تسجيل الدخول「帆波!」
「帆波ちゃん!」
私と湊さんの叫び声が路地に響く。心臓が凍ってしまったように、一瞬止まった。
すぐに角を曲がるが、その先の路地にはもう娘の姿はない。そして道はさらに二手に分かれている。どこへ行ったのか、全く分からない。私は湊さんの顔を見た。彼の顔は蒼白で、瞳には一瞬、あの山荘での理性を失った時の光がよぎったように見えた。だが彼は固く拳を握りしめると、その感情を必死に抑え込んだ。
「落ち着いて、夏帆さん」
彼の声はわずかに震えていたが、冷静だった。
「あの子の足では、遠くへは行けないはずだ。僕は左を、君は右を探そう。名前を呼びながら」
私が右の路地へ駆けだそうとした時。
どこからか美しいバイオリンの音色が、壁に反響しながら聞こえてきた。「あれは……?」
私と湊さんは顔を見合わる。その音のする方へと向かった。路地を抜けると、そこは陽光が降り注ぐごく小さな広場だった。
広場の真ん中で、若い大道芸人がバイオリンを弾いている。彼の目の前で、帆波がぽつんと一人、立っていた。彼女は蝶のことなどすっかり忘れて、夢中になってバイオリンの美しい音色に聴き入っていたのだ。全身から力が抜けていく。
湊さんが娘のそばへ歩み寄り、小さな体を力いっぱい抱きしめた。「パパ?」
帆波は急に現れた父親を不思議そうに見ている。
湊さんはしばらくの間、娘の髪に顔をうずめていた。やがて顔を上げた彼の目には、涙が浮かんでいた。バイオリン弾きがイタリア語で何事か言った。
湊さんは頷いて、「グラッツェ」と返す。お礼の言葉だ。「彼、なんて言ったの?」
「小さな子が一人で歩いていたから、音楽を聞かせて引き止めていたそうだ。親が迎えに来るはずだからと」
「そうだったの……」
私たちはバイオリン弾きに心からの礼を言うと、その広場を後にした。湊さんはもう、帆波を腕から降ろそうとはしない。
その日の昼食は、ジェノバの郷土料理であるトロフィエ・アル
「帆波!」「帆波ちゃん!」 私と湊さんの叫び声が路地に響く。心臓が凍ってしまったように、一瞬止まった。 すぐに角を曲がるが、その先の路地にはもう娘の姿はない。そして道はさらに二手に分かれている。どこへ行ったのか、全く分からない。 私は湊さんの顔を見た。彼の顔は蒼白で、瞳には一瞬、あの山荘での理性を失った時の光がよぎったように見えた。だが彼は固く拳を握りしめると、その感情を必死に抑え込んだ。「落ち着いて、夏帆さん」 彼の声はわずかに震えていたが、冷静だった。「あの子の足では、遠くへは行けないはずだ。僕は左を、君は右を探そう。名前を呼びながら」 私が右の路地へ駆けだそうとした時。 どこからか美しいバイオリンの音色が、壁に反響しながら聞こえてきた。「あれは……?」 私と湊さんは顔を見合わる。その音のする方へと向かった。路地を抜けると、そこは陽光が降り注ぐごく小さな広場だった。 広場の真ん中で、若い大道芸人がバイオリンを弾いている。彼の目の前で、帆波がぽつんと一人、立っていた。彼女は蝶のことなどすっかり忘れて、夢中になってバイオリンの美しい音色に聴き入っていたのだ。 全身から力が抜けていく。 湊さんが娘のそばへ歩み寄り、小さな体を力いっぱい抱きしめた。「パパ?」 帆波は急に現れた父親を不思議そうに見ている。 湊さんはしばらくの間、娘の髪に顔をうずめていた。やがて顔を上げた彼の目には、涙が浮かんでいた。 バイオリン弾きがイタリア語で何事か言った。 湊さんは頷いて、「グラッツェ」と返す。お礼の言葉だ。「彼、なんて言ったの?」「小さな子が一人で歩いていたから、音楽を聞かせて引き止めていたそうだ。親が迎えに来るはずだからと」「そうだったの……」 私たちはバイオリン弾きに心からの礼を言うと、その広場を後にした。湊さんはもう、帆波を腕から降ろそうとはしない。 その日の昼食は、ジェノバの郷土料理であるトロフィエ・アル
翌朝、私が目を覚ますと、これまでとは違う船の静かな振動と、港の喧騒が混じり合った独特のざわめきが聞こえてきた。船はすでにジェノバの港に停泊していた。「ママ、パパ! みて!」 バルコニーから、帆波の興奮した声が聞こえる。私と湊さんが向かうと、彼女はガラスの手すりに小さな手をかけて、夢中で外の景色を指差していた。 眼下に広がるのは、これまで見てきたリゾート地の港とは全く違う風景。巨大なクレーンやコンテナが並ぶ、活気に満ちた働く港の姿だった。 港のすぐ背後には、急な丘の斜面が迫っていた。 その斜面には、オレンジや黄土色の背の高い建物が、隙間なくびっしりと立ち並んでいる。 それらは折り重なって、一つの巨大な壁を形成しているようにも見えた。 建物の隙間からは、迷路のような暗い路地が見える。路地は毛細血管のように、街の奥へと続いていた。 シチリアの陽気さともマルタの荘厳さとも違う。荒々しく力強い、海洋国家の歴史を感じさせる圧巻の光景だった。「すごいわね。なんだか、建物がお互いに寄りかかり合っているみたい」 私が言うと、隣で景色を眺めていた湊さんが教えてくれた。「ジェノバは、かつてヴェネツィアと覇を競った、偉大な海洋共和国だったんだ。あの丘の中腹に見える、密集したエリアが旧市街だよ。『カルッジ』と呼ばれる、迷路のような細い路地で有名なんだ」「歩いてみたいわ」 私のデザイナーとしての好奇心がうずいた。「ベビーカーは難しいかもしれないけど、帆波ちゃんが疲れたら、僕が抱っこすればいい。行ってみようか」 彼はすぐに賛成してくれた。 ◇ 私たちは迷路のような路地へと、足を踏み入れた。 道幅は二メートルもないかもしれない。両側から色褪せた壁の高い建物が、空を覆い隠すように迫ってくる。頭上には住人たちのものだろうか、洗濯物が万国旗のようにはためいていた。「帆波、パパとママの手をしっかり握っていてね」「はーい」 帆波は、私と湊さんの間に挟まれ、二人としっか
一人になった私は、部屋のプライベートバルコニーのデッキチェアに座る。スケッチブックを広げた。 目の前に広がる、雄大な海の景色。水平線の彼方まで続く深い青。 仕事のデザイン画ではない。この幸福な一瞬を記録するために、自由に線を引いた。 しばらくして、帆波を預けてきた湊さんが戻ってきた。手には白ワインの瓶を持っている。グラスを二つ取り出し、ワインを注いで私の隣に座った。 私はワイングラスを手に取る。午前中からお酒だなんて、とっても優雅。「キッズクラブはどうだった?」「すごく楽しそうだったよ。最初は少しだけ、人見知りしていたけどね。すぐに他の国の子たちと、言葉も通じないのにぬいぐるみで遊び始めた。子供はすごいね」「そっか。よかったわ」 私は白ワインのグラスを片手に、昨日の感動を湊さんに語った。「昨日のサグラダ・ファミリア、本当にすごかったわね……。特に、あの光の入り方。まるで森の中にいるみたいだった。石であんな有機的な空間が作れるなんて、今でも信じられない」「君があんなに夢中になっている顔を、初めて見たかもしれない。君のデザインにも、何か新しいインスピレーションを与えたんじゃないかい?」 湊さんは私の仕事の話を、心から楽しそうに聞いてくれる。「ええ、たくさん。……そういえば、今朝、帆波が面白いことを言うのよ」 私はくすくすと笑った。「『とかげしゃん、またあいたい!』って。グエル公園のトカゲが、すっかりお気に入りみたい」「トカゲのぬいぐるみも、とても気に入っていたよね。じゃあ次の寄港地でも、トカゲを探さないといけないな。……いや、いないか」 湊さんが本気で困ったような顔をするので、私たちは二人で声を上げて笑った。 仕事の話も子供の話も、こんなふうに笑いながら話せる。それがどれだけ幸せなことか。私はグラスを傾けながら、満ち足りた時間を味わっていた。 ◇ ふと沈黙が落ちる。潮騒が静かに響く中、私は湊さんの肩に頭を預けた。「こんな日が来るな
バルセロナを出港した翌日は、一日かけてフランスのマルセイユへと向かう、航海日だった。 朝、目を覚ますと、窓の外には360度、見渡す限りの青い地中海が広がっている。船は白い航跡を長く引きながら、フランスへと進んでいた。 私たちは、船尾にあるオープンデッキのレストランで朝食をとることにした。 白いパラソルの下、テーブルにはパリッとしたリネンのクロスがかけられている。目の前には船が描いてきた白い波と、どこまでも続く青い地中海が広がっていた。頬を撫でる秋風が気持ちいい。 朝食は豪華なビュッフェ形式だった。焼きたてのパンの香ばしい匂い、色とりどりの新鮮なフルーツ、目の前でシェフが作ってくれるオムレツ。その全てが、私たちの旅が特別なものであることと物語っている。「パパ、いちご! あっちの、パンも!」 帆波は目をキラキラさせながら、小さな指で次々と食べ物を指差す。「帆波ちゃん、そんなに取ったら、お腹がびっくりしちゃうよ。まずは、このヨーグルトからにしようか」 湊さんが娘の目線に合わせて屈み込み、優しく言い聞かせている。 私は焼きたてのクロワッサンと、カフェラテを自分の皿に乗せた。 テーブルに戻ると、湊さんは帆波が自分でスプーンを使えるように、小さな手を彼の大きな手で包み込むようにして、手伝ってやっていた。「あなたは何にしたの?」 私が尋ねると、彼は少し困ったように笑った。「帆波ちゃんがパンケーキがいいって言うから、僕もつい、同じものにしてしまったんだ」 彼の皿の上には、メープルシロップがたっぷりかかったパンケーキが三枚も乗っている。「あなたはいつも、朝はフルーツとシリアルじゃない。帆波に付き合って甘いパンばかり食べていると、太るわよ」 私が笑うと、彼も心から幸せそうに目を細めた。「ママ、きょうはね、とかげしゃんのおともだち、つくるの!」 帆波は昨日バルセロナで買ってもらった、カラフルなトカゲのぬいぐるみを抱きしめている。船内のキッズルームへ行くのを、今から心待ちにしているようだ。 朝食のパ
帆波は私が一人で話し続けているので、飽きてしまったらしい。 光の斑点を追いかけてどこかへ行ってしまいそうな帆波を、湊さんがひょいと抱き上げた。「帆波ちゃん。ママは今、お仕事と同じくらい、大事なものを見ているんだよ」 彼は娘に優しく言い聞かせる。そのおかげで私は心置きなく、この偉大な建築と向き合うことができた。 ◇ サグラダ・ファミリアの強烈な体験の後。「少し休憩しようか」 湊さんが言って、グエル公園に連れてきてくれた。 ここには公園のシンボルである、カラフルなモザイクでできたトカゲの噴水がある。「あっ! とかげしゃん!」 帆波が声を上げて、嬉しそうに駆け寄った。 私たちは波打つように続く、美しいモザイクタイルのベンチに三人で座った。「あそこで軽食が売っているね。買ってこよう。夏帆さんは、帆波ちゃんを見ていてあげて」「ええ、ありがとう」 湊さんが、売店でチュロスとホットチョコレートを買ってきてくれた。「おいしー! あまーい」 帆波はチョコレートを口の周りにつけながら、夢中でチュロスを頬張っている。 湊さんは帆波の口をハンカチでぬぐってあげた。帆波は楽しそうに笑っている。 私たちの頭上には、バルセロナの青い空。あの素晴らしいサグラダ・ファミリアの余韻を残している。(夢が叶った。素晴らしい日だわ……) 私は心からそう思った。 ◇ その夜、船に戻ると、遊び疲れた帆波はすぐに眠ってしまった。今日買ったばかりのカラフルなトカゲのぬいぐるみが、添い寝している。 私は一人、プライベートバルコニーで、今日見た建築の感動をスケッチブックに描き留めていた。 ふと、後ろから抱きしめられる。湊さんだった。「満足できたかい?」 私は満面の笑みを浮かべて、頷いた。「ありがとう、湊さん。最高の一日だったわ。ずっと夢だったの」
専用車が角を曲がり、前方にサグラダ・ファミリアが見えた、その時。 私は思わず息をのんだ。「湊さん、停めて!」 私の切羽詰まったような声に、湊さんは驚いた顔をしながらも、すぐに運転手に指示を出してくれた。 車から降りる。私は目の前にそびえ立つ光景を見上げていた。「……嘘」 写真やテレビで見ていたものとは、全く違う。そこにあったのは、もはや建築物ではなかった。大地から直接、有機的に生えてきたかのような巨大な生命体。トウモロコシのようにも洞窟の鍾乳石のようにも見える塔が、空に向かってうねるように伸びている。「パパ、ママ、みて! おかしのおうちみたい!」 湊さんの腕の中で、帆波が楽しそうな声を上げる。「そうだね、帆波ちゃん。お菓子の家みたいだね」 湊さんは言いながら、視線は隣に立つ私の顔に注がれていた。「どうかな、夏帆さん。本物は」「……すごい。すごいとしか、言えない」 私はデザイナーとして、この建築を分析しようとする思考を、完全に放棄した。 存在に呑まれる。 ガウディという一人の天才が生み出した、圧倒的な狂気と神聖さの塊を前に立ち尽くすことしかできなかった。 私は半ば呆然としたまま、もう一度車に乗り込んで、今度こそそのサグラダ・ファミリアに近づいた。 聖堂の内部に、一歩、足を踏み入れる。 石でできた巨大な樹木のような柱が、枝を広げるようにして高い天井へと伸びている。枝と枝が複雑に絡み合い、頭上には巨大な木漏れ日のような天蓋が広がっていた。「すごい」 感嘆のため息が漏れる。「どうして、こんな構造を思いつくの? 直線が一つもない……」「みて! にじいろ、きらきら!」 帆波がきゃっきゃと歓声を上げた。彼女が指差す先、聖堂の床には、色とりどりの光の斑点が宝石のように散らばっている。東側のステンドグラスを通した朝の光が、青や緑の光のシャワーとなって、私たちの足元に降り注いでいた。 私は隣に立つ湊さんに、この建







