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第96話

Author: 清水雪代
薄い唇がわずかに開き、冷ややかな声が落ちた。

「俺は忙しい。大事な用じゃないなら、今すぐここを出てくれ」

言い終えるや否や、悠人は踵を返し、迷いなく自分のオフィスへ向かった。

一歩一歩が揺るぎなく、まるで一秒たりとも、ここにいたくないと示すかのようだ。

だが、千夏はその冷たさや苛立ちにまるで気づかぬ様子で軽やかに追いかけてきた。

笑みを浮かべ、瞳を細めて甘い声を響かせた。

「もう、いいじゃない。ちょっとあなたの仕事ぶりを見たいだけよ。それにお昼は一緒に食べられるでしょ?」

その屈託のない調子に、悠人の胸に湧くのは感動ではなくむしろ深まる嫌悪だった。

何度も「恋愛対象ではない」とはっきり告げてきたはずなのに、この女は諦める気配を見せなかった。

どうにかしてこの執拗な追随から逃れたい。

しかし千夏は、彼の拒絶など存在しないかのようについてくる。

二時間後、窓の外をふと見るとまだ彼女は帰っていなかった。

もともと良くなかった気分は、さらにささくれ立つ。

眉間に皺を刻み、不機嫌な顔のまま携帯を取り上げた。

ダイヤルしたのは、兄の番号だった。

「どうした?」穏やかで落ち着いた声がすぐに返ってきた。

「千夏がここに来て、もう二時間も居座ってる。何とかして連れ出してくれ」

幼い頃から、彼女にまとわりつかれるたび頭を抱えてきた。

どこへ行っても離れない、影のような存在だった。

そんなときはいつも、機転の利く兄が救いの手を差し伸べ、ようやく振り切ることができた。

今回もその期待を兄に託した。

「やっぱり来たんだな」

電話口の向こうで、和也は唇の端を持ち上げ意味ありげに微笑んだ。

腕を組み椅子の背にもたれかかる姿は、すべてお見通しだと言わんばかり。

「ははっ。今回は、絶好のチャンスだと思わないか?千夏をうまく利用して、智美さんの本心を探れるよ」

そう言いながら、指先で机の上の書類を軽く叩いた。

昨夜の出来事を思い出し、ますます確信を深めていた。

あのとき自分は智美に電話をかけ、「悠人を迎えに行ってほしい」と頼んだ。

すると彼女はためらうことなく承諾し、すぐに指定の場所へ来たのだ。

それはつまり、心の奥で悠人を気にかけている証拠だった。

その事実を思うと笑みはさらに深まった。

弟がようやく独り身を卒業できるかもしれない。

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