LOGIN翌朝早く、紗夜が扉を開けると、ちょうど帰ろうとしていた浜ちゃんと鉢合わせになった。視線がぶつかり合い、空気が一瞬で凍りつく。文翔の顔には、一睡もしていない疲労が色濃く浮かび、目の下には淡い青灰色の隈ができていた。それを見た瞬間、紗夜の胸は、理由もなく柔らぐ。「あ......」礼を言おうと口を開きかけた、その時。文翔は何かに触れて火傷でもしたかのように、手に提げていた、今しがた網で獲ったばかりのまだ跳ねている魚を、彼女の腕の中へ押しつけた。「これ......あげます」そう言い終えるや否や、彼女の反応も待たず、まるで逃げるように足早に背を向けた。......月乃は一晩中、家で待っていた。心もまた、ランプの炎とともに焼かれるように揺れ続けた。灯油が尽きかけた頃、ようやく外から足音が聞こえる。彼女は弾かれたように立ち上がり、戸口へ駆け寄った。そこに立っていたのは、全身に湿気をまとい、疲労をにじませた浜ちゃんだった。手には、すでに消えたランプ。露に濡れた髪が額に貼りつき、いつもはどこか茫然としているその目には、彼女には読み取れない複雑な感情が満ちている。月乃の胸が、どくりと沈む。「昨夜......どこへ行ってたの?」自分でも気づかぬほど、声が震えていた。文翔は答えない。ただ静かに月乃を見つめる。その眼差しは、かつてのように澄み切ってはいない。底の見えない井戸のように、得体の知れない暗流を秘めている。やがて彼は黙ったまま彼女の脇をすり抜け、家の中へ入り、隅に置いた漁具を整理し始めた。「浜ちゃん!」月乃は堪えきれず、後ろから彼の腕を掴む。「何か言ってよ!」声には涙が混じる。「昨夜、あの女のところに行ったんでしょう?!」文翔の体が、ぴくりと強張った。ゆっくりと振り返り、血走り、不安と嫉妬でいっぱいの月乃の目を見つめる。それでも、何も言わない。その沈黙こそが、最も鋭い刃となって、月乃の胸を深くえぐった。「どうして黙るの?」彼の胸を叩きながら、泣き叫ぶ。「まさか......まさか、あの女のこと、好きになったの?!」文翔は、叩かれるままにしていた。抵抗も、回避もせず。やがて月乃は力尽き、彼の胸に崩れ落ち、声を上げて泣く。「私を捨て
月乃が家の中から出てきて、彼の手にある茶碗を見ると、ほんのわずかに表情が曇った。「浜ちゃん」歩み寄りながら、かすかな棘を含んだ声で言う。「外のものは好きじゃないって、言ってなかったっけ?」「......ちょっと味見するだけだ」彼は曖昧に答え、箸を取り、受け取った料理を口に運んだ。その瞬間、言葉にできないほどの懐かしさが、胸を直撃する。まるで、長い間眠っていた体のどこかのスイッチが、かちりと音を立てて入ったかのように。文翔は動きを止めた。月乃は彼を見つめる。その茫然とした瞳に、初めて困惑以外の、彼女には理解できない複雑な感情が浮かんだのを見て取る。そして文翔は、何かに取り憑かれたように、一口、また一口と食べ進め、気づけば一茶碗をきれいに平らげていた。――汁まで、残さずに。......翌日。月乃も真似をしてその料理を作った。村一番の料理上手なおばさんに教わりはしたが、細かな癖までは知らない。仕上げに、いつもの習慣で、鮮やかなネギをひとつかみ、たっぷりと散らしてしまった。「浜ちゃん、食べてみて。これ、あなたのために作ったの」期待に満ちた笑みを浮かべ、茶碗を彼の前に差し出す。文翔は匙を取り、一口食べる。そして無意識のうちに、眉をひそめた。何も言わず、ただ黙々と、茶碗の中のネギを一本一本つまみ出していく。二口ほど食べたところで、箸を置いた。「そんなに減っていないから、月乃も食べてみて」そう言った。......その日の午後、天候は一変する。突然の嵐が、村全体を襲った。豪雨。雷鳴と稲光。夕方には電線が吹き飛ばされ、村は完全な闇と不安の中に沈んだ。月乃は家にある唯一のランプに火を灯す。豆粒ほどの炎が、強風に揺らめく。寝台の端に座り、黙り込んでいる浜ちゃんを見つめながら、胸の奥に不安が広がった。だが文翔の脳裏には、抑えようもなく、紗夜のあの冷ややかで、どこか強情な顔が浮かんでくる。――あの人、宿で一人だ。怖がっていないだろうか。そんな思いがよぎった瞬間、自分でもはっとした。――なぜ、数度会っただけの他人を、心配する?「浜ちゃん」月乃が彼の手を掴む。「危ないわ、行っちゃだめよ!」だが彼は、初めてその手を振りほどいた。
紗夜は朝早く目を覚ました。まだ夜も明けきらぬうちに、きしむ木製のベッドにひとり腰かけ、窓の外に広がる、深い藍色を残したままの海を見つめている。頭の中は混乱していた。昨日、月乃が浜ちゃんに口づけたあの光景が、何度も何度も蘇る。そして、文翔の戸惑いながらも、はっきりとは拒まなかったあの表情。見えない手に心臓を掴まれているようで、胸がきりきりと痛む。月乃という女は、生命力の強い蔓草のようだ。丹念に編み上げた嘘で、文翔の空白の記憶を少しずつ絡め取り、侵食していく。もう、受け身で待っているわけにはいかない。自分から動かなければ。――けれど、どこから手をつける?枕元に置かれた歪でシンプルな指輪に目をやる。写真を見せた時の、あの完全に他人を見るような視線を思い出す。視覚的な刺激は、彼にはあまり効かないらしい。なら、他に何がある?ふと、昨夜の食卓の一場面が脳裏に浮かんだ。月乃が魚を一切れ、彼の茶碗に入れた。彼は確かに食べたが、その瞬間、ほんのわずかに眉をひそめた。取るに足らない、見逃してもおかしくないほどの微細な変化。だが、紗夜は見逃さなかった。文翔は昔から魚が苦手だった。好き嫌いではない。生理的な嫌悪だ。幼い頃、祖母が栄養を取らせようと工夫して魚料理を作ったが、彼は一口で吐き出してしまう。やがて誰も無理に食べさせなくなった。記憶は失っても、魚への嫌悪――骨の髄に刻み込まれた原始的な身体の反応までは消えていない。心が大きく揺れる。ひとつの考えが、雷のように混沌を切り裂いた。――味覚。そう、味覚だ。思い至った瞬間、じっとしていられなくなった。すぐに立ち上がり、宿の女将の部屋を叩いて、キッチンを借りる。女将はまだ眠たげな目をこすりながら、目の前の女を見つめていた。清潔感のあるすっきりとしたカジュアルな装い、冷ややかな気品をまとったその女性が、手慣れた様子で袖をまくり、具材を刻み始める。動きはあまりにも優雅で、まるで一つの芸術品を彫り上げているかのようだった。思わず感嘆の声が漏れる。「お嬢さん、その手つき......ただ者じゃないねえ」紗夜は微笑むだけで答えない。――当然だ。この両手で、あの人のために何度も何度も料理を作ってきたの
その日の夕暮れ、紗夜はひとりで海辺を歩いていた。潮風に当たり、少しでも頭をすっきりさせたかったのだ。だが、足元の砂浜があれほど柔らかいとは思ってもいなかった。不意に足を取られ、くじいてしまう。「っ......」激しい痛みに襲われ、紗夜はそのまま冷たい砂浜に崩れ落ちた。こらえていた涙が、にじむように目に浮かぶ。この人けのない海辺で、ひとりきり日が暮れるのを待つしかない――そう思ったその時、何の前触れもなく、浜ちゃんの姿が目の前に現れた。浜ちゃんは何も言わず、ただ静かに紗夜を見つめる。意地を張りながらもどこか脆いその姿に、彼はわずかに眉をひそめた。やがてしゃがみ込み、赤く腫れ上がった彼女の足首を、そっと両手で包み込む。大きくて、荒れた手。海水に浸され続けた漁師特有の匂いがする。けれど掌の温もりは、驚くほどあたたかかった。「歩けますか?」浜ちゃんが尋ねる。紗夜は首を横に振る。そして、とうとう涙がこぼれ落ちた。浜ちゃんはそれ以上何も言わず、静かに背を向ける。広い背中を、彼女の前に差し出した。「乗ってください」短く言う。紗夜は一瞬、息をのんだ。「背負るから、一緒に帰りましょう」......再会してから、これほど近く触れ合うのは初めてだった。紗夜は浜ちゃんの広い背中に身を預ける。硬く引き締まった筋肉の感触と、重みのせいで速く打つ彼の鼓動が、はっきりと伝わってくる。理由もなく、頬が熱くなった。そっと頭を彼の肩に寄せる。その瞬間、ふたりは一度も離れたことなどなかったかのような錯覚に陥った。月乃は、浜ちゃんが丁寧に紗夜の腫れた足首を手当てする様子を見ていた。いつもどこか茫然としている彼の瞳に、初めて、素朴さだけではない自分には理解できない複雑な色が浮かんでいるのを見て取る。もう待ってはいられない――月乃はそう悟った。......午後の陽射しはちょうどよかった。紗夜は宿の庭に腰掛け、手にした本を気の向くままにめくっている。その傍らでは、浜ちゃんがしゃがみ込み、不器用に木を削って歪んだ小さなイルカを彫っていた。久しく味わっていなかった、穏やかな空気。そこへ、湯気の立つ豆スープを手にした月乃が現れる。石のテーブルに茶碗を置き
翌朝早く、紗夜は月乃と浜ちゃんを探し出した。彼女の顔には、ほどよい申し訳ないさを含んだ穏やかな微笑が浮かんでいる。桟橋に停まっているあの古びた渡し船を指差した。「ごめんなさい。船が壊れてしまって......しばらく出られそうにないみたい」月乃の表情が、ほんのわずかに変わる。浜ちゃんは特に気にした様子もなく、素朴に頭をかいた。「大丈夫です。俺、三浦さんに頼んでみます。あの人ならきっと修理できますから」その澄みきった目を見つめるたび、胸の奥に言葉にできない酸い感情が込み上げる。彼は文翔ではない。少なくとも、冷酷さと計算で彼女を傷だらけにしたあの文翔では。目の前の浜ちゃんは、善良で、素直で、どこか愛嬌すらある。それなのに彼女は、嘘を重ね、この小さな村に彼を留めようとしている。胸の奥を、かすかな罪悪感がよぎった。......夜。潮の匂いを含んだ風が、隙間だらけの窓枠を抜けて小屋に入り込む。机の中央に置かれた煤けたランプが揺れ、三人の影を長く、短く、まだらな壁に映し出していた。食卓は質素だ。蒸しの海スズキ、野菜炒め、湯気の立つ魚のスープ。月乃が午後いっぱいかけて用意した料理。そして、紗夜へのささやかな牽制でもあった。紗夜は静かに座り、欠けた粗い磁器の茶碗を手にしている。白米は粒立っているが、食欲はない。向かいの二人の、さりげない会話を聞きながら、ただ箸で米をつつくだけ。「浜ちゃん、はいこれ。今日は新鮮なやつを手に入れたんだ」月乃は箸でいちばん大きく脂ののった腹身を取り、迷いなく彼の茶碗に置いた。動作は自然で、慣れきっている。浜ちゃんは「ありがとう」とだけ答え、黙って食べる。月乃は満足そうに微笑み、横目で紗夜を盗み見た。あまりに静かなその様子に、胸の奥の得体の知れない苛立ちが膨らむ。――なぜ、あんなに落ち着いていられるの。月乃は咳払いをし、皆に聞こえる声で言った。「浜ちゃん、覚えてる?小さいころ、すごく偏食だったよね。野菜は全然食べなくて、私の作る魚だけは大好きだった」浜ちゃんの咀嚼が止まる。茫然とした目に、わずかな戸惑い。紗夜も箸を止め、静かに月乃を見る。月乃は気づかぬふりで、頬をほんのり赤らめながら続ける。「そのころはガリガリで
「文翔......」紗夜の声はひどく震えていた。寒風の中でかすかに揺れる枯れ葉のように。彼女は彼を見つめる。骨の奥に刻み込まれ、胸のいちばん柔らかな場所で何度も呼び続けてきたその顔を見つめながら、世界がぐるりと回転するような感覚に襲われた。だが彼は、ただ戸惑ったように彼女を見返すだけだった。深いはずのその瞳には、澄みきった――何も知らない他人を見るような光がある。「ごめんなさい......俺はその名前じゃ、ないです」彼は首を振り、自分を指差して、少し照れくさそうに素朴な笑みを浮かべた。「村のみんなは俺を『浜ちゃん』って呼んでます。月乃がつけてくれた名前なんです」――浜ちゃん。紗夜は胸を鋭いもので刺されたような痛みに襲われた。細かな棘がびっしりと心臓を締めつける。かつては誰よりも高みに立ち、京港の誰もが畏れ敬った長沢家の当主。その文翔が、いまは自分の名すら知らぬ「浜ちゃん」になっている。そのとき、月乃が近づいてきた。彼女はごく自然に浜ちゃんの腕に手を絡めた。その仕草は、何百回も繰り返してきたかのように馴染んでいる。月乃は無邪気な笑みを浮かべながらも、黒く澄んだ瞳の奥に、かすかな警戒と敵意を宿していた。「お姉さん、人違いじゃないですか?」そう言って、浜ちゃんを自分のほうへ引き寄せる。まるで自分のものだと示すように。「浜ちゃんは......頭を怪我して、何も覚えてないんです。そこで助けたのは、私です」紗夜は何も言わない。ただ静かに二人を見る。彼の腕に絡む彼女の手。それを当然のように受け入れ、少しも拒まない彼の表情。見えない手に心臓を握り潰されるような痛みが走る。息が苦しい。――信じられない。こんなふうに、忘れられるはずがない。紗夜はポケットから、体温で温められていた歪な素朴な指輪を取り出し、彼の前に差し出した。「これ......覚えてる?」自分でも気づかぬほどの、かすかな祈りが声に滲む。文翔はそれを受け取り、掌の上でじっと見つめた。紗夜の鼓動が、喉元まで跳ね上がる。だが彼は、丁寧に指輪を返した。「すみません、見覚えのないもので......でも、大事にされてるのはわかります」その言葉に、彼女の指が強張る。澄みきった、何の
けれど、いつからかはわからないが、紗夜はもう二人に気を配ることをやめていた。まるで、意図的に無視しているかのように。文翔はナイフでステーキを切る手を一瞬止め、眉をひそめた。ちょうどそのとき、彼のスマホが鳴り出した。しかし文翔はすぐに出ようとはせず、放置した。紗夜はちょうどおかずを取ろうとしていて、何気なくその画面を目にした。そこには「ダーリン」の文字が表示されていた。文翔が自分を愛しておらず、彩を愛していることなど、紗夜はもうとっくに知っていた。その事実にも、もう平然と向き合えると思っていた。けれど、その「ダーリン」という表示を見た瞬間、彼女が取った料理は皿
「わあ、花火きれい!」理久が驚いたように叫んだ。ウォッチのスピーカー越しに、夜空に咲く花火の音が賑やかに響く。そのとき、紗夜のスマホに一通のメッセージが届いた。彩からの写真だった。夜空いっぱいに咲き誇る花火の下、彼女は車椅子に座り、隣に立つ文翔を横目で見て、満面の幸せそうな笑顔を浮かべている。文翔のジャケットは彼女の肩にかけられていて、その仕草すべてが彼の紳士的な優しさを物語っていた。そして、その優しさは彩だけのもの。この写真を送ってきた目的も、それを示すためだった。紗夜に対する、彼が誰のものかを知らしめるための宣戦布告。実のところ、彩が帰国してからこの
紗夜は心の中で冷たく嗤い、乱れた襟元を整えるとベッドを下りて、救急箱を探しに行き、手の甲の傷を処置した。約20分後、文翔が浴室から出てきた。湯気が立ちこめる中、彼はスーツを脱ぎ、濃い色のルームウェアに着替えていた。髪を拭きながら目を向けると、床に散らばっていた破片やこぼれたお粥はすでに使用人たちによってきれいに片付けられ、跡形もなかった。だが、部屋に紗夜の姿はなかった。文翔は機嫌が悪そうな顔をしながらも、彼女を探そうとはせず、大股で書斎に向かった。「旦那様、お車に置き忘れた書類は、すでに机の上に戻しておきました」執事が丁寧に報告した。「ああ」文翔は短く答え、
紗夜は理久の顔をじっと見つめ、その幼い表情から何かを読み取ろうとした。だが、理久はただぱちぱちと瞬きをしながら紗夜を見つめ、水の入ったコップを差し出した。彼女が反応しないのを見て、もう一度呼びかけた。「お母さん?」その声で紗夜は我に返り、微かに眉を和らげて微笑んだ。「ありがとう」水はまだ温かかった。紗夜は水を飲みながら薬を服用した。すると理久はハンカチを取り出し、彼女の唇についた水滴をそっと拭ってくれた。小さな手で不慣れな手つきながらも、丁寧に。紗夜はしばらく呆然としていた。「これで大丈夫!」理久は目を細めて、小さな三日月のような笑顔を見せた。