政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた

政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた

last updateLast Updated : 2026-05-26
By:  ひなた翠Updated just now
Language: Japanese
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「愛など、この契約には含まれていない」 冷徹なCEO・羽島陵との結婚は、母の命を救うための代償だった。半年間、透明な家具のように扱われ、夫は愛人であるモデル・アリスとの恋を公に謳歌する。 ある夜、嫉妬に狂った陵にパーティ会場の陰で手荒く抱かれ、詩織の心は完全に折れた。夫に刻まれた屈辱を、彼女はキャンバスの闇に閉じ込める。 「もう、この恋も終わりにしよう」 名前を隠し、画家として頭角を現していく詩織。彼女が鳥籠を抜け出し、世界で最も称賛される絵筆を手にしたとき、陵は初めて自分が失ったものの大きさに気づく。 「行かないでくれ。頼むから」 跪き、許しを乞う男。だが、かつての従順な妻はもうどこにもいなかった。

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Chapter 1

第一話「冷徹な夫と香水の棘」

 深夜一時を過ぎていた。

 リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。

 二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。

 詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。

 そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切り、温め直される時を失っている。冷えて乾いた米の表面が、窓からの青白い光をぼんやりと撥ね返していた。半解凍のように力なく沈んだ青菜の浸し。時間をかけ、彼の好物を揃えたはずの料理が、今はただ、闇の底に置き忘れられた残骸でしかなかった。

 朝、仕事に向かう彼は確かにそう言ったのだ。

「今日は早く帰れる」

 鏡の前でネクタイを締めながら、こちらを見もせずに放たれた、いつもの無機質な声。

 それでも詩織は、その一言だけで胸が弾むのを感じていた。夕食の有無を尋ね、「家で食べる」という短い返事をもらっただけで、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを抑えられなかった。彼を送り出してから、すぐに近くのスーパーへ買い物に出た。普段は慎ましく選ぶ食材を、今日だけは少しだけ奮発して。彼が美味しそうに食べてくれる姿を想像するだけで、キッチンに立つ時間は輝いて見えたのだ。

(馬鹿みたいだ)

 心の中で吐き捨てた言葉が、自身の喉を逆向きに削っていく。期待すればするほど、裏切られた時の痛みは鋭く、深く胸を刺す。

 その時だった。

 静寂を破るように、玄関の鍵がガチャリと、無遠慮な金属音を立てて回された。続けて、重厚な革靴がタイルを打つ重い足音。詩織の鼓動が、一拍だけ、不規則に跳ねた。

 リビングの扉が開く。

 パチン、と乾いたスイッチの音が響いた。

 突然、天井からの橙色の照明が部屋を満たし、暗闇に慣れていた瞳の奥が、きゅっと痛んだ。詩織は眩しさに目を細め、入ってきた男を見上げた。

「起きていたのか」

 低い、平坦な声だった。

 羽島陵はソファに座る詩織を一瞥したきり、それ以上目を合わせようとはしなかった。完璧に整えられたスーツに身を包み、隙のない姿のまま、ネクタイの結び目に指をかける。それを乱暴に緩めながら、彼は部屋の奥へと歩を進める。

「今日はお夕飯を食べるとおっしゃっていたので……」

 詩織は立ち上がり、できるだけ感情を均した、穏やかな声で言った。言葉の端が震えないよう、奥歯を噛みしめる。そのまま、あえて視線をダイニングテーブルへと滑らせた。冷えて乾き、見る影もなくなった食事を、せめて一度だけでも、彼の目に映してほしかった。

「そう、だったな」

 返ってきたのは、それだけだった。

 悪びれもせず、遅れたことへの詫びの一言もなく、陵はリビングを出ていこうとする。背を向けた彼の足音が階段を踏み鳴らし、やがて二階の扉がパタンと――やや拒絶を含んだ乱暴な音を立てて閉まった。家全体が、その衝撃にかすかに揺れた気がした。

 今夜早く帰る予定だったことを、彼はおそらく完全に忘れていた。

 あるいは、途中でどうでもよくなったのか。後ろめたさの欠片くらいは、胸のどこかにあったのかもしれない。けれど、それを言葉にして妻に届ける必要など、彼の中には存在しないのだ。

 詩織は、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出した。

 胸の奥で、何かが静かに冷えていく。それは鋭い痛みでもなく、烈火のような怒りでもない。もっと薄くて、けれど確かにはっきりとそこにある、「諦め」という名の透明な温度だった。

 その時――鼻先を、ふわりと、ある匂いが掠めた。

 彼が通り過ぎたあとのリビングに、重たく沈殿するように漂っている残り香。

 花。それも、フローラル系のなかでもひどく甘ったるく、粘り気のある――明らかに女性ものの香水だった。

 詩織の指先が、膝の上で小さく震えた。胃の奥が、冷たい氷を押し付けられたようにきゅっと収縮する。

(ああ、そういうことか)

 仕事が早く終わったから、別の場所へ行ったのだ。家で夕飯を待つ妻がいることなど、美しい誰かの隣では露ほども思い出さなかったのだろう。誰かと、とろけるような甘い夜を過ごしてきたのだ。

 所詮、自分はその程度なのだ。

 そう、その程度。彼にとっての自分とは、そこにいて当然の家具のような存在で、戻ろうが戻るまいが、心に波風一つ立たない、取るに足らない相手。

 冷え切った指先で、詩織は自分の左手の薬指に触れた。プラチナの台座が鈍い光を返す指輪。愛の証であったはずのそれは、今や重さばかりが意識される、冷徹な金属の輪でしかない。

(早く帰ってくれると思って、わざわざあんなに頑張って作って……)

 馬鹿だ。

 本当に、救いようがないほど馬鹿みたいだ。

 肺の奥から、乾いた笑いに似た息が漏れた。声にならないそれは、虚ろな沈黙の中にすぐさま呑み込まれていく。

 詩織はソファの肘に手をつき、立ち上がった。

 膝が、思いのほか強張っていた。冷えのせいか、それとも絶望を抱えて長く座り続けたせいか。視界が一瞬、ふらりと頼りなく揺らぐ。傾いだ身体を、テーブルの縁を掴んで辛うじて支えた。

 ダイニングに並んだ料理を、もう正視することはできなかった。

 自分の注いだ愛情と努力が、無惨なゴミとなって捨てられるのを認めたくなくて、視界に入れることすら耐え難かった。

 よろよろと、覚束ない足取りでリビングを出る。

 廊下の明かりはつけなかった。階段の踊り場から漏れる、陵がつけた微かな光だけを頼りに、彼が決して足を踏み入れることのない方向へ――家の奥、突き当たりの一室へと向かう。

 冷たいドアノブを掴み、一気に押し開けた。

 扉の向こうに広がるのは、彼の知らない世界だ。

 遮光カーテンを閉め切った部屋に、絵の具の匂いがふわりと頬を撫でた。テレピン油のつんとした刺激的な香り、リンシードオイルの油じみた重厚な重み。それらが混じり合った独特の芳香が、リビングに残っていた忌々しい女物の香水を、詩織の鼻先から静かに押し流していく。

 壁際に乱雑に並ぶキャンバス。過去に描き上げたもの、途中で投げ出したもの、完成して壁を向けられたもの。中央に置かれたイーゼルの上には、まだ何も描かれていない一枚の白い面が、窓の隙間から差し込む青白い月明かりの中で、ぼうっと神聖な光を湛えて浮かび上がっていた。

 ここだけが、誰にも侵されない詩織の場所だった。

 リビングと寝室、そして必要最低限の水回りしか歩かない男。この家の半分も、その主である妻の心の半分も知らないまま、彼は「自分の妻」と暮らしているつもりでいる。

(皮肉なものだわ)

 乾いた嘲笑が、胸の奥でこぼれた。

 詩織は、色とりどりの絵の具の染みが幾重にも重なった、古い大きなシャツを羽織った。袖に腕を通し、その重みを感じると、ほんの少しだけ、バラバラになりかけていた自分が自分に戻れる気がした。

 震える指で、パレットナイフを握る。

 パレットの端に、深い藍色の絵の具を絞り出した。続けて、寒々しい灰色、重厚な鉛白、そしてほんの少しの、血のような紅。それらが無言のままに混じり合い、詩織の心そのもののような、暗い諦念を煮詰めた色を作っていく。

 筆先を整え、真っ白なキャンバスの面に触れた。

 最初の一筆は、いつも寒気を感じるほどに震える。

 けれど、一度描き始めてしまえば、もう何も考えなくていい。陵への拭えない愛執も、蔑ろにされる屈辱も、言葉にできない醜い感情も、すべて。声にならない叫びを、ただ筆にのせて、純白の闇の中に塗り重ねていけばいいのだ。

 荒れていた息が、少しずつ、規則正しいものへと整っていく。

 窓の外で、冬の風が梢を激しく鳴らした。乾いた、冷酷な音。

 詩織はまばたきもせず、ただキャンバスの奥だけを見つめていた。視界の端に、自分の左手の薬指が映り込む。絵の具で汚れた指の中で、指輪だけが場違いなほどに、冷ややかに鈍く光っている。

(恋を……恋なんて、していなければ、もう少し楽だったのに)

 奥歯を噛み締め、筆を強く握り直す。

 どんなに冷たくあしらわれても、どんなに裏切られても、胸の奥に消えない熱がこびりついていることを、詩織はもう、認めるしかなかった。その消えない熱が、今夜も彼女に、救いのない絵を描かせるのだ。

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第一話「冷徹な夫と香水の棘」
 深夜一時を過ぎていた。 リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。 二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。 詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。 そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切り、温め直される時を失っている。冷えて乾いた米の表面が、窓からの青白い光をぼんやりと撥ね返していた。半解凍のように力なく沈んだ青菜の浸し。時間をかけ、彼の好物を揃えたはずの料理が、今はただ、闇の底に置き忘れられた残骸でしかなかった。 朝、仕事に向かう彼は確かにそう言ったのだ。「今日は早く帰れる」 鏡の前でネクタイを締めながら、こちらを見もせずに放たれた、いつもの無機質な声。 それでも詩織は、その一言だけで胸が弾むのを感じていた。夕食の有無を尋ね、「家で食べる」という短い返事をもらっただけで、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを抑えられなかった。彼を送り出してから、すぐに近くのスーパーへ買い物に出た。普段は慎ましく選ぶ食材を、今日だけは少しだけ奮発して。彼が美味しそうに食べてくれる姿を想像するだけで、キッチンに立つ時間は輝いて見えたのだ。(馬鹿みたいだ) 心の中で吐き捨てた言葉が、自身の喉を逆向きに削っていく。期待すればするほど、裏切られた時の痛みは鋭く、深く胸を刺す。 その時だった。 静寂を破るように、玄関の鍵がガチャリと、無遠慮な金属音を立てて回された。続けて、重厚な革靴がタイルを打つ重い足音。詩織の鼓動が、一拍だけ、不規則に跳ねた。 リビングの扉が開く。 パチン、と乾いたスイッチの音が響いた。 突然、天井からの橙色の照明が部屋を満たし、暗闇に慣れていた瞳の奥が、きゅっと痛んだ。詩織は眩しさに目を細め、入ってきた男を見上げた。「起きていたのか」 低い、平坦な声だった。 羽島陵はソファに座る詩織を一瞥したきり、それ以上目を合わせようとはしなかった。完璧に整
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第二話「手のひらの残熱」
 さらさらと紙の上を走る筆の音だけが、静まり返ったアトリエに響いている。 キャンバスに向かい、無心で筆を動かしていると、詩織の意識はいつしか現実の輪郭を失い、深い記憶の底へと沈んでいった。 絵を描いているときは、いつもそうだ。指先の微細な動きだけが確かな現実となり、それ以外の世界は霧の向こうへと遠ざかっていく。集中が極限に達したとき、心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んでいた記憶の引き出しが、ひとりでに、音もなく開いていくのだ。 あれは――まだ、今の会社に入社して間もない頃のこと。 若さゆえの希望と、それ以上に大きな不安を抱えていた。    ◇◇◇ 初夏の、長く明るい午後だった。 郊外のスタジオに一歩踏み入れると、そこには独特の気だるい熱気が渦巻いていた。大型の撮影機材が放つジリジリとした熱、化粧品の甘ったるい香り、そして現場を駆け回るスタッフたちの焦燥を含んだ汗の匂い。それらが混ざり合い、肺の奥にねっとりと張り付くような重苦しい空気を作り出している。 天井の高いスタジオには、太陽を模したような強いライトがいくつも吊るされ、真っ白なバックドロップの前で、一人の女性が傲慢なほどに完璧なポーズを決めていた。 アリス・橘。 テレビをつけても、街を歩いても、その名前を目にしない日はないほどの売れっ子モデルだった。 宣伝部の新人として配属されたばかりの詩織は、張り詰めた空気の中で呼吸さえも遠慮がちになりながら、昼の休憩を告げる声を待っていた。 ようやく訪れた休憩時間。詩織は預かっていたメモを何度も見返し、指定された銀座の老舗から届いた折詰弁当を、彼女の控室へと運んだ。 老舗の暖簾に恥じない、端正な包み。指定されたメニュー、指定された数。何度も、それこそ念仏のように確認したはずだった。「これじゃない」 甲高い声が、スタジオの冷え切った天井に反響した。 詩織が差し出した弁当の蓋は、彼女の鋭い指先によって無造作に弾き飛ばされた。勢いよく放り出された折詰が床に落ち、中の色鮮やかな煮物が無残に飛び散る。白い養生シートの上に、じわりと醜い茶色い染みが広がっていくのを、詩織は呆然と見つめることしかできなかった。「私が頼んだのは、こんな脂っこい弁当じゃないわ。私を太らせたいわけ? 嫌がらせのつもり?」 アリスの冷ややかな瞳が、詩織を見下ろした。 長身を支える
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第六話「甘やかなる贖罪」
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第八話「言葉なき猜疑心」
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last updateLast Updated : 2026-05-26
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