、微かに震えだす。彼は台所へ飛び込み、土鍋の蓋を勢いよく開けた。中には確かに、彼の好きな豚汁があった。だが丸3日放置されていたせいで、表面には緑色のカビが浮き、吐き気を催すような悪臭を放っていた。紘太は胃がひっくり返るような感覚に襲われ、シンクにもたれかかって激しく嘔吐した。持病の胃痛がまた発作を起こし、彼は体を丸めて冷や汗を流した。いつもならこんな時、私はすぐに温かいはちみつ湯を用意して、心配しながら胃のあたりをさすってやっていた。だが今、がらんとした台所には、彼ひとりの荒い息遣いだけが虚しく響いていた。「……琴、ずいぶんいい度胸になったな……」紘太は歯を食いしばり、激痛に耐えながらスマホで私の番号にかけた。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」冷たい機械音声に、紘太の胸が詰まった。画面を見つめる。使われていない?そんなはずが。信じられずに何度もかけ直したが、結果は同じだった。紘太はもう立っていられなくなり、転がるようにして部屋を飛び出すと、車を走らせて、あの見る影もなくなったもつ鍋屋へと向かった。店はすでに工事用の仮囲いで覆われ、中からは電動工具のけたたましい音が響いていた。紘太は作業員を押しのけて瓦礫の中へ飛び込み、めちゃくちゃに何かを探し始めた。「川人社長、何をお探しですか?ここはもうほこりばかりですよ、服が汚れますよ」現場監督が慌てて駆け寄り、愛想笑いを浮かべた。紘太は目を血走らせ、監督の襟元を掴み上げた。「あの日
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第6話
3ヶ月後。私を失い、紘太の生活は荒みきっていた。胃の調子はどんどん悪化する一方だった。もう誰も、彼の胃をいたわる料理を作ってくれる人がいなかったからだ。佳世子は一応、何度か食事を作ろうとしたらしい。だが彼女の言う潔癖症のせいで、野菜を切るのにも医療用手袋を三重に重ねてはめる始末で、そうして手間暇かけて出来上がったものは、到底口にできる代物ではなかった。紘太は頻繁に不眠に苦しむようになった。目を閉じるたび、木箱が押し潰される瞬間の、あの虚ろな私の瞳が頭から離れなかった。彼はあらゆるコネを使って私の行方を探ったが、国内の口座がすべて解約されていること以外、何も掴めなかった。まるで、ふっと蒸発してしまったかのように。そんなある夜のこと。紘太は接待を終え、会員制クラブから出た車の中で、古びた飲食店街を通りかかった。何気なく窓の外に目をやった瞬間、見覚えのある人影を見つけ、思わず急ブレーキを踏んだ。油煙の立ち込める、激辛もつ焼きの屋台の前。佳世子が、女友達数人と一緒に、行儀もかまわず肉をむさぼっていた。目の前には串の山が積まれ、唇は辛さで真っ赤に染まっている。潔癖症も、ひどい喘息も、そこにはかけらも見当たらなかった。「佳世子、この油煙の匂い苦手なんじゃなかったっけ?今日はずいぶんガツガツ食べてるじゃん」友人のひとりがからかうように言った。佳世子は串をひとつ置くと、得意げに笑った。「そうでも言わなきゃ、あの唐田琴なんて女のもつ鍋屋を紘太に畳ませることなんてできなかったでしょ。あんたたち、あの日の唐田琴、泥水の中を犬みたいに這いずり回ってたの見た?もう笑いが止まらなかった。紘太の馬鹿、私が本当に喘息持ちだと思い込んでてさ。コホコホって咳の真似をするだけで、この世の終わりみたいな顔して心配してくれるのよ。今は邪魔者も消えてくれたし、あの立地の良いもつ鍋屋、そのまま私のフレンチスイーツ店に使えるんだから、紘太も店も手に入って最高じゃない」車の中で、ハンドルを握る紘太の手の甲に青筋が浮き上がり、指の関節が白くなるほど力がこもった。彼は、けたたましく笑い転げるその女を凝視したまま、めまいと吐き気に襲われた。ドアを開け、道端のゴミ箱に手をつき、彼は激しく嘔吐した。最後には、鮮血まで吐き出した。
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第7話
私の顔には、紘太がもう何年も見たことのない、心の底からの笑みが浮かんでいた。油まみれのエプロン姿でもなく、体に染みついたもつ鍋の匂いもない。明るい街灯の下に立つ私を前にして、彼は一瞬、それが私だと気づくことすらできなかった。「琴……っ」紘太の声が震え、足元もおぼつかない様子で私のもとへ駆け寄ってきた。その掠れた声を聞いた瞬間、私の口元の笑みはすっと引き、凍りついた。振り返ると、無精髭を生やし、両目を血走らせたその男を、まるで見知らぬ他人を見るような冷ややかな目で見つめ返した。紘太は私の目の前まで来ると、すがりつくように抱きしめようと手を伸ばしてきた。だが、隣に立っていたフランス人シェフのルックがそれを遮った。「ムッシュ、何をなさるおつもりですか?」ルックは不快げに眉をひそめ、私を庇うように一歩前に出る。紘太はルックのことなどまるで目に入らないとばかりに、私だけをじっと見つめ、みるみるうちに両目を真っ赤にした。「琴、やっと見つけた……頼む、一緒に帰ってくれないか?佳世子は追い出した。あいつの実家も破産させたんだ。もうお前の仇は討ったんだよ!」支離滅裂に懇願するその姿は、ひどく卑屈だった。私は黙って彼の滑稽な独り芝居を見届け、彼が話し終えるのを待ってから、冷ややかに告げた。「人違いではありませんか」紘太は言葉を失い、信じられないというように私を見つめた。「琴、何を言ってるんだ?俺だよ、紘太だよ!まだ怒ってるんだろ?」「怒ってなんていません」私はルックの腕をそっと押しのけ、紘太の目をまっすぐに見据えた。「唐田琴という女は、あの日の大雨の中で死にました。今あなたの前に立っているのは、ル・コルドン・ブルーの留学生、唐田です。あなたとは何の関わりもない、ただの赤の他人よ」紘太の顔から、さっと血の気が引いた。彼は一歩前に踏み出し、私の手首をすがるように強く掴んだ。「そんなはずない!お前は20年も俺を愛してきたんだ。それを、知らないなんて一言で片づけられるはずがないだろ!」彼は俯き、私の右腕にあるはずの、あの痛々しい火傷の痕を探した。それが、彼に残された最後の望みとでも言うように。だが、私が袖をまくり上げた瞬間、彼は全身を凍りつかせた。かつてのひどく引きつれた傷痕は、そこにはなか
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第8話
彼の手は無数の切り傷だらけで、滲んだ血が木の柄を赤黒く染めていた。「琴、また新しく彫ったぞ。前のには及ばないけど……お前が気に入る形になるまで、ずっと練習するから……」彼は私を見つめる目に、おずおずとすがるような光を宿していた。私は俯いて、彼の血の跡がこびりついたその木製のお玉を見つめ、ふと、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いがこみ上げた。「あなたはこれで、罪滅ぼしのつもりなの?」私は顔を上げ、氷のように冷たい視線で彼を真っすぐに射抜いた。「あなたは佳世子を守っていた時、私のあのレシピ帳をただのガラクタ扱いした。今、佳世子に騙されていたと知ったら、今度は私のところに来て、不器用にお玉を彫る。あなたが愛しているのは、私なんかじゃない。ただ、人に騙されたという事実が我慢できないだけ。自分に従順だった犬が、突然尻尾を振らなくなったことが、耐えられないだけなんです」紘太の顔から完全に血の気が失せ、彼は必死に首を横に振った。「違う!お前を愛してるんだ!昔の俺が馬鹿で、自分の気持ちに気づけなかっただけで……」「もういい!」私は鋭い声で彼の言葉を遮ると、その木製のお玉を彼の足元へと無惨に叩きつけた。「口では愛してると言うけれど、あなたがゴミ収集車に押し潰させたあのレシピ帳の中に、何が挟まっていたか知ってるの?」紘太の体が大きく震え、震える手でコートのポケットから、あの半分焼け焦げた封筒を取り出した。「知ってる……母さんの手紙だ……琴、すまない、本当に、知らなかったんだ……」「あなたが知らないことは、他にもたくさんあるわ」私は彼を見つめながら、一字一句、残酷な真実を告げた。「あのもつ鍋屋は、あなたのお母さんが、あなたの学費を貯めるために、お父さんに内緒で手に入れたお店だったのよ!私の母は、ただそれを代わりに管理していただけ!あなたが自分の手で叩き壊したのは、実の母親があなたに残した最後の形見だったのよ!」紘太は息を呑み、目を見開いたままその場に立ち尽くした。「まさか……そんなはずが……」紘太は膝から崩れ落ち、冷たい雪の中に、どさりと膝をついた。自分の髪を掻き毟るように掴みながら、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れる。「母さん……あれは、母さんが俺に残してくれたものだったのに……」彼がこれ
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第9話
「帰りなさい。あの空っぽなパナメーラを抱えて、下品な生活の匂いのしない、高貴な人生を生きてください」私は背を向け、レストランの厨房へと戻っていった。彼が冷たい雪の中で泣き叫ぶのを、そのまま放っておいて。それが、紘太と交わした最後の会話になった。その日を境に、紘太はまるで魂を抜かれた別人のようになった。もう私に付きまとうこともなく、かといって国にも帰らなかった。聞いた話では、国内の莫大な資産をすべて処分し、パリのじめじめした地下室を借りて、毎日街をあてもなくさまよっているという。彼はすり切れた古いコートを羽織り、以前のような高級オーダーメイドのスーツを着ることはもう二度となかった。毎日アジア系スーパーで安い食材を買い、地下室に戻ると、不器用にもつ鍋を作る練習を繰り返していた。だが彼の作るものは、真っ黒に焦げているか、塩辛すぎて、とても食べられないかのどちらかだった。食べては吐き、吐いてはまた食べる。それを狂ったように繰り返すうち、彼は深刻な胃出血を起こして倒れ、大家に発見されて病院に運ばれた。医師は、このまま無茶を続ければ胃はいずれ取り返しのつかない状態になると厳重に警告した。だが彼はただ、痛ましいほど虚ろに笑ってこう言ったという。「だめになった方がいい。だめになれば、あいつも少しは俺を可哀想だと思ってくれるかもしれないから」けれど、彼は致命的に間違っていた。私はもう二度と、彼を不憫だと思うことはない。……3年後。私はル・コルドン・ブルーを優秀な成績で卒業し、パリの中心部に、東洋料理とフレンチを融合させた自分のレストランを開いた。開業から1年目にして、ミシュラン一つ星を獲得した。かつて紘太に下品だと疎まれたあのもつ鍋のスープを、私は上質なフレンチのコンソメへと昇華させ、店の看板メニューに育て上げた。多くの著名人や政治家が列をなして味わいに訪れ、口を揃えて「これは魂を揺さぶる味だ」と称賛してくれた。そして私も、ようやくこの異国の地で、自分らしく胸を張って生きられるようになった。ある深夜、閉店後の静まり返った店で、私は厨房で明日の仕入れリストを確認していた。ルックが入ってきて、少し複雑な表情を浮かべてこう言った。「外にまた、あの人が来てる」私はペンを置き、窓際へと歩み寄った
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