LOGIN【2025年4月】都内勤務になったのは、つい最近のことだった。佐伯敏夫の働きかけで、ようやく松山支社から、念願叶って進出することができた。円城寺椿、もう33歳、独身。恋人なし。鏡に映る自分は、昔よりずっと疲れた顔をしている。それでもメイクはバッチリ欠かさない。ようやくあの人に会えるのだ。路線は初めて乗る武蔵野線。行先は府中刑務所――隆一様が捕らえられている場所だ。そこで私は、「内縁の妻」だと申し出て、面会することが許された。当然ながら、受刑者との面会なんて人生で初めてだ。それに隆一様と会うのも、もう9年ぶり。まずはお互いのことがわかるだろうかという不安もあった。面会室の椅子に座り、しばらく待つ。館内はBGMがかかってるわけでもなくとても静かで、時計の針がカタッと動く音すら聞こえるほどだった。やがて、刑務官に連れられて、囚人服を着た初老の男性が現れた。その姿を見て、絶句してしまう。面会室の向こうに座る彼は、もう60過ぎではあるけれど、頬はこけ、目も虚ろで、見た目は70代、80代にも見えるほど老け込んでいた。あの頃の、鋭く冷徹な眼光はどこにもない。当然ながら、トレードマークの帽子はかぶっていない。短く刈り揃えられた髪の毛は、グレーだった。「隆一様……」声を震わせた。彼は、ゆっくりと顔を上げた。その目に、わずかな光が宿る。「椿君か……9年ぶりだな」何を言えばよいのか。言おうと思っていたセリフは、先ほどの衝撃のせいですべて頭から抜けてしまった。パクパクとコイのように口を動かしながら、辛うじてこう言う。「ええ……隆一様、がいに(物凄く)、お齢を召されたようで……」隆一様は、フフフと笑って、多少、ゴホッ、ゴホッと咳き込んだ。「見た通りだ……すっかりジジイだろう」認めたくないが、彼のその手もシワだらけだ。息が詰まりそうになる。「椿君、君はとても魅力的な女性になったようだな。まるで孫みたいに思っていた可愛らしい娘が、すっかり大人の女性となって。見違えるようだ」だが、そうして私のことを褒めてもらうと、胸がキュンとする。大人の女性だなんて。例えお世辞だとしても、大好きだった人に私が重ねてきた年齢をそうポジティブに評価してもらえるのは、嬉しくてたまらない。「ずっと……隆一様を待っとったんよ」最初に言おうとしていたセリフを思い出して言うと、彼は苦笑
事件から1年が経ったのに、香澄の体はまだsophilaの人格に支配されたままだった。sophilaはいつも優しかった。菖蒲を抱き上げては「大きくなったね」と微笑み、蓮には新しいおもちゃを用意してくれた。でもその笑顔の奥に、どこか寂しさが漂っているのがわかった。相変わらずミルクやおむつの世話はしてくれるけど、自分の子に接しているというより、ベビーシッターのようにただ世話をするだけ。香澄みたいに「双子のヒーロー! 今日は何して遊ぼうか?」とか、「んー! 今日もプリキュアみたいにかわいいぞう!」とかは、もう言ってくれなくなった。ある日、sophilaが静かに言った。「遥花、悠真との再婚、考えてみない?」驚いてsophilaを見る。「どうしてそんなことを……」「香澄はもう戻らないかもしれない。だったら、遥花は幸せになるべきだと思うの。悠真は、遥花を愛してる。毎週会いにくるたび、彼の仕草や言葉からそれが読み取れる。心理学の本に書いてあった通りに」sophilaが、人並の恋愛というものについて知りたくて、最近そういう本を読み漁っているのは知っていた。でも、私との関係を守るためにそうしてくれたのではなかったのか。「そんな話、悠真は一言も……」「香澄と遥花の関係を気にして言えないだけよ。でもここは悠真と"元サヤに戻る”方が、蓮と菖蒲のためにもなるんじゃないかしら」sophilaの言葉は優しかったが、"元サヤに戻る”だなんて。きっと心理学の本に書いてあった覚えたての言葉を使いたかったのだろう。香澄なら、絶対にそんな言葉は使わなかった。人と人との関係なんて常に変化していく。"元サヤに戻る”なんてあり得ない。「sophila、あなたは私のこと、どう思ってるの? 本で勉強して、あなたの気持ちにも整理はついた?」sophilaは、少しだけ目を伏せた。「私は香澄の守護者だから。香澄が愛した人を守りたいと思う」その言葉に、半分はホッとしながら、半分は違和感を覚えた。彼女が私を必要としてくれているのは理解できたが、このモヤモヤする気持ちの正体は一体何なのか……。それから少しずつ、亀裂が生まれていった。sophilaは変わらず優しかったが、私との会話は減った。双子が寝静まった後の、夜の営みの時間も。それまではぎこちないながらも続けてくれていたが、ある夜の行為の後、
【2017年2月】隆一の逮捕から1年が過ぎた。「叔父貴~! おはようございますっス~!」「……って、何が"おはようございます”、だ! 20分遅刻だぞ!」そして俺のオフィスで、吉田幸太郎が秘書として働き始めてからは約3ヶ月になる。甥っ子をステアリンググループに巻き込むのは気が進まなかったし、姉の遺言にも反するようで気が咎めたが、ただこれは幸太郎自身が志願したことだった。「電車が遅れたんスよ~、LINEしたじゃないっすか」「ほう、何線が遅れたんだ? お前が使ってるのは中央線だろう。確かによく遅延も発生する路線だが、今日に限っては遅延情報なんて出ていなかったぞ」「ギクゥ! ……そ、そんな……細かい情報調べないで欲しいッス……」「だったら遅刻なんてしないことだな。俺は叔父として、お前を立派に育て上げる義務がある。何よりお前、半年後に阿左美と結婚するんじゃなかったのか?」そう言うと、だらしなかった幸太郎の表情も急にキリッとなる。「結婚、するッス! ようやく向こうのご両親にも許可が降りたんスからね……いやぁ、大手IT企業の社長令嬢と結婚ってワケっスから、さすがに大道寺家の一族だって秘密もバラさないわけにはいかなかったっスよ~。無事安定した職にも就けて、叔父貴には感謝しかないっス」急に揉み手しながらすり寄ってくる。……ったく、気持ち悪いやつだ。「あ、そう言えば叔父貴、テレビ局からオファー来てるっスよ。『ステアリンググループの御曹司、社内に潜むテロリスト逮捕から1年――当時の様子を徹底取材』って!」「……何? またかよ」その手のオファーはすでに何度か来ていた。ただ、社内からテロリスト――"隆一”を生み出してしまったことは、ステアリンググループの汚点でもある。世に出すとしても慎重にならねば。「ただ今度のテレビクルー、なんか熱心なんすよね……『悠真さんとは会ったことがあるから。"一昨年のマンションキーの借りパク事件”って言えば伝わるハズだから』、って」「"マンションキーの借りパク事件”……ゲッ、まさか例のテレビクルーか?」最悪じゃないか。俺を軽犯罪者としてネタにした連中だ。まぁ、自業自得と言えばそうだが……。「『汚名返上にもなるいい機会だからぜひ受けて欲しい』って。どうするっスか?」なるほどな、ものは言い様だ。だが、ここはあえて受ける方が良い場合
俺たちは屋上へ駆け上がった。数百メートル離れた遠くの夜空に、ヘリの赤い航行灯が点滅しているのが見える。隆一は、まだ屋上の中央に立っていた。逃亡する前に何とか間に合いはしたが、やつの周りを黒い戦闘服の戦闘員が3人、銃を構えて囲んでいる。海外の組織か……まさか会社の金で雇ったんじゃないだろうな?「ほう、大道寺悠真とその仲間たちめ、生きていたのか。だが、そうでなくては面白くもない。天が我らを選ぶか、お前たちを選ぶか。奇しくもこちらは4人、お前たちも4人。正々堂々、ここでしっかり決着といこうじゃないか」「何が正々堂々だ、武器を持ってやがるクセに……」が、不利な状況はそれだけじゃなかった。「sophila……おい、どうした! そっちへ行くな!」bearから離れたsophilaが突然、隆一の元へ歩いていく。隆一は両手を広げ、sophilaを腕の中に抱きしめた。隆一に抱かれながら、唇と唇で熱くキスを交わす隆一とsophila……まさか、また洗脳ってやつか!?「おっと、5対3か。やはりsophilaは私が作った傑作だよ。私の姿を見たり、香水を嗅いだりすると、従順に従うよう躾けておいた。その甲斐があったな」「クソッ、やっぱり連れて来なきゃよかったじゃねえか……!」これが絶体絶命というやつか……。「おい、大道寺悠真。こんなことで諦められては困る。仕事も収まっていなければ報酬もまだだからな。俺はどんなことがあろうと、任された仕事を最後までまっとうする主義だ」と、bearが柔道の構えを見せる。銃相手に肉弾戦……無謀でしかない。が、俺は見逃さなかった。bearの構えを見て、敵が一瞬怯んだのを。外国人は日本人の柔道を恐れると聞く。まだ、勝機があるかもしれない。「行くぞ」そんな声が聞こえたかと思ったときにはすでに、bearは戦闘員に向かって突進していた。素早い動きで最初の戦闘員の銃口を掴み、大外刈りで投げ飛ばす。銃が床に落ち、戦闘員が倒れる。次の戦闘員が慌てて銃を発砲するが、照準が合わず、弾は虚空に消える。bearは払い腰でその戦闘員を宙に舞わせ、床に叩きつけた。「馬鹿者、何をやっている!」隆一が叱咤し、三人目の戦闘員がbearに発砲する。bearは避けようとしたが間に合わず、肩に被弾した。「ぐっ……」呻いて、床に転がるbear。床に血が溢れていく。「be
救出された俺たちは、佐伯から酸素スプレーを支給された。 「一酸化炭素の中毒症状には酸素補給が不可欠です。さあ早く使ってください」 「あ、ああ……助かった。てか、何でこんなものを。まるで俺たちが排ガス攻めに遭うってわかってたような感じじゃないか……」 「わかるわけありませんよ。ただ、阿左美様から指示を受けたのです。できるだけ多く持っていくように、と」 なるほど、またあいつのオカルトパワーに助けられたってわけか……。 お陰で俺とbear、遥花はほぼ復活した。蓮はなるべくガスを吸わないよう守られてはいたものの、不快感が取れないのか、一向に泣き止まない。大事をとって、遥花と蓮は田中と共に車へ戻り、車で病院へ向かうことになった。 排気ガスを一番吸ってしまった香澄も気を失い、「こいつも病院へ運んでくれ」とbearが抱きかかえようとしたが、その直前で目を覚ました。 「香澄……大丈夫なのか?」 尋ねると、 「香澄は眠っている。私はsophila」 また、人格が入れ替わったのか……。 「無理はするな。意識はあっても、お前のダメージが一番大きい。ここは離脱した方がいい」 bearにもそう諭されたが、 「ダメ。香澄に、"あとは、お願い”って言われたから」 と言って聞かなかった。 かくして、俺たちは4人で隆一の後を追うことになった。俺、佐伯、sophila、bear。またよくわからないパーティだ。 この面子だけで隆一が捕まえられるのか。隆一が犯罪者であることがハッキリした以上、警察の協力も要請すべきだろう。 が、先ほど別れる前、田中から止められた。「あれだけハデに入口を壊しておいて、我々が被害者だって堂々と言えますかね……」と。 「そもそも警察なんかの介入が入れば、マスコミにもバレます。国内大手グループの御曹司が、こんな平日の夜中に東京湾の倉庫で何を騒いでいるのかと株主にもとがめられますよ」 佐伯からもそんなことを……。「こっちは密室に閉じ込められて、あわや殺されるところだったんだぞ?」と反論したが、 「だから私が、早急に松山での処理を切り上げ、トンボ返りで救出に来たのではありませんか。それに悠真様、昨年のクリスマスの時だって、テレビクルーから鍵を奪った軽犯罪者だ、元妻のストーカーだとニュースになったこと、お忘れですか? 株価にも影響が出てしまいます
隆一の罠にはめられ、危うく人格が崩壊するところだった。けれどなんとか、まだ私は私の意識を保てている。心の中からsophilaの心配そうな声が聞こえる。私は香澄……遥花を愛し、双子を我が子として育てる香澄だ。大丈夫、私は消えたりなんかしない。けれど、それ以上の危機が目の前に迫ってきている。囲いがなくて気づかなかったが、隆一が立っていた場所は作業用のエレベーターになっていた。古いデザインで、現行の法律では違法となる設備だ。あのエレベーターが、この部屋から抜け出すための唯一の手段だった。扉もシャッターで閉じられた今、ここは完全な密室になってしまっている。そんな中に私と蓮、遥花、大道寺悠真、そしてbearは閉じ込められた。「あいつ、毒ガスをまくって言ってたけど、一体どうやって……」悠真が言う。確かに、倉庫に毒ガスをまく設備なんてあるわけが……と思っていると、何やら異臭が広がり始めた。最初は排気ガスのような、甘く腐った匂い。やがてそれは濃くなり、鼻腔を刺す刺激臭に変わった。喉の奥が焼けるように熱くなり、咳が止まらなくなる。「この匂い……一酸化炭素だ!」悠真が叫んだ。隆一の笑い声が、天井の隙間からまだ響いている。どうやら倉庫の換気ダクトを逆流させるように、隆一は外に置いた車両の排気管か何かを室内に接続していたらしい。シャッターが完全に閉まった今、排気ガスは逃げ場を失い、部屋に充満していく。 「毒ガスじゃなくて排気ガスじゃねえか。誇張しやがって……」「でも、息が……苦しい……」遥花が膝をつく。一酸化炭素でも、人体には十分毒になりうる。私も蓮にガスを吸わせないようガーゼを当てたが、苦しそうだ。赤ちゃんの小さな肺は、大人より早く酸欠になる。「クソッ、なんだこのシャッター!」悠真はシャッターを叩くが、金属音が響くだけで、びくともしない。「……どいてろ! ええい!」bearが叫び、近くの窓にコンクリートの塊を投げつける。だが、隆一が事前に強化していたのか、へこみすらしなかった。「……いや、まだ諦めるな。外には田中がいるハズだ……おい、早く来い! シャッターを開けろ!」悠真はスマホに向かって叫んでいる。やがて、扉のシャッターを叩く音がした。良かった、これで助かる……と思いきや。「ダメです、開きません! 開閉ボタンが効かなくなってます!」ドアの外から







