瑠璃の問いかけに、瞬は一瞬、沈黙の深い迷いの中へと引きずり込まれた。心の奥に、言葉にならない動揺が走る。彼は無意識のうちに、手首に巻いたままのヘアゴムを指で強く握りしめた。——遥。夜はすっかり更けていた。隼人の手術がどれほど長く続いたのか、瑠璃も同じだけ手術室の外で待ち続けていた。張り裂けそうな不安は、ようやく医師から「危険な山は越えた」と知らされたとき、ほんの少しだけ和らいだ。彼が撃たれたのは、自分をかばってのこと。あの男は、いつも冷たく突き放すような態度を取りながらも、心の奥底では、彼女のことをどれほど大切に想っていたか――痛いほど伝わってくる。彼と春奈との婚約も、きっと彼なりの意地や怒りの表れだったのだろう。……けれど春奈、あの女性――なぜあんなにも既視感があるのだろう?瑠璃は手術室の外で、そのまま眠ってしまったことにも気づかず、目を覚ましたのは翌朝だった。身体には毛布がかけられ、近くには護衛が二人ついていた。彼女は勢いよく起き上がる。「隼人は!?隼人はどこ!?」「目黒様が責任を持って彼の手配をしています、奥様はご心配なさらず、お屋敷にお戻りください」その言葉に、瑠璃の目が鋭く細められる。瞬がきちんと手配などするわけがない。「瞬は彼をどこに連れて行ったの?答えて!」「……奥様が屋敷に戻られれば、目黒様ご自身がお話しになるかと」これ以上問い詰めても意味がないと判断し、瑠璃は即座に屋敷へと戻った。瞬は書斎におり、資料に目を通していた。「隼人はどこ?」彼女は扉を開けてすぐ、ストレートに切り出した。瞬の手が止まる。「君があれほどまでに気にかけるなら……それは奴を再び危険に晒すということでもある」「今度は、何をする気?」「このF国の上流社会において、君——碓氷千璃は、俺の目黒夫人なんだ。そして、俺の心でも……最も大切な女だ」瞬はゆっくり立ち上がった。「君が隼人に想いを向ければ向けるほど、俺は排除したくなる」「瞬……」「でも安心しろ。死なせはしない。君は胎児のことだけ考えていればいい。陽菜も呼んで、君のそばにいさせる」その言葉を終えるかのように、彼のスマホが鳴った。電話に出た瞬の唇が、不気味な笑みを浮かべる。「……そうか。やっぱり、彼女は生きていたんだな
「隼人——!」瑠璃は絶望の叫び声を喉の奥から絞り出した。目の前に飛び散った鮮血が視界を染めた瞬間、彼女の体中の血も一気に凍りついたように感じた。慌てて手で隼人の傷口を押さえる。けれど出血は止まらず、白く細いその手はすぐに真っ赤に染まった。その紅があまりに鮮やかすぎて、彼女の瞳を突き刺す。「隼人……隼人……」声を震わせながら彼の名を呼び続ける。血まみれの手で彼の顔を抱き上げ、涙で濡れた目が隼人を見つめた。隼人は眉をひそめ、激しい痛みに耐えながらも、かすかに手を伸ばして彼女の頬に触れた。「……千璃、泣くな。こんな俺のために……もう泣かないでくれ」痛みを堪えながら、それでもその瞳には深く変わらぬ愛情が灯っていた。「……まだ、お前の心を取り戻していない。だから……俺は、死ぬわけにはいかない」声は弱々しく震えていたが、その瞳の奥の意志は、まるで燃えるように強かった。瞬は無言で銃を収め、ゆっくりと隼人の背後に近づいた。「動画はどこだ?」問う声は、冷徹にして率直だった。隼人は目を細め、唇をゆるく弧にしながら笑った。「……もし俺に何かあれば、自動でネットに公開される仕組みになってる。瞬、試してみるか?」瞬の眉間がわずかにひそみ、不快な色が浮かぶ。彼は、人に脅されることが何よりも嫌いだった。そして、隼人を抱き締め涙を流す瑠璃の姿を見たその瞬間、瞬の表情がさらに険しくなった。再び銃を握り直そうとしたが――瑠璃は反射的に瞬の前に飛び出し、その手から銃を奪い取った。動きがあまりに素早く、瞬は反応しきれなかった。彼女が次に見せたのは、かつて見たことのないほど強いまなざしだった。彼女はしっかりと銃を構え、瞬を睨みつけた。「……今すぐ隼人を病院に運んで、治療させて!」それは命令だった。懇願ではなく、確固たる決意に満ちた命令。涙で濡れたその瞳には、鋭く冷たい光が宿っていた。「聞こえた?今すぐ病院に連れて行って!」銃声を聞いて駆けつけた護衛たちは、状況に唖然としたまま動けずにいた。瑠璃と瞬、どちらにも逆らえない。動くことすらできなかった。瞬は視線を沈めながら、かすかに眉を動かす。「千璃……その銃を下ろせ。忘れたのか?隼人がかつて君に何をしたか。……あれを許せるのか?」「そんな話
隼人が見ている前で、瑠璃はシャツとズボンを静かに脱ぎ、バスローブを羽織った。まるで本当に風呂を済ませたばかりのように、何事もなかったかのように装う。彼女の首にかかっている、あの貝殻のネックレスが視界に入った瞬間、隼人の心は大きく揺れた。瑠璃がシャワーを止め、出ていこうとしたその時――隼人は彼女を後ろから抱き締め、低く冷ややかな声で囁いた。「瞬に触れさせるな。もし触れさせたら……今夜は、穏やかには終わらない」瑠璃は隼人の言葉に答えず、彼が腕をほどいたのを見計らい、無言のままバスルームから出ていった。そして、背後のドアをそっと閉めた。瑠璃の気配に気づいた瞬はスマホの画面を消し、彼女に視線を向けた。「さっきの君、ちょっと様子がおかしかったけど……何かあった?」その声には優しさが滲んでいた。瑠璃は首を横に振った。「……何でもないわ」瞬はふっと微笑み、そっと手を伸ばして彼女の下腹部に手を当てた。「もしかして、赤ちゃんが暴れてるのか?うちの子は本当にやんちゃだな」その唐突な動きに、瑠璃は慌てて身を引いた。だがその直後、どういうわけか強烈な吐き気が込み上げてきた。本能的にお腹に手を当てる。――これは、妊娠初期に感じた、あのつわりの感覚だ。瑠璃は口元を押さえ、バスルームに向かおうとした。だがその瞬間、バスルームの中にいる隼人の存在を思い出し、慌てて足を止める。彼女のこの急な動きに、瞬はじっと目を細めた。そして床に落ちた、自分と瑠璃以外の足跡に目を止める。「千璃、吐き気がするのか?バスルームまで付き添うよ」そう言いながら瞬は、まるで確信でもあるかのように、扉に手をかけて開いた。その瞬間、瑠璃の胸がドクンと跳ねた。しかし――中にいたはずの隼人の姿は、どこにもなかった。空っぽのバスルームに、瑠璃は一瞬目を見張った。その疑問を呑み込む間もなく、再び吐き気が襲ってきた。彼女は洗面台に駆け寄り、吐き気を抑えながら、お腹に手を当てた。――はっきりと感じる。お腹の奥に、小さな命がまだそこにいる。赤ちゃんは、生きている。その実感に、瑠璃の頬には静かに微笑みが浮かんだ。一方、瞬はその変化に気づかないまま、窓辺に目をやっていた。「千璃、お腹の子のためにも、もう少し身体を休めた方がいい。無理
瑠璃はさっと顔を背け、冷たい氷のような横顔を隼人に見せつけた。「瞬はもうすぐ戻ってくるわ。今すぐ出ていかなければ、もう二度とここから出られなくなる」冷えた声でそう告げる。「……俺のことを心配してるのか?へえ、元妻にしては珍しいじゃないか」隼人の口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいた。彼は温かくも冷たい指先で彼女の顎をつまみ、無理やり顔をこちらへ向かせる。涙で濡れた彼女の瞳が目に入った瞬間、隼人の胸がきゅっと締め付けられた。「千璃……お前の目に映る俺は、本当にそこまで冷酷で無情な男なのか?俺に信じてって言った。でも……お前は本当に一度でも、俺のことを信じたことがあったか?」その言葉が落ちたとき、瑠璃の胸が小さく震えた。その直後――階下から車の音が聞こえてきた。瞬が戻ってきたのだ。隼人はバルコニーの前まで歩き、下を見下ろす。だが、驚くほど冷静だった。「俺はまだどこにも行かない。しばらくここにいるよ」「隼人、あなた……本当に狂ってるの?」「狂ってるさ。お前がもう愛していないって言ったあの瞬間から……俺はもう、正気を保てなくなった」「……」その言葉に、瑠璃は泣きたくなった。けれど同時に笑ってしまいそうだった。「……それほど私を愛してたって言うなら、なんであんな残酷なことができたのよ。なんで……私のお腹の子を……殺せたのよ!」彼女の怒りと悲しみがぶつけられ、隼人は何も言えなくなった。彼女はまだ知らなかった。手術台に運ばれ、麻酔を打たれてからほんの少し経った後――彼はすべてを後悔し、手術室に駆け込んで、彼女を抱きかかえたまま連れ出した。正しいことだったかどうか、彼には今でもわからない。だが、もしあのまま何もしなかったら、一生悔やみ続けたはずだ。彼は、もう二度と彼女を失うような真似はできない。そして、彼女がこんなにも苦しみ、涙を流す姿を見ることも、本望ではなかった。けれど、今の瑠璃はあまりにも動揺していて、自分がまだ無事であり、あの子がまだお腹の中で生きているという事実にさえ気づいていなかった。しかし、それも時間の問題だろう。いずれ、彼女も気づく。自分の中に、小さな命が確かに宿っていることを。だが、その子を産ませるわけにはいかない。再びあの病気を経験させるわけにはいかない。
「俺に信じろって言ったのはお前だろ?お前の言葉、一つ残らず信じろって。……でも、千璃、忘れたのか?お腹の子は瞬の子だって、自分の口で俺に言っただろ?」「……」瑠璃は言葉を失い、反論もできなかった。そんな彼女の沈黙を裂くように、隼人はさらに言い放った。「こんな子ども、お前の腹の中で生きてちゃいけなかったんだ」「パチンッ!」瑠璃は再び彼の頬を平手で打った。その瞬間、外で煙草を吸っていた二人の護衛が、何かの物音に気づいた。「今、地下から音がしなかったか?」「え?……気のせいだろ?」「いや、念のため確認しよう」「じゃあ一緒に行こう」二人は地下室の前に来ると、扉を押し開け、壁際のスイッチで照明をつけた。だが、そこに人影はなかった。薄暗い地下室の中、鼠一匹見当たらない。「ほら、やっぱり気のせいだ。さっさと煙草吸い終わって門に戻ろうぜ。目黒様が戻ってきて俺たちがサボってるの見たら、殺されるぞ」二人はそう言い合いながら照明を切り、地下室のドアを閉めた。ドアが閉じられた瞬間、隼人はその背後から、ずっと口づけていた瑠璃の唇をようやく解放した。その途端、瑠璃はもう一発、勢いよく彼の頬を打った。暗闇の中、彼女の表情ははっきりと見えなかったが、その怒りと憎しみだけは、彼の肌に痛いほど伝わってきた。顔を横に向けながらも、彼はこれが何発目のビンタなのか、もう覚えていなかった。生まれてこの方、彼に手を上げた女はただ一人、瑠璃だけだった。「出て行け……今すぐに。もう二度と私の前に現れないで」瑠璃は抑えた声で冷たく言い放った。「俺の顔は見たくない。でも、瞬の顔は見たいんだろ?」隼人は皮肉っぽく笑い、嫉妬心むき出しに返す。「病み上がりの体で、病院を抜け出してまで、あいつの元へ来るなんて……慰めが欲しかったんだろ?」「そうよ!あなたの顔なんか見たくもない。会いたいのは瞬だけ。これで満足?隼人、満足したなら……さっさと消えて!」「いやだ、絶対に帰らない」彼は突然、瑠璃の手をつかんで抱きしめた。「千璃、俺を拒めば拒むほど、俺はお前の前に立ち続ける」「案内して。お前の部屋に」そう言って彼は彼女に要求した。瑠璃は完全に無視した。彼女の冷たい無関心に、隼人の心は容赦なく突き刺された。「千璃ちゃ
瞬は思わず目を見開いた。目の前に現れた、顔色の悪い沈んだ表情の瑠璃をしばし見つめた後、ようやく口を開いた。「……隼人に帰してもらったのか?」瑠璃は無表情のまま、静かに頷いた。「ええ、彼が私を帰してくれた。彼は、あなたのことは絶対に口外しないと約束してくれた。でも、その代わりに……あなたが隼人を景市に帰すことが条件よ」瞬はしばらく黙った後、微かに笑みを浮かべた。「千璃、それは君の意思か、それとも彼の意思か?」「誰の意思であれ、もう隼人を追わせるような真似はしないで」瑠璃は一歩も引かぬ態度で、赤く潤んだ瞳に強い意志を宿していた。「もしまた彼に手を出したら……私は、このお腹の子を産むつもりはないわ」その言葉を聞いた瞬間、瞬の笑みは一瞬でかき消えた。その言葉を口にしながら、瑠璃の心には、鋭い刃が何度も何度も突き立てられるような痛みが走っていた。ほんの数時間前、彼女は強制的に中絶手術を受けさせられた。もう、あの子はいない。でも、彼女は瞬には言わなかった。この子が隼人の子だったことも、何も。瞬は、しぶしぶながらもその要求を飲み込んだ。「……わかった。君の願いを聞こう。隼人には、景市に帰らせる」彼は歩み寄り、優しい声で言った。「千璃、君はゆっくり休んで、しっかり体を整えてくれ。今から俺が命令して、隼人への追跡を止めさせる」そう言ってスマホを手に、扉の方へと向かっていった。途中でふと振り返り、沈んだままの瑠璃を見てから、低い声で部下に指示を与えた。「今すぐ全員、国際空港に向かえ。隼人はそこに向かう可能性が高い。映像を渡すまでは、手出しはするな。生かしておけ」瑠璃は、その言葉を聞いてはいなかった。彼女は心ここにあらずの状態で、目の前の世界が灰色に染まって見えた。自分でも分からなかった。どうして、あんなにも冷酷だった隼人のために、今さらまだ時間やチャンスを与えようとしているのか。夜が近づき、空には星が一つずつ姿を現し始めた。瑠璃は平らな下腹をそっと撫で、瞳には涙が浮かんでいた。やがて、使用人が夕食の準備ができたと呼びに来た。彼女は心ここにあらずのまま機械のように立ち上がり、食卓に着いた。どこか、この屋敷はかつてないほど静かに思えた。キッチンで働く数人の使用人と、門の前を警備する二