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第 10 話

作者: 燈ちゃん
「……放して」

凛は、ほとんど引きずられるように地下駐車場まで連れてこられていた。強く掴まれた手首が痛み、眉間に深い皺が刻まれる。

広く、がらんとした駐車場には、人の気配がほとんどない。その静寂の中に、彼女の声だけが響いた。

真也の指先が触れた場所には、赤く残った跡が熱を持っている。それを見た瞬間、彼の顔が強張った。

けれど、頭に浮かんでいたのは凛の痛みではなく、先ほど廊下で、陸が彼女の手を握っていた光景だけだった。抑えようとした感情が再び膨れ上がり、気づけば、手に込めた力はさらに強くなっていた。

凛は怒りで頬を赤く染め、とうとう我慢の限界を迎える。次の瞬間、思い切り彼の手を振りほどいた。「真也、いい加減にして!」

声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。

真也は勢いに押され、わずかによろめく。そして、目を見開いた。彼女がこんなふうに怒りを顕わにしたのは、初めてだった。

結婚する前も後も、彼女はどんな時だって優しく彼の名前を呼び、穏やかな口調で話してくれていた。

それなのに。

「……なんだ、その態度は!」

問いかける声には、戸惑いが混じっていた。

なぜ凛はここまで強気になれるのか、分からなかった。

責められるべきなのは自分ではなく、彼女のほうではないのか?

凛は真也の言葉を無視した。手首をさすりながら、乱れた呼吸を整える。急いで歩いてきたせいで、胸元がわずかに上下していた。

しばらくして、静かな声で告げる。「離婚届と離婚協議書は届いているはず。時間ができたら、役所へ行って離婚の手続きをしましょう」

その口調はあまりにも淡々としていた。まるで、夕食の献立を話しているかのように。

そこには、感情の揺れすらなかった。

真也の脳裏にあの茶色の封筒が蘇る。それは凛が送ってきたものだと、哲也が報告していたが、自分は開封すらせず机の端へ無造作に置き、そのまま忘れていた。

海外との会議。滞っていた案件の処理。次々と押し寄せる仕事。気づけば、その存在すら記憶から消えていた。

まさか、あれが離婚届だったとは。

彼女は、ずっと前から離婚を決めていたのだ。

しかし、理由はなんだ?若葉陸なのか?

真也は改めて凛を見る。

シルクのブラウスに、身体のラインを美しく見せるスラックス。革ベルトのバックルが輝き、黒髪は柔らかなウェーブを描いている。薄い化粧を施した顔には、かつて家で見せていた柔らかな雰囲気とは違う、凛とした強さがあった。

こんなふうに凛を観察するのは、久しぶりだった。家にいる彼女は、いつもシンプルな部屋着姿だった。化粧もせず、長い髪を肩に流している。

仕事を終えて帰宅すると、玄関には必ず凛の温かな笑顔が待っていた。彼女はいつも彼の胸へ寄りかかり、甘えるように言う。

「今日もお仕事お疲れ様。ご飯ができてるよ」

真也はいつの間にか、その優しさを当然のものとして受け取っていた。だからこそ、今、目の前にいる冷たい瞳の凛が、まるで別人のように感じられる。

かつて自分に向けられていた温もりは、もうどこにもなかった。その瞳に残っているのは――失望だけ。

真也は忘れていた。

彼女も一人の人間なのだ。無視されたら、傷ついてしまうし、怒りを抱いてしまう。

深く息を吸い込み、胸の奥で渦巻く感情を押し込める。そして、少しだけ声を落とした。「お互い落ち着こう。この状態じゃ話し合うことすらできない……とりあえず家に帰るぞ」

そう言って、彼は手を伸ばした。

凛の体に触れようとした瞬間、彼女は反射的に半歩後ろへ下がった。その動きはあまりにも素早く、まるで触れられること自体を拒絶するように。

その仕草が、真也の胸を強く刺す。伸ばした手が宙で止まった。

「帰らない……あそこはあなたの家だ。私の家じゃない」凛はゆっくり顔を上げる。鼻の奥がつんと痛み、声がわずかに震えた。「……もう、私には帰る場所なんてないんだから」

父はもういない。この世界で、凛にはもう家族と呼べる人が誰もいなかった。

西京市の夜は、どこまでも華やかな光に包まれていた。誰にも帰る場所があるのに、凛には、そんな場所がなかった。

かつて彼女は信じていた。いつか真也の冷え切った心も、自分の想いで温められるのだと。

だから、何事にも気を配った。彼が望むことを先回りし、彼のために茶道を習い、礼儀作法を学び、得意ではないことまで必死に身につけた。少しずつ自分を削り、磨き上げ、彼が愛してくれる形になろうとした。

父を守りたかった。結婚を守りたかった。それなのに、最後に残ったのは――何一つ守れなかったという現実だけだった。

凛は胸の奥に込み上げた痛みを必死に押し殺し、こぼれそうになった涙を無理やり飲み込んだ。泣く顔だけは、絶対に真也には見せたくなかった。

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