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第 11 話

Author: 燈ちゃん
頭を上げると、まっすぐに彼を見つめる。「あの家には戻らない。私はもう家を出たから。あなたが買ってくれたものも、全部置いていった」

一拍置き、静かな声で続けた。

「離婚協議書の内容は適切なものにしてある。財産分与で揉めるつもりはない」

――「あなたが買ってくれたもの」。

――「財産分与で揉めるつもりはない」。

その言葉が妙に引っかかり、真也は思わず笑いそうになった。「ずいぶんと線引きがはっきりしているな」

口元だけで笑いながら、低い声で続ける。「凛。お前の中では、この3年間……最初から最後まで、ただの取引だったということか?」

「違うとでも?」

返事はあまりにも早かった。まるで、もうずっと前から答えを出していたかのように。

「あなたが私と結婚した理由だって、桐生家の株を手に入れるためだったでしょう?結局、私たちはお互いに必要なものを得るために一緒にいただけ。だったら、どちらが上でどちらが下なんて関係ないじゃない」

その瞬間、空気が凍りついた。

1秒。

2秒。

3秒。

やがて真也は、低く笑った。伸ばしていた手をゆっくり下ろす。

「……よく言ったな」

凛の言葉は、彼が築き上げてきた体面を鋭く切り裂いた。

真也は一歩踏み出し、凛を見下ろす。先ほどまで見せていた柔らかな表情は、跡形もなく消えていた。「俺はなぜ、お前と結婚したのか……お前なら分かっているはずだ。離婚届にサインをするつもりはない」

いつものように冷静で、いつものように揺るがない。

「俺たちの始まりも、終わりも――お前に決める権利はない」

これが本当の桐生真也だ。

優しさも、穏やかな笑顔も、すべては仮面。利益や立場が絡めば、彼は容赦なく相手を叩き潰す冷徹な実業家へ戻る。

凛は黙ったまま、しばらく彼を見つめていた。そして、静かに口を開く。

「真也……あなたは、私があなたに頼らなければ何もできないと思ってるの?」

彼は答えなかった。けれど、その眼差しこそが答えだった。

凛は小さく笑う。その自信過剰さを嘲るように。「その自信……最後まで持ち続けられるといいね」

それ以上は何も言わず、彼女は車の鍵を取り出し、自分の車へ向かった。その横顔は、恐ろしいほど穏やかだった。

真也は拳を握りしめる。そして、気づけば問いかけていた。自分でも驚くほど、掠れた声で。「……あの男とは、どういう関係だ」

凛の足は止まらない。「あなたが知る必要はない」

「まだ離婚していない以上、お前は俺の妻だぞ!」

「もうすぐ、元妻になるから」

車のドアに手をかけたところで、凛は最後に一言を告げた。

「離婚手続きについては、弁護士に進めてもらう。できるだけ穏便に終わらせましょう。これ以上、醜い争いにはしたくないの」

ドアが閉まる。エンジン音が響き、ヘッドライトが真也の横顔を照らした。

車はゆっくりと走り去り、角を曲がって完全に見えなくなる。

それでも真也は、しばらくその場から動けなかった。垂れ下がった手が、ひどく冷えている。

車に乗り込み、煙草に火をつけようとしたが、3度目で、ようやく火がついた。

漂う煙が、彼の険しい顔を覆っていく。

やがて視線がルームミラーへ向かった。

そこには、1枚のお守りが揺れていた。

去年の春、凛が神社へ行き、彼のために授かってきたものだった。

あの日は激しい雨で山道が封鎖され、凛は彼に迎えを頼んできた。山の麓まで車を走らせると、彼女は木の下で小さく身を縮めてしゃがみ込んでいた。真也の姿を見るなり、いたずらがばれた子供のような笑みを浮かべ、「迷惑かけちゃってごめんね」と笑った。

そしてポケットからお守りを取り出し、得意げに見せてきた。それは期間限定のデザインで、すごく特別なものだから、長い時間並んでようやく手に入れたと言った。

車内灯に照らされた彼女は、全身ずぶ濡れで、髪は額に張り付き、まるで雨に打たれた野良猫のようだった。それでも、その瞳だけはまぶしいほど輝いていた。

普段、真也は自分で車を運転することが少ない。接待があったり、移動する際、ほとんど哲也が運転してくれていて、車も頻繁に替えていたため、車内に何が増えたのかなど気にしたこともなかった。

凛はいつこのお守りを掛けたのかも、彼は知らない。

あの夜だったのか。それとも、その後の日だったのか。

煙草の先端が赤く燃える。指先に焼けるような痛みを感じて、ようやく我に返った真也は、灰皿へそれを押しつけた。

しばらくしてから、スマホを取り出す。そして短く告げる。

「若葉陸について調べてくれ」

その直後、胃の奥にまた鋭い痛みが走った。真也はハンドルに額を押しつけ、片手で腹部を押さえる。

そこで初めて気づいた。

――事態が、自分が望まない方向へと発展しようとしていることに。

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