その二文字は、目に見えぬ刃のように瑠璃の心を切り裂いた。彼女は隼人が何の迷いもなく背を向け、こちらを一瞥すらしなかった姿をじっと見ていた。——隼人、やっぱりあなたは、あのとき私がついた冷酷な嘘を信じたのね。「どうやら、彼は君のことを思っているほど深く愛してはいなかったようだね」瞬は穏やかに笑いながら言った。「重要な取引相手と少し話がある。君はここで軽く食事でもして待っていてくれ。すぐ戻るから」瞬はそう言ってその場を離れ、瑠璃は茫然とその場に立ち尽くしていた。彼女は長テーブルへと歩み寄り、ワインを一杯手に取って一気に飲み干した。だが、その味にもう甘く芳醇な香りは感じられず、ただひたすらに胸の奥へと染み入るような苦味だけが残った。「ねえ、あれって碓氷千璃じゃない?」「彼女って一体誰の女なの?数ヶ月前に目黒隼人と結婚したばかりじゃなかった?なんで今は隼人の叔父の目黒瞬と一緒にいるわけ?」「さすが名家、ゴタゴタしてるわね。隼人と瞬が彼女を巡って仲違いしたって噂もあるわよ。今は表向きは仲良く見せてるけど、本当は犬猿の仲だとか」「やっぱりね、絶世の美女ってのは災いの元よ。綺麗な女ほど毒があるって言うし!」「ほんとよ、あの顔、まるで魔性の女そのものじゃない?」悪意に満ちた噂話が耳元に響いた。瑠璃は優雅にワイングラスを持ち、静かに振り返ってその数人の名門夫人たちに向き直った。「皆さんの言いたいことはよく分かりました。私の容姿を褒めたいなら、遠回しに言わずにそう仰ってくださればいいのに。誰だって知ってるでしょう?魔性のって顔が特に美しいことで有名なんですよ?」「……」「……」その数人の夫人たちは気まずそうに顔をしかめ、小声で文句を言いながらそそくさとその場を離れた。瑠璃は、彼女たちに反論したせいか、あるいは違う理由か、自分でもよく分からないまま、胸がどこか詰まるように苦しくなっていた。もう一杯ワインを飲んでその苦しさを紛らわせようとしたが、逆に胃のあたりがますます気持ち悪くなった。気分転換に外の空気を吸おうと身を翻した瞬間、隼人がロングドレスをまとった一人の女を伴って入ってくるのが目に入った。瑠璃はその女に目を凝らした。どこかで見たことがあるような気がする。でも、はっきりとは思い出せなかった。
男の声が耳元に滑り込んできた。いつものように低く、色気を帯びた清らかな響きだった。瑠璃の心臓は、どくんと重く鳴った。目黒夫人。彼はそう呼んだ。だが、その「目黒夫人」という言葉には、一体どんな意味が込められているのか。瑠璃は目の前のこの世のものとは思えないほど美しい顔をじっと見つめ、そっと息をついた。彼の服装からしても、今夜の入札に参加するために来たのだろう。こうして悠々と現れたところを見るに、体調には何の問題もないようだった。「目黒夫人、大丈夫か?」隼人はうっすらと微笑みながら口を開いた。瑠璃は首を横に振った。「大丈夫」「大丈夫なら、手を離すね」その言葉とともに、彼が彼女の腰に添えていた腕はあっさりと離された。一片の未練も感じさせない手つきだった。瑠璃は隼人が背を向けて歩き出すのを見て、胸の奥が一気に冷え込んだ。きっと彼は、三ヶ月前の自分の冷淡さを信じ込んでしまったのだ。瑠璃は衝動的に隼人に真実を伝えたくなり、足を踏み出して彼の後を追った。「はや……」「千璃」悪夢のような瞬の声が突然割り込んできた。穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた彼は、瑠璃の細い腰にそっと手を添え、顔を近づけて耳元に唇を寄せた。「もし君が隼人にすべての真実を伝えようとするなら、もう二度と陽菜には会えなくなるよ」瞬の声は柔らかく優しかったが、言葉の裏には明らかな脅しと警告が込められていた。隼人は、さきほど瑠璃が自分の名を呼んだように聞こえ、振り返った。だが見えたのは、瞬が瑠璃を抱き寄せ、耳元で親しげに囁いている姿だった。「千璃、後悔するようなことはやめておこうね?うん?」瞬はそっと促した。「こういう場では楽しむのが一番。君が笑うと、どれほど綺麗か君自身は知らないだろう?」瑠璃は指を曲げて力を込め、どうにか笑顔を作って瞬に合わせた。目を上げながら、視線の端でこっそりと隼人の姿を追った。彼は背中を向け、誰かと楽しげに会話しているようだった。瑠璃はその場を離れ、瞬とともに会場内の人々と接した。数人が瞬に酒を勧めに来て、瑠璃の容姿や気品を褒めたたえ、「こんな美しい奥さんがいて羨ましい」と瞬の見る目を称賛した。瑠璃は作り笑いで応じ、どうにかその場をしのいだが、口実を見つけて離れようと思っていたところに、
その繊細で可憐な顔立ちは、日ごとに艶やかさを増していた。小さく整った鼻、桜色の唇――どこかに、隼人の面影が宿っている。陽菜はにこにこと笑い、大きな瞳を輝かせながら瞬のもとへ駆け寄った。「パパ〜!」瞬は手を伸ばして、彼女の柔らかな髪を撫でる。「いい子だ」そのやり取りを見て、瑠璃は眉根をひそめた。陽菜に「この人はあなたのパパじゃない」と教えたかった。けれど――彼女はまだ四歳の幼い子ども。兄と違い、大切に育てられたお姫様のような存在で、今の状況を理解できる年齢ではなかった。この場所から連れ出したい――その想いは募るばかりだったが、この屋敷の警備は異常なほど厳重だった。それからというもの、瞬は毎日瑠璃を陽菜に会わせた。時には泊まることも許されたが、部屋の外には常に誰かが見張っていた。数日後――テレビのニュースが流れ、瑠璃は思わず手を止めた。「郊外で車が爆発。車体は原型をとどめず、運転者の消息は不明。監視映像により、事故前の車両の姿が確認されました――」画面に映ったその車――間違いなく、隼人があの日乗っていた車だった。事故に遭った!?運転者は車内にはいなかったと報じられてはいたが、彼女の心は穏やかではいられなかった。その夜、彼女は悪夢を見た。血まみれの隼人が、傷だらけの姿で彼女の前に現れた。その目は、相変わらず深く、優しかった。しかし――どこまでも哀しげだった。「千璃ちゃん……本当に俺を愛していないのか?本当に……俺が死ぬことを望むほど、俺を恨んでいるのか?」「——!」瑠璃は叫ぶように目を覚ました。彼に連絡を取りたくても、電話はできなかった。せめて……と、律子に電話をかけ、隼人の様子をそれとなく尋ねてみた。律子は隼人を良く思っておらず、軽い口調で答えた。「アイツならM国に行ったらしいよ。なんかビジネスの話だって」M国に?その情報が本当なら、彼は無事ということ。瑠璃は胸をなで下ろした。陽菜のため、瑠璃はF国に留まり続け、外から見れば瞬と「仲睦まじい夫婦」として過ごしていた。けれどあの一件以降、瞬は彼女に関係を求めることはなかった。彼自身も何か忙しく動いている様子だった。彼女は毎日陽菜に会えたが、時間は決して一時間を超えず、すぐに連れ戻された。空いた時間、彼女は香りの調
護衛たちは口々にそう言いながら、次々と引き金に指をかけた――激しい痛みが、肩口の傷からじわじわと広がっていった。だが隼人は微動だにせず、止まることのない出血に目を落とした。頭の中には、瑠璃の冷たい眼差しと、突き刺さるような言葉ばかりが反響していた。そして彼の瞳には、次第に異様な光が宿り始める。千璃ちゃん……本当に俺を愛していないのか。もう、俺のことが……嫌いなんだな。俺が生きていることすら、もう……許せないのか。隼人は、血の気が引いた手でハンドルを強く握った。白い手の甲には、血管が浮かび上がる。次の瞬間――彼は襲いかかってくる護衛たちを見据え、殺意に満ちた冷たい瞳を光らせ、一気にアクセルを踏み込んだ。「――ッ!」前方にいた数人の護衛たちは避ける暇もなく、車にはね飛ばされた。もつれるように起き上がった彼らは、すぐさま車に乗り込み、隼人を追跡し始める。だが隼人にF国の道は不慣れだった。いつの間にか、彼は人通りのない郊外へと入り込んでいた。出血のせいで顔色はどんどん青ざめ、身体も冷え切っていく。視界すらぼやけ始めていた。「……千璃ちゃん……」隼人は、弱々しく呟いた。目の前に、まるで幻のように瑠璃の笑顔が浮かぶ。えくぼが愛らしく、柔らかな声でこう囁いてくる。「隼人、嘘だよ。私は……愛してる。愛してないわけがないもの」「……千璃ちゃん……」血まみれの手を伸ばして、虚空の幻影に触れようとした。その瞬間――「ガンッ!」車は正面から木に激突した。轟音とともに、車体がひしゃげる。護衛たちは一時追跡を見失っていたが、衝突音を聞きつけ、急いで方向転換した。音のする方へたどり着くと、目の前には炎が立ち上る光景が広がっていた。隼人の乗っていた車が、炎に包まれていた。「――爆発した!」大破した車、凄まじい炎――彼が生きているはずがなかった。護衛たちはすぐさま現場の映像を撮影し、瞬に報告を入れた。ちょうどその頃、瞬は瑠璃を連れて目的地に到着していた。報告を受けた彼は、動画を確認しながらも、表情は微動だにしなかった。「隼人がそう簡単に死ぬわけがない」そう判断した瞬は、現場を再度確認するよう護衛に指示を出した。そして、瑠璃を連れて、近代的な装いの別邸の中へと入ってい
隼人は突然立ち上がり、その目に鋭く尖った怒りの光を宿した。「……お前が、彼女に触れたのか」その声は低く、だが確実に怒りの炎を孕んでいた。次の瞬間、白く美しい手が瞬の襟元を掴み、怒りに震えた声が響いた。「千璃ちゃんは俺の女だ!よくも……よくも触れたな!瞬、殺してやる!」瑠璃は、隼人が突然激しい怒りをあらわにするのを目の当たりにした。彼は手を振り上げ、瞬を殴ろうとしていた。彼が拳を振り上げたその瞬間、背後から銃声が響いた。「パン!」瑠璃が反応するよりも早く、護衛のひとりが銃を構え、隼人の手を撃ち抜いた。真っ白な雪の上に、滴り落ちる血の色――赤と白のコントラストが、あまりにも妖しく、残酷に映った。瑠璃の目が痛むように潤み、心も引き裂かれるように苦しくなった。彼女は思わず駆け寄ろうとしたが、護衛に腕を押さえられた。「奥様、陽菜さんに会いたいのでは?今ここで隼人を助ければ、陽菜さんは二度とこの世に戻ってこないかもしれません」その隙に、瞬は血を流す隼人をあっさりと突き放した。彼女はさらに事態が悪化することを恐れ、慌てて声を張った。「隼人、死にたくなければ今すぐ消えて!二度と私の前に現れないで!」その冷たい叫びとは裏腹に、彼女の心は激しく震えていた。隼人は流れる血に染まった手を見下ろし、深く濡れた瞳で、遠くに立つ瑠璃をじっと見つめた。――ただの一瞥が、まるで時を止めるように長く感じられた。まるで万年の想いを一瞬に込めたような、そんな眼差しだった。瑠璃の心臓は狂ったように打ち続けた。彼がまだ諦めていないことを恐れ、これ以上彼が巻き込まれるのを避けたかった。だが――彼女は、何の合図も、救いの言葉も送れなかった。冷たく見える目で、彼を拒絶するしかなかった。「……わかった。消えるよ。もう二度と、お前らの邪魔はしない。たとえお前が俺をどんなに憎んでも……俺は待ち続ける」その言葉を残し、隼人はついに背を向けた。粉雪が舞い落ちる中、その背はどこまでも寂しく、どこまでも儚かった。瑠璃は、その姿を見つめながら――ついに堪えきれず、涙をこぼした。瞬はその様子を後ろから見て、再び目に不満の色を浮かべた。彼は無言で護衛に目配せし、その指示に従って、護衛たちは動き始めた。彼は無言で涙に暮れる瑠璃の手
瞬の言葉が何を意味するのか――瑠璃にはすぐに分かった。彼が言っているその人とは、間違いなく隼人のこと。そう思った瞬間、車が突然急カーブを切り、閑静な裏通りへと滑り込んだ。そして、急ブレーキと共に車は止まった。「選択肢は二つだ。一つは、あいつに完全に君を諦めさせること。そうすれば、今すぐ陽菜に会わせてやる。もう一つは――真実を話すこと。その場合、一生、陽菜には会わせない」瞬の声が、まるで悪夢のように瑠璃の耳元で囁かれた。彼女は唇をきゅっと引き結び、冷たく言い放った。「分かってるわ。いちいち指図しないで」そう言って車のドアを開けると、彼はさらに念を押した。「もしあいつを素直に退かせられなかったら、俺の方法で消すまでだ」瑠璃は一瞬足を止めたが、何も言わず雪の地面に足を踏み出した。キュッ、キュッ。足元で雪が音を立てる中、彼女は前方に停まっている車へと歩いて行った。その運転席に座る男の姿が、雪明かりの中で次第に明瞭になっていく。少しぼんやりとはしていたが、隼人の面影はすでに瞳の奥に深く刻み込まれていた。彼はF国の道にも不慣れで、瞬の車が急に裏道に入ったことにも気づけず、対応が遅れてしまった。そして今、彼は車から降りて、瑠璃を見つめていた。瑠璃は静かに深呼吸し、彼の前に立った。「もうついてこないでくれる?本当に……鬱陶しいの」冷酷な第一声だった。隼人は表情を変えずに彼女を見つめていたが、その胸はまるで氷の刃でえぐられるように痛んでいた。「千璃ちゃん……何か事情があるんだろ?」彼はそう問いかけた。瑠璃は鼻で笑う。「隼人、いい加減に現実を見なさい。私に何の事情があるっていうの?これはただの復讐よ。ただ、それだけ」「違う……君は復讐なんかしてない。きっと、何か理由があるんだ」隼人はそう言って、彼女の冷たい手をそっと掴んだ。「千璃ちゃん……教えてくれ。瞬に脅されてるんだろ?何を握られてる?一緒に帰ろう。お願いだ、家に帰ろう」祈るような目を向けてくる彼。その姿に、瑠璃はF国の冬の冷たさを骨の髄まで感じていた。彼の手を振り払って言った。「……私たちに、家なんてまだあると思う?昔、あなたに心から尽くしたわ。あなたとの未来を本気で信じてた。でも、あなたの子供を身ごもり、地獄のような日