LOGIN「愛など、この契約には含まれていない」 冷徹なCEO・羽島陵との結婚は、母の命を救うための代償だった。半年間、透明な家具のように扱われ、夫は愛人であるモデル・アリスとの恋を公に謳歌する。 ある夜、嫉妬に狂った陵にパーティ会場の陰で手荒く抱かれ、詩織の心は完全に折れた。夫に刻まれた屈辱を、彼女はキャンバスの闇に閉じ込める。 「もう、この恋も終わりにしよう」 名前を隠し、画家として頭角を現していく詩織。彼女が鳥籠を抜け出し、世界で最も称賛される絵筆を手にしたとき、陵は初めて自分が失ったものの大きさに気づく。 「行かないでくれ。頼むから」 跪き、許しを乞う男。だが、かつての従順な妻はもうどこにもいなかった。
View More深夜一時を過ぎていた。
リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。
二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。
詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。
そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切り、温め直される時を失っている。冷えて乾いた米の表面が、窓からの青白い光をぼんやりと撥ね返していた。半解凍のように力なく沈んだ青菜の浸し。時間をかけ、彼の好物を揃えたはずの料理が、今はただ、闇の底に置き忘れられた残骸でしかなかった。
朝、仕事に向かう彼は確かにそう言ったのだ。
「今日は早く帰れる」
鏡の前でネクタイを締めながら、こちらを見もせずに放たれた、いつもの無機質な声。
それでも詩織は、その一言だけで胸が弾むのを感じていた。夕食の有無を尋ね、「家で食べる」という短い返事をもらっただけで、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを抑えられなかった。彼を送り出してから、すぐに近くのスーパーへ買い物に出た。普段は慎ましく選ぶ食材を、今日だけは少しだけ奮発して。彼が美味しそうに食べてくれる姿を想像するだけで、キッチンに立つ時間は輝いて見えたのだ。
(馬鹿みたいだ)
心の中で吐き捨てた言葉が、自身の喉を逆向きに削っていく。期待すればするほど、裏切られた時の痛みは鋭く、深く胸を刺す。
その時だった。
静寂を破るように、玄関の鍵がガチャリと、無遠慮な金属音を立てて回された。続けて、重厚な革靴がタイルを打つ重い足音。詩織の鼓動が、一拍だけ、不規則に跳ねた。
リビングの扉が開く。
パチン、と乾いたスイッチの音が響いた。
突然、天井からの橙色の照明が部屋を満たし、暗闇に慣れていた瞳の奥が、きゅっと痛んだ。詩織は眩しさに目を細め、入ってきた男を見上げた。
「起きていたのか」
低い、平坦な声だった。
羽島陵はソファに座る詩織を一瞥したきり、それ以上目を合わせようとはしなかった。完璧に整えられたスーツに身を包み、隙のない姿のまま、ネクタイの結び目に指をかける。それを乱暴に緩めながら、彼は部屋の奥へと歩を進める。
「今日はお夕飯を食べるとおっしゃっていたので……」
詩織は立ち上がり、できるだけ感情を均した、穏やかな声で言った。言葉の端が震えないよう、奥歯を噛みしめる。そのまま、あえて視線をダイニングテーブルへと滑らせた。冷えて乾き、見る影もなくなった食事を、せめて一度だけでも、彼の目に映してほしかった。
「そう、だったな」
返ってきたのは、それだけだった。
悪びれもせず、遅れたことへの詫びの一言もなく、陵はリビングを出ていこうとする。背を向けた彼の足音が階段を踏み鳴らし、やがて二階の扉がパタンと――やや拒絶を含んだ乱暴な音を立てて閉まった。家全体が、その衝撃にかすかに揺れた気がした。
今夜早く帰る予定だったことを、彼はおそらく完全に忘れていた。
あるいは、途中でどうでもよくなったのか。後ろめたさの欠片くらいは、胸のどこかにあったのかもしれない。けれど、それを言葉にして妻に届ける必要など、彼の中には存在しないのだ。
詩織は、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出した。
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。それは鋭い痛みでもなく、烈火のような怒りでもない。もっと薄くて、けれど確かにはっきりとそこにある、「諦め」という名の透明な温度だった。
その時――鼻先を、ふわりと、ある匂いが掠めた。
彼が通り過ぎたあとのリビングに、重たく沈殿するように漂っている残り香。
花。それも、フローラル系のなかでもひどく甘ったるく、粘り気のある――明らかに女性ものの香水だった。
詩織の指先が、膝の上で小さく震えた。胃の奥が、冷たい氷を押し付けられたようにきゅっと収縮する。
(ああ、そういうことか)
仕事が早く終わったから、別の場所へ行ったのだ。家で夕飯を待つ妻がいることなど、美しい誰かの隣では露ほども思い出さなかったのだろう。誰かと、とろけるような甘い夜を過ごしてきたのだ。
所詮、自分はその程度なのだ。
そう、その程度。彼にとっての自分とは、そこにいて当然の家具のような存在で、戻ろうが戻るまいが、心に波風一つ立たない、取るに足らない相手。
冷え切った指先で、詩織は自分の左手の薬指に触れた。プラチナの台座が鈍い光を返す指輪。愛の証であったはずのそれは、今や重さばかりが意識される、冷徹な金属の輪でしかない。
(早く帰ってくれると思って、わざわざあんなに頑張って作って……)
馬鹿だ。
本当に、救いようがないほど馬鹿みたいだ。
肺の奥から、乾いた笑いに似た息が漏れた。声にならないそれは、虚ろな沈黙の中にすぐさま呑み込まれていく。
詩織はソファの肘に手をつき、立ち上がった。
膝が、思いのほか強張っていた。冷えのせいか、それとも絶望を抱えて長く座り続けたせいか。視界が一瞬、ふらりと頼りなく揺らぐ。傾いだ身体を、テーブルの縁を掴んで辛うじて支えた。
ダイニングに並んだ料理を、もう正視することはできなかった。
自分の注いだ愛情と努力が、無惨なゴミとなって捨てられるのを認めたくなくて、視界に入れることすら耐え難かった。
よろよろと、覚束ない足取りでリビングを出る。
廊下の明かりはつけなかった。階段の踊り場から漏れる、陵がつけた微かな光だけを頼りに、彼が決して足を踏み入れることのない方向へ――家の奥、突き当たりの一室へと向かう。
冷たいドアノブを掴み、一気に押し開けた。
扉の向こうに広がるのは、彼の知らない世界だ。
遮光カーテンを閉め切った部屋に、絵の具の匂いがふわりと頬を撫でた。テレピン油のつんとした刺激的な香り、リンシードオイルの油じみた重厚な重み。それらが混じり合った独特の芳香が、リビングに残っていた忌々しい女物の香水を、詩織の鼻先から静かに押し流していく。
壁際に乱雑に並ぶキャンバス。過去に描き上げたもの、途中で投げ出したもの、完成して壁を向けられたもの。中央に置かれたイーゼルの上には、まだ何も描かれていない一枚の白い面が、窓の隙間から差し込む青白い月明かりの中で、ぼうっと神聖な光を湛えて浮かび上がっていた。
ここだけが、誰にも侵されない詩織の場所だった。
リビングと寝室、そして必要最低限の水回りしか歩かない男。この家の半分も、その主である妻の心の半分も知らないまま、彼は「自分の妻」と暮らしているつもりでいる。
(皮肉なものだわ)
乾いた嘲笑が、胸の奥でこぼれた。
詩織は、色とりどりの絵の具の染みが幾重にも重なった、古い大きなシャツを羽織った。袖に腕を通し、その重みを感じると、ほんの少しだけ、バラバラになりかけていた自分が自分に戻れる気がした。
震える指で、パレットナイフを握る。
パレットの端に、深い藍色の絵の具を絞り出した。続けて、寒々しい灰色、重厚な鉛白、そしてほんの少しの、血のような紅。それらが無言のままに混じり合い、詩織の心そのもののような、暗い諦念を煮詰めた色を作っていく。
筆先を整え、真っ白なキャンバスの面に触れた。
最初の一筆は、いつも寒気を感じるほどに震える。
けれど、一度描き始めてしまえば、もう何も考えなくていい。陵への拭えない愛執も、蔑ろにされる屈辱も、言葉にできない醜い感情も、すべて。声にならない叫びを、ただ筆にのせて、純白の闇の中に塗り重ねていけばいいのだ。
荒れていた息が、少しずつ、規則正しいものへと整っていく。
窓の外で、冬の風が梢を激しく鳴らした。乾いた、冷酷な音。
詩織はまばたきもせず、ただキャンバスの奥だけを見つめていた。視界の端に、自分の左手の薬指が映り込む。絵の具で汚れた指の中で、指輪だけが場違いなほどに、冷ややかに鈍く光っている。
(恋を……恋なんて、していなければ、もう少し楽だったのに)
奥歯を噛み締め、筆を強く握り直す。
どんなに冷たくあしらわれても、どんなに裏切られても、胸の奥に消えない熱がこびりついていることを、詩織はもう、認めるしかなかった。その消えない熱が、今夜も彼女に、救いのない絵を描かせるのだ。
パリの乾いた風を肌に感じながら、詩織は最後のキャンバスに筆を置いた。 拠点を完全に日本へと移す手続きや住まいの移動はとうに終わっていたが、向こうで引き受けていたいくつかの細々とした仕事が残っていたのだ。それらすべてを無事に納品し、長年孤独を癒やしてくれたアトリエを完全に引き払う。 予定よりも二日早いフライトに変更できたのは、単なる幸運だった。連絡を入れようとしてスマートフォンを取り出し、ふと手を止める。驚く彼の顔が見たくて、詩織は内緒のまま帰国の途に就いた。 十数時間の長いフライトを終え、日本の湿気を含んだ空気を深く吸い込む。空港からタクシーに乗り込み、まっすぐに向かったのは彼と暮らすマンションではなく、彼が立派に再建した会社の真新しいオフィスビルだった。 静まり返った休日のエントランスに足を踏み入れる。広々とした大理石の床に、かつてあの冷たい雨の夜に持ち出したのと同じ、小さなキャリーケースの車輪の音が軽やかに反響した。 歩みを止めたのは、エントランスの奥。かつて何もない真っ白だった大きな壁の前に、一枚の絵が堂々と飾られている。 完成したばかりの、詩織の最新作だった。 足を止め、詩織は自らが描き上げたキャンバスを愛おしく見上げた。 かつての詩織は、顔をぼかした一人の男性の姿ばかりを描いていた。決して手の届かない片想いの相手を、隠し部屋という誰にも見られない檻の中でだけ、こっそりと描き続けるしかなかった。言葉にできない情念を、ただ色彩にぶつけるだけの孤独な作業。 だが、今ここにあるのは違う。 柔らかな陽だまりのような光に包まれながら、二つの指輪をはめた男女が、額を寄せ合い、心から幸せそうに微笑み合っている絵だった。表情もはっきりと描かれた、希望に満ちた二人の姿。 もう、一人ではない。長くて苦しかった片想いは終わり、二人で手を繋いで歩む未来が、たしかにそこにあった。 キャリーケースのハンドルを握っていた右手を、そっと持ち上げる。自分の左手の薬指を見つめると、絵の中の女性とまったく同じように、プラチナの指輪が二本、静かに重なって光っていた。 下にはめられた一本は、かつて冷たい契約の証として交わし、離婚して遠く離れた後も、二人がどうしても捨てられなかった古い指輪。細かな傷が刻まれたそれは、すれ違いと痛みの記憶。 そしてその上に重ねられたもう一本
エージェントであるカトリーヌとの最終的な打ち合わせを終え、画家の活動拠点を本格的に日本へ移すことが正式に決定し、帰国した日のこと。 大きなガラス窓から昼の明るい陽光がたっぷりと差し込む日本の国際空港の到着ロビーは、旅立つ者と帰還する者たちが交差する、独特の活気と熱気に満ちていた。 様々な言語が飛び交い、キャリーケースの車輪が滑る音が重なり合う。 詩織は、あの日家を出た時と同じ小さなキャリーケースを引きながら、慣れた足取りで雑踏を歩いていた。 ふと、前方の不自然な光景に気づく。 上等な仕立てのスーツを着た、恰幅の良いイギリス紳士の初老の男性が、抵抗する一人の若い女性の細い腕を乱暴に引っ張りながら、搭乗口へと向かって歩いていたのだ。 すれ違おうと横に避けたとき、床をひっかくような甲高いヒールの音とともに、二人の言い争う声がはっきりと耳に届いた。「パパ、やめて。私は帰りたくないわ!」「いい加減にしろ。お前のくだらないわがままで、どれだけの莫大な損害を出していると思っているんだ」「仕方ないじゃない! 日本支社の社長なんてするつもりなんて、最初からなかったんだから。ああすれば、陵が私のところへ帰ってくると思ったの!」 ぴたりと。 大理石の床を踏みしめていた詩織の足が、止まる。 聞き覚えのある、執着に満ちた甲高い金切り声。 父親に腕を強く掴まれ、美しくセットされていたはずの髪を振り乱して引きずられていた女性は――アリスだった。(……ああすれば、陵さんが帰ってくると思った……?) 詩織は、目を僅かに見開いた。 彼女が父の強大な権力を使って、陵の会社を強引に買収し、奪った理由。それは、経営への野心やビジネスとしての勝算などではなく。ただ、どうしても手に入らない陵という男を、権力と金で無理やり自分に縛り付けるための、ひどく浅はかで愚かな執着でしかなかったのだ。 結果として、彼女は会社を傾かせ、莫大な損害を出し、父の激しい怒りを買い、こうして無様に、日本から連れ去られようとしている。 欲しいものを全て強引に取りにいって、結果として愛する男も、地位も、全てを失った女の、哀れな末路。 詩織が静かにその光景を見つめていると、抵抗して激しく暴れたアリスのせいで、父親がバランスを大きく崩し、よろめいて詩織の肩に軽くぶつかりそうになった。「ソーリー……」
深海からゆっくりと浮上してくるような、心地よい微睡みの時間だった。 重い瞼をそっと押し上げると、視界の端が白くぼやけている。少しだけ開いた遮光カーテンの隙間から、朝の柔らかく、ひどく優しい光が幾筋も真っ白なシーツの上に差し込んでいた。 ふと気づくと、詩織はキングサイズの広く整えられたダブルベッドの上で一人、うつ伏せになった状態で寝ていた。 身じろぎをしようとして、思わず「んっ」と小さな声が漏れた。 昨晩、お互いの失われた数年間を埋め合わせるように、何度も、何度も激しく繋がり合ったせいか、気だるい身体が鉛のようにひどく重い。骨の芯まで溶かされてしまったような、甘い疲労感。 少し動くだけで、上質なシーツに擦れる素肌が異常なほど過敏に反応し、ちりちりとした痺れを伝えてくる。特に、彼を何度も深く迎え入れた下腹部の奥底が、ジンジンと、未だに火を持ったように熱く疼いていた。 目を閉じれば、彼に激しく打ち据えられ、限界まで奥を押し広げられた強烈な快感が鮮明に蘇る。まるで、まだ陵の圧倒的な質量と熱が、自分の中に深々と残されているみたいだった。 彼が隣にいないことに気づき、かすかな不安が胸をよぎる。だが、遠くのリビングの方から微かな物音が聞こえ、すぐに安堵した。 痛む腰を庇いながら、シーツを巻き込むようにしてゆっくりと身体を反転させ、仰向けになって高い天井を見上げた。 ふと、視界の端。 少しだけ開いたままになっている寝室の扉の向こう、リビングの壁の一部が見えた。 そこに、見慣れた額縁が掛かっている。 昨夜、玄関から抱き抱えられて通り過ぎた時には、暗さと情熱に浮かされてはっきりと認識できなかったが、それは間違いなく、かつて詩織自身が描き上げた絵だった。 顔をぼかした、彼の肖像画。 彼が私を愛していると証明してくれた、大切な過去の欠片。 朝の光の中でぼんやりとそれを見つめていた詩織の口から、ふと、無意識のうちに声が漏れた。「……あれ?」 違和感の正体を探るように、詩織は自分の裸体を包み込んでいるシーツを、指先でそっと撫でた。 なめらかで、少しひんやりとした肌触り。 そして、ゆっくりと視線を巡らせ、視界に入るファブリックの色合いや、枕カバーの縁に施された控えめな意匠を確認する。 昨晩は深い暗闇と、理性を吹き飛ばすほどの激しい情熱にすっかり浮かされ
詩織の弱音を完全に塞ぎ、すべての言い訳を消し去るような、深く、そして貪欲なまでの激しい口づけだった。 互いの体内の酸素をすっかり奪い尽くし、熱い口内を幾度も味わい尽くしたあと、名残惜しそうに、微かな銀の糸を引きながらゆっくりと二人の唇が離れていく。 はぁ、はぁ、と、未だに荒く上下を繰り返す互いの胸が、コートやスーツの厚い布地越しに、ぴったりと隙間なく触れ合っていた。衣服の擦れる微かな音が、静まり返った空間にやけに生々しく響く。重なり合った鼓動のリズムが、一つの巨大な地鳴りのようになって詩織の全身の皮膚を揺るがしていた。 陵は、骨ばった大きな両手で詩織の後頭部を優しく包み込み、引き寄せる。そのまま、詩織の額に自らの額をぴたりと押し当てた。至近距離で見つめ合う漆黒の瞳には、かつての冷徹な仮面など微塵も残されておらず、ただ熱い情動だけがゆらゆらと揺らめいている。 陵が、微かに震える熱い息を吐き出した。「……詩織を抱きたい――だが、その前に、どうしても君に聞いてほしいんだ」 低く、ひどく切実な、どこか祈るような響きを孕んだ声が耳元に落ちる。 そのあまりの必死さに、詩織は胸を突かれ、彼の広い胸に顔をうずめたまま、こくりと小さく頷くことしかできなかった。 靴も脱がないまま、小さなキャリーケースを床に転がしただけの、無機質な高級マンションの玄関。 一定の静止時間を過ぎた頭上のセンサーライトが、カチッ、という冷たい電子音を立てて、再び無情に消え去った。 不意に訪れた、完全な暗闇。 一切の光が遮断され、網膜の奥に深い黒が広がる。視覚を完全に奪われたことで、残された他の五感が、恐ろしいほどの鋭敏さで目を覚まし始めた。 静寂の中で、すぐ目の前にある彼の雄としての高い体温が、じわじわと詩織の肌を焦がすように伝わってくる。首筋の柔らかな皮膚を直に撫でる、彼の熱く甘い吐息。ウールコートの繊維の匂いに混じる、彼特有の清涼で重みのある体臭。 その濃密な気配と、どこにも逃げ出すことのできない絶対的な質感が、詩織の心を激しく、そして痛いほどに震わせていた。 陵が、これまで長い歳月の間、ずっと胸の奥底に堰き止めていた不器用な言葉を、暗闇の中に一つずつ、慎重に置き始めた。「アリスとは……ただのビジネス関係だったんだ。身体の関係が全くなかったとは言わない。少なからず俺は、表
財界人パーティを早退した詩織は、タクシーで帰宅し、シャワーも浴びる気力もなく、薄手のネグリジェだけを身に着けて寝室のベッドに横たわっていた。 下腹部がまだ、じくじくと灼けている。少し動いただけで、内側のいちばん深い場所が鈍く脈打って、息が詰まった。 好きな人に抱かれた。籍を入れて半年、形だけの夫婦を続けてきたあの人に。それなのに、胸の奥はむしろ、ますます痛む。 眠りたいのに――身体は鉛のように重く疲労していたが、瞼の裏だけが妙に冴え渡っていて、暗闇の中でじっと天井を見つめ続けていた。 その時、階下で玄関の鍵が回る音がした。 詩織の身体が、跳ねるように強張る。 震える指で携帯電話
「あっ――」 息を呑む間もなく、強引に引っ張られる。 抵抗する暇も与えられないまま、大広間の壁際、アーチの装飾と大ぶりな観葉植物の鉢が作り出す暗がりへと引きずり込まれた。 背中が冷たい壁にぶつかる。直後、ばんと鈍い音が響き、陵の大きな手が壁につかれた。 完全に退路が塞がれた。 見上げた至近距離に、冷徹な氷のような眼差しがある。いつもは感情を一切表に出さない彼の瞳の奥に、今は暗く重い炎が揺らめいているように見えた。「なんで、ここにいる」 地を這うような、低い声。 その声色に背筋がゾクリと震え、詩織は肩を竦めた。「父に、どうしてもと命じられて……」「あの男とは、どういう関係だ
婚姻届に判を押した、あの夜から半年が過ぎていた。 季節は二度ほど、ささやかに巡った。家には二人分の家具が増え、二人分の食器が並ぶようになったが、詩織の中に「夫婦」という確かな手応えを、運んできてはくれなかった。 心の中に隙間風が吹くような、寄る辺ない日々。名前ばかりの絆が、ただ重く、詩織の肩にのしかかっていた。 ◇◇◇ 今夜の詩織はいつもと違い、シャンデリアの光に、深く、深く、照らされていた。 都内の老舗ホテル、最上階の大広間。財界人を一堂に集めた、年に一度の祝賀パーティ。天井から吊り下げられた無数のクリスタルが、床に敷き詰められた深紅の絨毯に、万華鏡のような光の粒を落とし
恋の苦さに、いつしか慣れてしまった。 胸の奥底で、かつて踏み消されたはずの、あの小さく頼りない火は――灰の中で、誰にも気付かれることなく、ずっと、ずっと、燻り続けていた。消え去るほどの潔さはなく、かといって、世界を焼き尽くすほど燃え広がる勇気もない。そういう、ぬるくて、けれど肌をじりじりと焦がすような半端な熱のまま、月日だけが、静かに、無機質に過ぎていった。 その電話が鳴ったのは、街路樹の葉がわずかに色づき、秋が深まり始めた頃のことだった。冷ややかな着信音が、詩織の平穏な、しかし空虚な日常を唐突に突き破った。 ◇◇◇ 病院の長い廊下は、消毒液の刺すような匂いに、深く、隅々まで
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