Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 10

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第1話

深水紗夜(ふかみ さや)は思っていた。十年の片思い、五年の結婚。たとえ氷のように冷たい鉄の心でも、自分が少しずつ温めればいつか変わるはずだと。でもそれは、結局すべて彼女ひとりの思い込みに過ぎなかったのだ。浴室からはシャワーの音が聞こえていた。紗夜はベッドのそばに立ち、ふとスマホに届いた一枚の写真を見る。それは、京浜(きょうはま)でも最高級と言われる西洋レストラン。テーブル越しに向かい合って座る長沢文翔(ながざわ ふみと)と一人の女性。柔らかな光の中で、彼の目元は優しく穏やかだった。紗夜はその女性を知っていた。竹内彩(たけうち あや)――文翔の元恋人だ。彼女は先月、海外から戻ってきたばかり。その夜、文翔は紗夜を放り出し、彼女に会いに行っていた。文翔にとって彩は、忘れられない存在。そして紗夜は、真っ白な壁に不意に現れた、目障りなシミのような存在。浴室のドアが開き、文翔がバスローブ姿で現れた。湿った蒸気が彼の背後に立ちのぼる。紗夜はスマホを置き、振り向こうとしたその瞬間、彼の高くて細身の体がすぐ背後に迫っていた。彼は彼女の顎をつかみ、顔を覗き込む。「んっ......」紗夜は眉をしかめたが、文翔は力を緩めない。むしろ、彼女が苦しむ顔を見ると満足そうに唇を奪い、顎を握りしめ、腰を掴んでベッドへと押し倒した。「ちょっと......」紗夜は胸に手を当てて制止した。「今日は......体調が悪いの......」夕食の後から、胃が痛み出していた。だが文翔は、彼女の言葉にただ鼻で笑った。「お前は五年前から俺に付きまとってきたよな。今さら清純ぶる演技でも始めたのか?」その口調には、あからさまな嘲りがにじんでいた。紗夜の顔がサッと青ざめる。「そんなこと、してない――」だが言葉の途中で、文翔は容赦なく彼女をベッドに投げつけた。優しさなど一片もなく、愛も思いやりもなく、ただ欲望だけがぶつけられた。紗夜は痛みに眉を寄せ、唇を噛みしめて耐えるしかなかった。表面上は禁欲的で上品に見える彼だが、彼女に対しては一切の思いやりを見せず、まるで憎んでいるような態度を取っていた。紗夜は耐えながら、その美しく整った顔を見つめた。まるで神が自ら彫刻したような完璧な容貌。
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第2話

紗夜の手は空を切り、肘が固い床にぶつかって、思わず息を呑むほどの痛みが走った。だが、理久は無表情のまま彼女を見つめ、一切の焦りも見せなかった。彼は、紗夜が命がけで出産した我が子だというのに......目の前で母親が倒れ、苦しみながら床に横たわっている姿を見ても、まるで何の感情も湧かなかった。紗夜の胸の奥が、まるで目に見えぬ手で鷲掴みにされたように苦しくなり、呼吸すらできなかった。このとき彼女はようやく気づいた。理久は、目元こそ自分と少し似ているものの、それ以外は父親の文翔にそっくりだったのだ。冷酷で、無情で、すべてが彼と同じだった。紗夜の目に、つんとくる痛みが広がり、視界がぐるりと揺れて、暗闇に落ちた。そのまま彼女は、意識を失った。最終的には、使用人が救急車を呼び、紗夜は病院に運ばれた。――再び目を覚ましたとき、鼻先に漂ってきたのは消毒液の匂いだった。「消化器機能の乱れによる急性胃炎ですね」医師はそう診断し、食生活に気をつけるように、そして過度な思考やストレスを避けるよう注意を促した。紗夜はうなずいたが、その顔色はどこか青白かった。「奥様、旦那様に連絡をお入れしましょうか?」使用人が遠慮がちに尋ねてきた。実際使用人は、怖くて電話できないのだった。長沢家の人間は皆知っている。文翔は紗夜のことを少しも好いてはいないということを。だが、それでも紗夜はれっきとした「長沢家の正妻」なのだ。「大丈夫よ。少し休めばよくなるから」紗夜は微笑んでみせた。「あなたも休んでいいわよ」その笑顔は、使用人の目には「強がり」としか映らなかった。小さくため息をついて、彼女は病室を後にした。部屋には紗夜ひとりだけが残った。ベッドに戻ろうとしたそのとき、病室のドアの前に小さな影が現れた。理久だった。「理久?」思いがけない訪問に驚いた紗夜だったが、すぐに思い出されたのはさきほど、自分が激痛で床に倒れたときに、彼が無表情のまま遠ざかった、あの光景だった。彼は母親である自分に、まったく心を寄せていないのではないかという疑念が、どうしても胸をよぎる。だが......「お母さん」理久はぽつりとそう言った。その声は幼く、柔らかく、どこか愛らしささえにじむものだった。
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第3話

紗夜は、普段は誰にも懐かない理久が彩の手を取ってその隣に歩み寄るのを、ただ呆然と見つめていた。まるで庇護を求めるように彩に寄り添う様子は、彼女に対する深い信頼の表れだった。そんな依存を、理久が紗夜に見せたことは一度もなかった。その瞬間、彼女の心の奥で何かが音を立てて壊れた気がした。顔色の悪くなった紗夜を見て、文翔が眉をひそめた。「何の病気だ」紗夜はゆっくり視線を彼に向け、その瞳にかすかな揺らぎが走る。「私と文翔が、理久が病院にいるって使用人から聞いて心配で迎えに来たんですけど......病気なのは深水さんだったんですね」彩が何気なく口を開き、紗夜に向かって優しげに続けた。「大したことないといいのですが......私、残って看病しましょうか?」「大した病気じゃないだろ。世話を焼く必要がない」文翔は冷淡に言った。紗夜の持ち上げかけた瞼が再び下がり、その目はますます暗くなる。本当にどうしようもない、自分。文翔が、彼女の病気なんかで心を動かすはずもない。心配なんて、されるわけがない。「文翔、そんな言い方よくないわ。深水さんはあなたの奥様なのよ?」彩はそう言うと、真剣な表情で紗夜に向き直った。「誤解しないでくださいね。文翔はもともと人に気遣いを見せるのが下手なだけです......私が以前病気した時は、彼、自ら看病してくれましたけど」「......私は、大丈夫」紗夜はもう、彼女たちの甘い過去など聞きたくなかった。深く息を吸い込み、なるべく普通の声を保とうとしながら文翔を見た。「もう遅いから、理久を先に連れて帰って」理久は明日、長沢家の本邸で個人授業を受ける予定だった。文翔の母は理久の遅刻を嫌っている。いや、正確には、紗夜を嫌っているからこそ、理久にも厳しく当たるのだ。文翔は深い眼差しで彼女を見つめ、薄い唇を一直線に結んでいた。そのとき、理久が彼のズボンの裾を軽く引っ張りながらあくびをした。「パパ、ねむい......」「理久、眠いの?じゃあ、パパとおばさんと一緒におうちに帰ってねんねしようね?」彩は彼の前でしゃがみ、優しい声で語りかける。「うん」理久は小さな手で文翔の指を握った。「パパ、行こう」その様子を見て、文翔はようやく紗夜から視線を外した。
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第4話

彩の柔らかい一言は、まるで鋭い刃のように紗夜の胸に突き刺さった。「文翔、昨夜はとても疲れていたので、先程ようやく眠りにつきました。起こすのもかわいそうですし、後でかけ直しいただけますか?」その瞬間、紗夜の手からスマホが滑り落ち、膝の上にポトリと落ちた。二人の誘拐犯は、まるでこの展開を予想していたかのように、面白がるような表情を浮かべていた。「ちぇっ、何だよ。お前の旦那、浮気してたのか」太った男が舌打ちしながら言った。「つまり、お前なんて眼中にないってことだな」傷の男がさらに一言、彼女の心の傷に塩を塗るように付け加えた。そうだ。文翔の心の中にいるのは、最初からずっと彩だった。二人が一緒にいるのは、ある意味当然だったのかもしれない。「ってことはさ、長沢社長にとっちゃこの女、取るに足らない存在ってことか」傷の男は軽蔑するように紗夜を一瞥し、吐き捨てるように言った。「まったく、縁起悪い!今ここでヤッちまうか!」「焦るな。まだやれることがあるだろ」太った男がスマホの通知を見て、意味ありげに目を光らせたあと、ふと呟いた。「......あいつ、息子がいるんだろ?」その言葉に、紗夜の口元がかすかに引きつり、苦笑のような表情を浮かべた。脳裏には、理久が自分を捨てて彩の方へ歩いていった場面がよみがえる。もし理久が、母親が誘拐されたって知ったら......心配してくれるだろうか?だって、彼は、彼女が命懸けで産んだ子なのだから。「息子に電話しろ」太った男が命じる。紗夜は動かなかった。その様子を見て、男は彼女の顔を覗き込みながら問う。「見たくないのか?自分の母親が誘拐されたのを見た息子が、どんな反応をするのか。その心の中に、まだ『母親』としてのお前がいるのかどうかってな」その言葉は、紗夜の中に残るほんの少しの希望に火をつけた。彼女は葛藤の表情を浮かべながらも、最後にはわずかな望みに賭けて、理久の腕時計電話に発信した。ビデオ通話が繋がり、理久の顔が画面に映った瞬間、紗夜の瞳に一瞬だけ喜びが灯る。「理久......」言いかけたその瞬間......太った男が突然、彼女の首を締め上げ、画面に映る理久に向かって怒鳴りつけた。「よく見ろ!こいつがてめぇの母親だ!今すぐ助けねぇと
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第5話

深水家がまだ没落していなかった頃、彼女は一人娘として、父・深水和洋(ふかみず かずひろ)の目に入れても痛くない宝物だった。幼い頃から周囲の愛情を一身に受けて育ち、少しの苦しみすら知らなかった。まさか、文翔と結婚してからは、まるで家政婦のように冷遇され、今やこんな場所に売られて客を取らされる羽目になるとは......ありえない、絶対にそんなのはイヤだ!「私は長沢家の若奥様よ!私に手を出したら、彼が黙っていないわ!」紗夜は叫んだ。ここまできても、まだ文翔の名前が抑止力になると信じていた。「長沢家?」女は何か面白い冗談でも聞いたかのように笑い、皮肉たっぷりに言い放った。「アンタが?長沢家の?笑わせないでよ。アンタが長沢夫人なら、私は総理大臣ってとこかしらね!長沢社長が未婚なのなんて誰でも知ってるのに、よくそんな口叩けるわね。頭おかしいんじゃない?」紗夜は何か言い返したかったが、言葉が出てこなかった。文翔は一度も彼女の存在を公にしたことがなかった。彼らの結婚だって、まるで世間に知られてはいけない秘密のようだった。誰も彼女を「長沢文翔の妻」だなんて信じてくれない。女は、さらに意味深な一言を口にした。「はっきり言ってあげるわ。ここじゃ、社長たちが飽きた愛人を『お得意様用の遊び道具』として送り込むのが当たり前なの。もしかして、アンタをここに売ったのも......旦那の差し金かもしれないわよ?」その一言は、彼女にとって雷が落ちたような衝撃だった。ありえない。文翔がそんなことをするはずがない。彼は彼女を嫌っていたとしても、自分は理久の母親だ。それに夜、情が高ぶったときには、確かに彼の口から自分の名前が......あれは確かに、本物の愛情のようだった。でも、あの時の傷の男の言葉が頭の中でぐるぐると回る。「上がそう言ったんだ。俺たちが好きにしていいってな」紗夜は拳を握りしめた。爪が掌に食い込むほどに。「早く着替えな!上客が待ってんだよ!」女は彼女の襟首を乱暴に掴み、無理やり引き起こす。「いやっ......!」どこから湧いた力かわからないが、紗夜は女を突き飛ばし、個室を飛び出した。「このアバズレが!待ちなさい!」女が怒鳴りながら後を追ってくる。紗夜はまるで命からがら逃
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第6話

紗夜は、とても長い夢を見ていたような気がした。夢の中で彼女は文翔の腕に手を添え、親族や友人たちの見守る中、花で敷き詰められた道を歩いていた。その瞬間、紗夜の顔には幸福が満ちあふれていた。長年片想いをしてきた彼とついに結ばれる。自分は世界で一番幸せな人だと、そう信じて疑わなかった。だが、目の前の光景は突如として鮮血のような赤に染まり、足元の花は腐って悪臭を放つ枯れ枝へと変わった。戸惑いと困惑の中で、文翔は無表情に彼女の手を振りほどき、冷たい声が呪いのように耳に響いた。「お前みたいに腹黒い女、俺は絶対に愛さない」紗夜ははっと目を覚ました。目尻から一筋の涙がつっと流れる。目に映ったのは白い天井だった。あの薄暗い廊下でもなく、雷鳴も豪雨もない。窓の外は日差しが眩しく、木々の影が揺れていた。あまりに穏やかで美しい光景に、胸が締めつけられる。どうして、自分はここに?「目が覚めたか」淡々とした声がした。紗夜が顔を向けると、ベッドの傍に座る文翔が目に入った。一瞬、戸惑いが彼女の表情をよぎった。まさか、あの出来事のすべては夢だったのだろうか?だが、唇を動かした途端、火が走るような痛みが顔に広がった。紗夜は、夢ではなかったことを確信した。夫は自分を憎み、息子には母とすら認められていない。すべてが現実だった。紗夜は静かにまぶたを下ろし、手をぎゅっと握りしめた。「お母さん!大丈夫?」ちょうどその時、理久が小走りでベッドに駆け寄ってきた。いつになく心配そうな声をしていた。父親が血まみれの紗夜を抱いて出てきた時、理久はひどく驚いた。竹内おばさんは「これは、お母さんが誘拐された時、理久は冷静でいられるかどうかを試すゲームだよ。成功したら遊園地に連れて行ってあげるって、約束したの」と言っていた。でも、目の前の傷だらけの紗夜を見た今、心に重たいものがのしかかる。「お母さん......」理久はおそるおそる手を伸ばした。いつもなら、彼が少しでも甘えれば、紗夜は微笑んでくれた。しかし今回は、紗夜はそっと手を引き、彼の手を避けた。その拒絶に、理久は一瞬きょとんとし、目を瞬かせた。「お母さんはまだショックが癒えていない。部屋に戻れ」文翔が冷静に言った。理久は名
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第7話

紗夜は文翔と結婚する前にすでに婚前契約にサインしており、長沢グループの財産とは一切無関係で、一銭も受け取れないことになっていた。だが、彼女はそんなこと気にも留めていなかった。自分のものでないなら、欲しいとも思わない。離婚協議書を整えた後、紗夜は一切の迷いもなく自分の名前を書き入れた。思い返せば、かつて文翔と婚姻届に署名したときは、嬉しさのあまり手が震えてペンすら持てなかった。そして今、紗夜は無表情のままペンを置き、その書類を封筒に入れ、引き出しへしまい込んだ。「紗夜ちゃん、本当に長沢と離婚するって決めたの?」電話の向こうから驚いた声が響く。白鳥海羽(しらとり みう)だった。海羽は紗夜の親友で、無名女優から這い上がって一線のトップスターになった努力家。多忙なスケジュールのせいで会う機会は少ないが、昔から良好な関係を保っていた。紗夜という人間をよく知っているからこそ、海羽はこれほど驚いていた。紗夜がどれだけ文翔を愛していたか、誰よりも分かっているからだ。文翔は、かつて彼女たちの学校で誰よりも目立つ存在だった。彼の名は、後輩の彼女たちにまで知られていたほどだ。16歳でトップ大学に推薦合格。18歳で全課程を早期修了して留学。20歳で自分の会社を立ち上げ、半年でトップクラスの企業に成長させ、1年で上場し海外市場を一気に拡大。22歳にはその会社を長沢グループに統合し、父を飛び越えてグループの次期当主に就任。容姿も非の打ち所がなく、まさに完璧な男だった。だが唯一の欠点は、心が冷え切っていること。何事にも興味を示さず、誰に対しても無関心。そんな彼に好意を抱いた女性たちは数多くいたが、誰一人として報われることはなかった。誰だって、想いに応えてくれない相手に身を捧げることなどできない。共に生きるには、あまりにも孤独な相手。だが、紗夜だけは違った。みんなが彼に憧れを抱いたのは、16歳での華々しい活躍以降だった。だが紗夜は、それよりもずっと前から密かに彼に恋をしていた。蛾が火に飛び込むように、彼女は身を焦がしてでも突き進んだ。その一途な想いを、海羽はずっと見てきた。それでも、結婚生活の中で彼女がどれほど苦しんでいたかも知っていた海羽は、何度も離婚を勧めたことがあった。
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第8話

ほんの数秒だけためらったあと、紗夜は指輪を外し、それを他の宝石と一緒に箱の中へ放り込んだ。ちょうどそのとき、池田が部屋のドアをノックした。「奥様、旦那様とお坊ちゃんがお戻りになりましたが、今から夕食のご準備をされますか?」文翔と理久の食事はいつも紗夜が直接作っていたため、池田もいつも通り、二人の希望を伝えてきた。「旦那様は今日はタイ風のハーブ焼きムール貝に白ワイン煮込みを。お坊ちゃんはトマトとハムの炊き込みご飯、甘めの味付けで酸味はなしをご希望です......」池田は紗夜の顔をうかがいながら続けた。「食材はすでに準備済みです」誰もが当然のように紗夜の献身を受け入れていた。けれど、紗夜も結婚前は、甘やかされて育った令嬢で、料理など一切したことがなかった。「そういえば、竹内さんも一緒に戻られました」池田はそっと紗夜の表情を確認した。しかし紗夜の表情は変わらず、彼女はそのままゆっくりと階段を下りていった。その頃、理久と彩は遊園地での出来事をまだ楽しそうに話していた。「竹内おばさんすごい!あんなにたくさんの魚を捕まえられるなんて!」理久は小さな水槽を抱え、目を三日月のように細めて喜んでいた。紗夜が倒れたあと、彼は気まずくて彩のことを「ママ」とは呼べなくなっていたが、それでも彩への好意はまったく変わっていなかった。「次も絶対、竹内おばさんと遊園地行きたい!」「それは......」彩は階段を下りてくる紗夜に気づきながらも、笑顔で提案した。「理久、お母さんともずいぶん遊園地行ってないんじゃない?今度はお母さんも一緒に連れて行こうか?」だが、理久はその提案を聞くと、すぐに顔をしかめて口を尖らせた。「やだ!お母さんはいつもメリーゴーランドみたいな退屈なやつしかダメって言うし、アイスクリームも買ってくれないし。ぼくはお母さんとなんか行きたくない!竹内おばさんとがいいの」紗夜の足が一瞬止まった。理久の年齢を考えれば、刺激的なアトラクションは避けたほうがよく、紗夜は常に彼の体に合った遊びを選んでいた。また、彼は胃腸が弱く、アイスを食べるとすぐにお腹を壊すため、紗夜は毎回おやつを手作りし、空腹になれば食べさせ、喉が渇けば水を飲ませてきた。それなのに、理久の記憶に残っているのは、自分が「してあげ
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第9話

使用人にまで心配されて、紗夜は思わず笑ってしまった。口調は穏やかだった。「いいの」もう手放すつもりでいるのに、今さら「失う」なんて言葉に意味があるだろうか?夕食後、紗夜は自分の履歴書の整理を始めた。文翔と結婚する前、彼女には立派な仕事があった。フラワーデザイナー、それもかなりの才能の持ち主で、正式に業界に入ってからわずか半年で新鋭賞を総なめにし、国内の花卉業界の国際的な競争力の弱さを補った存在だった。同業者すら彼女の実力に驚嘆し、高く評価していた。彼女を導き育てた師匠に至っては言うまでもない。誰もが、紗夜の将来は限りなく明るいと信じていた。しかし、彼女は皆の期待をよそに、花の世界から距離を置くと発表した。文翔と結婚して「長沢家の若奥様」となってから、義母から「家族を優先すべきだ」と言われ、花に関わることをやめ、いわゆる「名家の妻」の務めを学ぶように言われた。最初は拒否したが、「この件で文翔が不機嫌だ」と聞かされ、結局は折れるしかなかった。その後、理久が生まれたことで、彼女の心は完全に息子に向いてしまい、自分の情熱に時間を割く余裕はなくなっていた。毎日、家の植物を手入れすることでかろうじて自分を慰める日々だった。今になって思えば、本当に滑稽な話だ。愛や母性といったもののために、彼女は自分のキャリアを手放したのだ。だが今の彼女は、かつて自分が捨ててしまったものを、少しずつ取り戻そうとしている。紗夜は静かに、だが確かにそう心に決めた。全ての履歴書を送り終えた頃には、もう十時近くになっていた。外は静まり返っており、彼らはまだ帰ってきていなかった。以前なら、どんなに遅く帰ってきても紗夜はリビングで待っていた。理久の入浴の準備をし、文翔のスーツにアイロンをかけ、それが終わってようやく自分のことに手をつけていた。けれど今は違う。彼女はさっとシャワーを浴び、心地よくベッドに横たわった。ちょうど仕事を終えた海羽とメッセージを交わし、アクションシーンの撮影には気をつけて、徹夜は控えるようにと忠告した。顔がむくんで映像映えしなくなるからだ。十時半、紗夜はぴったりと電気を消して眠りについた。誰にも気を使わず、ただ自分のことだけを考えられるこの感覚が、これほど心地よいものだとは思わなか
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第10話

だから、昨晩、文翔は彩のもとに行っていたのだろう。紗夜の表情はいつも通りだった。それでいい。これでもう、文翔にどう接するかなんて考える必要もないし、彼の鋭くて傷つけるような言葉を聞くこともない。そう思うと、少し気分が軽くなり、彩に軽くうなずいて「ええ、おはよう」と返した。彩は一瞬戸惑ったように紗夜を見たが、紗夜はそのまま階段を下りて行った。昨夜、紗夜が夕食を作れないと告げたためか、今朝のキッチンには新しい料理人が配置され、朝食の準備をしていた。ただ、彼は新しく来たばかりで二人の好みをよく知らず、一般的な朝食しか作れなかった。「こんなの食べたくない!」理久が騒ぎ始めた。「お母さんが作ったエビとズッキーニのオートミールパンケーキが食べたいの!」「えっと......何のパンケーキだって?」料理人は困ったように聞き返した。そのパンケーキは紗夜が理久の栄養バランスを考えて工夫したもので、数日前にはもう飽きたから別のを作ってほしいと言っていたのに、今になってまたそれを欲しがるとは思わなかった。「勉強して、明日には作れるようにするから、それでいいかな?」料理人は優しく提案した。「ヤダ!今食べたいの!」理久は涙ぐんだ。「理久」文翔がタブレットを置き、彼に目を向けると、無言の圧がかかった。理久は怖くなったのか肩をすくめ、鼻をすすりながら紗夜のもとに来た。「お母さん、お願い、作ってくれない?」紗夜はスプーンを持つ手を一瞬止めた。文翔も彼女に視線を向けた。これまで紗夜は理久のどんなわがままにも応えようとしていた。泣かせたくない一心で。だが今、彼女は再びスプーンをすくって、ゆっくりとお粥を口に運んだ。料理人の腕は悪くない、丁寧に煮込まれていて優しい味がする。「お母さん〜......」理久は甘えた声を出す。今までなら、それだけで紗夜はすべてを引き受けていた。だが紗夜は落ち着いた声で言った。「理久、今日は学校初日でしょ?今パンケーキを作ってたら、遅刻しちゃうよ」彼女はお粥を彼の前に置いた。「これも美味しいよ、食べてみて」その言葉に、理久の口元が下がり、突如怒り出した。「ヤダ!」彼は手を振り払って、器ごと粥をひっくり返してしまい、熱い粥が紗夜の手にかかってしまった。
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