窓を開けた瞬間、ひんやりとした海風が顔に吹きつけ、瑠璃の長い髪をふわりと揺らした。目の前には果てしなく広がる青い海。黄金色の陽射しが海面に降り注ぎ、風に揺られて水面には細かな波紋が広がっていた。岸辺のヤシの木も風に合わせてしなやかに揺れている。美しい風景だった。だが、ここは一体どこなのだろう?瑠璃は懸命に思い出そうとした。この場所に以前来たことがあるのかと考えたが、どうしても思い出せなかった。しばらくして、隼人が戻ってきた。彼は湯気を立てる海鮮ラーメンと一杯のぬるま湯を手にしていて、その整った顔には相変わらず淡い笑みが浮かんでいた。阳台の前で動かずに立ち尽くす瑠璃の姿を見て、彼は唇を軽く開いた。「千璃ちゃん、少しは食べなよ」瑠璃はまるで聞こえなかったかのように無反応だった。しばらくしてからようやく振り返り、鋭い眼差しを彼に向けた。「隼人、いったい何がしたいの?私をここに閉じ込めて、苦しめて殺す気なの?」かつての隼人は知らなかった。愛する人から向けられる憎しみに満ちた目が、これほど胸を貫くものだとは。「傷つけるつもりはない。ただ一緒にいたいだけだ。お前が俺のそばからいなくなるのが嫌なんだ」彼は穏やかに微笑みながら、柔らかな口調で気持ちを伝えた。「まずは何か食べな。丸一日眠ってたんだろ?お腹も空いてるはずだ。俺のことを憎むなら、せめて腹ごしらえしてから憎んでくれ」彼はラーメンと水の入ったコップを窓際のテーブルにそっと置いた。瑠璃はじっとそのラーメンと水を見つめ、次の瞬間、手を振り上げてそれらをまとめてテーブルから払い落とした。食器が砕ける音とともに、隼人の胸の中でも何かが粉々に砕けた気がした。「私はあなたの作ったものなんか食べない。隼人、あなたの顔も見たくない。愛してるって?笑わせないで。私はあなたなんか、ほんの少しの好意さえ持ってない!」隼人の胸に鋭い痛みが走った。この言葉、どこかで聞いた覚えがある。そう考えて記憶をたどると、かつて瑠璃に無理やり離婚届に署名させたとき、自分が彼女に投げつけた言葉と酷似していた。今、それがそっくりそのまま自分に返ってきたのだ。何倍にもなって。「出て行って!顔も見たくない!」瑠璃は憎しみをあらわにして叫んだ。「もう、あなたを死ぬほど愛していた瑠璃じゃない。
「千璃ちゃん、千璃ちゃん!」ぼんやりとした意識の中で、瑠璃は誰かが焦った声で自分の名前を呼ぶのを聞いた。なんとか目を開けようとしたが、どうしても開けることができなかった。昏睡状態に陥ったあと、瑠璃は長く続く夢を見ていた。一面の銀世界。冷たい湖に落ちた彼女は泳ぐことができず、必死にもがいて岸へと上がろうとしていた。その岸辺には隼人が立っていた。彼は気高く、どこか余裕を感じさせる笑みを魅力的な顔に浮かべていた。彼女は叫んだ。「隼人、助けて!」しかし男は微動だにせず、冷ややかな目で彼女を見下ろした。瑠璃の目にあった希望は少しずつ消えていき、全身が凍えるような冷たさに包まれていった。絶望の中で、彼女は蛍の姿を見た。隼人は蛍を腕に抱き、二人は目の前で甘く愛を見せつけていた。その瞬間、瑠璃の心も体も湖の底へと沈んでいった。そしてその時、隼人の氷のような声が彼女の耳に届いた。「瑠璃、よく聞け。愛なんて言うまでもなく、俺はお前のことを一度も好きになったことがない。ほんの少しも、ない」「ほんの少しも……ない……」彼の低くて落ち着いた声が悪夢のように瑠璃の耳にまとわりついた。突然、瑠璃は目を見開いた。彼女は上体を起こし、目を閉じて深く呼吸しながら、今のが夢だったことに気づいた。だが、その夢はあまりにも現実的で、胸がうずくように痛んだ。あれが、事故の後に失われた記憶なの?瑠璃は黙ってそう思った。「カチャッ」突然ドアの開く音がして、瑠璃はそちらを振り向いた。視線の先には、隼人のすらりとした姿があった。彼女が目覚めたのを見て、彼の整った眉間の険しさが少し和らいだ。「千璃ちゃん、目が覚めたんだな」隼人は柔らかな笑みを浮かべながらベッドのそばに来て、そっと瑠璃の手を握った。「千璃ちゃん、手が冷たいな。どこか具合が悪いのか?」瑠璃は無言のまま隼人を見つめ続け、その瞳には次第に憎しみの炎が宿っていった。彼女は突然手を引き、冷たい視線を彼に投げた。「隼人、もうその芝居はやめて。あなたが何を企んでるか、私がわからないとでも思ってるの?」隼人は空っぽになった手をそのままに、冷ややかな瑠璃の横顔を黙って見つめた。瑠璃は布団をめくってベッドから立ち上がり、警戒と憎しみに満ちた瞳で彼をにらみつけた。「あなたの
「……私は、あの頃のことなんて思い出したくもないし、思い出すつもりもないわ」瑠璃は隼人の腕を振りほどき、凍てつくような声で言い放った。「今の私は、あなたに対しては憎しみと嫌悪しか持っていない。それが、あなたにとっての答え。もう私の前に現れないで、二度と顔も見たくない」その瞳に一切の未練はなく、冷ややかな光を湛えたまま彼を一瞥し、くるりと背を向けた。「瞬、行きましょう」「うん」瞬は彼女のためにドアを開け、乗り込む前にふと隼人へ意味深い視線を送った。その眼差しには、明確な勝者としての余裕と嘲りが滲んでいた。「ゴロゴロ……」初夏の夜空を切り裂くように、雷鳴が鳴り響き、闇を引き裂いた。周囲の人々は雨を避けて走り出す中、隼人だけがその場に立ち尽くしていた。まるで魂が抜けたように、ただ雨の中に佇む彼の眼差しには、静かな絶望が宿っていた。瞳に溜まった水滴が、雨水に紛れて零れていく。目を閉じると、胸の奥に広がる傷だらけの記憶と苦しみが、鮮やかに浮かび上がった。彼の痛みなど、かつて瑠璃が受けた傷に比べれば――ほんの一部に過ぎない。……雷雨はすぐに止んだが、隼人の心の痛みは癒えることはなかった。そして翌日、彼はある知らせを受けた。――瑠璃が明日、君秋を連れてF国へ帰るという。それは、永遠の別れを意味していた。隼人の心は一気に乱れた。たとえ瑠璃が今の彼に何の感情も残していなかったとしても、君秋のことだけは違う。記憶を完全に取り戻したわけではないが、二重人格の記憶が交差した彼女には、君秋が我が子であることだけは深く刻まれている。隼人は急いで幼稚園に向かい、君秋を連れて行った。その夕方、瑠璃が幼稚園に着いたときには、すでに君秋は連れ去られていた。怒りが込み上げ、彼に電話しようとした瞬間――隼人の車が彼女の目の前に現れた。「千璃ちゃん……お前が明日ここを去ると知ってる。お前と君ちゃん、二人が景市にいる最後の夜――一緒に過ごさせてほしい」隼人の声は静かで、どこか切なげだった。瑠璃は冷ややかに見つめた。「……もし、断ったら?」隼人は一瞬視線を逸らし、苦笑した。「君ちゃんのために……きっと応じてくれる」その目には、どこか確信めいた光が宿っていた。彼女が返事をする前に、彼は車を降り、
来世では、二度と会わない。その言葉は、氷の刃のように鋭く、隼人の胸を貫いた。――まるで、あの日の再現だった。三年前。彼女は目が見えず、真っ暗闇の中、彼と蛍の婚約式に一人でやってきた。そのとき彼女は、病に蝕まれ、命の灯が消えかかっていた。それでも、彼女は力を振り絞り、消えそうな身体を震わせながら、彼に言ったのだ。「隼人、あなたがいてくれた日々には、感謝してる。たくさんの思い出をくれて、ありがとう。でももう全部返すわ――私の想いも、そして骨までも。これで終わり。今生では借りも返した。来世では、もう会いたくない」――そして今、彼女はまた、同じ言葉を口にした。万本の針が心臓を刺すような痛みが、倍になって彼を襲った。隼人は、スポットライトを浴びて立つ瑠璃の冷ややかで美しい顔を、ただ黙って見つめた。千璃ちゃん……記憶が戻ったんだね……そして……再び俺の前から去ろうとしているんだな……あの短い数日の蜜のような時間が、今ではまるで夢だったかのように儚く消えていった。ステージを降りた瑠璃を、夏美と賢が急ぎ足で追いかけた。「千璃!さっきのあの発言……もしかして、以前のこと、全部思い出したの?」瑠璃は穏やかに微笑んだ。「そう聞くってことは、以前の私が隼人をとても憎んでいたってことよね?」夏美と賢はしばらく黙り込み、やがて小さくため息をついた。「確かに……あの頃の彼は、あなたを本当に苦しめていた。でも、三年前のあの日を境に、彼は変わり始めたようだったの」「後悔?ふふ……」瑠璃は冷たく笑った。「私には、彼の後悔なんて必要ない。これからの私の人生に、隼人という存在は一切不要」その言葉が落ちきる前に――彼が現れた。いつも通りのスマートな佇まい。けれど、目元には深い陰りが漂っていた。瑠璃は一瞥しただけで、何も言わずに踵を返した。「千璃ちゃん……」彼が名を呼ぶ。低く優しい声――まるでそよ風のような響き。だが、瑠璃の足は止まらなかった。彼を見向きもしない。コートを羽織り、彼女は颯爽と出口へ向かった。初夏の夜空を裂くように、雷鳴が轟いた。まるで、この瞬間を象徴するかのように。隼人は瑠璃を追って正門までやってきた。彼女は道路の端に立っていて、どうやら車を待っているようだった。
「なるほどね、隼人様の事業が潰れたのも、こういう母親のせいかもね」「でも奥さんがあんなに優秀なら、また一からやり直すのも難しくないんじゃない?」観客たちのそんな囁きが耳に入ると、青葉の顔色は一気に引きつり、鞄を掴んでそそくさとその場を後にした。――これ以上ここにいたら、穴があったって入りたいぐらいだわ!「警備員さん、この卑劣な行為をした者を会場から退場させてください。試合を続行します」審査員の一人が鋭い視線を雪菜に向けながら、冷たく命じた。雪菜は唇を噛みしめ、両手を強く握りしめたまま、渋々と立ち上がった。「触らないで、自分で出ていくわ!」そう言い放ち、警備員を突き飛ばすようにして、しばらく瑠璃を睨みつけた後、悔しそうにステージを去っていった。隼人は彼女が去るのを見届けたあと、黙って瑠璃の手をそっと握った。「千璃ちゃん……なぜ、あんなに酷いことをされたのに、俺に何も言ってくれなかった?」瑠璃は静かに微笑んだが、その声にはどこか冷たさが滲んでいた。「女は、何でも男に頼る必要なんてない。まして、昔私を裏切った男になんて、もっと頼る気はないわ」「……」その言葉と同時に、彼女は隼人が握る手を迷いなく引き離した。一瞬にして、隼人の表情は凍りついた。心臓がどこかへ落ちたような感覚が彼を襲った。「千璃ちゃん?」隼人が静かに呼びかけるも、瑠璃は一言も返さず、颯爽と背を向けた。観客たちは目の前の異様な空気にざわめいた。えっ、何?ケンカでもしたの?さっきまであんなにラブラブだったのに……隼人は呆然とその場に立ち尽くしたまま、意識が戻るまでしばらくかかった。彼女は――また人格が変わったのか?いや、違う。もしそうなら、あれほど冷静にステージへ戻って試合を続けることなど、できるはずがない。隼人は、ずっと理解できなかった。全ての参加者がデザイン画を発表し、投票の結果が出て――瑠璃が圧倒的な票数で優勝したその瞬間、ようやく自分の心臓が動き出し、呼吸も戻った気がした。彼は、ステージ中央に立つ瑠璃を見つめた。彼女は二位、三位のデザイナーたちと共に壇上に立ち、スポットライトに照らされていた。その姿はまるで夜空に輝く星のようで、気高く、美しく、誰の目も奪う存在だった。流行中の若手俳優が彼女に
な、なに!?まさか瑠璃が、こんな公の場で自分のことを愚かと名指しで言うとは、青葉は思ってもいなかった。今でこそ身分は下がったが、ここ景市では――誰もが知っている。瑠璃は隼人の妻であり、彼女が「姑」と言えば、それはつまり、青葉自身のことだ。その瞬間、会場の空気がざわめき、知らなかった観客たちも口々にひそひそと話し始めた。隼人は無言のまま観客席に座っていたが、彼の端正な顔立ちには明らかな冷気が走っていた。前列に座っていた夏美と賢も振り返り、顔色を変えた。「青葉、またうちの娘に何か仕掛けたのか?さっき彼女がステージで言ってたこと……あれ、どういう意味なの!」夏美は鋭い声で問い詰めた。その一言で、周囲の観客も「やっぱり」「あの人が姑か」と理解した。注目と非難の視線が集まり、青葉は慌てて席から立ち上がった。「瑠璃!こんな場所で何を言ってるの!?恥を知らないのはあんただけよ!」瑠璃は眉を軽く上げ、冷ややかに言い放った。「面子が大事なら、姑として姪っ子と手を組んでこんな茶番を演じるべきじゃなかったわ」「な……何を!私はそんなことしてない!雪菜とも結託なんて……」「そうよ!瑠璃、いい加減にして!あんたが盗作したから、私が巻き込まれたの!」「巻き込まれた?」瑠璃は静かに口を開き、その瞳には鋭い光が宿った。「雪菜……あなた、本当に私をただのバカだと思ってるの?」その瞬間、雪菜はぎくりと肩を震わせ、一歩後ずさった。瑠璃の視線はまるで鋼のように鋭く、真っ直ぐ彼女を射抜いていた。「あなたとその姑様が結託して、ジュエリーデザイン決勝の舞台で私を潰そうとした――MLの専属デザイナーという私の名誉を、地に落とそうとしたこと、気づかないとでも思ったの?」なんだと!瑠璃にバレたのか?青葉と雪菜は完全に動揺していた。「私はね、最初からあなたたちが私の図案を盗もうとしていることを知っていたの。だから、あえて盗ませてあげたのよ。書斎のドアを開けておいたのも、パソコンの画面をそのままにしておいたのも、全部あなたのため。さらに、どの作品を使うかまで教えてあげた」「……」「あなたたちの考えはこうでしょ?雪菜に私のデザインを持たせて先に投稿させる。そうすれば、彼女がオリジナルになって、あとから同じデザインを出した私は