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第 12 話

作者: 燈ちゃん
ナースステーションから電話があった。父が生前、病院に忘れていた私物があるという連絡だった。

凛は手元のデザイン案を整理し終えると、車を走らせて病院へ向かった。

久しぶりにここへ足を踏み入れた瞬間、胸の奥が否応なく締めつけられる。

あの日、救命処置の末に父が帰らぬ人となったあと、最後の身支度を整えたのは凛だった。冷たくなった顔を拭き、服を着替えさせる。その時に感じたあまりにも現実離れした気配が、何日経っても消えることなく、胸の奥に残り続けていた。

だから、病棟の入り口をくぐっただけで、胸の奥から込み上げる痛みに喉が詰まりそうになる。

3日間降り続いた雨のせいか、吹き抜ける風には冷たさが混じっていた。凛はコートの前をしっかり閉じ、エレベーターへ歩いた。

向かう先はVIP病室がある7階。父が長く入院していた場所だったため、凛はそこで働くスタッフとも顔見知りになっていた。

エレベーターを降りたところで、すぐに声をかけられる。「あら、凛ちゃん、久しぶりだね」

振り返ると、そこには清掃員の斉藤雅子(さいとう まさこ)が立っていた。以前、父が院内で理不尽な扱いを受けていた時、父を庇って助けてくれた人だ。それ以来、彼女とは親しくなっている。

東北出身の彼女は、飾らない性格で世話好きな人だ。1ヶ月ほど前、「孫が生まれたから一度実家に帰る」と話していたため、戻ってきたのは最近なのだろう。

「斉藤さん、お久しぶりです」凛が笑顔で挨拶すると、雅子は清掃カートにモップを立てかけ、嬉しそうに笑った。「実家からお土産を持ってきたの。仕事が終わったら凛ちゃんに渡すね」

彼女が帰省するたび、凛に地元の名産を持ってきてくれた。

「西京市に一人で来て、知り合いなんてほとんどいないんだから。こうして出会えたのも何かの縁よ」と言って、いつも本当の娘のように接してくれた。

一生、娘を持つことがなかったという雅子にとって、凛は可愛くて仕方のない存在なのだろう。

「そういえば」ふと思い出したように、雅子が首を傾げる。「今朝来たら、202号室が空いてたのよ。新しく来た看護師さんには聞きづらくて……もしかして、お父さん病室を移ったの?」

その何気ない問いかけに、凛の表情がわずかに固まった。バッグのショルダーを握る指先から、すっと温度が抜けていく。

雅子はそんな凛の様子に気づかず、むしろ期待を込めた目を向けた。「まさか……病気が治って退院したの?前に凛ちゃんが言ってたでしょう?知り合いがすごく腕のいい先生を紹介してくれるって。手術、うまくいったの?」

その言葉を聞いた瞬間、凛の胸が痛んだ。目の前にいるのは、ただ純粋に父の回復を願ってくれている優しい人。本当のことを告げれば、この人の笑顔まで壊してしまう。

凛はしばらく迷ったが、最後には小さく頷いた。「……はい」

その一言を絞り出すだけで、喉が震えた。

「そう……よかった。本当によかったね」雅子の目に涙が浮かぶ。「長いこと入院してたものね。これでやっと安心できるわ」

そう言いながら、両手を合わせる。「本当によかった。お父さん、優しい人だから、きっと神様も見ていてくれたのね」

その後も雅子は、退院後の生活で気をつけることや、身体を早く回復させるための方法を熱心に教えてくれた。凛はただ黙って聞きながら、ときおり笑顔を返した。

やがて廊下の向こうから人が来ると、雅子はようやく話を切り上げた。

「じゃあ、仕事に戻るわね」そう言って去っていく背中は、先ほどより少し軽やかに見えた。

その姿が廊下の奥へ消えるまで見送ったあと、凛は静かに視線を落とした。

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