Masuk
果たして、その憧れがいつからのものだったのか。
姉は私にないものを全部持っていて、私は何も持っていなかった。
届くはずのないものを見て、それでもただ後ろをついていく。
ただ「すごいね」と言われたくて。
姉は色々なことに挑戦し、できるようになっては捨てていく。
私はそんなことはできなくて、ただただ置いていかれるばかり。
例えば習い事、例えばスポーツ。
姉は一か月くらいでもう別のことに乗り換えていたっけ。
初めはそんな姉と同じように色々なことに挑戦したけど、次第に劣等感が降り積もっていくだけになった。
そんな中、私はドラムを叩くだけになった。
姉が疾うの昔に捨てたもの。
見てもらうと、姉は褒めてくれた。
その唇は、私にとって心地よい言葉を紡いだ。
褒められたくて、熱中した。
そんな姉が、突然天国に旅立った。
頭が真っ白になる。
私は、これから何の為にスティックを握ればいいのか分からなくなった。
◆
ふう、と一つ息を吐く。
ようやく仕事に区切りが着いて時計を見上げると、既に針は二時を指していた。一つの事に集中すると時間を気にしなくなるのは昔からだ。
一端昼休憩に入ろうと他の職員に声を掛けると、まだ食べてなかったの、なんて驚かれる。七時が定時であることを考えると、今日想定している残りの作業量的にはあまり昼食に時間は費やせない。
ただ、意識してしまうと空腹というのは厄介で、常にお腹を風が通っているかのような感覚に襲われる。仕方ないので、私はオフィスを出て休憩室へとやってきた。
誰もいない一室に、ポットとゴミ箱だけが置いてある。
そこは幾つも白いテーブルが置かれた部屋で、個人的には食べ物を持ち込んで用を済ます、というだけのスペースという認識だ。誰も利用してない際には軽い会議室なんかになったりするのだが、生憎まだそんな経験はなかった。
その中の一つに腰を下ろす。会議室代わりになると言いはしたが、そんな立派な備品が置いてあるわけではない。私が適当に座ったパイプ椅子も、その内の一つだ。
いつもの休憩時間ではないタイミングでここへやってきたため、まるで自分の部屋みたいである。まあ、生憎隣接している喫煙室が曇り気味とはいえガラス張りのため、完全に視線のない空間というわけではないのだが。
今朝コンビニで買ったパンを手早く食べる。
ただ時間がなかったから適当に目に入った一つを手に取って購入しただけのものだったのだが、手早く済ませたい現状を考えると結果的に正解だった。
何口かでさっと昼食を済ませると、イヤホンをしてテーブルに頭を伏せる。二、三曲聞けばきっと休憩時間と呼ぶに値する時間が消費されるだろう。聞き慣れた、少し前に流行ったロックバンドの音楽が白熱鉄を打つ響きを帯びて、鋭く私の耳を貫いていく。
部屋に誰もいないからか、いつの間にか手首が勝手にリズムを刻んでいた。喫煙室にいる何人かはこちらを見ているのだろうか、仮に視線がこちらにあるならさぞ滑稽に見えることだろう。まるで楽器を勝手に叩く動物のぬいぐるみみたいに。
馬鹿なことをしていたと噂が流れるのは困るので、エアドラムを止める。しかし少しすると、体がまた知らずに動いてしまうのだった。
『いいよ、上手!』
ふと、姉の声が聞こえてきた。
振り払うことができない幻聴。その声を聞くために、私は音楽を続けているのだから。
姉がこの世を去ってから、一体何年の月日が経っただろうか。引きずりすぎて気持ち悪い、というのは自分でも分かっている。しかしあの日から、私の日々はセピア色みたいに褪せていった。
人生がどうでもよくなったとか、自暴自棄になったわけではない。人並みに部活動や勉学にも励んできたし、交友関係も全くないというわけでもない。そのおかげで、就職活動はなんとか乗り切ることができた。
社会に出て三年が経つ。
大学時代に適当に選び続けてなんとか採用してもらった会社だが、慣れというのは恐ろしいもので業務もひと通りこなせるようになると自分も社会の一部になっていた。歯車は有無言わず動き続けるから使われるものであり、今の自分に少し似ているなと自嘲する。
ふと閉じていた目を開く。
相変わらず無人の休憩室と、何人かの輪を広げる禁煙室。
ちょうど再生していた曲の、二つ目が終えたところだった。そう至ったのは決してさあ仕事に戻ろうと思ったわけではなく、スマホが震えたからである。
確認すると、仕事の連絡ではない。
どうやら、明日の夜の予定はどうかという知り合いからのメールのようだ。はて、どうだったか。思い返すためにスケジュールアプリを開きながら、鼓膜を打ち付ける三曲目に耳を傾ける。
私としては半日ぐらいならば全然気にしないのだが、如何せん連絡相手は少しでも返信が遅いと小言を投げてくるような人物であるため、疾く反応しなければいけないのだ。
耳に流れてくる曲に釣られて、画面をタップする指先も軽やかになる。それはこれから未来へ向かう自分への応援歌。爪弾かれるギターの音がサビへ向けてバンド内の熱気を高めていく。
スケジュールは空白で、仕事以外には特に予定はなかった。また断る理由もなく、二つ返事で大丈夫とだけ返信する。そうしたところで、まるで誰かが見計らっていたかのようなタイミングで流れていた曲の最後の一音が鳴り終えた。私としてはこのまま四曲目に向かいたいところではあるのだが、それでは残業も視野になってしまうため、仕方なくここで孤独なライブハウスを退室することにした。
オフィスの入り口にあるセンサーに社員証を押し付ける。セキュリティの問題で必要な動作だが、行うたびに先刻までの自分とは別の人間に成り代わる気分だ。それはきっと、社会人として成長したというわけではない。ただ感情を殺して、環境に順応しただけ。
自分の席に座って、スタンバイにしていたパソコンを起動する。定時までの残り四時間で、先ほどの私が残した事務仕事を片付けなければならない。時折鳴る電話に対応しながら、手元の資料にある数字を打ち込んでいく。
そうして幾時間が過ぎただろうか。ふと気がつくと、陽は既に隠れて濃紫の空が暗闇へと変わりつつあった。目の前の作業量が、私に時というものを忘却させる。
「火原さん」
後ろから声をかけられる。女性の声だ。それほど大きく呼びかけられたわけではないが、その甘ったるい声に私は耳を引っ張られる。
それに、私は抑揚なく「はい」と答えた。
振り向くと、座っている私の目線まで腰を折り曲げた同僚の姿がそこにある。普段喋らない人物だったので心内でひっそりと驚きながら、私は差し出された何かに目を奪われた。
「よろしければ一つどうぞ」
何色かのマカロンが女子力を主張している。どういうことかと見上げると、彼女は少し困った顔をしながら笑った。
「安藤さんが、パンだけしか食べてなかったと言っていたので。どうですか」
安藤さんとは先ほど喫煙室で談笑していた内の一人だ。なるほど、パンを食べていたのも、音楽に時間を費やしていたのもすべて筒抜けになってしまった。もしかしたらと覚悟はしていたが、それでも人から自分の行動を聞くとなんとも言えない感情が浮き出てくる。
「そうでしたか、すいません頂きます」
差し出された中から赤いマカロンを手に取ると、そのまま口に放り込む。さくりとした食感と共に舌の上で咲き踊る甘みは、軽やかでいて深く口の中に溶け込んでいく。
「ありがとうございます、美味しかったです」
私はあまり甘い物が得意ではない。それを踏まえてなお穏やかに私の口内を侵略していくのだから、きっと良い店のものなのだろう。
「それは良かったです。火原さんもう少し食べたほうがいいですよ、お昼にパン一つはさすがに」
「集中するとどうしてもお昼の時間を過ぎてしまって」
きっと彼女には、私は食に興味がないと思われたことだろう。愛想笑いをして、他の職員にマカロンを配りに行くのを横目に眺める。
まあそもそも、もう少し食べたほうがいいのはあちらだろう。誓って言うなら、私は職場ではあまり物を口にしないだけで人並みに食べる。私がファミレスで大盛りのスパゲッティを三皿食べるような女だと知ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
そんなことを考えながら、残りの打ち込みを終わらせるため、目の前の画面へ意識を向け直した。
暮れかかった空が、墨が滲みゆくように夕闇を去来させていく。やがて宵闇は翼を広げるように浸食していき、一切を黒へと変えていくのだろう。 久々に帰った実家はとても広く思えた。家は一軒家で大豪邸というほど大きい造りでないはずなのだが、この部屋に両親二人で住んでいるのだと考えると、私と姉が暮らしていた部屋がとても大きな穴のように感じられる。 これから会う母が燈を見てどんな反応をするかなんてわかりきっていた。きっと私と同じように姉の面影を見るのだろう。そう思いながら、がちゃりという重低音と共に玄関の扉を開けた。「ただいま」 そう言うと少ししてから母が居間から生首だけを覗かせる。「あぁ、お帰り。病院には」 行ったか。そう軽口を叩こうとしたのだろうが、その視線が私の後ろにいる燈を捉えたことで発せられることはなかった。驚きのあまり声が出ないようだ。母がそう思うほどに、燈の相貌は姉とそっくりなのだと改めて知覚する。「……夕」 ようやく出た言葉は、私が一言一句そうだろうと予想した通りの言葉で思わず笑いそうになってしまう。髪の色など問題ではない。その顔が、纏う空気そのものが私は火原夕の娘なのだと主張しているのだから。「白幡燈と言います」 燈がそう名乗っても、まだ夢から帰ることが出来ないようだった。母が空返事することから脱したのは、それから五分も後のことだ。埒が明かないので奥にいるであろう父を呼ぶと、そこからさらに十分もの時間を重ねることなり、燈が自分の事情を話し始める頃には既に薄暮時など塗り潰されてしまってからだった。 単刀直入に言えば、燈は私の家に住まうことになった。 両親は是非家に来てほしいという主張だったのだが、通う高校が私のマンションからのほうが近いということと、何より燈自身がそれを望んでいたこと。これからは隣にいてくれるんですよね、とは私への殺し文句。後々考えてみれば、燈からしてみれば告白のように感じてもおかしくない言葉だったと思う。 きっとこれからは燈と生きていくことになるのだろう。姉と同じ顔をもつ女性と。も
面倒なことを何も考えずに叩いた昨日のドラムに、初めて朝を清々しいと感じた。まるで清涼剤でも飲んだかのように胸のつかえを透かしている。だからこそ、先ほどから何度もバイブしているスマホを手に取りたくなかった。宮原さんから二日連続で朝早く電話が来る可能性は低いので、恐らく明峯さんがライブイベントの話の旨を読んだのだろう。起きたらいきなり明日の昼歌えと連絡が入っているなんて、不機嫌に決まっている。 宮原さんは電話に出なかったのだろうな、なんて思いながら私はスマホを手に取った。「沙綺」 声色が内包する、明らかな不機嫌さ。いつもなら私以外明らかにまだ眠っている時間に電話を掛けてきたことを鑑みるに、ふと目が覚めてしまってスマホを手に取った際気づいたのだろう。何より睡眠時間を優先する明峯さんがこうして早朝に電話してくるなど、まさに晴天の霹靂だ。「何故貴女がいながら勝手にライブイベントに出る事が決まっているの」「すいません」 明峯さんの喉のコンディションのことを主張しつつ、特に抵抗らしい抵抗をしなかったため素直に謝罪する。さらに言うならセットリストを作成したのはほとんど私のため、助長した可能性があることを否定出来ない。厄介なことになりそうなので私が作製したということは言わないが。「まぁいいわ、どうせ由良が勝手に何も考えずに引き受けたんでしょ」「オーナーに出てくれないかと頼まれたと言っていましたが」「オーナーに? あぁ、それは確かに無下には出来ないわね」 その意見だけは四人とも同意見だった。「喉のほうは大丈夫でしょうか」「いつも通り。いけなくはない」「そうですか」「もう何時間も寝られないわ、どうしてくれるの」 まったく、という言葉を残して電話は切られた。普段冷静な明峯さんだが、睡眠に関してだけは少ないと途端に不機嫌になるのは昔からだ。普段四時間程度の私としては昨日丸一日眠ったのだからもう充分だろうなんて思うのだが、明峯さん曰く休日であれば最低十二時間は必要らしい。そんな明峯さんだが、ライブの日やバンド練習だけは五分前には待っているのだから不思
魂まで一緒に吐き出す勢いで、静かに吐息を肺量の底を傾けて吐き出す。「あの」 燈が口を開く。 話し合いをしている間、気まずそうにベッドの上へ移動させてしまったので申し訳ないと思っていた。「悪いわね、騒がしくして」「そんな」と何か言いづらそうに目を伏せる。次の一言を言い出そうか迷っているようで、ここではあちらから口を開くのを待つのが正しい様な気がして、私は口をつぐむ。厳かに何秒か過ぎ、その間燈は瞬きすらしようとしない。「出ていきますから、ちゃんと」 力なく貼りつけられた笑みには、強がりの気持ちがこれでもかというほど含まれていた。「……居ていいのよ、別に」 後ろめたさが波状のように湧き上がってくる。 違う。 そんなことを言わせたかったわけじゃない。「でも、困ってたんですよね? 皆さんに相談するくらいに」 小鳥のようなか細さで。 発言した燈は居心地が悪そうに俯いてしまう。それは宮原さんの言葉からだろう。困っていた、宮原さんが何の悪げなく言った言葉に燈は彼女達がいた一、二時間程度の間息の詰まる思いをしていたのだろうか。いいや、悪いのは私だ。 訝しむのは仕方ないじゃないか、いきなり姪ですと言われすぐに信じられるほうが難しい。だが彼女が姉の娘なのだと受け入れた時点で、私は全てしくじっていた。 彼女は姉ではないのに。 いきなり押しかけてきて、明らかに申し訳なさそうにしているのに。彼女の境遇のほうが、目に見えて苦しいというのに。私の迷惑にならないように耐え忍んでいたというのに。 それでも私は、姉の面影を重ねて意識して遠ざけるようにしていた。「それは……」 言葉に詰まる。 間違っていないからだ。 そもそもバンドメンバーに相談なんて、ほとんどすることがなかった。呑み込んでいるつもりだったが、誤魔化せず吐露してしまったくらいに重荷になっていたのだ。
時間の存在を忘れてしまうくらいドラムを叩いていると、起動していたメトロノームのアプリが一瞬止まり、何度かバイブした。この部屋にいると時間がどれほど経過したか分からなくなることが多い。私がドラムで呼吸することも類似して、水中を走ることで呼吸をする回遊魚みたいだなんて自嘲する。 通知の元は宮原さんからのメッセージアプリだった。曰く、もう家に着く頃だという。きっと明峯さんはいないのだろうな、なんて思いながら洋室を出る。燈は部屋にいなかった。先ほどの反応から見れば当然だろう。ダイニングは朝食を食べたときと比べて変わりなく、唯一違うとすればレモンのような香りが漂っている。 ゆっくりと呼び出し用のベルが鳴った。宮原さんと深谷さんがやってきたのだろう、草のような息をひとつ吐いたあと、低い音を伴ってドアノブをゆっくりと回す。「いらっしゃい、宮原さんに深谷さん」 扉を開けると、幾人かのシルエットが視界に入り込む。長い茶髪を束ねた宮原さんを先頭に、風船のように膨らんだビニール袋を両手に持った深谷さんの姿がそこにはあった。しかし、やはり明峯さんの姿はない。「よっ。悪いな、急に」「本当に」 ちくりと刺したつもりの言葉は、しかし「はは」という適当な笑いで流される。「それと……」 そう言って視線を後ろへ向けると、私を鳥のように覗き込む燈が現れる。どうしてここに燈の姿があるのだろう。もしかすると外出したところを彼女達に捕まって、ここまで連れて来られたのだろうか。たしかに二人は私の実家にあるアルバムを見たことがあるため、姉の容姿を知っている。そのため可能性としてはあり得ることだ。「コンビニに寄るところで会ってさ、思わず捕まえた」「思わず、じゃないです」 アルバムで一度見た面影だけで声を掛けて連れてくる宮原さんもそうだが、そんな妙な声掛けに着いていく彼女も彼女だ。私の名前を出されて警戒心が緩くなったのだろうが、もう少し危機感を持ったほうがいいと思う。「いやぁ、コンビニでこんなに散財したの初めてだわ」「はぁ、とりあえず中へどうぞ」
スマホに宮原さんの名が映し出されたとき、時計はまだ七時にもなっていなかった。休日のこんな朝早くに電話してくる知り合いなど勤め先の者か宮原さんくらいなので、何事かと身構えてしまう。宮原さんが電話をしてくる時間は朝か深夜で、明峯さんと深谷さんは大体寝ているため私に掛かってくる場合が多い。特に明峯さんは仕事と音楽に関わる時間帯以外はほとんど電話に出ないため、少なくとも私から電話を掛けた記憶がない。 二回ほどバイブしたところで、充電ケーブルに差してあったスマホを手に取って電話に出る。「おはようございます」 耳にスマホを押し当てると、機械の中で少し音を変えてはいるが木の葉の戦ぐ音が潮騒のように聞こえた。恐らく樹の下にいるのだろう。宮原さんは朝にランニングをしていると聞いた覚えがあるので、そのコースの道中だろうか。「おはよう、やっぱり沙綺しか電話出ないな」 その口ぶりからすると、既に二人には電話をした後のようだ。社会人の休日なんてそんなものだろう、土日は一日中の大半眠っている明峰さんは例外として。好き好んで六時前から起きている物好きなど、私を除くと知り合いでは宮原さんくらいだ。「どうかしたんですか?」 ただ話したいからという理由で電話をしてくる相手でもないので、単刀直入に聞く。「いや実はさ。いつもお世話になってるライブハウスのオーナーが、イベントに出てくれないかって」「いつですか」「明日」 唐突過ぎて迷路にでも吸い込まれた気分だった。「それこそ二人に連絡を取らないと。深谷さんはともかく、明峯さんは今日中に連絡が取れるかどうか」 それに明日は私自身予定があるため、時間によっては断らなければならない。通常ライブハウスのイベントは夜に行われることが多いが、明日は日曜日なので昼に開催される場合もある。母は夕方頃に来ると言っていたため、即座に断るにはまだ早い。「真央にはぶっつけ本番で歌ってもらうしかない」「いえそれは……」 難しいだろう。通常はライブに向けて喉の調子を整えてくものだが、今回に限っては前日、もしすると明峯さんであれば当日にそれを知ることになるかもしれない。 だが確かに今回の依頼者であるライブハウスのオーナーには、私が高校生の時代から贔屓にしてもらっているため、無下には出来ないことも確かである。「とにかく昼頃、有香を連れて沙綺の家に行
スマホに宮原さんの名が映し出されたとき、時計はまだ七時にもなっていなかった。休日のこんな朝早くに電話してくる知り合いなど勤め先の者か宮原さんくらいなので、何事かと身構えてしまう。宮原さんが電話をしてくる時間は朝か深夜で、明峯さんと深谷さんは大体寝ているため私に掛かってくる場合が多い。特に明峯さんは仕事と音楽に関わる時間帯以外はほとんど電話に出ないため、少なくとも私から電話を掛けた記憶がない。 二回ほどバイブしたところで、充電ケーブルに差してあったスマホを手に取って電話に出る。「おはようございます」 耳にスマホを押し当てると、機械の中で少し音を変えてはいるが木の葉の戦ぐ音が潮騒のように聞こえた。恐らく樹の下にいるのだろう。宮原さんは朝にランニングをしていると聞いた覚えがあるので、そのコースの道中だろうか。「おはよう、やっぱり沙綺しか電話出ないな」 その口ぶりからすると、既に二人には電話をした後のようだ。社会人の休日なんてそんなものだろう、土日は一日中の大半眠っている明峰さんは例外として。好き好んで六時前から起きている物好きなど、私を除くと知り合いでは宮原さんくらいだ。「どうかしたんですか?」 ただ話したいからという理由で電話をしてくる相手でもないので、単刀直入に聞く。「いや実はさ。いつもお世話になってるライブハウスのオーナーが、イベントに出てくれないかって」「いつですか」「明日」 唐突過ぎて迷路にでも吸い込まれた気分だった。「それこそ二人に連絡を取らないと。深谷さんはともかく、明峯さんは今日中に連絡が取れるかどうか」 それに明日は私自身予定があるため、時間によっては断らなければならない。通常ライブハウスのイベントは夜に行われることが多いが、明日は日曜日なので昼に開催される場合もある。母は夕方頃に来ると言っていたため、即座に断るにはまだ早い。「真央にはぶっつけ本番で歌ってもらうしかない」「いえそれは……」 難しいだろう。通常はライブに向けて喉の調子を整えてくものだが、今回に限っては