LOGIN【2016年2月15日(月)午後2時】新幹線で降り立った東京の空は、どんより曇っていた。まるで今の俺たちの状況を現しているかのように。深夜の3時ごろ、阿左美からChatworkに連絡が入ってきていたのを見て、慌てて帰ることになった。急なことで飛行機も取れず、新幹線で行くことになり、ようやく今の時間だ。本当はまだ、松山支社でやらなければならない処理が残っていた――俺に暴力行為を働きそうになった社員への処分や、円城寺椿らを含む反・大道寺家の社員への扱いについてだ。今ごろは、入れ替わりで秘書の佐伯が向かっている。佐伯には、支社長と協力して事態の収拾に当たるようには伝えていた。「悠真様、お任せください。私に秘策があります」佐伯はLINEで俺にそう言い、松山行きを自ら志願してきた。やつのことは信用ならなかったが、隆一とかいう得体の知れない男の支配下に置かれているよりは、まだ佐伯の手が加わった方がマシに思えた。バケモノにはバケモノをぶつけるような理屈かとは思う。ただ何かトラブルが起これば、それこそ佐伯を責めて、失脚させる理由になる。俺の心の内にはそういう打算もあった。香澄には、12日金曜日の夕方18時の段階で連絡は入れていたハズだった。“罠だ。隆一はもうここにはいない。東京にいる、気を付けろ!”それに対して、ちゃんと香澄から返信もあったのを確認していた。「わかったわ。ありがとう。こちらは吉田やあ~ちゃんもいるから心配しないで」そう返事を受け取ったが、違和感を感じるべきだったのだろうか。こちらが危機的状況を告げたわりには、やけに返答がアッサリしているようにも感じた。それに香澄が俺に「ありがとう」なんて返事を送ってくるのも、今考えればおかしな点だった。チームとして労う気持ちも芽生えたのだろうかと感じていたのだが……まさかsophilaなんて別人格と入れ替わっていたなんて、誰が想像できただろうか?その香澄の返信を信じたし、何かあれば、彼女たちの隣の部屋に住まわせた吉田と阿左美も助けになってくれるだろうとは思っていた。それで週明けまで松山にいる予定だったのに。まさか日曜の夜の間に、すべてが一変するような出来事が起きるとは思わなかった。「まずは、sophilaたちのマンションへ向かうのが先か。大道寺、場所は把握していたはずだよな」隣のbearが言う。「あ
「いい子だ、sophila。では、双子を奪いなさい」隆一の命令に、香澄――sophilaが即座に反応した。まるで感情が無いような冷酷な表情で近づいてくる。私は蓮と菖蒲をぎゅっと抱きしめ、抵抗しようとした。「待って……香澄! やめて!」泣きじゃくる双子を、sophilaが強引に奪おうとする。いつもの香澄より強い力だ。手加減というものを知らない乱暴さ。「お願い……香澄、戻ってきて……!」「香澄さん! 何やってるんスか!?」吉田さんが、慌てて助けに来ようとしたが、途中でいきなり、バタン! と床に倒れた。意識が戻った五人組のうちの一人に、足を捕まれたようだ。「いっつ……! あ~ちゃん、何とかならないっスか!」末継さんが叫ぶ。「無理よ! sophilaは完全に、敵にコントロールされてる! 香澄さんの意識は今、深く眠ってるわ」隆一が笑った。「双子を、こちらへ」sophilaの腕が、私から蓮と菖蒲を引き剥がそうとする。私は必死に抵抗した。蓮の小さな手が、私の服を掴む。菖蒲も泣きながら私にしがみつく。だが、sophilaの力は強かった。蓮が私の腕から引き剥がされる。「蓮! いや……! 返して!」sophilaは、泣き叫ぶ蓮を隆一に渡した。蓮を抱き上げる隆一。「こいつが大道寺家に産まれた男子……怯えて泣いているのか。恨むなら、自分の血を恨むんだな」次は菖蒲……! sophilaの手が、菖蒲に伸びる。その瞬間――。「待つっス!」吉田さんが飛び出してきた。敵に捕まっていたはずだが、何とか振りほどいてこれたらしい。sophilaの腕をつかむ。「香澄さん! こんなことやめるっスよ!」末継さんも素早く動いた。sophilaの背後に回り、首筋に手を当てる。「sophila、止まりなさい」何をしたのかわからないが、sophilaの動きが一瞬止まった。私は菖蒲を強く抱きしめたまま、sophilaから離れる。隆一が眉をひそめた。「邪魔だな」起き上がった五人組の影が、吉田さんと末継さんへ向かう。「コーちゃん、菖蒲ちゃんを守って!」「わ、わかったっス!」吉田さんが私の前に出て、庇う。末継さんは、手で何かの印を結んでいる。「ハッ!」と叫んで結んだ印を敵に突き出すと、まるで強風でも吹いたように、迫ってきていた影の人物が後方へ押し出され、背中から倒れた
「私はもう一人の香澄、sophilaよ」そう言った香澄は、私の知っている香澄とは完全に別人だった。いつもオタクっぽくて、中二病っぽいところもあるけれど、ここまで雰囲気が違うことは初めてだ。まるで女優のように違う人物を演じているような。ただ、侵入してきた五人組を撃退した彼女は、まるで容赦がなかった。強くて、カッコよかったけど、同時に「怖い」という感情も湧いた。「血が出てるよ……大丈夫?」さっきナイフを持っていた五人組のうちの一人から、思いっきりお腹に膝蹴りを食らったところも見ていたし、その後、壁に背中をぶつけたところも見ていた。私自身も突き飛ばされ、肩から床に倒れた痛みがまだ残っているのに、彼女はそれ以上に辛い筈だ。けれど、香澄――いや、sophilaと名乗った彼女は、ニッコリ笑う。そして抱いていた蓮を私に差し出した。「すぐに終わらせるから。そうしたらすぐに、香澄を返してあげる」「終わらせる……って、何を?」妙な胸騒ぎがした。sophilaは、一体何をしようとしているのか……。「決まってるでしょ。侵入者たちを殺さなきゃ。あいつら、すぐに目覚めてまた襲ってくるよ」と、私に背を向けると、床に落ちた敵のナイフを拾い上げるsophila。「ま、待って! そんなことしなくても……嘘でしょ、やめて!」私の叫びに、振り返るsophila。キョトンとした顔をしながら。「どうして? こいつら、遥花と双子を襲った危険なやつなのよ」「そ、そうだけど……もう警備会社の人たちも来るはずだから! 殺したりなんかしたら、香澄……sophilaが悪者になっちゃうよ!」「警備会社? ごめんね遥花。警備会社の人は来ないんだ。だって、私がハッキングして、来ないようにしたから」……え? 何を言ってるの……?と、警報のサイレンと赤い警告灯が同時に止まる。部屋には双子の鳴き声と、五人組のうめき声だけが響いていた。「さて、と。じゃあすぐに楽にしてあげるね……」ナイフを持ったsophilaが、五人組のうちの一人の元へ向かう。心臓を目掛けて、ナイフを構えた。「だ、ダメ……やめてーっ!」と、私が叫んだとき、ベランダの外から、新たな人物が入って来た。すぐにsophilaは反応するが、新たな侵入者の方が動きは速い。sophilaがナイフを持つ腕を素早くつかみ、締め上げた。「うっ
警報のサイレンが部屋中に轟き、赤い警告灯が壁を血のように染めていく。蓮と菖蒲の泣き声が、それに重なる。割れた窓から吹き込む冷たい夜風が、カーテンをはためかせ、ガラスの破片を床に散らす。五つの影が、双子を抱えてベランダへ向かおうとしている。そして愛する遥花は床に倒れ、肩を押さえてうめいている。状況は最悪。そんな中で私――sophilaは目覚めた。いや、これは正確ではない。私の意識は常に香澄と共にある。状況が最悪なのもわかっていたし、今何をしなければいけないかもわかっている。"遥花を、双子を助けたい”香澄は私にすべてを託した。影の5人から双子を取り返す。香澄はそれを望んでいる。私は、香澄が望むことをやる。五人の影は、プロだ。黒いマスク、手袋、そして無駄のない動き。一人ひとりが、訓練された体躯を持っている。私には武術の知識がある。香澄が昔、格闘ゲームやアクション映画、雑学本で覚えた技の断片――『ストリートファイター』の“昇龍拳”、『鉄拳』の“風神拳”。映画で見たジャッキー・チェンの"酔拳"。すべて、香澄の記憶の断片。ほとんど忘れていたものだが、私の潜在意識にはすべて残っている。私はそれを取り出し、体に落とし込む。でも、体は香澄のもの。体は鍛えていないし、筋力はない。技は出せても、見よう見まね。威力は半分だ。それでも、香澄の願いのためなら、やるしかない。幸いなことに、相手はこちらが非力な女二人だけだと思って、油断してこちらに背中を見せている。最初の一手で、すべてが決まる。最初に、蓮を抱えた右端にいる人物から攻める。一気に間合いを詰め、ターゲットの首筋に手刀を入れる。雑学本で読んだ「気絶技」の応用だ。敵の体がガクンと傾き、蓮を抱えた腕が緩む。私は素早く蓮を受け止め、敵を床に押し倒した。ドサッ、と音を立てて気絶。蓮は私の腕の中で泣きじゃくるが、怪我はない。まずは一人目だ。他の数人が振り返る。「何ッ!?」「女が……!」と驚きの声を上げるが、遅い。そばにあったクッションの上に蓮を優しく置き、次は菖蒲を抱えた人物の背後に回り込む。相手が振り向く前に、背中の腎臓付近に肘打ち。映画で見た「急所攻撃」。普段なら絶対にやってはいけない危険な技だ。相手がうめき、菖蒲を抱えた腕が震える。私は菖蒲を奪い取り、敵の膝裏を蹴って崩す。二人目。三人目が、菖蒲を腕に抱えたままの
【2016年2月15日(月)午前2時】窓ガラスが砕け散る音がしたと同時に警報が部屋中にけたたましく響き渡り、部屋全体に赤い警告灯が点滅し始める。あまりの衝撃でベビーベッドの蓮と菖蒲も目を覚ましたのか、すぐに二人の泣き声が重なって部屋中に広がった。「うわあああ!」「きゃあきゃあ!」――いつもの可愛らしい声じゃなく、恐怖に満ちた本気の叫びだ。例の襲撃から警備会社を入れたけど、こんなに騒がしくなるなんて。パニックになりかけながらも、咄嗟に遥花を抱き寄せた。「あ、あなたが隆一? と、とうとう来たわね……すぐに警備員が駆け付けるわよ。こんな強引な手を使って、どうする気……?」窓の外にいる、まるで悪夢から這い出してきたような黒いシルエットに向かって叫ぶ。震える声で、心臓が喉までせり上がるかと思いながら。クリスマスの夜、神崎にナイフを突きつけられた恐怖がフラッシュバックする。でも、大丈夫だ……いつこうなっても良いようにと何度もシミュレーションした。部屋には催涙スプレーなど武器もある。相手はたった一人、大丈夫だ、私たちで撃退できるはず……。だがその直後、ベランダにロープが引っかかる音がして、複数人が登ってくる。やがて窓から手を突っ込んで鍵を開けると、部屋の中に侵入してきた。黒いマスクと手袋、動きに無駄がない。全部で5人もいる。「さすがにそっちも数を揃えてきたってわけ……?」恐怖で声が上ずる。体がすくんで、足も動かない。その間に敵は部屋に入り、ジリジリとにじり寄ってくる。彼らがすぐ近くまでやってきて、遥花をかばいながら、私は目を閉じることしかできない。……が、私たちに興味も示さず、彼らはすぐ横を通り抜け、ベビーベッドへ向かった。そして一人が泣き叫ぶ蓮を、そして別の一人が菖蒲を抱き上げた。「ま、待って……私たちの大事な子供たちよ……連れていかないで、お願い!」泣いて懇願することしかできないなんて。しかし、黒い影たちは一切耳を貸さない。まるで感情のないロボットのように動き、泣き叫ぶ双子を連れてベランダから出ていこうとする。「……ダメ! 返して!」咄嗟に私の腕の中から離れた遥花が、双子の片方を抱く影に飛びかかる。ダメだ、無茶だ!「……きゃっ!」ドタン!案の定、傍らにいた別の人物に突き飛ばされ、肩から床に倒れる遥花。その瞬間、私の中で何かが弾けた。――お
【2016年2月14日(日)】双子が生まれて4ヶ月。蓮も菖蒲も首がすわり、寝返りを打ち始めた。少しずつ「人」になってきている。今日も二人はベビーベッドで並んで、ぬいぐるみを蹴りながら「キャッ、キャッ」と声を上げている。徐々に表情も豊かになり、今は楽しそうに笑っている様子だ。香澄は契約社員になって在宅勤務が増えるはずだったのに、逆に忙しくなった。朝から晩までパソコンに向かい、ブツブツ呟いているかと思えば、急に「ちょっと出かけてくる!」と飛び出していく。そんな風に忙しい香澄の代役として、先月の半ばあたりからベビーシッターさんも来てもらうようになった。おかげで育児ストレスはあまり感じずに過ごせているが、一体、香澄は何の仕事をしているのか。尋ねても「地球の平和を守ってるのです!」なんて誤魔化すばかりだ。「香澄、日曜なのに、また出かけるの?」「うん、ごめん! 今日は絶対早く帰るから!」今朝も香澄はそう言い、慌てて玄関を飛び出していく。「あっ、遥花! 玄関ドア用の補助ロック、絶対に忘れちゃダメだからね!」でも、そういう注意はいつも忘れずに。留守が増えても、私たちのことを大切に思ってくれてるんだという気持ちは伝わってくる。だから今日は、特別なことをすることにした。今年で65歳になるという、紫パーマヘアーのベビーシッター・万田(まんだ)さんに双子の面倒を見てもらい、自分はキッチンに立つ。オーブンを170度に予熱し、バターとビターチョコを湯煎で溶かす。香澄が好きだから、チョコは70%のビターを多めに。溶けて艶やかになったチョコの、甘い匂いが立ち上る。卵を割り、黄身と白身を分けて、白身はしっかり角が立つまで泡立てる。砂糖を加えながら「香澄、喜んでくれるかな」と呟く。黄身にチョコと溶かしバターを合わせ、小麦粉をふるい入れ、ゴムベラでさっくり混ぜる。最後にメレンゲを3回に分けて加え、ツヤツヤの生地を型に流す。焼けるまでの40分、キッチンに広がるチョコの香りに胸がきゅんとする。焼き上がったガトーショコラはふわっと膨らみ、表面にぱりっとした皮。ナイフを入れると、しっとり濃厚な香りがもう一度立ち上った。香澄の好きな、ほんのりビターな味。今日だけは、全部香澄にあげたい。万田さんは、「まあ、遥花ちゃん上手! 香澄ちゃん喜ぶわよ~」と笑ってくれた。双子も喜ぶように、